<あずのぺでぃ>
廃工場に訪れたあずさは、ソファに鞄を投げ捨てた。
工場の中をぐるりと見回す。人の気配はしない。どうやら、まだ誰も来てはいないようだ。
あずさは大仰しく咳き込んだ。既に幾度かの訓練は行っているが、やはり数を重ねておくことに越したことはない。
来たるXデーは近いのだ。精進しなければならない。
「……よし」
震える喉を制御しながら、第一声。
「忍君、映画見に行こう」
あずさが言うと、忍(脳内)が無邪気な笑顔で答える。
『うん、いいよ。いつにする?』
「こ、今度の日曜日なんてどうかな?」
『いいね。どんな映画なの?』
今日はなかなか好調の模様。殆どどもることもなく、スムーズに忍(脳内)との会話が運べている。この状態を維持できるようになれば、本番でも心配はないだろう。
「えーとね、恋愛モノなんだけど……イヤかな?」
『そんなことないよ。大丈夫』
「だよねー」
あずさは半ば幻覚に近い忍に対して、自分の世界の中で会話を成立させていた。これも恋する乙女の為せる技であろうか。
「ムード抜群だもんねー」
「そうそう。アダルト映画で湿ったムードを作って、そのままめくるめく官能の世界へ」
「そうそう、アダルト映画――って、えぇっ!?」
あずさは思わず吹っ飛んだ。
いつの間にか、あずさの目の前には葉子が立っていた。
妄想にふけ込んでいたので、今の今まで気付かなかったのだ。
「よ、葉子ちゃんいつの間に!? ていうか、カンペキに忍君の声だったよ!?」
「ふふ……あずさんの中の忍さんになるなんて、造作もないこと」
葉子は不敵な表情で答える。しかしそれはあずさの問いの対にはなってはいないのだが、あずさは気付けないでいた。
「あたしはそんなえてぃ忍君は想像してない!」
そんなことよりも、あずさの心は羞恥の色でいっぱいだった。
「残念、私のと混ざっていたようですね」
「そんなえてぃ忍君想像してるんかい……」
「脳内ではやりたい砲台……いえぃ」
「字ぃ、間違ってるよ……」
「伝えたいものさえ伝われば、それでいいのです」
葉子は含みを持たせてそう言うと、緩やかな風のような足取りであずさの後ろに回り込んだ。
「……忍さんにデートのお誘い、ですか」
あずさの熱が一気に爆ぜた。そう、あずさは忍をデートに誘うために秘密の特訓をしていたのだ。周りから見ればどんなに滑稽でも、それは本人にとって必死の訓練だった。
もっとも、それは葉子によって仲間内に広められてしまい、もはや秘密でもなんでもないのだが。むしろ、逆ドッキリ的な部分もあったりする。
「うぅ……やっぱり、わかる?」
「可愛いくらいに」
葉子はあずさの肩に手を置き、悪戯っぽく微笑んだ。
「うあー、もう腹を切るしか」
「ジャパニーズハラキリ」
あずさは泣きながら胡坐を掻いた。その動きに応じて、葉子は制服に付いている乙女ポケットから日本刀を取り出す。いつの間にかあずさの下には畳が敷かれており、どこから飛んで来たのか、桜の花びらが二人の周辺を舞い散った。
「塚ノ本の葉子と申す。介錯、致します――」
葉子は深々と頭を下げた。あずさも観念したように目を閉じた。
「――ハルウララ 恋の負け馬 あずうらら――」
紅緒あずさ、辞世の一句であった。
「……何やってんのよ」
と、そこで呆れた声が二人を現実に引き戻した。あずさは目を開けて、声の方向を見た。
今し方やって来た笛子が、腕を組みながら二人の寄行をしげしげと眺めていた。
「切腹でござる」
「ござるよ」
なんちゃって昔語である。
「見れば判るわよ。私が訊いてるのは、なんでそんなことしてるかってこと」
「あずさんが恋の秘密特訓。そこに私が現れて介錯」
「その流れが全然解らない……」
「まぁ、あずさんをしごいていたんです」
「予行演習ってワケね」
うんうんと頷く笛子。彼女も葉子からの電話で、あずさの企みについては知っているのだ。
だが、自身の秘密について平然と訳知り顔をしている二人を前にしても、あずさは全く気付いてはいないようだった。まあ、そこがあずさのあずさたる所以であるのだが。おバカさんなのである。トロなのである。
「もっともっと、シゴいてシゴいてシゴきまくって、ついでに忍さんのも――」
「セヤっ」
言い切る前に、笛子が葉子の喉を突いた。
「……親にも突かれたことないのに」
「下ネタカッコ悪い。それ、前にもやったネタだし」
「ははは……なんだかよくわからないけど、まあいいや」
「知らないままのあずさでいて欲しい……」
「と、いうワケで作戦会議―」
力ない葉子の挙手。あずさもそれに続いた。
「どう切り出すかは大体決まってるんだ」
「先程のパケット戦法ですね」
「うん。緊張したら、何言っていいのか分かんなくなるし」
「悲しいほど自分のこと解ってるわね……」
笛子は呆れたように感心した。
「デート内容は映画だけですか。地味ですねー」
「お金は大丈夫なの?」
「ちょっち危ないけど……まぁ、大丈夫だと思う」
ちなみに、あずさの所持金は稲造一人分にも満たない。色々と遊ぶには、些か心許ない額である。
「バイトできたらいいんだけどね、危険だしね……」
バイトは学校でも禁じられているし、それ以前にあずさの母親が絶対に許さないだろう。あずさにとっての『危険』とは後者だ。とても現実的な選択肢ではなかった。
「どこぞの研究室で、野菜をいろいろな組み合わせで摂取して、体液の微少な変化を調べるバイトもありますが」
「……何なの、そのバイト」
「野菜ジュースの研究開発補助」
「怪しい、怪しすぎる……」
「私はやってみたい……」
葉子の目は、どこか遠い場所へとトリップしていた。そんな葉子を追い出すように、後方へと押し出す笛子。
「――まぁ、それはともかくとして、お金貸してあげましょうか?」
「ううん、大丈夫。どうせ映画見て、余裕があったらご飯食べるだけだし」
「ホテルには行かないんですか?」
「行く訳ないでしょ!」
再び、笛子の地獄突きが決まった。
「親父にも(以下略)」
「下ネタ(以下略)」
「…………」
あずさは(以下略)ではなく、二人のやりとりを不思議そうに眺めていた。
「……なんでホテルに行くの? 旅行じゃあるまいし」
そのあまりにもあずさ的な発言に笛子は絶句、葉子はスイッチが入ってしまった。
「なんだろう、この形容しがたい感情は……」
「――いいですか、あずさん」
「いいですよ、ヨコさん」
葉子は軽く咳払いをしてみせた。
「殿方と映画を見てしっぽりムードを作ったら、後は適当にご飯を食べて、その後ホテルにGOするのがこの国のデートの作法ですマナーです常識です」
「嘘を教えない!」
笛子は止めようとするが、笛子如きではスイッチの入った葉子は止まりはしなかった。
「ホテルに入ったら、まずはシャワーを浴びます。それから、先に裸でベッドに入って殿方を恭しく待つのです」
「は、裸!?」
「あぁ、私のあずさが汚れていく……」
「相手もシャワーを浴び終えたら、後はヤルだけ。パイルダーオン。なあに、所詮相手はオスザルです。裸でクイックイッと挑発したら辛抱たまらんふ〜じこちゃ〜ん、ですよ」
言いながら、葉子は両手を頭上に置いて腰を前後に振った。かなり激しく。
「クイックイッ、でふ〜じこちゃ〜んでパイルダーオン……」
あずさも想像しているのか、頬がこんがりと良い色に焼けていた。葉子の言うシチュエーションを当のあずさと忍に当て嵌めるならかなり間抜けな光景になるのだが、それでも、免疫のないあずさには十分に官能的なのだろう。いや実際、己の妄想も詳細までは見当も付かないに違いない。
「誰も止める人間がいない……」
笛子は絶望していた。今、この場所で葉子を止められる者などいない。
葉子は何となく意識の奥で嫌な予感を感じつつも、悪ノリしてあずさの体をお姫様だっこして、ソファーへと横たえた。
「よ、葉子ちゃん……?」
「もちろん初めては正常位。多い日も安心」
「な、何を言ってるの? 葉子ちゃん?」
「おみ足をお広げになってー」
葉子はあずさの両足首を掴むと、大きく外に広げた。仰向けになったその体勢は、本人にかなりの羞恥を抱かせる。
「わ、わ、わ!」
「パイルダーオンの予行演習ですよ」
「い、要らない! ノーモアパイルダー!」
あずさは乙女の純潔を守ろうと必死に足掻くが、葉子に押さえつけられて満足に動くことも出来ない。
傍目、まさしく強姦である。
「ノー、アイアム処女!」
「処女がどうした。へっへっへ……口では嫌がっていても、体はこんなに正直――」
そこで、図ったかのように――或いは、誰もがこの展開を想定していたのかもしれない――工場の扉が空いた。物凄い轟音と砂埃を上げながら。
工場内の空気が凍る。葉子に対して背後にいるその人物は、体から放つ禍々しいオーラと眼光だけで、葉子にその存在を知らしめていた。
背中を向けているため目線こそ合ってはいないが、すでに葉子は捕獲されてしまっていた。逃げることも弁明することも、もはや葉子には赦されない。
二度目である。しかも、今回は前回と違い、言うことを言ってしまっている。あと十秒早く現れていたら――葉子はそう後悔した。
今回は酌量すら期待できないだろう。
沙也加は地響きを起こしかねない力強い足取りで、しかしながら全く音を立てずに葉子の前に立ちはだかった。
「ほ、本堂先輩……」
「…………」
沙也加は答えない。
「これには深いワケがございまして……」
駄目元で言ってみる。
「……そう」
沙也加は威圧的な空気を吐き出すと共に、重い言霊を口にした。
「なら、訊かせて貰いましょうか。その深い訳というものを。――それと、貴女の道徳観というものについてもね」
やっぱり駄目だった。
沙也加は葉子の首根っこを掴むと、仄暗い廃墟の暗部へと引きずっていった。
「のー(泣)」
成す術もなく連れ去られる葉子。その様はどこか、売られていく子牛に似ていた。
「……今回は、同情の余地なしね」
どこかに隠れていたのか、笛子があずさの横に姿を現した。
「沙也加ちゃん……怒ってた」
自分のせいではないのだが、どこか落ち込んでいるあずさ。一緒に悪戯をした友達が親に怒られているのを見た時に子供が感じる、独特の罪悪感のようなものだろうか。
「まあ、あの様子だと一時間は帰ってこないでしょうから、お茶でも飲んで待ちますか」
「あ、賛成―」
笛子は炊事場へと向かった。あずさもそれに続く。
五分後、既に葉子は思い出の人と化していた。