<invisible days>
夕暮れは歪み、再び一週間が始まった。
いつも通り祠の近くにテントを張って生活をする。支倉先輩が訪れれば情報提供して見逃してもらう。先輩は毎回、山の中にある発電所に足を運んでいるようだった。その際に、わたしの気配を感じ取っているのだろう。何回繰り返しても、この先輩の異常さは変わらない。あと、どれだけの時間を過ごせば、この先輩を上回ることができるのだろうか。
それには時間が掛かるだろう。もっと。もっと。
いつも通り、霧ちんと待ち合わせをするために学校へ。一週間がループする前日、二人でそう約束をしていた。
思えば、先週は一体何週間前のことだったのか。今、ここに存在しているわたしでさえ、何週間目に現れたわたしかは分からない。最初からずっと存在していたわたしなのかもしれないし、繰り返しを体験した後のわたしなのかもしれない。
だが、そんなことはどうでも良かった。大切なのは、わたしだけが気付けたということ。わたしだけが、わたしを存続させる術を知っているということだ。
霧ちんが学校にやって来るのは午後からだ。霧ちんが来ない間に、廊下の汚れを掃除しておく。廊下はいつも血で汚れていた。血を見ると先輩が壊れてしまうので、なるべく早く痕跡を消す必要があった。
「おーす」
「っ!?」
背後から、つい先日までわたしを殺そうとしていた声が掛かった。わたしは咄嗟に立ち上がり、先輩に振り返った。にっこりと笑いながら。
「あ、先輩……どぉも」
ここで声を掛けてくるのは先輩しかいない。何度も体験したことだ。そして、この先輩は毎回わたしのお尻に触ろうとする。これだけは100%。呆れた先輩だった。
先輩はわたしがお尻タッチを避けたことに違和感を覚えているようだった。それもそう。わたしだけは、ループしていないのだから。もう、先輩のセクハラは通じませんよ、と胸の中で自慢してみた。……とはいえ、避けれるようになるまで、十回ぐらいの時間は掛かったのだけれど。単位は一回=一週間。先輩は気配を消すのがやたらとうまい。支倉先輩ほどではないけど、これも、先輩が殺人鬼である証拠なのだろうか。
「なにしてんの?」
「そーじです」
幾度となく繰り返されたやり取り。今の先輩は、いつもの優しい先輩だ。先輩は週の初めは比較的大人しい。わたしが毎週、この廊下の血を掃除しているからだ。優しい先輩は大好きなので、なるべくならばこのままの先輩でいて貰いたい。
だけど、五回中三回は先輩は壊れてしまう。先週の壊れ方は特に危なかったと思う。今までで一番の危機を感じてしまった。
だから、霧ちんを囮にした。
体育倉庫へ逃げ込んだのも、半分はそういう意図があった。隠れてやり過ごせれば良し。そうでなければ霧ちんを喰わせておいて、その間に逃げ去る。
――どの口で、『霧ちん』なんてトモダチみたいに言ってるんだろう。
わたしは、既に霧ちんと友達と呼べる関係ではなくなってきている。彼女は道具だ。普段はわたしの相手をしてくれ、いざという時には格好の撒き餌になる。
でも仕方がない。彼女達――わたしを除く全ての人間は『現象』だ。わたしだけが、長い時を過ごした『人間』。繰り返すという現象から免れた人間なのだ。霧ちんはどんなに酷い死に方をしても、一週間が経てば元通りに直る。でも、わたしはそうはいかないのだ、何週間も過ごして積み上げてきたものがなくなってしまう。『わたし』は、死ぬわけにはいかない。
「俺もやったぞ、そーじ」
先輩がしたり顔で言う。先輩。残念ながら、その台詞も耳にタコができるほど聞かされてきたんです。
「表面的な言葉遊びで送辞と相似とか言いますか?」
途端、先輩は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をして、
「言いません!」
と言って、そっぽを向いてしまった。
「なぜ怒るです」
今度は、黙ってしょんぼりとしてしまった。本当に、忙しい先輩だと思う。
「なぜ黙るです」
「そんなオチを封じた上にせかすなようっっ」
泣きながら、先輩はわたしに詰め寄った。これで何度目の勝利だろうか。勝敗は同じでも、先輩は毎回違う負け方をしてくれているから、飽きない。
「わーい、勝ったー」
「あ、思いついた」
先輩は頭の上に豆電球を光らせて、ポン、と手を叩いた。ごほん、と重々そうに咳払いをする。
「……人類を掃除した」
「っ、きさまが犯人かー!」
この台詞は初めてだった。一瞬、心臓が跳ね上がった。だけど、その動揺を大げさなリアクションで誤魔化した。先輩はわたしの心中に気付いていない。この人なら、本当にそんなことをやりかねないのだ。先輩が言うと、冗談には聞こえなかった。
「はー!」
わたしは構えて、先輩に殴りかかった。先輩はわたしの攻撃を、
「よっ」
避ける。
「ほっ」
避ける。
「……はっ?」
……当たった。
ついつい手加減が薄れてきてしまっていた。わたしとしても、まさか本当に当たるとは思わなかったのだけれども。わたしも、強くなってきているのかな。
先輩は目に見えて動揺していた。でも、仕方のないことだと思う。先輩が知っているわたしと、今先輩の目の前にいるわたしは、全く違うものなのだから。先輩だけ、過去を見ている。
――いや、わたしも。
「おのれ」
先輩の目つきが変わる。少し、やる気になったようだ。
「しゅっ」
わたしは先輩に見せ場を作ってあげようと、わざと見え見えのミドルキックを繰り出した。先輩なら、問題なく捌ける速さ。
だが。
「ううううっ」
この先輩は何を思ったのか。わたしの攻撃を避けようともせず、腰を落として中段に構えた。その狙いはわたしのパンチラのみ。呆れた。この人はどこまでもセクハラ大魔神だ。
このまま蹴りを止められると、勢いで何をされるか分からない。わたしは咄嗟に脚の軌道を変え、先輩の構えた両腕の上を過ぎ去り、先輩の顎に蹴りを喰らわした。
「れ?」
先輩は大きく仰け反る。
「あらら?」
そして、そのまま仰向けに廊下に倒れこみ、気絶してしまった。
「あぅ……やっちった」
ここまでするつもりはなかったのに。ついつい力が入りすぎてしまった。
でもまぁ、先輩ならすぐに起きるでしょう。何たって、わたしの師匠なんですから。
先輩が気絶してから一分後。
「はっ?」
先輩は目を見開いて、復活した。
「あ、よかった。気がつきましたか?」
「う、うー。俺ってばどれくらい気絶してた?」
恥ずかしそうに、そんなことを訊いてくる。確かに。女の子に気絶させられたとあっては、流石の先輩も少しは恥ずかしいのかもしれない。
「一分たってないですよ」
「あー、ついに美希に負けたかー!」
「たは」
先輩は膝をついて悔しそうに床を叩いた。
「でもすごく油断してらしたじゃないですか」
パンツにだけど。いや、パンツだからこそ、か。先輩も奥が深いのか浅いのか。
「いやー、あれは俺にとって他に選択肢がないからなー」
急に先輩は真剣な表情を作る。
「……たぶん命がかかっていても同じだった」
「パンツに命を!?」
やはり、恐ろしい先輩だ。
「チッチッチ」
それは違う、と先輩は指を振ってわたしの言葉を否定した。
「ライブでミキミキが着用していたパンツ、だよ、君」
「違うんだ……」
何が違うのか、女――しかも生娘――のわたしにはよく分からなかったが、エロ魔人の先輩が言うのだから、そういうことなのだろう。
「違うとも。このように――」
先輩はわたしのスカートの端を掴もうとしたが、わたしは指二本で先輩の掌を挟んだ。もはや、先輩にスカートをめくらせる隙など作らない。
「はっ、防がれた!?」
「ふふふ」
先輩は悲しそうな目をした後、横たわって膝を抱えて丸くなってしまった。
「うーん、免許皆伝」
本当に面白い。面白い先輩だ。これで壊れなければ、完璧なのに。
「で、俺はもう引退しゆ」
「しゆとか言うし……」
わたしは膝をついて、先輩の体を揺すった。
「ししょー、元気出してくださいよ」
だが、先輩はわたしに背中を向けた。
「いい。引きこもる」
「またはじまったよこの人は」
先輩は先輩のままだ。壊れていても、先輩のまま。
違っているのは、わたしだけ。
先輩は確かに人間だと思う。壊れてはいるけども、わたしとこうして話す時、みんなと一緒に馬鹿騒ぎをしている時、確かにそこには人間としての先輩が存在する。
「全然……なのにな」
わたしだけ、全然違う。
「ウイ?」
先輩が不思議そうな顔をして、わたしを見た。
「みんな、普通なのに」
わたしだけが、普通ではなくなってしまって。
それでも、世界はわたしを普通と認識して回っていて。
泣きそうだった。いや、もう半分は泣いていた。
「ミキミキ?」
先輩が立ち上がった。不安そうな顔をして、わたしに近付いてくる。
「ほら、こんなに手が震えています」
わたしは両手を広げてみせた。自分でも気付かないほど、その両手は汗ばんでいた。
「……どうして?」
「それはもう、せんぱいのプレッシャーみたいっぽいやつに当てられて、小心者の美希はビビリまくりなわけですよ」
怖がっているのは世界に対してではなく、自分に対してだけれども。
先輩は強い。わたしでは、到底適わないほど。恐らく、何週間経ったって、わたしが先輩を超えることはできないだろう。支倉先輩は超えられるとしても、この、太一先輩だけは。
「だから、元気出してください」
「んー」
先輩は少しの間、考え込むようにして天井を見上げていた。
「よし、免許皆伝をやろうではないか」
「えっ?」
意味がよく分からなかった。
「手帳を出しなさい」
その台詞で、先輩が何を言おうとしているのかが分かった。
「……あーあー……アレですか」
もう随分溜まったような気がする。が、最後に貰ったのはいつだったか、思い出すことはできなかった。
「なんか久々ですねえー」
正直な所。わたしはこのサインが大嫌いだった。繰り返す一週間。そのサイクルに逆らって生きているわたし。体の成長より顕著に、それはわたしの人生の長さを表してしまう。サインを貰う度に、わたしは人を裏切り、殺してきた回数が増えることを実感する。サインは毎回貰えるわけではない。実際にわたしが裏切った数は、もっと多いのだ。
わたしは生徒手帳を取り出した。自分の罪を記す閻魔帳を閻魔様に差し出した。
「どうしたん?」
先輩は生徒手帳を受け取らず、わたしの顔ばかりを見ていた。どうやら、知らずの内に涙が溢れていたらしい。
「……やっぱり、けっこうショックだったのかな?」
「え?」
「こんなことになって、世界が」
「ああ……」
先輩は勘違いしている。わたしが泣いているのは、世界のせいではない。自分のせいだ。
「そうですね。そうかも」
嘘をついた。先輩に告白できるわけがない。何より、わたしにはその資格がない。
「だろうな。俺だってびっくりだ。こんなの」
本当にそうだろうか。先輩が、世界に人がいなくなったぐらいで、ショックを受けるものなのだろうか。俄かには信じられない。
「ああ。もう13歳とか15歳の新じゃがたちと出会う機会はなくなったわけだよなぁ」
「そっちかい」
心の中の台詞が、そのまま飛び出していた。本当に、この人はシリアスという言葉と縁がない。どこまでいっても、余裕たっぷりで。
「そら」
先輩がわたしの手帳を取り上げた。
「美希は手帳だいぶ使いこんでるなあ。ぼろぼろだ」
手帳を鑑定するように見つめながら、先輩は言った。
「ぼろぼろ」
わたしはその言葉を繰り返していた。それはそうだ。一週間ごとに状態が戻る他とは違い、わたしの生徒手帳は永遠に汚れたままだ。綺麗になることなどない。それは、まるで自分を比喩しているようで、何だか悲しかった。
――先輩、わたしもぼろぼろなんですよ。
先輩は手帳をめくり、中身を確認していた。ページに空きがないのか、暫くの間ページを睨みながら手帳をめくり続けていた。
もう手帳は先輩のサインで埋まりきっている。先輩は気付いていないみたいだけど、そのサインは殆ど、違う先輩が書いたものだ。でも、当の一番新しい先輩は気付く様子もなく、空いた空間を見つけてその場所に新たなサインを書き加えた。手帳を閉じて、わたしに差し出す。わたしはそれを受け取った。
わたしの罪の証。決して、消えることはない――
それはわたしがわたしであり続ける限り。
どうして、わたしだけが気付いてしまったのだろう。いっそのこと、何も知らずに現象として生き続けていたら。わたしはこんなにまで壊れることは、なかったのに。
先輩が涙を拭ってくれた。優しい先輩。やっぱり、わたしがちょっぴり本気で好きな先輩はこうでないと。
「ども……」
「なに」
先輩は少し気恥ずかしそうにしていた。空気を変えたいのか、わざとらしく、わたしの後ろ――掃除をしていた場所に目をやった。
「しかし、掃除とはね」
「体動かしていた方が落ち着くかなって」
「ふーん」
先輩は、無感動に呟いた。
「掃除、手伝おうか?」
突然の申し出。わたしはにっこりと微笑んだ。
「ことわる」
「うわーーーーーーんっ」
先輩は泣いてしまった。冗談っ気が満々だけど、少しだけ、本当に傷付いているようにも見えた。先輩は、人からの拒絶とかに弱い人だから。
「先輩、血とか苦手ですよね?」
わたしは、咄嗟にフォローしていた。
「え、まあ確かにそうだけど」
先輩の動きが、止まる。
「せんぱい?」
「そうなのだ。血は苦手なのだ」
だが、すぐに先輩はいつもの調子を取り戻した。
「血ではないんですけど絵の具が散らばってしまっているのですのだ」
本当は血だ。恐らく、もう一人の黒須太一が原因の血跡。だが、それを先輩に見せる必要はない。先輩には、今のままの先輩でいて欲しい。前があんなのだったから、今は尚更。
「だから掃除も大変なのですのだ」
笑いながら嘘を吐くことも平気になっていた。今のわたしは、笑いながら人さえ殺せてしまうかもしれない。
「さらにこの短いスカートはかがむとパンツが見えてしまいますので、興奮した先輩に対処しながら掃除するのはとても大変ですのだ」
この辺は少し本音。わたしも先輩と同じように、シリアスな部分が欠けていってるのかも。情緒欠如?
「ごもっともですのだ」
先輩はうんうんと頷いた。
「それは確かに苦労ですのだ」
「伝染してますよ」
「それは確かに苦労だろうな、ごほん」
慌てたように咳払いをする。どうやら、わたしに言われるまで気付いていなかったようだ。
「さー」
わたしは何となしに敬礼した。前にしたのは、裸の桐原先輩を引き摺って現れた時――
嫌な光景が脳裏に浮かんだ。できるなら、あんなモノは見たくない。
「ごはんはもぐもぐしているかね?」
上官の口調で、先輩はわたしの食生活について訊ねてきた。
「は、しているであります」
お菓子もご飯に入るなら、の話ではありますが。
「では大人である俺はあえて身を引き、かげながら見守ることで弟子の成長を間接的に応援していこうではないか」
「さー、恐縮です」
「さて」
先輩は前髪を払った。銀色の髪が揺れる。
「邪魔したな」
先輩はわたしを通り過ぎ、廊下の向こうに去っていった。
「おつとめご苦労様です」
だが、すぐに立ち止まった。
「そうだ、美希」
振り返ると、先輩の真剣な顔がそこにあった。
「はい」
「そろそろ部活、活動再開するってさ」
「部活ですか?」
「どうしても心がきつくなったら、顔を出してみるといい。そういうための、部活だろうから」
先輩は毎週高確率で、部長先輩の手伝いに行っていた。わたし達他の部員にも声を掛ける可能性は高かった。今まで幾度となく聞いた提案。
でも、今回は違う。わたしは、差し出がましくも救いを必要としている。この傷付いた心に、癒しを求めている。
「……はい」
わたしの返答を聞くと、先輩は満足そうに背中で笑った。そのまま廊下の奥へと歩いて消えていく。
◇
太一の姿が見えなくなってから、美希は廊下の掃除を再会した。血に汚れた廊下。これは美希自身だ。どれだけ綺麗に洗っても、この汚れが落ちることはない。一週間経てば、再び美希の前に姿を現す。それは、決して消えない美希の罪と同じだ。
「ふぇ……」
涙で視界が滲む。それを洗い落とそうとするかのように、美希は視界いっぱいに広がる床をモップで擦った。
「取れないよぅ……いくら洗っても、この汚れは取れないよぉ……!」
どれだけ力を入れて擦っても、その赤は完全には落ちない。そして、一週間が経てば元通りに再現される。決して消えない罪。繰り返される時間の中にも過去は確かに存在し、そこで犯した罪は心の中に積み上げられてゆく。人の犯した罪だけは、元に戻すことはできない。
――いつまでこんなことを続けないといけないの?
美希はモップを放り出して膝をついた。視界に収まる赤は、いくら涙が落ちても消えることはなく、ただその罪深い色を主張していた。
そしてまた、一週間が始まる――
END