<Apoptosis>
「じゃあ、早く病室に戻って……藤堂君」
「ああ、そうするよ……カナ」
夕美が促すと、隆道は大人しく病室に戻っていった。
隆道が消えた病室の中、夕美は大きな溜息を吐いた。
今回はどうやら間に合ったらしい。大した騒ぎにならずに済んだ。前回のように病院内で大暴れされては、またベッドに封印される羽目になってしまう。
だがしかし、夕美にとって、そのような心配事はもう無用になってしまった。
「カナ、か……」
隆道が夕美に対して何度も使っていた名前。
「もう……私のことすら、判らなくなったんだね……」
隆道の視覚は濁り切ってしまっていた。視覚だけではない、聴覚も、触覚も、嗅覚も、それら全てが隆道の主観をぼやかし、偽りの現実を与えている。
夕美を加奈と思い込み、抱きしめ、キスまで交わす――これは隆道の心の最後の砦が崩されたことを意味している。
つまり、隆道の心は壊死してしまったのだ。
もう治る見込みもない。少なくとも、夕美の主観ではそう感じられた。
だから、夕美はもう限界だった。
元はと言えば、隆道の両親も言っていたことだ。
『あいつは治らない、だから、君だけは自分の人生を生きて欲しい。あいつと同じようにはならないで欲しい』
それでも夕美は見舞いを、看病を続けた。
いつかは治ってくれると信じていたのだ。夕美自身、隆道に対する想いが誰かに劣っているなどと思ったことは一度もない。加奈よりも大きな愛情を、夕美は隆道に対して持っているつもりだった。
だからこそ、信じた。
だが、大切なのは大きさではなかったのだ。
問題は形だった。
『加奈』という形で施錠された隆道の心は、『加奈』という鍵でないと開くことはない。どんなに大きな愛情だろうと、隆道の心の鍵穴に合わなければ入れないのだ。
生きている人間の愛情が、死んでもういない人間への愛情に負けた。互いに生きて正攻法なら、勝てる戦いだったかもしれないのに。
夕美は隆道に――加奈に負けたのだ。
夕美の目から涙が流れ落ちた。
口から言葉が零れ落ちようとしていた。それは怨みだったのか、諦めだったのか、それは夕美にも判らない。言葉が出る前に、口を閉じてしまったからだ。
夕美は涙を拭いて病室を出た。隆道のいる部屋にも寄らず、歩いてきた廊下をそのまま戻る。
もう二度と、夕美はこの病院には、隆道の前には姿を現さないだろう。
誰かに責められる謂れはない。むしろ、彼女の今までの行動は褒められて然るべきだ。
隆道はもう一人で生きていける。自分以外の人間は全て加奈と認識し、幸せに暮らしていけるのだ。そこに夕美が必要であるはずがない。
夕美ができるのはここまで。
これ以上は何の意味もない、何も生み出さない。
彼女は病院を後にした。
去っていく姿に何の躊躇いも見せなかった。
こうして、彼女は心の中から隆道を切り取った。
体内に発生した癌細胞を、人間が意志せずとも自然死させるように。
彼女は、自分の心を護れたのだ。
◇
――とある病院内、看護婦の間で流行っている噂がある。
十数年前のことだ。
とても仲睦まじい兄妹がいた。
妹は不治の病を患っていたが、兄は妹の回復を信じて、誰もが諦める中、ただ一人妹を励まし続けていた。妹も兄以外に頼るものがおらず、兄に依存しきっていた。
しかし、兄の願いも空しく、妹は病気によって命を落としてしまう。
そして妹の死によって、兄の心はおかしくなってしまった。
兄は小学生の頃から妹を励まし続けていた。小さい頃は仲の良い兄妹に見えたが、二人が年頃になると恋人のようだったらしい。
そこまで溺愛していた妹が、死んだ。
兄の気が触れるのも、当然だったと言えるかもしれない。
妹の死後、兄は亡き妹を求め、彷徨うようになった。
最初は夢遊病のようだったが、次第に悪化して精神病院に入れられることになった。病院に入ってからも、度々暴れたりして問題を起こしたらしい。
そして、数年後。
兄は精神病院から抜け出し、妹の死んだ病院――つまりは、噂になった病院に逃げ込んできた。
勿論、妹を探すために。
だがやはり妹は見つからない。
そして、病院内を探し回っている内に、不審者と見なされ、兄は病院の関係者に追いかけまわされた。
兄は妹を探すために必死だ。捕まるわけにはいかなかったのだろう。捕まれば、また妹と会えない日々が続いてしまう。
兄は必死に逃げたが、ついには病室に追い詰められてしまった。
病室の中で、複数の人間に追い詰められた兄。
彼は、諦めたのかもしれない。
後がなくなった兄は、病室の窓から飛び降りて死んでしまったそうだ。この事は、当時ちょっとしたニュースにもなったらしい。
そして偶然にも、兄が飛び降りたその部屋は、昔妹が使っていた病室だったのだそうだ。
その病室は事件の後、封鎖されて開かずの間状態になっている。
だが、看護婦が夜の巡回中にその部屋の前を通ると、嬉しそうに笑う男の声が聞こえるのだそうだ。
「会いたかったよ……カナ……」
と。
END