<Necrosis>
大学から帰ってきた隆道は、家の中からほんのりと漂ってくる匂いに気付いた。
加奈が帰ってきてからは、随分と食べる機会が多くなった菓子。元々においの強い菓子ではないが、微かな油のにおいを鼻が覚えてしまっていた。
「おかえり、お兄ちゃん」
玄関の音を聞いた加奈が居間の方から顔を出した。
「ああ。ただいま」
もはや加奈の出迎えは隆道にとって珍しいものではない。
この二人のやり取りは、彼女が退院してから毎日続いているものだからだ。
だが、愛する加奈の出迎えは、何度受けても隆道にとって心地良いものだ。いつまで経っても新鮮味や感動は薄れない。むしろ毎日が初めてのように新鮮だった。
「今、ドーナツ揚げてるからキッチンに来てね」
「うーい」
それは加奈が揚げるドーナツも同じだった。
加奈がドーナツを持ってくるまでに、隆道はインスタントコーヒーを二杯、こしらえておく。加奈がドーナツを作った時は必ずそうしていた。
「今日、どうだったー?」
コーヒーの粉をスプーンで掬いながら、隆道はキッチンにいる加奈に声をかけた。隆道がこう訊く時は、大体は学校に関して訊ねている。
「えー、特に何にもなかったよー?」
加奈は背を向けたまま隆道に答えた。
「何もないってことはないだろ。どんなに平凡な一日でも、話題にできそうなことが一つや二つはあるもんだ」
「そうかなぁ……」
加奈は苦笑する。
「……もしかして、何か、苛められてるとか?」
隆道自身、自分の発言には半信半疑だった。まさかとは思うが、もしもということもある。そんな心境だった。
「そんなことないよ」
加奈は即座に否定した。その間の無さが逆に隆道を心配させる。加奈の性格上、もしいじめに遭っていても隆道が心配することを嫌い、隠そうとすることも十分にありえるからだ。
だが、隆道の頭にある男の顔が思い浮かび、その心配が杞憂であることを理解した。
「……そうだよなぁ。いざとなったらアイツもいるし。問題になるようなことなんて、あるはずないか」
隆道が言う『アイツ』とは、伊藤勇太のことを指している。
勇太は一度加奈に告白をして撃沈したのだが、加奈によると、今でも同じようにアプローチを続けているらしい。ご苦労なことだ、と隆道は思う。
勇太は隆道と加奈の関係をまだ知らないでいるが、知らずともその内向こうから諦めてくるだろう、と隆道は考えている。
加奈はすでに勇太の望む純白の加奈ではなくなってきていた。学校生活を経て、徐々に『普通の女の子』に染まってきているのだ。彼の押し付けの理想が崩れるのも、そう遠い話ではない。
「……勝手に希望して、勝手に絶望するがいいさ」
「? 何か言った?」
隆道の心の中の呪詛が、知らず口から零れてしまっていたようだ。
加奈が隆道の方を振り返った。
「いいや、なんでもない」
隆道が返事をすると、加奈は首を傾げながらも自分の作業に戻った。
コーヒーが出来上がると、隆道は両手にカップを持って居間へと移動した。ソファに座ると同時に、バスケットを持った加奈が居間へとやってきた。
「今日はちょっと少ないけど……」
加奈が持っているバスケットの中を数えると、ドーナツが6つ入っていた。
「いや、これぐらいで丁度良いよ」
むしろいつもが多すぎるぐらいだ、と隆道は心の中で呟いた。
加奈はいつもドーナツを多めに作る。というより、粉を全て使い切ってしまう。それを隆道が無理して全部食べてしまうから、加奈が多いと認識しないのだが。
隆道はドーナツを一つ掴み、齧った。口の中にドーナツの甘みが広まっていく。
隆道が租借している様子を、加奈は緊張した面持ちで見つめていた。
「うん。相変わらずうまい」
隆道はいつも通りの感想を口にする。
加奈の緊張の表情が綻んだ。
「よかったぁ……」
加奈は安堵の笑みを浮かべ、同じようにドーナツを摘んだ。
ドーナツなど、どう作ろうが味は然程変わらないのだが、加奈は何となく心配になるらしかった。
そこまで心配なら自分で味見でもすればいい、と隆道は思うのだが、加奈はそのことを指摘されると、言葉を濁して首を横に振ってしまうのだ。
その理由が隆道には解らなかったが、ドーナツに限らず調理をする個々最近の加奈の様子を見て、何となく察しをつけることができた。
要するに、加奈は隆道に褒めて欲しいのだろう。
隆道はそう考えていた。
◇
居間でドーナツを摘みながら、二人は色々なことを話した。
勉強の話、進路の話。
隆道の大学での出来事や、加奈の友達の話。
テレビに出てくる芸人の話や、邦楽の話。
そんな話をしている中、隆道はふと思い出した。
今が、夏休みだということに。
「そういえば、今年の夏は何処にも行ってなかったなぁ」
天井を見上げ、隆道が呟いた。
「……そうだね」
加奈は残念そうに返事をした。
「遅れた単位を取り戻すのに必死だったからなぁ……」
「ごめんね……わたしのせいで……」
申し訳なさそうにして俯く加奈の額を、隆道は人差し指で押し上げた。
「これは必要経費みたいなもんだ。加奈が気にする必要はない」
この手間がなければ加奈はこの世にいなかったのだろうから、隆道が後悔する筈もなかった。加奈もそれは解ってはいるのだろうが、やはり申し訳なさそうだった。
「……うん」
「元気が足りない。やり直し」
「……はい」
加奈の顔に微笑みが戻る。
「――よし、じゃあ今年の冬はどこか旅行にでも行こうか」
「え――?」
「温泉とかなら、加奈の体にも良いだろうしさ。結構悪くはないんじゃないか?」
「それはそうだけど……でも……」
隆道の学業が心配なのだろう。加奈の顔には『大学は大丈夫なの?』という台詞が浮かび出ていた。
「大丈夫。前期で無理したから、結構単位は取り戻してる。後期になれば少しくらい遊ぶ余裕もあると思う」
隆道は加奈の頬に手を添えた。
「何泊か旅館に泊まってゆっくりしよう」
隆道の手から伝わる加奈の温度が、見る見る上がっていく。
そして隆道は、
「雪降る温泉で、二人一緒に湯に浸かってさ――」
禁断の単語を口にした。
「――のんびり温まって、夜は一緒の布団で寝る。どうだ、良いと思わないか?」
無音のまま。
世界は負の方向へとシフトした。
隆道がそれに気付くことはなかった。
「――駄目、だよ」
加奈の頬から火照りが消えた。一気に熱が失せ、死人のような冷たさになった。
隆道の体は心臓と同じくして跳ね上がり、後ずさってしまっていた。
「な、なんで……だ?」
「だって、雪が降ったら会えなくなるから」
加奈は感情のない瞳を隆道に向けた。隆道はそれに目を合わせることができなかった。
「何を言ってるのか……意味が解らない」
確かに加奈の言葉は唐突だ。
だが、解らないはずはない。隆道は雪と加奈を繋げる意味をよく知っている。
体験しているのだから、忘れるはずがない。
「ごめんなさい。お兄ちゃん」
加奈は深々とお辞儀をした。隆道は加奈が何に対して謝っているのか判らない。
ここで初めて、隆道は自分が自分の目で物を見ていないことに気付いた。
誰かが隆道と加奈を覗き、その視界を隆道が覗いている。
そんな状況が、最初からずっと続いていたのだ。
何の最初なのかは、やはり今の隆道には解らないのだが。
「私は――もう少し生きていたかった」
「…………」
「普通に学校に通って、友達と遊んで、こうやって帰ってくるお兄ちゃんを毎日出迎えていたかった。お兄ちゃんと、温泉旅行にも行ってみたかった」
「……俺もだ」
加奈は立ち上がり、隆道の前を通り過ぎて居間を出て行った。隆道も急いで後を追いかける。
「ちょっと、出かけてくるね」
加奈は玄関にいた。
屈んで靴を履いている。
「帰りは遅くなるのか?」
隆道はこの突飛な展開に何の疑問も持てなかった。
「うん、当分の間帰れそうにないかな」
「そうか、じゃあな」
惜しむ様子もなく、隆道は別れの挨拶を告げた。
「うん、さようなら」
加奈は笑いながらドアを開け、外に出て行った。
「…………」
暫くの間、隆道は閉まったドアを見つめていた。
「……違う」
隆道は呟いた。あまりにも漠然とした違和感。自分が当事者でありながら、どこか遠くで傍観しているようなこの感覚。
あまりにも突然で、あまりにも不可解なこの展開。
たった今、確かに隆道と加奈は別れた。
だが隆道はそれを望んでいたのか?
――違う。
たとえ第三者の視点だったとしても、最初は自分の意志が自分の行動にシンクロしていた。
なのに突然、ベルトコンベアに乗ったかのように、隆道と加奈は勝手に動き出し――今、この状況すら無条件に受け入れようとしている。
――何かが違う。
『それ』が『何』という自覚は隆道にははっきりとは出来はしない。
だが、第三者の視点から眺めている自分が何かを感じ、伝えようとしている。これはまやかしだと。
――こんなものは間違いだ、と――
「――違う! 違うんだぁ!」
隆道は叫んだ。その瞬間、無意識の戒めが解け、隆道は自分の体を取り戻すことに成功した。
隆道は玄関のドアを荒々しく開けた。ドアの向こうには、見覚えのある草原が広がっていた。
玄関から一直線に、細い道が伸びていた。道は蛇のようにうねり、遥か遠くの丘まで続いている。丘の向こうからはどうなっているのか分からない。
足を踏み出すのを、隆道は何故か躊躇った。
目の前に広がる綺麗な景色が、立ち入ってはならない禁忌の場所のように思えてならなかったからだ。
隆道の頭の中で一瞬の葛藤が起きる。加奈を取るか、本能を取るか。
本来ならあり得ない、無駄な葛藤だった。
そして隆道は加奈を取った。靴も履かずに外へと飛び出した。
その一歩で。
隆道の足元が崩れ落ちた。
隆道の体が暗闇の中へと吸い込まれていく。
「加奈あぁぁぁ……!!」
気付いた時には光は点のようになっていた。その点もあっという間に暗闇に飲まれて、隆道の目には何も映らなくなった。
――これが、現実。
作られた偽りの幸せの終点。
永遠に続くと思っていた。
終わりなどないと思っていた。
そんなことも知らずに、俺は――
◇
目が覚める。見慣れた天井があった。
心臓が激しく脈打っている。
冷や汗で服が湿っていた。
俺は急いでベッドから降りた。そのまま廊下に出て、早足で隣の部屋へと向かう。
ドアにはもう、ネームプレートは提げられてはいない。
取っ手を掴み、ドアを開ける。
空っぽな部屋だった。
家具はベッドと棚以外は何も置いていない。長い間使われていないというのに、毎日手入れされているかのように綺麗だった。
何故だろう。
本当は解っているのに、血の気が引くのが止まらない。
まるで悪い夢でも見ているようだ。
起きても醒めても悪夢ばかり。
それとも、寝ている間に加奈が死んでしまったパラレルワールドにでも迷い込んでしまったのだろうか? そんな錯覚すら覚えてしまう。
だが、杞憂はそこまでだった。
「ただいまー」
遠くの玄関で聞こえる声。間違えようがない。
声の主は一直線に階段を上がり、俺がいるこの部屋へと向かってきている。俺は怖くて動けないままでいた。
そして、
「お兄ちゃん、ただいま!」
懐かしい声が、懐かしい重みと匂いと暖かさを纏いながら飛び掛ってきた。
――加奈だ。
今日は久しぶりに、住み込みの本屋から実家へ遊びに来ることになっていた。
そう、初めから解ってはいたんだ。
「…………」
「? お兄ちゃん、どうしたの?」
何の反応も示さない俺の顔を、加奈が不思議そうに覗き込む。
「いや……なんでも、ないんだ……」
「? お兄ちゃん、そういえば、なんで私の部屋にいるの?」
何を怖がっていたんだろうか。
加奈がいなくなるはずなんて、ないのに。
「……情けない。情けないよなぁ、俺」
たかが悪夢にここまで翻弄されて、冷静を欠いて。情けないったらありゃしない。
俺は振り向いて、加奈を抱きしめた。
「お、お兄ちゃん?」
「ちょっとな、悪い夢を見てたんだ」
「夢……? どんな?」
俺の胸元で加奈が囁く。
「加奈が……いなくなる夢」
ほんの少しだけ、加奈の体が動いた。
「馬鹿だよなぁ……あれだけ頑張って今の生活を得たってのに、高が夢に誑かされて、不安がってさ」
「お兄ちゃん……」
「加奈は、ちゃんとここにいるっていうのにな」
加奈の両手が俺の背中に回った。
「……大丈夫。私は、ここにいるから」
加奈の声が暖かかった。
加奈の中に母性のようなものを感じた。
「加奈……」
加奈はここにいる。
もう二度と、加奈の存在が危ぶむことはない。
「お兄ちゃん……」
俺はより一層、加奈の体を強く抱きしめた。
さっきの夢は、心のどこかにまだ残っている俺の弱さが見せたものだ。今の幸せが壊れることを恐れ、享受しきれない俺が勝手に作り出した悪夢――
俺は幸せなんだ。
本来ならあり得ないような選択と運の綱渡りによって、この1%未満の現実を勝ち取った。
俺と加奈が隔たれることは、もうない。
俺は、そのことに自信を持たなければならない。
今まで頑張ってきたことへの対価、自分自身がそれを認めなくてどうするのか。
認めるんだ――藤堂隆道。
たった一人、加奈を愛し続ける男よ。
「なあ、俺達はずっと一緒だよな」
「うん。一緒だよ」
「絶対に離れ離れになったりしないよな」
「……うん。しないよ」
「冬には、一緒に温泉に行こうな」
「…………うん。一緒に行こう」
抱きしめると、加奈も同じようにして返してくれる。
先程まで胸の奥で不快感を発していた何かが、消えた。
「加奈」
俺は加奈の顔を手繰り寄せ、口づけをした。加奈は一瞬戸惑ったが、ちゃんと俺に合わせてくれた。
――俺たちは、もう二度と離れることはない。
――そう、永遠に――
END?