<手料理計画>
三人が家に帰った頃には、既に夕日が暮れていた。
「それでは、調理開始ですっ」
可愛らしい花柄のエプロンを身に纏った末莉が、高々と腕を上げた。真純と共に他の料理に取り掛かる。
新しい高屋敷家の台所は前よりも広く、四人が入ってもそれ程不自由にはならない。よって、準は春花に手順を教えて貰いながら調理することとなった。真純と末莉はその他の料理担当である。
「まずはね〜、玉ねぎを薄く切るんだよ〜」
準はオムライスを作る予定だった。オムライスならば比較的調理は簡単だし、味が極端に酷くなることもない。料理の初心者でもある程度は形にできる料理だった。
それ以上に、オムライスは準がはじめて食べた手料理だ。準自身、作るならまずはオムライスと決めていたので、料理を決める際に末莉達に提案したのだ。
準は慣れない手つきで包丁を握り、玉ねぎを薄く切っていった。春花に教えてもらった通りに、食材を押さえる手は猫の手である。
「うまいうまい。じょうずだよ、ジュン」
準は玉ねぎを切ることに精一杯で、春花の応援に応えることはできなかった。
「それでね、今度はマッシュルームを缶から出す。絞って水気を取ってから、適当な大きさに切るの」
実は春花もオムライスの作り方を知っている訳ではない。作ることに関して、春花は中華専門なので、それ以外のジャンルには疎いのだ。春花は料理の本を手に取りながら、準に本の内容通りの指示を与えていた。準は作ることに、春花は読むことに必死だった。
「適当な大きさって、よく分からない……」
本当に適当に切ってしまったマッシュルームは、見事なほどに形が歪で大きさがバラバラになってしまった。
「それでね〜、フライパンに油を引いて〜、鶏の挽き肉を炒めるの。塩、こしょうを適量加えて混ぜたら、肉を少し炒めて玉ねぎとマッシュルームを入れて、玉ねぎが透き通るまで炒める〜」
「えっ、ちょっと、分かんないよ……適量ってどれ位?」
準はうろたえながらも調理を進めていく。丸い底のフライパンを熱し、挽き肉を入れてバラバラに砕いていく。
「適量は、テキトーでいいんだよ、きっと」
何の躊躇もなく言い放った春花の言葉を信じ、準は本当に適当な量の塩胡椒を鶏肉に加えた。傍から見れば、非常に大量の塩胡椒を流し込んでいる。
「あわわ……お二人とも大丈夫でしょうか」
その様子を見ていた末莉が、心配そうに真純の顔を窺った。真純も曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。
「料理は愛情よ。きっと」
「そんな『味は度外視』発言は止めてくださいよ〜」
「ただいま……ご飯はまだかしら?」
賑やかになりつつある台所に、仕事から帰ってきた青葉が顔を出した。
「あ、青葉お姉さん。おかえりなさい。ご飯はもう少ししたらできますよ」
「……随分と、珍しい人がいるのね」
台所で四苦八苦している準を見て、青葉は興味深そうに呟いた。
「今、準お姉さんはおにいさんのために料理を作っているのです」
まるで自分事のように、誇らしげに末莉は言った。
「ちょっと、末莉」
「へぇ……そうなの」
準の反応には興味がないのか、青葉は無関心に頷いた。
「……まぁ、精々足掻いてみることね」
皮肉にしか取れないような応援を口走り、青葉は台所と繋がっている居間に戻ってテレビを点けた。
「ジュン〜、混ぜないとお肉こげちゃうよ〜」
「あ、いけないっ」
青葉を暫し見ていた準は、手元のことをすっかり忘れていた。急いで肉を掻き混ぜて、玉ねぎとマッシュルームを入れる。言われた通り、玉ねぎが狐色に透けるまで炒めた。
「今度は〜、炒めたものにケチャップを加えてよく混ぜる〜」
てきぱきと、ケチャップをフライパンに注ぎ込む準。やはり分量は適当だ。
「それで、ご飯を入れてまぜまぜ炒める〜。これで、ライスの部分は終わりだよ」
ケチャップがよく絡まった赤い具に、上からご飯を被せて潰すようにしてほぐしていく。ご飯全体にケチャップの色が移るまで、丁寧に具と混ぜていった。
そうして、フライパンの中で美味しそうなチキンライスが出来上がった。残るは一番重要な、卵でライスを包む作業だけである。
「あとはオムだけだね。それじゃ〜、卵をかき混ぜよう〜」
準は卵を手に取り、お椀の縁に叩き付けた。
だが、卵は割れなかった。何度か挑戦するが、卵にひび一つ入ることはなかった。
「ジュン優しくしすぎだよ〜。卵を割るときは、もっと強く叩かないと」
卵を割るジェスチャーをする春花。準はそれを見よう見まねでやってみた。すると、今度はちゃんと卵が割れた。
中身はグチャグチャに飛び散ってしまったが。
「…………」
「あちゃ〜」
「ああ〜、とんでもないことに!」
「まあ大変。はい、これふきんね」
真純に手渡された布巾で、準は急いで飛び散った卵を拭き取った。その騒ぎを聞きつけて、少しイラついた様子の青葉が再び台所に入ってきた。
「うるさいわね、もう少し静かにできないの」
この態度の大きさは、とてもテレビを見ながら料理を作って貰っている身とは思えない。
「あ、すいません……」
末莉が謝ると、青葉は気まずそうにそっぽを向いた。本気で怒っている訳ではないので、末莉に謝られると具合が悪いのだ。青葉もまた、末莉病患者の一人だった。
「……それで、何を騒いでいたの?」
「あ、準お姉さんが卵を割っちゃって……」
「ふぅん。卵……」
青葉は徐に準の横に立つと、置いてあった卵を手に取った。そのまま、無言で茶碗の角に叩きつける。一見、準の二の舞になりそうな程に勢いがついていたが、卵は殻に適度な罅をつけて二つに割れた。
「うわ〜、すごいです。青葉お姉さん」
末莉が意外そうな声を上げた。
「アオバ、やるね〜」
「青葉ちゃん、料理得意なの?」
「ふん……ただ、私は適度な加減というものを知っているだけよ。相手を殺さず生かさず、弄り殺す加減ってものをね」
「あ、はは……そうですか」
「こわ〜い」
末莉は引きつった笑みを浮かべるしかなかった。真純に至っては感心から一転、怖がってさえいる。
「飯はまだか〜」
騒々しく階段を駆け下りる音が家中に響いた。部屋で一日中寝ていた司が起きたのだ。
「た、大変ですよ〜。何とかして誤魔化さないと!」
末莉は一人で焦り始めた。準にはその焦燥の意味が分からなかった。
「誤魔化す?」
「だって、せっかく内緒でお料理しているのに、バレたらビックリさせることができないじゃないですか!」
「べ、別にそんなつもりは……」
「ないわけではないのでしょう?」
高圧的な声で、青葉が準の言葉を遮った。準は言い返すことができなかった。
「……いいわ。私に任せておきなさい」
青葉は言い残すと、台所から消えていった。
「青葉お姉さん、何をするつもりなんでしょうか」
「さぁ……」
不安そうに去っていた青葉の方向を見つめる末莉と真純。暫くすると、廊下で接触した司と青葉の声が聞こえてきた。
「どうしたんだ青葉? そんな所に突っ立ってたら通れないだろ」
「残念ながら、只今よりこの地域は立ち入り禁止です」
「はぁ? 何を言ってるんだ。ここは俺んちだろ」
「分からないようでしたら、丁寧に申し上げて差し上げます。つまり、只今よりこの高屋敷家の居間及び台所には稼ぎもせず日頃ブラブラと遊び歩いて家にパラサイトしているような人間未満の穀潰しの寄生虫野郎は入ってはいけないということよ。自分が居間の畳に住み着いているダニよりも身分が低いという自覚はないのかしら? まだ作っているのだから餌ができるまで自分の部屋で引きこもってろこのクソロリコン野郎――そう言っているのよ」
「全然丁寧じゃない! それに、日頃ブラブラ――っていうのは、まんまお前のことじゃないか!」
「……黙れ、下郎!」
「ぎゃー! 何しやがる!」
二人のいがみ合う声が、徐々に台所から遠ざかっていった。どうやら、司は青葉に二階へと圧し戻されたようだ。
「……あはは。作戦成功ですかね?」
「ごめんね、司……」
◇
司が去った後、特に問題なく調理は進んだ。チキンライスを卵で包む作業も、初めてながら綺麗に成功した。
あとは、当の本人に食べてもらうだけである。
真純が家の中に召集をかけている間に、残りの三人は食事の用意をした。食卓の上に並べられるていく数々の料理の中、ひとつだけ作られたオムライスが存在感を露にしていた。
食事の用意ができたと同時に、司、青葉、寛の三人が居間へと入ってきた。司は既に席に着いている準の姿を、珍しい目で見ていた。
「お、今日は早いんだな」
「う、うん……」
司のために料理を作っていたとは言えない。司は俯いた準を気にはしながらも、準の向かい側――オムライスが手前に置いてある席に腰を下ろそうとした。そこは司の指定席だ。だからこそ、準はその場所にオムライスを置いた。
「腹減った〜、飯だ。母さん、飯をくれ〜ぃ」
だが、座りかけた司を押しのけて寛が司のいた席を陣取った。知っていてわざとしているのではないかと勘繰ってしまうほど、こういう時の寛は余計なことを仕出かす。そして、その行動は留まることを知らない。すぐさま、食卓の上に一つだけ置かれているオムライスに反応した。
「む〜? 何故、オムライスが一つだけ?」
「あ……」
「あ、寛お父さん。それは……」
「…………」
「分かったぞ。これは常日頃、家族のために命を削っている父親のために、わざわざ作ってくれた特別ご褒美なんだな。そうなんだなっ」
涙を流しながら寛はスプーンを手に取った。
「その心意気、しかと受け止めた! 不肖高屋敷寛、未熟ながらこの家族愛の結晶、ありがた〜く戴かせてもらおうではないか!」
「駄目です、寛お父さん!」
「それ食べちゃ駄目だよ〜!」
「お父さん、ちょっと待って!」
「……ちっ」
「駄目っ!」
五人が同時に動いた中、ずば抜けて速い動作で準が寛の皿を奪い取った。勢い余った寛の手は、スプーンを握ったまま左目へと旋回移動していく。スプーンは眼鏡を突き抜け、眼球に深々と刺さった。
「ピタゴラスッ! 生々しき眼球ゼリーの感触ぅ!」
余裕のある悲鳴を上げながら、寛はのた打ち回った。司は事の顛末を不思議そうに見つめていた。
「……皆揃って、新しいコントでも始めたのか?」
「……最低ね」
青葉が司の耳に届くように呟いた。
「俺が何をした!?」
「このオムライスはですね、準お姉さんがおにいさんのために作ったんですよ」
「……準?」
司はオムライスを抱いている準の顔を見た。準は目を合わせられる筈もなく、頬を赤らめて俯いてしまった。
「そうだよ。ジュン、ツカサのために一生懸命作ったよ。だから、ヒロシは食べちゃだーめ」
「しくしくしく……お父さん、悲しい……」
「大丈夫よ。その代わり、今日はお父さんの好物を一杯揃えましたから」
「おおっ、流石は母さん! 母さんだけだよ、この傷付いた敏腕企業戦士の心のオアシスとなってくれるのは!」
真純に慰められると、椅子の上で体操座りをしていじけていた寛は復活した。
「……それにしても、どうして準が俺に料理を作ってくれたんだ?」
思い当たる節がないのか、司は顔を伏せている準に問いかけた。瞬間、居間の空気が一気に重くなり、司の耳に空気の重みが増した音が擬音として入ってきた。
「……最低最悪ね」
「あちゃ〜」
「おにいさんが、それを言いますか……」
「司くん、わざとなのよね?」
咎める視線を四方に受けて、司は思わず後ずさった。
「何だよ、やっぱり俺が悪いのかっ?」
「そうですよ。準お姉さんは――」
「――恩返し」
準が末莉の言葉を遮った。それは小さい声であったが、末莉の声を押し止めるには十分な威力が込められていた。
「恩返しだよ。司には今まですごく世話になったし……勿論、これだけで返したつもりにはならない。もっともっと、司に恩返しをしていきたい……」
準の声は次第に小さく消えていった。頬は髪の色と同じような淡い桃色に変色していた。
それは確かに準の本心ではないのだろう。今の準にはそれを明かすことはできない。準が人前で素直になるにはもう少しの時間が必要となる。これが高屋敷準としての精一杯の愛情表現だった。
「そ、そうか……」
準と同じく、司も照れ臭そうに顔を逸らした。
「何だか、見てるこっちが恥ずかしいわね〜」
「ラブコメですね〜」
「ラブラブだよ〜」
「……少しは場所を考えて欲しいものだわ」
「お前ら! 揃いも揃ってうるさいぞ!」
騒ぎ出す高屋敷女衆に、司は一喝した。静まり返った一同に向かって、今度は寛が身を乗り出した。
「司の言う通りだ。今は神聖なる食事の儀、料理を前にしてぎゃーすか騒ぐのは、些かマナー違反ではなかろうか?」
「お前はただ飯を食べたいだけだろ」
司はすかさずツッコミを入れたが、それに動じる寛ではない。司を無視して声高に叫んだ。
「よし食べよう、さあ食べよう、やれ食べよう! お皿に感謝、食材に感謝、何より作ってくれた皆に感謝! 今日も美味しいご飯を作ってくれて有難ぅ! それでは、皆で――」
「――いただきまーす!」
寛がどんなに変則的な前フリをしても、ご飯の合図が乱れることはない。息の合った挨拶をすると、寛だけが箸を進め始めた。
「おおっ、この唐揚げはジューシーで最高だな、母さんや!」
「…………」
「味噌汁もいい塩加減だ! ん〜、この豆腐の整った正方形ときたら、芸術の域に達していると言わざるを得ない!」
「…………」
「野菜サラダもいいぞぉ! 新鮮な大地の恵みを存分に生かしたこの瑞々しい味わい! ベジタリアンも納得の味!」
「…………」
「ご飯もいい! このふっくらとして、それでいて噛む時にほんのり抵抗を感じるこの絶妙の炊き加減! 堪らんぞぉ〜!」
「…………」
「漬け物も素晴らしい! この塩っ辛さはコリアン漬け(キムチ)では出せない奥深さがある! ご飯にも良く合うぞ〜ぃ!」
「…………なぁ」
耐え切れなくなった司が、思わず言葉を漏らした。寛以外の皆が皆、司が食べる所を見ようと、箸も持たずに注目していた。
「ものすっっっごく、食いにくいんだけど……」
司が一同を眺めると、各々がわざとらしく食事を始めた。それでも、司を窺う視線はなくならない。そんな中、準だけは未だに箸を持たずに司の様子を見ていた。
「……そんなに見なくても、ちゃんと食べるからさ」
司は準に見せるようにして、オムライスをスプーンで掬った。再び、寛以外の箸が止まる。司は無視して、そのままスプーンを口に運んだ。
皆が司の顔を凝視する。
「……どうですか?」
何も言えない準の代わりに、末莉が感想を聞いた。
「……しょっぱい」
「――っ!」
その場にいた全員が息を呑んだ。
「詳しく言えば、しょっぱくて、辛くて、ケチャップの味がしてて、何だかよく分からん」
準は殆ど泣きそうな顔をしている。他の皆もその状況を心配そうに見守っていた。
「……でも、うまい」
「――っ」
司は早々とオムライスを平らげていく。その顔からは味の程は窺えない。ただ、黙々と準の努力の結晶を口へと放り込んでいく。そのぶっきらぼうさが、いかにも司らしかった。
「うん。よく分からんけど美味い。これだけは確かだ」
照れ臭そうに台詞を溢し、たまには水を飲みながら。物理的には美味とはいえなくても、準が苦労して作った料理を、司が不味いと思う訳はなかった。
「ツカサ、優しいね〜」
「カッコいいです〜」
「……キザな男」
「司くん、照れ屋さんね〜」
四方から飛んでくる冷やかしは、司にとって大したものではない。皆に冷やかしを受けるよりも、真摯に見つめてくる準の存在の方が、司にとっては遥かに恥ずかしいのだから。
やがて、司は平らげた皿を食卓に置いた。司が食べている間、準は一度も箸を取っていなかった。司が食べ終わった後も、心配そうに司の顔色を窺っている。
「……準」
名前を呼ばれた準の肩が、怯える小動物のように反応した。それでも、表情は平然を保とうとしているのが準らしい。
「……なに?」
「あの、あれだ。その……なんだ……」
「だから、何?」
「――ごちそうさま。美味しかった」
準に向かって手を合わせる司。準に返す言葉はなかった。返す必要など、なかった。
準は、満面の笑みを司に返したのだから――。
それは他愛もない日常の一ページ。
そしてまた、新しい一日が過ぎていく――