1977〜1996



 1977年1月19日沖縄県那覇市に生まれる。
 本名は真喜志智子
 "こっこ"という呼び名は、幼い頃"さとこ"と上手く発音できなかったため、自分をこう呼んでいた事かららしい。

 家族は父、母、姉と妹
 ※妹の存在は、雑誌「SWITCH」のラジオインタビューにて「カナダにいる妹」の話以外では一度も語られていないため、真偽は不明です。

 父親はよくレコードでカーペンターズやPPMを(他にビートルズにも夢中で、バンドをやっていた経験もあったそう)
 母親はクラシックが好きで、Coccoはこれらの音楽をBGMとして聴いて過ごしており
 「歌」があることが自然だったCoccoは、すでに幼い頃から自作の歌をお風呂場やトイレなどで口ずさんだりしていた。

 高校1年生のときには同級生に誘われ「モンモン・バザー」というバンドのボーカルとなり
 フィンガー5、オールディーズ、ディープ・パープル、ニルバーナ、ハートなどを薦められるままにカバーする。
 Cocco自身は12歳の頃から習い始めたバレエの影響で、クラシックを聴いていたらしい。
 このモンモン・バザーは2年のときに出た自校の学園祭で大好評を博し、
 その後、地元のライブに参加。それが評判を呼び、少ない活動にも関わらず、CoccoはFM沖縄のラジオにゲストとして招かれている。

 デビューは、Coccoがバレエのオーディション費用を稼ぐために賞金目当てで応募した、ビクターの新人オーディションが全てのきっかけ。
 Coccoは特に賞をもらったわけではなかったが、Coccoに興味を持った当時ビクターの宣伝担当だったスタッフに声を掛けられ
 このスタッフが後にプロデューサーの一人になるテーラー寺田氏にCoccoを紹介し、
 初対面で「化けるかもしれない」と可能性を感じた寺田氏は、Coccoに「(詞でも曲でも)なにかが書けるならそれを持ってきて」と頼んだところ
 Coccoは一ヶ月あまりで膨大な量の詩を書き上げ、寺田氏を驚かせた。

 すぐに、「いつか一緒に仕事をしよう」と話をしていた10年来の知り合いである根岸孝旨氏に連絡をとり、
 詞を見た根岸氏が「絶対化ける」と確信を持ったことにより、Coccoのデビューへの話は進んでいくことになる。

 (ちなみにインディーズの時点で根岸氏のプロデュースではないのは、寺田氏はとりあえず名のある人を起用してCoccoを盛り上げようと考え
 様々なアーティストとコラボレートさせた末、インディーズは元SPIRAL LIFEの石田小吉氏プロデュースでと落ち着いたらしい。
 しかし根岸氏が『首。』の楽曲製作時、とても良い楽曲なのになにかが足りないと煮詰まっていた現場で
 何気なくアドバイスをしたところ、恐らくCoccoの中のイメージに格段に近くなったことでCoccoは根岸氏を信頼するようになる。
 そして"なんで全部ネギにやらせないの?"というCoccoの訴えで、晴れてメジャーデビュー楽曲は根岸氏が担当することになった。

 以上は根岸氏の証言だが、Coccoによると、レコード会社がCoccoのデビューを渋っていたことに対し、
 根岸氏がCocco(と、その歌)に対して"どうしてこいつを世に出さないんだ"と熱心になってくれ
 Coccoの中で、"認められた"という嬉しさ、自信を持たせてくれた存在だったからだそう)


 また、Coccoが上京した理由はデビューの話があったためだけではなく、
 ゛家族解散して家がなかった゛
 ゛想い出のつまった故郷が変わっていく姿を見るのが辛かった゛
 ゛それでも美しい沖縄が眩しくて、見ていられなくて飛び出した゛

 など様々な理由があり、本人も上手く説明できないそうだ。

 後のインタビューでは当ても無いのに、本気で
゛バレリーナになる゛と断言して飛び出したことも語っている。
 (それも、バレエ界の狭き門を目の当たりにし、職業としてのバレエは諦めることになるのだが)
 ゛自分の歌でお金儲けが出来るなら、それを利用して一生好きに踊って暮らせるほど儲けてしまおう゛と考えていたそう。

 なお、上京直前の4月下旬にラジオカーで訪れたFM沖縄のインタビューでCoccoは
 "音痴なんで、あくまでキャラクターとかインパクトで売って・・・"と今に通ずるお茶目な発言を残している。

 95年、18歳のとき東京へ出てきてからは
 洋服屋や、ダンスの振り付けのアルバイトなどをしながら音楽学校に通い、
 (ちなみにこの時期、雑誌「OLIVE」にて"真喜志こっこ"の名で読者モデルとして登場したりしている。
 また、「音楽学校に通い」とは「OLIVE」登場時による記載からだが、後に本人は「音楽学校にちゃんと通ったら自信が付くのに・・・」との発言をしているため
 厳密にはボイストレーニングに通っていたと思われる。)
 8月に『Cocko』のレコーディング、9月にはSWITCHの撮影でロンドンへ、
 10月にはタワーレコードが発行するフリーマガジン「bounce」にて翌年の4月までに「不思議少女Cockoの短期集中コラム─Naked」と題し、
 「爪」「指」「肩」「腕」「髪」の5つを連載するコラムがスタート。
 1996年11月21日にはついに石田小吉氏プロデュース、タワーレコード/バウンスレーベルより
『Cocko』を発売し
 ゛Cocko゛
としてインディーズデビューを果たす。
 収録曲である『SING A SONG〜NO MUSIC,NO LIFE〜』はタワーレコードキャンペーンソングとして起用され、
 (※未確認情報)一時CMにも登場していた。
 (BGMの『眠れる森の王子様〜春・夏・秋・冬〜』が流れる中、ヘッドフォンをしたCoccoがタワーレコード店内を歩いているというもの、らしい)

 11月にはSWITCHにてインタビューが初掲載される。
 12月にはタワーレコードのCMに出演、また雑誌「IN NATURAL」がインタビューと詩「冬のにおい」を(翌年2月には詩「眠り。」を)掲載した。
 12月17日には六本木のライブハウス「YELLOW」で初のワンマンライブ「Cocco Live at Yellow-White(known as ゛Yellow゛)」を行う。

 ※日付は定かではないが、この年、渋谷のライブハウス「TAKE OFF 7」でもCoccoは゛真喜志こっこ゛の名でライブを行っている。
 このライブは映像が出回っているだけで、どのような旨趣で行われたかは分かっていないが
 ワンマンライブのリハーサルとして催されたものか、関係者にCoccoをお披露目する形で行われたライブか、
 または、関係者に配布する宣伝用のビデオ作成のために行われたのではないかと推測される。)



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