110423 サイト整理中

日記ログ追加、古い絵など削除しました。06年くらいのもあった。5年前…!
A館をノリで仮閉鎖しました。二次創作はサイトの他にも出せるしと思って(ピクシブとか)


110422 ゼンシューともっちー


ああようやっと私たちはじめて向かい合ってお話しできますね 私の可愛いご主人様

■上杉禅秀の乱(1416年):
先代満兼からの忠臣であり関東管領の上杉氏憲(法名:禅秀)が主君である鎌倉公方・足利持氏に対して起こした反乱。
氏憲と持氏は常から不仲であったが、持氏が氏憲の家臣を不当に罰したり、管領を解任した氏憲(犬懸家)の後任を山内家に与えるなど
衝突が重なり勃発。一時は鎌倉を制し持氏を追いつめるが、幕府はこの時、持氏に味方した。その後、氏憲は鎌倉雪ノ下にて自害する。

ゼンシューの乱はもっちーのトラウマ。ゼンとは仲悪かったけど謀反されるとは思ってなかった。
ゼンは最初からこうなることわかってて、別の真意があったりなかったり。もっちーには最後まで黙秘。
(敵対しまくってた将軍が鎌倉公方の味方したってのが結構奇跡だからそこらへんをうにゃらうにゃら)
UHゼンシューは先代のみぃかね至上主義で満兼時代はすごくノリノリで奥州出兵とかしてたけど
もっちーとは相性が悪くて(かわいさ余って憎さ百倍VSなにこのヤンデレ執事こわい)働いたら負けだと思ってる。


うう だめだ 似たり寄ったりになる…管理人は楽しくなるとつい好きなキャラをヤンデレにしちゃうんだ
一目瞭然ですが当サイトではアンサイクロペディア並みのフリーダムさで歴史同人してます。
最近ますます脳内妄想がファンタジーになってるので史実知ってる人も知らない人もよくわからないと思いますが
自分でもなんだかもうよくわからなくなってるのでええじゃないかヘヴン状態。とりあえず楽しいことだけは確かで。
妄想がいきすぎないように史実を調べたらネタの宝庫でますます悪化するとかほんと元の木阿弥やー


110421 あなたのためならなんでもするのに


どうしてぼくをしんじてくれないの?

義詮と入れ替わりに鎌倉公方になった日から、基氏は義詮に固く忠誠を誓う。
義詮・基氏兄弟は先代の尊氏・直義を手本に政を行う。その軌跡をなぞるように、
(直義が急死した時、尊氏が直義を毒殺したという噂がまことしやかに流れた。)
定められた道筋を歩むのならば――いつか、義詮は基氏を殺すのではないか。
何の根拠もない噂が人伝いに拡がり肥大する。そうだ、きっと義詮は基氏を殺す。
そうとわかっていて基氏が義詮に従うはずがない。基氏は謀反を起こすだろう。
いつしか噂は基氏が首謀者になった。義詮は基氏を疑わざるおえなくなる。
猜疑心に沈黙する義詮に対する基氏の答えは徹底して完全服従だった。
+++
基氏は二十八の若さで病死する。「私の生は兄上のためにあった」と遺している。
基氏急死を知ると、義詮は基氏への疑心暗鬼を解き、悲しみに泣き崩れたという。
「なぜ兄より先に逝ったのか。なぜ私に今までの恩返しをさせてくれなかったのか」
そして、その義詮も時を待たずして基氏の後を追うようにこの世を去ってしまった。
跡を継いだのは義詮の子・春王丸と基氏の子・金王丸。のちの義満、氏満である。


110410 鬼こごめ



さいしょはあなたが鬼になる どうか私をみつけてください ずっとまっています ずっと

氏満と義満のこーゆー↑話をかきたい。
夢オチなら何しても許されると思ってる。

UHうじみぃは無口で無表情がデフォだけどよしみっちーとエンカウントする前は普通の子供っぽく
表情豊かで思ったこともきちんと言葉にして相手に伝える子だった。のに、ある日突然どうしてそうなった的な。


110404 康暦の政変



康暦の政変(こうりゃくのせいへん):康暦元年(1379年)、室町三代将軍・足利義満の補佐役である
幕府管領・細川頼之の失脚騒動。反頼之派が近江で挙兵すると、これに呼応して鎌倉公方・氏満も
義満を討伐せんとし上洛をもくろんだ。しかし関東管領・上杉憲春は激しく反対。ついには諌書を遺し
自刃する。憲春の諌死もあり氏満は京への軍事介入を中断、以後は鎌倉での勢力拡大に専心した。

うじみぃの最初で最後の反幕府(義満)クーデター。でも未遂。その代価はあまりにも大きかった。
諫死した憲春もそうだけど、このあと義満は氏満の腹心・禅僧の義堂周信を強制的に京にとり入れる。
憲春の跡を継いだ憲方(憲春の弟)は義満と強く結びついていて、補佐というより監視している状態。
それでも氏満は幕府に忠誠を誓った。果たせなかった野望は はたして 誰に譲り渡したか。

憲春の諫死は美談とかではなくて、関東管領は幕府と鎌倉のパイプライン職、両者がいがみ合えば
板挟み状態になる。しかも庶流の憲春は氏満の信頼なしに政治的地位を保てない、かといって彼の
補任権を所有しているのは幕府の義満で、どちらに加担しても憲春は失脚をまぬがれない。残された
逃げ道は諫死しかなかった――ってウィキ先生が言ってた。のりはるけなげすぎてなみだでてきた。


110226 春安



天然ボケの春安にツッコミ八葉。なんか既視感…前にも同じような春安かいたぞ。
春王はお父さんの持氏が「俺(鎌倉公方)だって将軍になれるのにクジ引きで坊主(義円=義教)還俗させやがって!」
ってブチギレてたの見てるし(UH的にも正当性があるの知ってるから)「弟の安王こそ将軍になるべき!」って思ってる。
自分じゃないのは春王が側室の子・安王が正室の子だから。安はそんなん知ったこっちゃなく兄上だいすき至上主義。

野放しB(ポエメモ)用ツイッターつくってみた。あとでどっかにタグ埋め込んどこう。


110221 ノリザネー



カラーデザイン決めようとしたんだけどうまくいかなかった産物。
うえすぎノリザネー。もっちーに仕える白執事。(黒執事は先代ゼンシュー)
永享の乱ではもっちーの敵になるけれど、その後助命を願い出たり(→ノリリン「却下」)
主君殺しの罪を生涯忘れず子孫にまで科せる等々、自虐レベルに誠実だった人。


110216 いきぐるしい


ああ私は先刻までどうやって呼吸をしていたのだろう。
直義、今すぐ京へゆこう。帝なら知っておられる。帝なら教えてくださる。
ただよし、ただよし、どこにおる。はよう返事を。私の体を支えておくれ。

+++
尊氏の生涯を想像するだに胸が苦しくなるのは病気かもしれない(頭の)
父親としての尊氏が特に切なすぎないか。義詮と共に直冬と戦うあたり。
たった昨日のことなんだが基氏も直義の養子になってたんですね。知らなかった。
その時尊氏は直義と戦ってる。基氏( ̄ー ̄)は実父と養父の戦いを見てひどく嘆いたらしい。
2人が和解したと思ったら直義が死んで(尊氏の毒殺だったら基氏が目撃or伝聞の可能性あり?)
1年弱尊氏は鎌倉にいて、基氏に帝王学を教える。関東に潜む南朝勢力への牽制を頼むかたわら
手ずから笙を教えたのも尊氏。そのあいだ尊氏と基氏はどんな会話を&どんな思考してたんだろう

※補足
■尊氏を中心にして □直義:弟 ○直冬:隠し子 ●義詮:子/二代目将軍 ○基氏:子/初代鎌倉公方
■=親、●=子。直冬と基氏は弟・直義の養子でもある=白抜き。一時期黒vs白(尊氏・義詮vs直義・直冬・基氏)だった。
……うん、ややこしいね!自分でもよくわかんない!はやく相関図つくんなきゃあ


110131 よしみつうじみつ



私は貴方を愛おしいとおもう
貴方が私を厭わしいとおもうほどに

+++
前に言ってた 触るものが全部金になってお金持ちになるけど餓死する男の話はギリシャ神話が元のようです。
男も王様(史実的にはミダース王)で、有名な「王様の耳はロバの耳」の前にくる話だそう。私が見たのは日本の
百姓の男だったけどなぁ オマージュだったのかな。それか黄金が出る臼の話とまぜこぜになってるのか。

義満が天皇に成り代わろうとしたことは日本史的にかなり重い事件だと思うけど、あまり研究もされてないし
教科書でも赤線とかじゃないんだよね。果たせなかったからなんだけど、もし果たしたら大事件だったし実際
義満が急死しなかったら実現した。そもそも実現しそうだったこと自体異常じゃないか、いくら天皇&朝廷の
権威が落ちてたといっても天皇=生き神ではないの?ん、当時はそんなに天皇って神聖なものじゃないの?
誰か義満の異常な出世っぷりの経緯を解説してほしい。大丈夫じゃない問題だ一番いいタイムマシンを頼む。


110129 種まき



土に埋めて 水を垂らして 早く芽を出せ 天まで伸びろ
どんなに禍々しくても 醜くても 皆平等に愛してあげる。

+++
絵や文は吐き出すだけだから、下手でも雑でも汚くても平気。
UBは10代だったからかけたんだろうなあ
UHは20代でじっくりコトコトかいていこう。


110125 貞G


なぜどうしてと問うたのに答える相手はどこにもいない。
私は何も授からないまま誰かに身を切り売りするのだ。

尊氏のお父さん。史料少なくて持ってる本には特別エピソードとか性格がわかる逸話とかない…
ただ置文伝説×父親の自害で相当なダメージを受けたかもしれない。→ヤンデレかもしれない。
自分にとっては偉大で越えるべき対象だった父がある日突然遺書(置文)を遺して死んで、
(しかも置文は自分がノーカンだった可能性もある。)目指すべき方向の指針がなくなって、
目隠しのままふらりふらりと彷徨う先は、けれどやはり定められた筋書きなのかもしれない。


110121 らくがきとか

天皇親子と足利兄弟
うちのゴダイゴ帝は見た目も中身もピュアショタ。息子大塔宮はもう少し腹黒もとい策略家。
無垢×無邪気×無知=建武の新政→この頃都に流行るモノ〜で有名な二条河原落書へ
彼の政治は争いの種をばらまく悪い結果になったけど、死に際の言葉「私はただ太平の世を望んでいた」は本心だったろうなと。

ノリリンともっちー

逆説の日本史7が悪評ばっかりの義教さん褒めまくりでふいた。