<8時30分>

 

 

 

 

 

 山崎を連れて椎名が向かったのは、屋上だった。

「わー、屋上って初めて入った」

 山崎がくるくると回りながら、屋上を見回す。

「勿論立ち入り禁止なんだけどね。今は怒る人誰もいないから」

 基本的に人が立ち入ること禁止している屋上には落下防止用の手摺りはない。椎名は屋上の端に腰を下ろした。

「隣、座っていい?」

 椎名が答える前に、山崎は椎名の隣に座った。

「……ここはいい眺めだね」

「ほら見て、あそこ。駅の辺り。なんか煙が上がってる」

「最後の焚き火じゃないの」

「何を焼いてるんだろうね」

「人間とか?」

「……怖くなること言わないでよ」

「ごめんごめん。わざと」

「そう――って、わざとなの!?」

 椎名は山崎の憤慨する様子を見て笑った。ここ最近は休む暇がまるでなかったので、ここまで無防備な時間は久しぶりだった。

「今日はいい天気だね」

「そうだね、人類最後の日とは思えないくらい」

「明日も晴れるといいね」

「晴れたって私たちには分からないよ」

「そうだね」

 目の前に広がるのは、かつては彼らが見慣れた街並みだ。学校を中心とした近辺は山や田圃の緑が広がり、その外側を灰色の建物が覆っていた。

 恐らく、一月前も一年前も、ここからの景色はこのような彩りをしていただろう。

だが、今はぽつぽつと立ち上る黒灰色の線が追加されている。これは余計なものだ。

「なーんかここから見ると、『世界の終わり』って感じするねー」

「山崎が想像する世界の終わりって、こんなのだったんだ」

「じゃあ椎名はどんなの想像してたってんのよ」

 その口調が山崎には馬鹿にしているように聞こえたらしい。不機嫌そうに山崎は突っかかった。

「こう、宇宙人が攻めてきてUFOがバーンと――」

「あー、はいはい。分かった。分かったからもういいですよーだ」

 小馬鹿にされていると即座に判断した山崎は、拗ねた様子でそっぽを向いた。

椎名はそんな山崎の動向を見て笑う。

 冗談で誤魔化してしまったが、それは仕方のないことだ。

椎名は今のような状況を想像していたのだから。

それは椎名の密かな枷だ。

椎名のせいで世界はこのような終わりを告げたのかどうか。椎名の主観では完全に否定することはできない。

 一か月前までは『妄想』と呼ばれていたものが、今となっては紛れもない現実である。

 椎名はアピールするように、深いため息をついた。

「どうしてこんなことになっちゃったんだろうね」

 珍しく、弱気な台詞だった。

「……私、何となく分かってるんだ。世界が滅ぶ理由」

「へえ、なに?」

 椎名にとって興味深い発言だった。自然と身を乗り出していた。

 山崎はそんな椎名を意外そうに見つめた。

「……ん、どうしたの?」

「いや、なんでもない」

「じゃあ、早く言ってよ。世界が滅びる理由」

 珍しい椎名の押しに戸惑いながら、山崎は口を開いた。

「え、えっとね……? みんなが……仲良く……なりすぎ……た?」

 恐る恐るの言い方がおかしくて、椎名は少し噴き出してしまった。

 そして、その笑いで山崎の戸惑いも吹き飛んでしまった。

「……ちょっと後悔したかも」

「いや、ごめん。続けて」

「……ん、まあいいか」

 オホン、と山崎は声を出して咳きこんだ。

「つまり私が言いたいのはね、人間同士があまりにも区別が無くなりすぎたってこと。文化や人種の境が曖昧になりすぎたって言いたいわけ」

 今度は饒舌だった。

「何かそう思う理由はあるの?」

「ないよ。そんな気がするだけ」

 山崎は何故か誇らしげだった。

 だが椎名は山崎の言い分にどこか納得してしまっていた。これも、滅びの予兆と同じく本能でそうだと感じ取ったのだろうか。

 ほんの十数年前のことだ。

紛争や衝突が耐えなかったこの世界は、奇跡の連鎖によって急に魔法を掛けたように綺麗になった。利益を、文化の尊厳をかけて争っていた人々が、手を取り合い、分かり合い、互いを尊重できるようになったのだ。

 世界の人々は歓喜した。この地球上で二度と争いは起きないと。この世がついに美しい、理想の形になったのだと。

 椎名の親の世代まで『世界平和』即ち『世界が一つになる』ということは有り得ない出来事だったのだ。まさに『天地がひっくり返っても』というやつである。

 今、まさに天地がひっくり返っている。

 山崎はそう言いたいのかもしれない。

「まぁ、何となく言いたいことは分かる」

「待って、もうちょっと続くの。――知ってる? 人間の細胞は一つ一つは全く同じなんだって。そして細胞一つで考えたら何の働きがあるのかもよく判らないんだって。でもね、その細胞が数多く集まると心臓になったり脳になったりする。全く同じものが合わさって、全く別な機能を持つ集合体に変わっちゃうの。不思議じゃない?」

「繋がり方に問題があるんじゃないの?」

「さあ? 私馬鹿だからそこんとこは分からないけど」

「おいおい」

 答えを期待していた椎名は、思わず突っ込みをいれていた。

「でもね、もし人間を一つの細胞として考えて、さっきの世界平和の話を考えてみると、なんだか面白い想像ができると思わない?」

 馬鹿らしい発想だが、つまらなくはないと椎名は思った。

「ああ、つまり地球人類は目出度く、何らかの機能を持つ一つの『器官』になれた、ってこと?」

「もうちょっと言えば、統一された意識が滅びを呼び寄せてしまった、みたいな」

 それならば、過去の数々の争いは一種の防衛反応だったとでも言えるのだろうか。なんら根拠のない話だが。

「でも、なんだかんだいって人間全てが共通意識を持てるようになったわけじゃない。その考えにはちょっと無理がある」

「きっと全部じゃなくていいのよ。二つや三つの大民族が合わさっても上回らないぐらいの数が条件だったのよ……例えば、五十億人ぐらいとか」

「なるほど――でも、今更争ってももう遅いみたいだね」

 椎名は遠くの街並みを眺めた。

 今、世界中で暴動が起きているが、人は予定通り今日を境に消えてしまうだろう。

 何が起きようと、その事実はもう変わらない。。

「逆に、今でさえ仲良くなれれば滅びないのかもね」

「そんな不可能なこと言ってもしょうがない」

 しかし、どうすればこんな突飛で馬鹿らしい発想ができるのか。椎名にはない回路を、山崎は持っているようだ。普段の山崎の行動は知性の欠片も感じさせないのだが。

 椎名はふと、自分が山崎の突飛な考えを楽しんでいることに気づいた。自分はこの妙な考えを楽しみ、安堵していると。

 それは、自分の身勝手な願いで世界が終ってしまう、と考えた椎名だからこそ気づけた事実だった。

「……なんか、君と話してると疲れる」

椎名は悔しさと恥ずかしさを噛みしめていた。恐らく、椎名の目の前にいる彼女は、椎名と同じ思いを味わったことはない。

だからこそ、椎名はそんな科白(せりふ)を口にしていた

「私は椎名と一緒にいるだけで気疲れするよ」

 しかし返ってきたのは、微笑ましい嫌味が一つだけ。

 守りに徹しない椎名に、山崎を思う通りにすることなどできるはずもなかった。

これが勝負ならば、椎名は完全に『負け』た。

 もし、この場にあと一人でも人間がいれば、椎名は虚勢を張るために笑っていたかもしれない。二人きりでいられることに、椎名は大いに感謝した。

 

 椎名は思う。女とは、好意を隠すフリをする生き物だと。いかにもな形で餌をちらつかせながら、相手が食いつくのを待っている。自分が後攻になるのを待っている。

何のために、と訊かれたら椎名にはまだ答えることができないのだが。

「…………」

「…………」

 残された時間はあと半日余り。

 人はどのようにして最後の時間を過ごすのだろう。

 どのように過ごせば、有意義といえるのだろう。

 自分の為に生きるべきか。他人の為に生きるべきか。

 どちらを選んでも結果は変わらない。椎名を含めた人類は、次の朝日を拝むことはできない。

 だが恐らく、心持ちは変わる。

 椎名は徳というものの存在を少しだけ信じている。宗教的な意味合いではなく、一貫した生き方の結果、という意味合いでだ。

「…………」

 その徳を重んじるならば。

 この目の前の少女が望む自分を、最後の一日だけ演じてみるのも、悪い選択ではない。

 特に、この限られた世界の中では。

「……山崎」

「うん?」

「今日、なんか予定ある?」

 なんてことのない言い方だった。

 だが、山崎は暫く返事をしなかった。不思議に思った椎名が山崎を見てみると、山崎は惚けて固まっていた。

「山崎? 聞いてる?」

 椎名が山崎の顔を覗きこむと、山崎の体は割れた氷の様にに跳ねあがった。

「う、うん! 聞いてる聞いてる!」

「今日、暇?」

 椎名の視線は山崎の眼の奥を捉えて放さない。

「ひ、暇だったらなんなの?」

 一方的に感じるプレッシャーに打ち勝ち、ようやく出た言葉は本人の意思とは裏腹に生意気だった。

 だが、椎名はそんな山崎の心中すら掌握済みだ。椎名は人生の終わりの終わりで、異性を『おとす』楽しみに目覚めてしまったようだった。

「じゃあ、今日は僕と付き合ってよ」

 山崎は素っ頓狂な声を上げた。

椎名は気にせずに山崎の腕を掴み、腰を上げる。それにつられる形で山崎も立ち上がった。

「今日一日、ここでのんびりと過ごそう。ゴロゴロと暇な時間を過ごしてさ。少なくとも、悪い目には遭わせないよ」

 山崎の頬は既に夕暮れだ。

 椎名はそれを答えと受け取った。

「じゃあ、行こうか」

 椎名は屋上のドアに向かって歩き始めた。山崎も半歩後ろの位置について歩く。

 山崎は突然の展開に思考が追いつかないでいた。

「え……ど、どこに行くの?」

「んー、保健室」

 山崎は何かを想像した。

「えーっ! ちょっと、ちょっと待って!」

「うそうそ、保健室は夜になったらね」

「そうだよね、よかった――って、なに考えてんのよ!」

「人生は残り一日もない。少しぐらい急かないと、愛する二人は結ばれないよ? それにさっき子作りとか何とか言ってたじゃない」

「た、確かに一応覚悟はしてきたけど……」

「何をしても誰も咎めないし、誰も咎められない。好きなように生きればいいんだよ」

「……そうだね」

 山崎は微笑んだ。椎名もようやく乗り気になった山崎を見て満足そうだ。

「じゃあ、とりあえず朝ご飯でも食べようか」

「ご飯って……どうするの?」

「ここに来る際に色々と調達しておいたんだ。二人で食べるには少し足りないかもしれないけど」

 分けて食べるのも楽しいよ、と言う椎名の後ろ姿を椎名はぼーっと眺めていた。 

「あーあ、今日一日だけっていうのがもったいない……」

 心底悔しそうに山崎は呟いた。

「そりゃ、今日一日だけだからね」

「え? なんか言った?」

「いや、何にも」

 大きな含みのある呟きだったが、肝心な言葉に限って山崎には届かない。

椎名にはそれができる。

「さあ、早く」

「うん」

 

人生を一日に例えるならば今は朝。

二人にとっての今日一日はまだまだ十分に残っている。

現在、午前8時56分――

 

 

END

 

 

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