<invisible days>
――群青学院、体育館倉庫にて。
扉を叩く音が、倉庫の中に響き渡る。何度も。何度も。粗暴な音は、倉庫の中にいる二人を威嚇しているようでもあった。
「美希ぃ……どうしよう……」
佐倉霧が山辺美希に縋るようにして寄り掛かる。目には涙を浮かべていた。美希は右手に握ったナイフをしっかりと握り直した。
「どうしたんだい。美希ちん。霧ちん。鬼ごっこなのに、閉じ篭るなんてズルいじゃないか」
扉の向こうから、狂った男の平静とした声が聞こえる。霧は太一の声を聞くと、小さく悲鳴を上げた。
「くそぉ……いくら追いつかれそうだからって、これは反則だろう! ……ん? そうか。これはスペースインベーダーのインボウなんだな? そうなんだな?」
訳の分からないことを口走りながら、扉の外の太一が独白を始める。その様子はまさに狂人。虹色の人間であった。
「だが、大丈夫。こんな時のために、俺は秘密兵器を持っているのでした〜。その名も、聖鍵エクス狩場―! 約束された勝利の鍵!」
大声で叫んだ後、扉を叩く音は止んだ。代わりに、カチャカチャという不吉な音が聞こえてきた。美希は咄嗟に辺りを見回した。このままではここを突破される。そうなれば、自分達は終わりだ。今は亡き先輩達と同じ運命を辿ることになる。
それだけは嫌だ。自分は、生き延びたい。生き延びなければならない。この自己を失うわけにはいかない――。
◇
「――なに、これ」
霧が呆然と立ち尽くしながら、その人間だったモノ達に対して呟きかけた。世界が八人だけになってから五日。各々のいざこざも何とか薄れ、皆で共通の作業をやり通そうと決めた矢先のことだった。
先輩である島友貴と桜庭浩が、屋上のアンテナの側で殺されていたのだ。桜庭は心臓を刃物で一突きされて、呆気なく殺されていた。普段通りの表情をしたままだった。恐らく、桜庭は自らの死を理解する間もなく死んだのだろう。
それに反して、友貴は皮膚という皮膚に切り傷が付けられていて、一見してそれが誰なのか判別が付かない状態だった。美希と霧の二人がそれを友貴と判断したのも、服装と髪型の消去法で決めたといっても過言ではない。それ程、友貴の遺体は損傷していた。
「なんで、こんな――」
両手で口を押さえ、その場に座り込んでしまった霧を他所に、美希は屋上のフェンスが倒れている部分に近寄った。昨日はフェンスなど倒れていなかったはずだった。
四つん這いになって屋上から下を覗き込むと、裸の宮澄三里が地面に一輪の薔薇を咲かせているが見えた。
「アイツがやったんだ……」
美希の背中から、霧の声が聞こえた。その声は震えてはいたが、些かの怒気も含んでいた。
「アイツしかいない! アイツが全員、殺したんだ! 美希、早くここから逃げないと!」
美希は頷いた。霧の指す『アイツ』についても、これから逃げることについても、どちらも霧と同意見だった。こんなことを仕出かせるのは、自分を除けば支倉曜子と黒須太一だけだ。だが、曜子は太一が絡まない限り、自ら動くような人間ではない。となれば、自然と犯人は絞れてしまう。黒須太一、その人である。そして美希は知っていた。こうなってしまった太一には、逃げるしか生き延びる術はないということを。
幸い、こちらにはまだ逃げる切り札は残っている。今から逃げれば、まだ間に合う――。
「らんららーらーらーららららーらーらーらーらららー」
美希と霧が同時に屋上の扉に振り向いた。扉越しに歌声が聞こえてきた。外れた音程に、意味を持たない歌詞を引っ提げて、化け物がやって来たのだ。
「おお、お花ちゃんたち。こんな所にいたのか」
片手で桐原冬子の死体を引き摺りながら、太一は平然と屋上に現れた。冬子の死体も三里と同じく服を着ていない。切り裂かれた肢体と開いたまま動かない瞳が、冬子の死に様を物語っていた。
――桐原先輩も喰われた。この化け物に。
低い確率の中、今日まで生き延びたというのに。これなら、いつも通り餓死をしていた方が幾分もマシだっただろう。
「丁度良かった。実は小生、只今トモダチの塔を建設中なのであります! 良ければ、お花ちゃんたちにもお手伝いを要請したい所存にゴザイマス!」
背筋を伸ばして敬礼する太一。その際に、冬子は太一の手から離れ、ゴロン、と床に落ちた。
「ひっ……!」
「……残念ながら先輩。今日、わたしはこれから霧ちんと二人でアバンチュールなひと時を過ごさなければならないのです。今日の所はお引取り下さい」
美希は太一と同じように敬礼をする。それは確かに普段通りの二人のやり取りだった。そこに死体さえ転がっていなければの話だが。
美希は笑ってはいるが、警戒を怠ってはいない。今の状態の太一には何を言っても無駄だ。だが、普段通りに接していれば、少しは逃げる糸口が出てくる。これも今までで学んだ教訓だった。異常になった太一に対して、異常で返してはいけない。それは、猛獣を刺激することと同義だ。
「そうか……これから霧ちんと女同士でイチャイチャするつもりなのか……」
「はい。残念ながらこの禁断の百合の世界には、いくら先輩といえど足を踏み入れることは許されません。ってゆーか、ぶっちゃけ霧ちんはわたしのだけのモノですから、手を出さないで下さい」
霧を抱き寄せて、ジト目で太一を睨み付ける。その際、太一に気取られないように、霧の耳元で小さな声で呟いた。
(わたしが合図をしたら、ドアに向かって走って)
霧は一瞬、美希の顔を見てから目だけで頷いた。できることなら、霧を生かしてあげたい。なるべくは二人で生き延びる方法を見つけ出さなければ。
「くそぉ〜、羨ましい! なんて羨ましいんだ!」
太一は両手を広げて歩み寄ってくる。霧は美希の制服の裾を力強く掴んだ。
「うら若き乙女達が絡み合うなどと……コバルト文庫的には、合格、合格ですカっ!?」
太一が手を伸ばせば届く距離にまでやって来た。美希は霧を突き放した。
「走って!」
突き飛ばされた勢いもそのまま、霧は扉に向かって走り出した。それに注意を逸らされた太一の後頭部に向かって、美希は全身全霊を込めた回し蹴りを放った。
「ぐがっ!」
美希の蹴りは見事に太一の後頭部に入り、太一は軽く吹き飛んだ。美希も伊達に長い間鍛えてはいない。隙さえ作れば太一に打撃を入れるくらいのことはできた。
太一が怯んだ隙に、美希も走り出す。だが、昏倒には至らなかったのか、太一はすぐに立ち上がり、美希たちを追い始めた。やはり、まだこの男を殺すのは美希には無理だ。
「――そうか。鬼ごっこか。捕まえれるものなら捕まえてごらん、か。お望み通り捕まえてやろうじゃないか。待て〜、マイスィートハーツ〜」
行動、言動こそ普段の太一だが、捕まれば先人に従い殺されてしまう。恐らく、性別的に女である二人は、楽な死に方は望めないだろう。殺人鬼になったというのに、普段とのギャップがないというのが、どれ程異様で恐ろしいものか。太一の振る舞いは二人の恐怖を煽るのには充分すぎた。霧など廊下を走りながら泣いている。体力的にも精神的にも霧は限界を迎えようとしていた。
このまま闇雲に走っていても、太一からは逃げられそうにない。霧は特に。
「霧ちん! こっち!」
美希は霧の手を取り、手前の教室のドアを乱暴に開けて、入った。すぐさま教室の反対側のドアに回る。
「ここかナ〜?」
太一がドアを開けると同時に、美希はドアを開けて教室から飛び出した。近くの階段を駆け下り、校舎に隣接する体育館へと駆け込んだ。太一はまだ教室から出てこない。どうやら、気付いてはいないようだった。
体育館に駆け込んだ美希は、入り口に掛かってあった倉庫の鍵を取り、体育倉庫の中へと駆け込んだ。この群青学院の体育倉庫は内側からも鍵が掛けられる仕組みになっており、度々の見回りで、美希は鍵があることも知っていた。ここに来て、年長者の経験が役に立った。美希は扉に鍵を掛けると、積まれてあったマットに背中を預けた。
「ふう……」
「も、もう安心だよね……」
霧は一先ずの安堵を得たためか、腰を抜かしたかのように尻餅をつく。
「多分ね。これで、外に探しに出てくれるといいんだけど……」
美希は祈るように言った。霧も不安そうに美希を見上げている。
ここで一度、太一が学院の外に出てくれれば。美希たちにも逃げる余裕が生まれる。足手まといである霧を連れていても、逃げることができる――。
「――フローラルの香り。見ーつけた」
だが、化け物はそう優しくはなかった――。
◇
二人に残された時間は短かった。どういう方法かは分からないが、太一は鍵を開けようとしている。そして多分、それは開くのだろう。
逃げ道を探していた美希は、扉から一直線上にある壁に、小さな窓が付いているのを見つけた。二人は小柄なので無理をすれば通れないこともないが、如何せん位置が高い。
もはや逃げ道はこれしかない。美希は霧を呼ぶと、窓の前に走った。
「霧ちん、土台になって!」
「う、うん……」
霧は戸惑いながらも四つん這いになる。美希は霧の背中を踏み台にして、窓の縁に手をかけた。腕の力だけで体を上に上げる。鍛えていた甲斐もあって、難なく美希は窓から外へと脱出できた。
美希が窓から這い出たのと、太一が鍵を開けたのは同時だった。
――カチャ。
悪夢の音が倉庫内に響いた。間を開けて、倉庫の扉がゆっくりと開く。霧は振り返り、太一の姿を認めると悲鳴を上げた。そして、すぐさま美希に手を伸ばした。
「美希……早く!」
言われて手を伸ばす美希。だが、途中でそれを止めた。
「み、美希?」
――もう、これ以上は無理だね。
ここで霧を救おうとすれば、美希まで化け物の餌食になってしまう。できるだけ霧を死なせたくなかったが、それも自分の命が保障される間の話だ。霧の友情より、命より、自分の命の方が惜しい。それが、山辺美希の群青色なのだから。
「み、美希? どうしたの……?」
霧は美希の内心に気付いたのだろう。だが、それを認められるほど、今の霧に精神的な余裕などなかった。目の前にいる美希が信じられない、悪い冗談だ、これは夢だ――霧の声にはそんな感情がぎっしりと詰まっていた。
美希は差し出そうとした腕を戻し、立ち上がって踵を返した。学院の門に向かって走り出す。
「美希! 戻ってきてよ! 美希ぃ〜!」
背後で霧が叫んでいる。だが、それを聞かない振りをして走る。
「つかまえた」「! いやぁ〜!」
遠くで霧の悲鳴が聞こえる。泣き叫び、美希に助けを、太一に許しを請う声が。その声は美希の心に突き刺さり、肉を抉りながら奥へと突き進んでいく。美希の心が嫌な音を立てて罅割れていく。
だが、そんな声でも走れば遠ざかる。聞こえなくなる。なんてことはない。自分が生き延びる為に走れば良い。また来週になれば、霧は生き返ることができるのだから。
――ゴメンね、霧ちん。また来週。
また、美希の中で大切な何かが砕けた。しかし、もう美希の何かは砕けすぎて、美希にとってはどうでもいいことになり始めていた。今までに何度も裏切ったり殺したりを繰り返したのだ。この一回で感傷に耽るほど、美希は弱く――強く――は無くなっていた。
学院の門を過ぎる。もう霧の声は聞こえなくなっていた。