先日、自家用車の走行距離が120,000キロを超えました。新車で購入して丸6年たちましたが、「そんなに古くはみえない」といわれるのがちょっと自慢です。
3ナンバーの四輪駆動車で図体はでかい。今は批難の的のディーゼルエンジンですので音も大きい。住職の私はこの車でお葬式や法事にも行くのですが、「坊主が乗る車じゃない」といろんな人に叱られます。
でも、けっこう気に入っています。
今の車は、私の愛車としては4台目です。一番初めに乗っていたのは、当時エリマキトカゲのコマーシャルで有名だった普通車、2台目には「似合わない」といわれながら、ちょっとスポーティーな車に乗っていました。
そして今の車の前(つまり3台目)には、病床の父からもらい受けて、1,800CCの「おじさん乗用車」に乗っていました。
その車は、私が乗り始めるころからいろいろと故障がありました。まずクーラーが効かなくなり、エンジンの一部が働くなり60キロぐらいしかスピードが出なくなったり・・
正直なところ気に入った車種ではなかったので、父の死後3年ほど乗って、あっさり今の車に買い換えました。
新しい車を選ぶのは本当に楽しいものです。「今度は気に入った車に乗りたい」と、自動車雑誌をいくつも買い込み、ショールームに何度も通い、試乗をして、見積もりを何通もとって・・
結局、第一希望だった車から予定を変更し、当時新発売だった今の車に決めました。フォグランプなど、いくつかのこだわりのオプションもつけました。
購入契約してから、納車を待つ間がまた楽しい。カレンダーに印をつけて、ウキウキしながら待ちました。
そしてついに納車日。
朝から半年休をとって、境内に出て車が来るのを待ちました。
(寺の用事以外で休みをとってしまいました。ほとんど子どもです)
そして、シートにビニールをかけた新車が、ディーラーの運転で、予定より10分早く来ました。顔がデレデレなのが自分でもわかります。
装備の説明をうけて、支払いの確認をして・・ まさに幸せの極致といった感じです。
最後に、ディーラーは父の車に乗り込み帰ろうとします。
なにげなく「この車(父の車)はどうなるのですか?」と聞くと「もちろん廃車です」との応え。「あたりまえじゃないですか」といわんばかりのあっさりとした言葉でした。
ここで私に自分でも予想していなかった動揺がおこりました。
今、持っていかれようとしているのは、車が数少ない趣味だった父が、最後に乗っていた車。
父が癌で助からないとわかった時、「もう乗ることはない車に維持費をかけられない」とは言い出せず、私の車(2台目)を処分して、「オヤジの車、気に入ったから俺にゆずってくれ。病気が治ったら新型を買えばいいじゃないか」とウソをついて私がもらいうけました。父がとても悲しそうな目をしていたことを覚えています。
そんな父の車が、処分されようとしている。病床の父がどれだけもう一度乗りたいと願っていたわからない車が、持って行かれようとしている。もう使用に耐えないのは誰よりも私が知っていますが、「廃車」とストレートにいわれるとたいへんなショックでした。
つい直前まで、新車のことしか頭になかった自分が大きな見落としていたような、悲しく不安な気分になりました。
物に無秩序に感情移入することはちょっと危険ですが、父の車もまた私に「気づき」を与えてくれました。
そんなこともあってか、今の車は我ながら大事に乗っています。
さすがに老朽化がみられ、昨年はバッテリーを替え、タイヤも全部替えるなど、かなりお金をつぎ込みました。一昨年前からはラジオが故障でFM放送が聴けませんし、運転席のパネルの一部の電気が消えていますが、なんとか許容範囲です。
「物」はいつか寿命をむかえます。特にディーゼル車には規制がかかるので、ずっと乗るわけにはいきません。でも「相棒」としての親しみを持ちながら、あとしばらくは乗りたいと思います。
すでにこの車にも、思い出がいっぱいです。
|
|
|
|
ワールドカップがついに開幕した昨夜、だめたけの職場(社会福祉法人)では労働組合の定期大会が開催されました。
組合員数100名ほどのこの組合で、だめたけは、就職2年目から執行委員になり、いわゆる三役を経験した後、昨年9月に執行部を引退しました。16年ぶりに冷静な立場で定期大会に参加 しました。
新しく役員に選出され、緊張しながらも一生懸命組合員に語りかける執行委員長や書記長をみながら、自分が役員を務めたころのことを感慨深く思い出しました。
私が書記長に就いたのは32歳。もう8年も前です。3人の子どもはまだ小さく一番手のかかるころでした。また、地域では消防団の役員で休日もけっこう忙しく、これだけでも「毎日が手一杯」と感じていました。
しかし、「君に期待している」という先輩の言葉と、「自分のおかれている状況から逃げない」という私なりの真宗的な判断で、最終的には「えいや!」と引き受けました。
ところが、役員改選の3週間後に父が癌であることがわかり手術。7か月の自宅療養の後、お浄土へ往きました。
労組の役員と寺の住職という重く慣れない立場を同時期に得て、まったく毎日どう過ごしていたのか思い出せないほどハードな日々をすごすことになりました。
さすがに、次の役員改選(だめたけの組合では任期一年です)では「書記長を降ろして欲しい」とお願いしましたが、執行委員会で「1期で降りるべきでない」との意見が出て、引き続き務めることになりました。
そして次の年には「書記長を2期務めたのだから、せめて1期は執行委員長を務めるべき」といわれ、ワンポイントリリーフのつもりで受けました。すると、また「1期で執行委員長を降りるべきでない」といわれ・・
結局、私は言い合いに負けて、副委員長も含めると8年も三役を務めました。
特に、書記長の2期目と執行委員長の2期目、3期目の時は、声を荒げ、机をたたいて、泣くようにして「降ろしてくれ!」と訴えたけど、だめでした。
労組の役員は「交渉能力があり、沈着冷静で、統率力があり、人望があり・・」という人が理想なのでしょうが、だめたけはこの対極にある人間です。
「誰が役員を引き受ける?」という話し合いに連戦連敗だった私は、「議論は苦手で、人を押し切るパワーに欠ける」タイプです。労使交渉はもちろん、組織の長などという立場は一番苦手なのです。正直なところ、自分に似合わない立場を引き受けたために、ストレスと疲労で、精神的に限界と思ったことも何度かありました。
「役員として何をしたか」と思い返せば、組合員のみなさんに申し訳なく思うことばかりです。「あの時の判断は正しかったのだろうか」と今でも夢に見ることもあります。
しかし、私は求められた役割を拒否するばかりではなかったという点で、なんとか組合員の責任をはたせたのではないかと思っています。
「自分たちが働いていることの意味を主体的に考える組織が、利用者の権利をまもる福祉職場には不可欠」ということがわかっていながら、「役員にでもならないとそれを真剣に考えることができない怠け者の私」は、自分の断りきれない軟弱な性格に救われたのかもしれません。
昨夜、自分の立場から逃げないで、みんなの中心に立ってくれる新しい役員が決まりました。
私とちがって、人望があり、判断力があり、福祉職員としてもその知識とセンスをみんなが認めるメンバーです。「けして自信があるわけではありません」と語る謙虚さにもみんなの信頼が集まっています。
労働組合を「どう続けていくのか」だけではなく「なにと闘うのか。なぜ団結なのか」という原点にもどって、私も一組合員として責任をはたしたいと思います。
|
|
|
|
先日、9日間の入院を経験しました。
入院中は、看護婦さん(看護師あるいは女性看護師との呼称が本当なのでしょうが)の適確な看護のおかげで、安心して入院生活を送ることができました。
(ちなみに、入院経験の豊富な友人によりますと、私が入院した病院の看護は地域ではトップクラスとのことです)
看護婦さん(特に病棟の看護婦さん)のなにが私を安心させてくれたのか。表情なのか、動作なのか・・
「だめたけ日記」の読者にHirokoさんとおっしゃる女性がおられます。私より人生の先輩で、看護の教員をされていた方です。いつも私のメルマガにたいして、きびしく、やさしいご意見をいた だきます。
そんなHirokoさんに、「看護の7箇条」(Hirokoさん自身の自己評価ポント)を教えていただきました。
一項目づつ、私の入院中の感想を添えながら、紹介させていただきます。
1.静けさ(私的空間の保持)
突然物音をたてない、戸が開いていてもノックして入る、物陰などでひそひそ話をしない、生活習慣(音楽)など
入院中には、不快感はまったくありませんでした。特に「ひそひそ話」はありがちなことですが、それもほとんどありませんでした。
2.明るさ
太陽光線のみでなく、目に入る彩り、声、笑顔の明るさなど
最近の病室のカーテンや壁は落ち着いた明るい色ですね。
また、不安や苦痛を感じている時には、看護婦さんの明るく優しい声や笑顔に、本当にすくわれます。
3.暖かさ
身体、心の(例えば、病室を出るときに患者に背を見せて立ち去らない等)、特に手足の冷えに注意、血液循環など
手術後、まだ麻酔が効いている私の足を看護婦さんがさすってくれたのには感激しました。
4.呼吸
呼吸しやすい体位、病室の空気循環、換気、呼吸を妨げていないか
じつは手術中、少し息苦しくなって途中から酸素吸入器をつけました。さすがに不安でした。重要なチェックポイントだと思います。
5.清潔
特に目、耳、足指、爪、頭髪、落ちた髪の毛、手洗い、習慣など
入院7日目に洗髪してもらったときには、本当に気分壮快でした。
6.変化
目・身体・心への刺激、例えば、食事膳の彩りの少ない時には、色紙を折って箸置き、コップ敷きにする等
私は短期間の入院でいたが、長く入院しなければならない人に
は大切なことでしょうね。
7.飲食の楽しみ
食材の温かさ、冷たさ、食習慣、彩り、厭な臭いの除去など
食についても細かい気配りを感じました。暖かい食事を美味しくいただきました。入院中に「食事についてのアンケート」があり、患者の希望を少しでも入れようとする姿勢も感じました。
Hirokoさんは、「このチェックポントは、在宅の療養でも、子育てでも活用できる観点」であり、「患者さんが自分で治ったように思うように治癒力をつけてあげることが基本」と述べておられます。
もちろん、看護婦さんの患者に対する配慮は、私の気づかなかった部分にもおよんでいるのでしょう。表面的なポーズだけでは人の信頼を得ることはできないはずです。
患者の不安な気持ちに共感し、信頼を得ることは基本的なことでありながら、もっとも難しいことだと思います。
福祉職員としても、僧侶としても、学ぶところのあった入院生活でした。
|
|
|
|
正月の楽しみのひとつは年賀状というかたは多いのではないでしょうか? だめたけもその一人です。
もう何年も会えていない旧友の名前に昔を思い出したり、同僚の一言に微笑んだり・・ 賛否両論ある「子どもの写真」も楽しみにしています。
また、だめたけの知人には宗教関係(真宗関係)や福祉関係の人が多いためか「今年のひとこと」を添えてくださっている賀状がけっこうあります。なかにはわざわざ私のために書き添えてくださる先輩もあります。
今回はそんな「だめたけがいただいた年賀状のひとこと」からいくつかを紹介します。なおカッコ内は出典です。
寒さにふるえた者ほど 太陽の暖かく感じる
人生の悩みをくぐった者ほど 生命の尊さを知る
(ホイットマン)
世間虚仮 唯仏是真 (聖徳太子)
ねてもさめても いのちのあらんかぎりは
称名念仏 すべきものなり (『御文』蓮如上人)
つながりの中に生きるいのち
正覚大音 響流十方
さとりの声は高らかに すべての世界に響きわたる
(『嘆仏偈』)
わたしに ちからが ないから
みんな仏さまが 手つだってくれる (相田みつお)
親鸞 その人を憶いて われは生き
その人を忘れて われは迷う (金子大栄)
似ているようですがみんなバラバラ でも願いはいっしょ。
つながっていたい 家族や友達そして縁ある方々と・・
青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光
其々の役目があり 其々の個性がひかり (『阿弥陀経』)
ちなみに、だめたけは今年の年賀状に次の言葉を書きました。
(真宗連合・法語カレンダー2001年9月からの引用です)
深く生きる人生 それは目覚めて生きる人生 (松扉哲雄)
現状を無視するのではなく、また悩んでいることを言い訳にするのでもなく・・
なげやりにならず、肩を張らずに、自分の役割に真向かいである一年にしたいと思います。
|
|
|
|
だめたけの勤務する障害者施設には毎月発行の広報紙があります。
今月の特集記事は年末恒例の「利用者(施設にかよう知的障害者)が選ぶ2001年重大ニュース」(12月18日時点です)
編集委員のだめたけが選んだ21のニュースから、印象にのこった出来事を3つ選んでいただき集計しました。
設問は世界情勢、国内情勢と地域話題や施設内の話題を一緒にしたものでした。政治のネタばかり選ぶ人、芸能ネタに興味がある人など各個人の視点はまちまちですが、キング結果はそれらの話題がほぼ均等に入っていました。
一年前までを思い出して答える設問が苦手な利用者の意見は充分に反映されていないとはいえ、だめたけが援助している人たちに見えている世界が垣間見れるおもしろい集計結果でした。
ちなみに1位は「皇太子夫婦に赤ちゃんが生まれる」でした。
2位は地域性もありタイガースの話題。3位は施設での一泊旅行についてでした。しかし、10位以内に「明石・雑踏事故」「えひめ丸事件」「アメリカ同時多発テロ」などがランクイン。マイカルの倒産などの経済的な話題も入っていました。
ところで、だめたけも利用者に提示したものと同じ項目からランキングしてみました。あくまでも私の視点です。(表現は少し簡略にしています)
1位 自衛隊の艦艇、はじめて紛争地域へ派遣。
2位 姫路港にアメリカ巡洋艦ビンセンス入港。
3位 アメリカで同時多発テロ。アフガニスタンで戦争がおこる。
4位 総理大臣に小泉さん。
5位 狂牛病で給食から牛肉メニューが消える。
6位 外務省、不祥事続出。
7位 大阪・池田小学校児童殺傷事件。
8位 えひめ丸とアメリカの潜水艦が衝突。
9位 大リーグのイチローが大活躍。
10位 明石の花火大会で多くの人が亡くなる。
だめたけのランキングは暗い話題が多くてすみません。しかし、あれよあれよと言う間に時代がUターンしているような感覚を持ったのは私だけでしょうか。
そもそも事件(特に人が亡くなった事件)にランキングをつけることは、間違っているかもしれません。しかし、今年一年を振り返るひとつの手法として容認していただければと思います。
みなさんの今年の重大ニュースはなんでしょう?
先日の不審船事件もあって、なにか気の重い年の瀬です。少なくとも「世紀が変われば世の中が明るくなる」というのは幻想だったようです。
|
|
|
|
じつは障害者施設の職員には、医師や看護婦、弁護士のように、持っていなければ法的にその職に就けないような資格がありません。
そのため、だめたけのように、福祉系の学校をでているわけでもなく、また直接関係がある資格も持たずに、いまや中堅とよばれる立場になっている者が存在するのです。
だめたけは、福祉を系統立てて学んだことがないことにコンプレックスを持ちつつも、資格取得については数年前まで無視していました。というより「私にしか持てない視点がある」とひらきなおっていました。
しかし、最近になって、これは自分が専門性を高めるための努力を怠っていることの言い訳だということに気づきました。
あまりにも低い私の認識に対し、福祉に関わっておられるかたのお怒りを買うかもしれません。ちょっと勇気を出しての配信です。
だめたけの大学での専攻は仏教学です。パーリ語やサンスクリット語で仏教の原典を読むゼミに所属していました。(大変不真面目な学生でしたが)
この時点で、福祉の世界にすすむ気持ちはまったくありませんでした。
あと一科目の履修で取得できた社会福祉主事資格も「どうせ使わないから」と興味を示しませんでし、友人が「卒業後は養護学校の教員か障害者施設の職員になる!」といっているのを聞いて、「おまえ、かわってるよな・・」と言った記憶すらあります。
大学卒業後一年は、自分の寺で毎日を「僧侶の仕事」ですごしました。
といっても、住職は父でしたし、小さな寺ですから時間はたっぷりあります。そこで、本山(東本願寺)で補導(真宗の教えを伝える教導の補佐)として上山奉仕団(全国から学習にこられるご門徒)のお世話をしたり、一緒に勉強させていただいたりもしました。
しかし、この定職ない不安定な時期になんと結婚!
やっぱり定期収入が必要とのことで、ここでやっと就職活動をはじめました。
大学の事務員、食品会社の社員などいくつかお話もいただきました。父が高校の教員であったこともあり、そちらのほうを意識したこともありましたが、どれも自分の中でしっくりきません。
また、信頼できる先輩や友人に「他に仕事を持つことを考えず、たとえ収入がわずかでも僧侶に徹して、若いうちに教学(真宗の教え)をしっかり勉強すべきだ」と強く助言をいただき、気持ちの振れた時もありました。(あの時この決断をしていたら、私の生活スタイルは大きく変わっていたことでしょう)
そんな時に「福祉事業団が採用試験をするそうだ。受験資格は最終学歴と年齢だけらしい」と情報をくれる人がありました。
興味はあったものの、私が就くことは不可能と決めつけていた福祉の分野が、選択肢として浮上しました。「所詮は市の外郭団体。やめたほうがいい」という人もありましたが、なぜか急速に気持ちが傾き、受験申し込みをしました。
<選び>に書いた、「住職と施設職員は『すべての人が、自分らしく、いきいきと人生をおくれるように』というまったく同じ目標をもっている」ということが実感できるのは少し後です。
ただ、熟慮の結果というほどではないものの、この時、たしかに私は自分の選びで受験を決意しました。
福祉事業団の職員採用試験の受験を決意したものの、福祉をまったく学んだことのなかった私。
「試験問題を見て、福祉の専門用語がならんでいたら、途中で帰ってくる」と妻に言って採用試験に臨みました。
ところが、知識問題はいわゆる一般教養。小論文も「ノーマライゼーションについて思うところをのべよ」という、専門的な福祉知識を必要とするものではありませんでした。「ともに生きるとは・・」など僧侶仲間と議論している内容を仏教語を使わずに書きました。
「幅広い分野から採用するための試験だったのだろう」と思いつつも、「私のようなド素人でいいのだろうか」と思いながら合否通知を待ちました。
そして私の障害者施設の職員としての生活がはじまりました。
夢や希望などより、専門知識がないことの不安を抱えてのスタートでした。
「なんとかしなければ」と新人のころは本を読んだり、すすんで研修を受けたりしました。しかし、勉強不足を先輩に叱責されることは少なく、私のコンプレックスも危機感というほどのものではなくなってきました。
元来、だめたけは怠け者。「適当な処置の仕方」や「自分に負担のない方法」ばかりを身に付け、それを「手際よいやり方」とか「自分流」といいかえて、「熱心に見えるポーズ」だけを修得した職員になっていきます。
近年になって、所長(施設長のうえに立つ管理職)から、「なんの資格も持たない中堅職員が多い」との発言がひんぱんに聞かれるようになりました。リストラという言葉もちらほら聞かれるようになり、「とりあえず・・」と介護支援専門員(ケアマナージャー)の資格をとりました。(純粋な動機とはいえません。高齢者福祉関係の方、すみません)
しかし、資格といえば社会福祉士を指すことが、だんだんと職場の雰囲気となってきます。
社会福祉士は新しい資格です。試験は年に1回で、年明けの2002年1月におこなわれる試験で、やっと14回目です。(ちなみに、だめたけが受験できるのは、さらに一年先です)
優秀な新人は社会福祉士を取って就職してきますが、だめたけの年代の職員は、たとえ福祉系大学の出身者であっても受験資格を持っていません。そのため、受験資格(資格そのものではありません)をとるために、通信講座を受けなければならないのです。正直なところ、現場で10数年も働いてきた者とすれば、「せめて一定の現場経験がある者には受験資格を与えてほしい」と思います。
「中堅職員」にとって、なにかと不利な社会福祉士資格の取得ですが、職場でそれなりの仕事をしている者はみんな取得をめざす状況となって、だめたけ一人が「気が進まない」とはいっていられなくなってきました。
私が社会福祉士の受験資格をとるための通信講座から逃げていた理由には、「勉強が嫌い」ということや「とても国家試験に合格する自信がない」、「受講料やスクーリングの宿泊料など経済 的な負担が大きすぎる」といったほかに、まだ2つほど理由がありました。
一つは、福祉施設での勤務と寺の住職という立場から、一週間のスクーリングのためのスケジュール調整が難しいということ。
報恩講(真宗寺院の最大行事)やお盆の時期などに重なると完全にアウトです。
ふたつ目は、「いのちの意味、生きていくことの意味をあつかう資格を、国家が認定することの危険性」です。福祉職が、自分の職業の正当性を国家に認定してもらうことに、どこか抵抗があったのです。
今年の1月ごろ「新しい通信講座ができるらしい」と職場の先輩が情報をくださいました。指定地区でなく、九州へ越境しなければなりませんが、なんとか寺のほうも都合がつけられそうなスクーリングの日程でした。「ひとつめ」は理由でなくなり、先輩の強い勧めにより受講開始。4月からレポート課題に取り組みました。
しかし、「ふたつ目」は気持ちのどこかに引っかかっていました。
「ふたつ目」について、いくら気持ちの整理できたのは、この夏のスクーリングでした。
講師の一人がこんな話をしてくださいました。
「社会福祉士試験の最大の問題点は、厚生労働省の失策に言及する設問は出ないということだ。しかし福祉職は利用者を守るため行政と対峙する必要にせまられることがある。資格試験は土俵にあがるための一つの方法と考えればいい」
そしてスクーリングで出会った何人かの受講者。
みんな、しっかりと自分の職務を見据えた視点を持っておられました。同じ業界に自分がいることに誇りを感じる人々でした。
「国家による認定」は慎重に考えなければいけない問題です。しかし、私はそのことを専門性を高める努力を怠ることの言い訳に使っていたのです。
もちろん、知識と資格だけでは福祉はできません。
しかし、だめたけのような、身についてしまった「とりあえず流すテクニック」を経験と説明するような福祉職員を認めてはいけないと言うことが、福祉職員に資格が問われることの意味だと今は思っています。
|
|
|
|
もう先月のことになってしまいましたが、職場(福祉法人)で年一回の職員スポーツ大会がありました。日頃なかなか顔を合わすことができない、いろいろな現場のいろいろな職種の職員がチームを作って、汗をかきます。
福祉施設の職員はいくつになっても学生気分の者が多いこともあって、応援にも力が入り、声も少しかれます。
子どものころから「スポーツは観るだけで、やるのは大嫌い」というだめたけですが、「参加することに意義がある」とできるだけ顔を出すようにしています。(寺の用事で欠席の年もありますが)
競技内容には変遷があり、第1回はドッジボール。その後はボウリングでしたが、ここ数年はソフトバレーボールです。
この競技、用具とルールは「中年にもやさしい」のですが、日頃スポーツをしていない肥満体には、やはりこたえます。数年前、3位決定戦にまで勝ち進んだ時には、次の日は足腰の痛みで読経の後に立ち上がれず、ご門徒に心配をかけました。
ちなみに今年は初戦であっさり敗退。かるく汗をかいただけで終わり、ひどい筋肉痛に苦しむことはありませんでした。
数日たてば、どこの職場が優勝したかもほとんどの人が忘れてしまうのですが、ゲームがおこなわれる勤務後の3時間ほどは、参加者みんなが熱くなります。
だめたけにとってちょっぴり嬉しいのは、一時減少ぎみだった参加者が、今年は再び増えたように感じられることです。どこの職場も多忙ですが、残業を他の日にふりかえて参加者は時間を作 ります。
どうしても参加しない人や、以前は熱心だったのに最近姿を見ない人ももちろんいますが、「親睦行事」が盛り上がるのは、だめたけのような「古いタイプの職員」にはうれしい傾向です。
スポーツ大会に不参加の職員が決して仕事に不真面目というわけではありません。不参加も一つの考えですし、組織の用意したレクリエーションに疑問を感じる人もいるでしょう。当然、参加を強要するようになことが、あってはならないと思いますが、だめたけは出来るだけ周囲の若い職員を誘うようにしています。
<サンガ>や<個人としての集団>に書いたように、ただ群れることが仲間づくりではありません。しかし、他者との関係、あるいは組織との関係に消極的では、「自立」もまたありえないように私は思います。
だめたけが新人のとき「会議はさぼっても、付き合いはさぼるな」といってくださった先輩がいました。これはいくらなんでも極端すぎますが、現場や職種がことなる多くの同僚と親睦できる機会は大切にしたいと思っています。
|
|
|
|
先日の土曜日は、長女(中2)の授業参観でした。
妻は仕事だったこともあり、ひさしぶりに自分の母校でもある中学校にいきました。
授業内容は、グループごとに自分たちの進学先となる近隣の公立高校を取材し、発表するというもの。私の学んだ高校も取材対象になっていました。
どんな学科があるか。通学定期の金額はいくらか。制服のデザインはどうか・・ 修学旅行の主流が海外なのには驚きました。(私の母校だけが今でも25年前と同じで笑ってしまいました)
校歌の紹介というのもあり、なつかしさにゾクとするものがありました。最後に「先輩からのメッセージ」があり、なかなかおもしろい発表でした。
その後、教師から来年にせまった高校受験に向けて、入試システムや内申書の説明。「この教科は○倍の評価。10段階評価で○点をつけるのは○パーセント」と細かいもの。
じつはこれがメインだったらしく、親はみんな熱心に聞いていました。中学2年の授業参観にピリッと緊張が走っていました。
もちろん私も高校入試の時には、不安に満ちた重圧感を経験しました。しかし、話に聞く都市部の受験戦争のような雰囲気とは違っていました。それは田舎独特の事情と当時私の県が採用していた入試システムによるものです。
私の町の周辺では、通学時間を考えると高校の選択肢はかぎられており、進学希望なら○○校、地元就職なら○○校か○○校とほぼ決まっていました。そのため各校の偏差値の幅は、たいへん広いものでした。
また合否判定における内申書の比重がたいへん高く、進路指導で「大丈夫でしょう」といわれればまず合格でした。当日試験の結果はあまり大きく影響せず、「一発勝負」の緊張感はあまりありませんでした。
しかし、この授業参観で25年ほどの間に状況がずいぶん変わっていることを知りました。
新設校ができて選択肢が増えたのに、最近になって各校の定員が減り、各校の偏差値の幅が狭くなるといった状況が起こっていること。加えて当日試験の点数が合否に大きな影響をあたえるようになっていること。高校入試の日から逆算した中学生活の色合が濃くなっているように感じました。
都市部の受験事情とあまりかわらない状況となってしまったことは、田舎の特権が失われたようでいるようで寂しいかぎりです。
授業参観での生徒の報告は、各校の特色がよくわかり進学に夢が持てるものでした。しかし、あとの説明は数字とシステムの説明で現実的。
人生の多感な時期を過ごすことになる高校の選択。できれば各校の特色を参考に本人が決めて欲しいものです。
それにしても、「受験」という言葉におどらされている状況はなんとかならないものでしょうか・・
|
|
|
|
11月20日の「政変」は「混乱」にとどまり、だめたけも裏切られたと感じている国民の一人です。 結局、単純な派閥争いであったこと。「国民の声」は道具にしか使われてなかったこと。軽くおもちゃにされた野党など、残念なことばかりです。
加藤さんは確かに政治家としては名を落としました。信頼できない政治家との汚名はぬぐえないでしょう。しかし、加藤さんのおろかさには、なにか人間くささを感じます。そして「数は力」といろんな手法で「強い要請」をしたとされる勢力に恐ろしさを痛感しました。
「国民は自分の背丈に応じた政治家しか選べない」という話もよく効きます。私は決して加藤支持派でも自民党支持派でもありませんが、単に悪者を作るだけの議論には薄っぺらなものを感じます。
|
|
|