平安時代 湯浅の地名が歴史に登場
平安時代になると、土地の有力豪族、湯浅氏の活躍とともに「湯浅」の地名が歴史上の文献に登場します。
湯浅氏は、藤原の一族といわれますが、居住の地名から湯浅氏と名乗るようになったようです。
熊野三山への信仰 熊野街道の重要な宿駅に
仏教の隆盛とともに、熊野三山が人々の信仰を集めたため、湯浅は熊野街道の重要な宿駅となりました。 熊野詣への人々の信仰熱は、上流階級から庶民まで広く高まったそうで、京の都から盛んに人が往来し、湯浅の地で旅装をときました。 熊野詣の途中でお参りしたところを「王子社」といいますが、町内には「逆川王子跡」と「久米崎王子跡」が残っています。
鎌倉時代の湯浅と湯浅党
平安時代の後半、湯浅氏は平氏の在地家人として重んじられ、鎌倉時代に入っても、湯浅一族は
鎌倉幕府の信仕が厚く、強固な武士集団湯浅党として長く名を馳せ、京都の警備などにも当たりました。 そのため、湯浅は湯浅党の中心地として、また交通の要衝として栄えました。
金山寺味噌と醤油
紀州由良の僧覚心(法燈国師)は、中国当時の宋に渡り禅宗の修行を重ね、由良の興国寺に帰ったとき、宋の経山寺で覚えた経山寺味噌の製法を持ち帰り、良質な水のある湯浅の地に広めました。
湯浅の人々は、経山寺味噌の桶の底に溜まった液で物を煮ると、そのおいしさが何ものにも変えがたく、その溜りをさらに改良に改良を重、文暦3年(1236年)今日の醤油原型を作り上げました。
南北朝時代
南北朝時代には優秀な水軍を抱えた湯浅党は吉野朝廷の南朝に味方し、遠く九州方面まで活躍の場を拡げました。 この水軍の造船操船技術が、のちの海運業や漁労を発展さす因となりました。 しかし、湯浅党は300年にわたって勢力を保持しながら、南朝の終焉とともに滅びます。
室町時代
熊野街道の宿駅として、また紀伊水道の港町として地理的に恵まれた湯浅は、室町時代の末期には、すでに市街できていたようです。
天文4年(1534年)赤桐右馬太郎が、ほとんど自家用で使っていた醤油を、初めて商品として流通させました。
江戸時代
江戸の幕藩体制下の湯浅は、紀州藩の有田代官所が置かれ「湯浅組」として23ヵ村を治めました。
今日でも、税務署や有田振興局などが置かれる有田地方の行政中心地としての歴史は、この時に始まったと言えるでしょう。
商工業の発展
交通上重要な位置にあった湯浅は、次第に商業都市として発展します。 その核をなしたのは醤油醸造業で、醤油の誕生したふるさとでもあります。
湯浅醤油は紀州藩の保護を受けて発展し、名声を高めました。 ほかに醤油誕生のきっかけなった金山時味噌や紀州みかん、魚網などが重要な産業でした。
また漁業の技術も進んでおり、近海から遠く九州や関東さらに北海道まで出漁し、漁場の開拓に努めました。
このような中で、江戸に出て、名声を博す豪商も現れ、なかには、下総に進出して醸造業を始めた者もいて、銚子の醤油産業のルーツにもなっています。
湯浅は、幕末には城下町和歌山についで人口の多い商業都市となりました。
教育文芸
湯浅は江戸時代、都市機能を持つとともに、教育や文芸の盛んな街となりました。
二百年余り前、商業関係者が中心となって心学を学ぶ塾として、「有信舎」が創設されました。 心学は町人の間から生れた学問で、平民的な人間の生き方、道徳などを説きました。
ここには、湯浅出身で京都で活躍した心学の先覚者鎌田一窓が時々赴いて指導をしました。
幕末には、漢詩文学が盛となり、垣内巳山、菊池海荘が中心となって「古碧吟社」を創り、全国の著名な詩人も集い、全国的にも高い評価を受けました。
子弟の学問塾としては、石田冷雲が青年達の学問所として栖原の極楽寺に「就正塾」を開き多くの人材を輩出しました。
明治以降
明治維新以後湯浅村・青木村・山田村が合併して湯浅村に、田村・栖原村・吉川村が合併して田栖川村となりました。
さらに湯浅村は明治29年(1896)町制を施行します。
戦後の昭和31年(1956)には、田栖川村と合併して、現在の湯浅町となります。
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