<あずのぺでぃ>

 

 

 

 

 

「以前、忍さんも言っていましたが――」

 ソファーに腰を下ろし、紅茶のカップを手にした葉子がしみじみと語る。

「――本当に、おなかの底がよじれるような痛みでした」

「自業自得よ。調子に乗りすぎ」

 笛子は呆れたように息を吐いた。

「不測の事態に備えることは、無駄ではないのに……」

「忍とあずさで不測の事態、ねぇ……」

 笛子は想像しようとして、止めた。こういう下世話な妄想は、笛子の性に合わない。

 笛子は横目であずさを見た。まだ何も知らない純粋な頭だ。できるなら、あずさ自身のペースで異性との付き合い方は覚えていった方が良い、あずさがそういう方面に疎いのなら尚更だ。笛子はそう思う。

「大丈夫でしょ。忍だって、そこら辺はよ〜く解ってるはずだし」

 忍とて、笛子と同じ考えだろう。彼もあずさの保護者の一人なのだから。

「そんな起きもしない不測の事態を考えるより、もっと現実的な面でサポートするべきじゃないかしら? あまり皮算用をさせると、もしも駄目だった時に酷よ」

 突然、後ろから沙也加。手には鞄を持っている。

「あれ? もう帰るの?」

「ええ。ここに置いている本を取りに来ただけだから……すぐに帰るつもりだったのよ」

 本当は、と視線で葉子を刺した。

「すまんこってす……オス」

 少し弛んだその態度を見て、沙也加の端整な形の眉が少しだけ釣り上がった。

「――もう少し、お話した方が宜しいかしら?」

「猛省に猛省を重ねていますので、どうかこれ以上はお許しを」

 必死の土下座だった。

「そう。分かったわ」

 沙也加は葉子の後頭部を一瞥すると、気高い足取りで工場から去っていった。

「――これ以上ストレスを与えられると、子供産めなくなっちゃいますよ」

 沙也加の姿が消えた途端、葉子はソファーに座り直した。ギャングのボス風味だ。

「……本当に、懲りないわね」

 笛子は呆れ返ることしかできなかった。工場の仲間内で、葉子を完全に倒せる者は果たして何人いるのやら。

「さて。邪魔者もいなくなった所で、そろそろ本題に戻りましょう」

「邪魔者はあんただ、というツッコミは止めておくわ……」

「あずさん、カモン」

 葉子は座っている隣を手で叩いた。あずさは先程のこともあり、少し戸惑っている。

「大丈夫ですよ。もうイタズラなんかしませんから」

「うー、ほんとうに?」

「本気と書いてもときと読むぐらいマジです」

「もときって誰だ……」

「今から、映画館での予行演習をしましょう」

「まぁ、前よりは現実的ね」

 あまり沙也加の助言には沿ってはいないのは、この際無視することにした。

「映画館で可愛い女の子を演じて、殿方のハートをゲットするのです」

 その一言に、あずさの乙女センサーが反応した。

「ハートをゲット……」

「げっちゅー」

 葉子が両手を銃の形にして、撃つ真似をした。

「げっちゅー」

 あずさも笑顔でそれを真似る。乙女の欠片もなかった。

「こんな調子じゃ、先が思いやられるわね……」

 先程から笛子は溜息を吐くか、呆れることしかやっていない。実際、今回の出番はこれだけなのであるが、彼女がそれを知る由もない。悲しい女である。

 

 

 あずさは緊張した面持ちで葉子の隣に座った。練習とはいえ、既にあずさの中ではこの廃工場は映画館と化している。全てが嘘のようにリアルだ。

「私を忍さんと思って下さいね」

「よ、よっしゃ、わかった」

「映画は恋愛モノですよね。そういうノリで行きますよ」

 葉子は当然のように言ったが、それを聞いたあずさは思わず声を上げて驚いた。

「えっ、なんで恋愛モノ見るって分かったの?」

「……ごめん、あずさ。それ、私でも分かるわ」

「え? なんで? なんで?」

 不思議そうに葉子と笛子を交互に見るあずさ。

「お約束というか何というか……」

「むしろ、それを選ばないあずさはあずさじゃない……」

 神妙な顔で頷く二人だった。

 

 

(――以下、忍は葉子と変換してください by 千鶴)

 映画が始まってもう一時間になる。内容は徐々に盛り上がりを見せ、映画の登場人物に呼応するかのように、忍とあずさの体も熱を帯びてくる。

 主人公とヒロインが口付けを交わし、ゆっくりとベッドに倒れこんでいく。

 それを見たあずさは、握っていた忍の手を更に強く、握り締めた。

 それに気付き、あずさの顔を見る忍。映画館の中は暗く、スクリーンから届く光が忍の顔をおぼろげに照らす。

 まるで、二人の座っている場所が映画の中に取り込まれたかのように思える。

 あずさはそんな錯覚を感じていた。

「ねぇ、あずさ」

 忍が囁く。うぶな少女を惑わす、艶やかな声。

「な、なあに? 忍君?」

 あずさの手は汗でぐっしょりと濡れていた。その手で忍の手と繋いでいるのだが、忍は気にする様子はない。

「僕たちも、あんな風にしてみない?」

 横目で忍がスクリーンを見る。あずさもそれに続く。

 スクリーンの中では、男と女がキスをしながらゆっくりと、それでいて情熱的に交わっていた。

 あずさの頬から(比喩的に)炎が飛び出た。

「えぇっ! し、し、忍くんっ?

 忍は答えない。無言で顔をあずさの方へと近づけていく。二つの顔の間は10cmの距離もない。身を引こうにも忍があずさの手を強く掴んで離さず、逃げることは出来ない。

「あ、駄目だ、ダメ……」

 あずさは顔を背けることも出来ず、うわ言のように同じ言葉を繰り返すだけだった。

しかし、口から出るそれは否定の意ではない。

 あずさがしどろもどろしている内に、とうとう、二人の唇が重なり――

「随分と楽しそうね、忍」

 ――音もなく、後方から忍の肩に手が置かれた。

「え――」

 

503 Service Unavailable…

 

 

 天井から差し込む陽の光は赤々しい。夕暮れだった。

 仄かに暮れた工場内では、既に帰ったはずの沙也加が、自らの指定席に座って紅茶を楽しんでいた。

 その場に既に葉子の姿はない。

「沙也加ちゃん、帰ったんじゃなかったの?」

 隣の椅子に座っているあずさが、沙也加の横顔を窺った。

「そう思ったのだけど……あれだけ時間を浪費してしまったのだから、多少長引いても同じだと思って」

 だから、あずさの恋の手助けをするために戻ってきたのだと言う。葉子は色んな意味で、自分で自分の首を絞めていたのだった。

「それに、心配だもの」

 沙也加はあずさの首筋を指先でなぞった。まだまだ子供に対する扱いである。

「――何かに(かこつ)けて、ふしだらな行為に及ぼうとする輩がいた(・・)ことだし

 あずさは工場の隅を見やった。

 そこには人としての尊厳を奪われ、あられもない格好で気を失っている葉子と、それを介抱している笛子の姿があった。

「――ねえ、あずさ」

 沙也加が紅茶のカップを置いて、あずさに向き合う。母性を含んだ微笑。あずさにしか見せない笑顔だ。

「無理をすることはないのよ」

「む、無理なんかしてないよー」

 あずさは頬を膨らませた。どこまでも子供のような扱いをする沙也加に対し、少しの苛立ちを抱いているようだった。

 沙也加に勿論その感情の機微は伝わってきたが、構わず言葉を続けた。

「貴女の好きにすればいいの、飾る必要なんかない。下手な妄想で凝り固まった貴女より、ありのままの貴女でいた方がきっと忍も喜ぶわ」

 あずさの肩に手を置く。

「自分を良く見せようと意識するばかりではなくて、心から楽しむことも大切よ。そうすることで、貴女の魅力を一番に引き出せるとも思うから。あずさの魅力は今のままで十分に出ているもの」

 あずさの横髪を優しく撫でる。母親のように。

「沙也加ちゃん……」

「お誘いする時も自然体で行かないと駄目よ? 貴女は殿方の前で着飾れるような子じゃないでしょう?」

 鼻の頭を押さえて、沙也加は悪戯っぽく笑った。

「うぅー、なんかバカにされてる……」

 だが、あずさの中にあった葛藤や不安は不思議とどこかに飛んでしまっていた。消えてしまったと言うべきか。包まれるような安心感。よくは分からないが、この安堵が沙也加によってもたらされたということだけは、あずさにもよく解る。

 そこから感謝の意を伝える言葉へと繋げる回路を、あずさは不幸かな持ち合わせてはいなかった。育んではいなかった。

 そして、沙也加もそれを理解しているからこそ、自然と振舞うことが出来た。

「馬鹿になんかしてないわよ。可愛いと思っただけ」

 笑みの余韻を残しながら、沙也加は空になったカップを持って立ち上がった。

「そろそろ帰る時刻じゃないかしら? 門限には間に合うの?」

「あっ! ホントだ!」

 あずさは思い出したように声を上げた。あずさが工場の中で過ごせる時間は短い。楽しいことが起きれば一瞬の時の間である。

 それでもあずさが別れ際も元気なのは、再びこの場所にやって来られると信じて疑わないからだ。根拠のない盲信ほど揺らぐことはない。

「私も帰るから、一緒に帰りましょうか」

「うん、かえろー」

「これを片付けてくるから、少し待ってて」

 沙也加は炊事場へと姿を消した。そして、二分も経たない内に戻ってきた。

「じゃあ、帰りましょうか」

 沙也加の慄然とした徒歩に、あずさが実の娘のような無邪気な歩みで横に付く。二人は工場の扉の向こう、夕日の射す色濃い朱色の世界へと消えていった。

 

 

「…………」

「はうほえああjhだお〜……」

「……なんで、私がこんなことを……」

 薄暗く朱色に陰る工場の中、廃人と化した葉子とたった二人で取り残された笛子は、声もなく泣いていた。

 

 

 

 END

 

 

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