<8時30分>
午前八時三十分。
そこは限りなく静寂とは無縁な世界となる。
数百を超える人の子が、巣になだれ込む蟻のような忙しさをもち、波のように四角い箱部屋の中へと納まっていく。
足音、物音、聞き取れない会話、無意味に響く笑い声。物静かを好む少年にとっては、そこは紛れもなく不快を覚える空間だった。
彼はよく覚えている。
もしこの喧騒から解放されるのならば、この世界の終焉と引き換えにしても構わない。
そんな偏屈で物騒な願いを、少年は考えたことがあった。勿論、それは冗談の範疇を超えるものではなかったのだが。
何はともあれ、少年の願いは今、ここに成就されている。
いつもは限りなく静寂と真逆の立場にある四角い空間が、今日は限りなく喧騒と程遠い場所にあった。少年が毛嫌いしていたものは、今は窓から見える遠くにある。
かつて『八時三十分』がこれほどまでに心地良いことがあっただろうか、と少年は考える。そして、願いの成就と引き換えに犠牲にしたものがあったのではないか、とも。終には、この世界が終わるからこそ、自分は今、この静寂を謳歌しているのだという結論に至った。
そう。彼の視点から見れば、たった一日の奇跡を存分に味わうために自分は世界を犠牲にした、と考えてしまうのもそこまで奇天烈なことではない。
彼はそのようにして感傷に耽る、という行為を愉しんでいた。感傷に耽りながら読書に耽る。彼にとっては何とも贅沢な時間の過ごし方だった。
懺悔を一言心の中で呟く度に、ページを一つ捲っていく。本は捲るにつれて内容が変化していくが、感傷は何度捲っても同じ言葉しか出てこない。感傷とは反復するものなのだと、少年はこの日初めて実感した。
「――はぁ。やっと見つけた」
そして、実感と同時に彼の至福の時間は終わりを告げる。
静寂は槌で叩かれたガラスのように、あっさりと割れて崩れ去った。
少年は声の発せられた方向を見た。
一人の女生徒が滑稽さを強調させながら、両手を腰に添えて歩いてくる。恐らく教師の真似事をしているつもりなのだろう。
彼女は教卓の前に立ち、両手をついた。
「では授業を始めます。起立」
しかし少年は立ち上がらない。少女の振る舞いを余所に、目線を本に戻した。
「きりーつ」
少年、頑なに無視。
「きりーつ」
少女、頑なに号令。
そんな一方的なやり取りがもう二回ほど続いた頃。
「……で、何しにこんなとこに来たの」
少年はとうとう無視を諦めた。
少年と少女は顔見知りだった。
少年の名は椎名。
少女の名は山崎。
二人はクラスメイトである。
「いやー、暴漢に襲われそうになって貞操からがら逃げ出したら、学校に辿り着いちゃった、みたいな」
「なにそのB級な理由」
山崎は何故かはにかんだ。
そして、
「そんなことより!」
自分への追及を吹き飛ばすような勢いで、椎名の許に詰め寄った。
「椎名こそなんでこんな所にいるの? 今更こんなとこ来たって意味ないってわかってるでしょ?」
椎名は山崎の語気に怒りを感じ取っていた。だからといって、椎名の態度が変わることはないのだが。
「意味の有る無しは人に決められるものじゃないよ」
「まあそれはそうだけどさ……」
無愛想な椎名の言葉に、山崎の態度も萎れていく。
それを見て態度を変えないほど、椎名は彼女を嫌っているわけではなかった。
「……『もし世界が明日終わるなら、あなたはどう過ごしますか?』っていう問いがあるよね」
「は?」
椎名が何を語りだしたのか解らない山崎は、呆気にとられて間抜けな声を上げた。しかし椎名は構わない。
「あの問いに『いつもと同じように過ごしたい』って答える人間なんだ。僕は。もし会社員だったとしても、同じように会社に居座ると思うよ」
「……上司も取引先もいないのに?」
「今だって生徒も教師もいない」
椎名は辺りを示してみせた。
「まぁ……ねえ……」
山崎は椎名の指につられ、教室の中を見渡した。彼女が見渡す視界には、虫一匹さえ映らなかった。
そして、二人の会話は一旦途切れた。椎名は本の世界へと再び舞い戻り、山崎は無人の廊下を惚けたように眺めていた。
「……さっき言った『世界が明日終わるなら、あなたはどう過ごしますか?』っていう問いかけ」
暫しの静寂の後、山崎が口を開いた。椎名が目線を上げると、山崎はまだ廊下を眺めていた。
「あれでさ、『最後の日でもいつも通りに過ごす』って言う人は結構いるじゃん? 椎名がさっき言ったみたいにね」
山崎の眼に恨めしそうな光が宿る。
「――でも、それって案外実行できないもんなんだね」
この一週間、彼の眼にも、彼女の眼にも、いつも通りの日常を過ごす者など映らなかった。
「探せばどこかで素敵な時間を過ごしている人はいるよ。きっと」
「ステキな時間って?」
山崎は椎名の机に腰を下ろす。
椎名は表情一つ変えずに嫌悪を示した。
「有意義な時間、と言うべきかな。たとえば――何度も言ったように、いつも通りの日常を過ごしたり。後は愛する人と共に過ごしたり、守ったり。あとは誰かに復讐したり……」
「最初の方は賛同できるけど……」
最後のはどうなの、と山崎は引き気味に椎名に訊ねた。
「そうだね。実際に有意義かと問われたらそうでないのかもしれない」
「いや、そうじゃなくて。ステキかどうかを訊いてるんだけど」
「至って人間的だと思うよ」
「いや、答えになってないから」
「そんなのいつものことじゃないか」
含みのある言葉で、なんとなしに会話を流すのが椎名の得意技だ。山崎は理解しているので、それ以上の追及は止めた。
そして、話はひとつ前へと戻る。
「……あーあ、先生がいなかったら授業ができないのにねー。なんのための学校なんだか」
「学校は授業だけをする場所じゃない、って偉い人が言ってたような気がする」
「じゃあなんでみんな学校にいないんだろうね?」
「……学校より大切なものがあるんじゃない?」
「学校より大切なものって何?」
「……さあね」
このままではまた不毛な会話が続くと悟った椎名は、曖昧な言葉を返した。何となく椎名の内心を感じ取った山崎も、椎名への質問を止めた。
山崎は俯いて、暫くの間退屈そうに脚を振っていたが、突如思い出したように顔を上げた。
「そーそー、ちょっと聞いて」
椎名は顔をあげてはくれなかったが、山崎は構わず喋り始めた。
「この前さー、後輩のコに告白されたんだって」
椎名の反応が気になるのか、お茶らけた口調なものの、山崎の目までは笑ってはいない。
だが、山崎の内心も虚しく、椎名は特に気にする様子もなく、本と睨めっこをしたまま会話を続けるのだった。
「へー。で、オチは?」
山崎は悔しそうな顔をして俯いて、また目線を椎名に戻すと、今度は寂しそうな表情でそっぽを向いた。
「……女の子」
「羨ましい」
「私が男だったらねー」
乾いた笑いが教室に響いた。
「最後だからってトチ狂ったのかな」
「結構いるのよ演劇部には。何を勘違いしてるのか知らないけど、同性愛的なものに憧れを持ってる、なんちゃってレズみたいなコ」
成る程、確かにそういう趣味の人間には、山崎は『お姉さん』の延長上として好かれるのかもしれない、と椎名は思ったが、目の前で不機嫌そうにしている山崎にはとても言えなかった。
何故なら、宥めるのが非常に面倒だからだ。
「まぁ、自分の演劇部だけを見てそうやって決めつけるのはどうかと思うけどね。……で、どう断ったの?」
「えっ、なんで断ったって分かったの?」
山崎は眼を見開いた。椎名は山崎を小馬鹿にするように微笑んだ。
「言い方で大体察しがつくよ。……で、なんて言ったの?」
再び訊かれた山崎は、両手を胸の前で組んでみせた。
「『ごめんなさい。私は男の子が好きだから貴女の想いを受け入れることはできないの』って」
白々しいまでの台詞口調は、その内容が嘘だということを暗に示している。椎名は今日初めて、少しだけ笑った。
「最後だから受け入れてあげればよかったのに」
「最後なのになんで大して親しくもない後輩の歪んだ欲望に付き合ってあげないといけないの。馬鹿じゃない」
「しかし、よかったじゃないその娘。明日になればそんな恥も帳消しになるんだから」
そうなの、そこなのよ、と山崎は不満そうに漏らした。
「そうでもなければ告白する勇気もなかったってことでしょ。もし告白するのが一ヶ月も前だったら、少しは評価してあげてもよかったのに。……まあ結局断るけど」
山崎の空笑いが、再び空の教室に響く。
「……あーあ。もし、明日何も起きなかったら、面白いだろうなー」
山崎の言葉には願望のような響きがあった。実際、彼女はそれを望んでいるのだろう。
「面白いだろうけど、想像はしたくないな。それならむしろちゃんと滅びてくれた方が今の皆のためだ」
実際に続けばグダグダになるのは明白だ。社会のシステムが崩壊してから、既に日は経ちすぎている。
人が猿に堕ちるのに数日もかからなかったが、元に戻るには長い月日を必要とするだろう。その上、以前のように復元するとも限らない。
秩序とは社会の建築物なのだから。
「そうだね。明日必ず世界は滅びる。皆それを解っているからこんなザマなんだもんねー」
『解る』という言葉には不思議な響きがある、と椎名は思った。実際、椎名にも世界の崩壊まであと僅かだということが解る。理由は特にないのだが、そうなるという確信が胸の奥で疼いている。山崎も同じなのだろう。
椎名、もといこの世界の人間がそれを確信したのはどれぐらい前のことだっただろうか。一週間も前だったか。この地球に住む人類全てが本能で自らの『滅び』を確信した時は。
滅びを目の前にした人間達は、心の中に隠していた欲望を解き放ち始めた。全人類の寿命が蝉のように短く定められ、社会の規則が無効化されたのが原因だった。
法というものは生きる時間がないと成り立たない。罰が生きる時間を削ぎ取るものだからだ。しかしその肝心の時間はたった一週間しか残っていない。一週間で死ぬ者といえば、齢を百重ねて寝ているだけの老人と、不治の病に臥せている病人ぐらいしかいない。
そんな中で誰が罰を恐れ、法に従うというのか。
そうして、一週間前に法は死んだ。それに伴い社会も死んだ。次の日には金も権力も通用せず、それらに驕っていた者も死んだ。人として美しい精神を持っていた人間も、三日はもったがほぼ死んだ。
残るは弱者と猿だけになった。
それが時間という神に見放された、今の地球の現状である。
椎名はそう考えている。
「あーあー。私こんな歳で死にたくなかったなー。まだまだしたいこといっぱいあったのに」
「たとえば?」
「なんか」
「なんかって?」
「なんか」
「具体的には何にもないんじゃないか」
「違う。何というか……高校生としての、未来ある若者の無限に広がる夢というか。そんなのあるじゃん?」
「いや、僕に訊かれても……」
もはや意味不明である。
「まぁ、とにかく将来ある若者が死んじゃうのは可哀相でしょ、ってこと」
「そうかなぁ。むしろ幸せだと思うけどなぁ」
「なんで?」
「夢は実現できなかったけど潰えた訳じゃない。可能性を残したまま死ねるなら体裁がいいじゃないか。苦労もせずに卵のまま終われるんだから。むしろ可哀相なのは夢を追いかけて苦労するだけ苦労して、現実を見せつけられてから死ぬ羽目になった中途半端な年代だと思うけど」
「あー、確かに苦労してない分、私たちの方が得かもねー」
納得したのか、山崎は顎に指を添えて頷いた。
「人生で一番楽できる時間を過ごすだけで死ねる。幸せといえば幸せなことだよ」
「子供は子供なりに苦労してるんだけどなぁ」
「その台詞、大人になっても言えるといいね」
「……はぁ」
山崎は不満そうに溜息を吐いた。何をその歳で、と言ってやりたいのは山々だが、口喧嘩で椎名に挑んでものらりくらりとかわされるのは目に見えている。
だから、山崎は椎名と決して戦わない。先程のように不満を示しながら押し黙るだけだ。
椎名も山崎は喰ってかからないと分かっているから、そのような振る舞いをするのかもしれない。
「……あ、でも、必ずしも得じゃないかも」
「? どういう意味?」
「女の子には生理がある」
「はぁ」
今度は椎名が溜息のような返事をする番だった。
「だって、毎月イヤな思いをしてるのに無駄になるんだよ? それってサイテーじゃん」
「サイテーだ」
椎名は山崎の真似をしただけなのだが、山崎はそれを肯定と受け取ったらしい。満足そうに頷いた。
「そうでしょ、サイテー! 何のために毎月イヤな思いをしてると思ってんのよーもう!」
「同じことを何度も言うなんてオバサンみたいだよ」
「ああー、こうなったら子供を産むしかない」
さながら決意表明のような言いぶりだった。
「今からじゃあ、間に合わないと思うよ」
「じゃあ何のための子宮なのよー」
「今日の君はとても変だね。面白いよ」
「でも待って! ちょっと聞いて!」
山崎は大袈裟なジェスチャーで椎名に呼びかけた。会話の脈略は既に絶えている。
「いいよ」
椎名は諦め口調で山崎に答えた。
「産めない性器に意味はあるの!?」
「ああ、そうか。人がいないからそんなにハイテンションになれるんだね」
妙なテンションの山崎とは対照的に、椎名は至って冷静だった。
「ねえ、どうなの!? どうなのそこんとこ!?」
「排泄も兼ねてると思えばいいよ」
「でもほら、色々あるじゃん?」
詳しくは言わないのがレディのマナーだ、とでも言いたいのだろうか。それと同時に、鎌かけの様な機能があるとしか椎名には思えなかった。そして、そんな鎌かけに引っ掛かる椎名ではない。
「そうだね。色々あるね。色々」
だから、敢えてお茶を濁して話の軌道を逸らす。そんな椎名を山崎は恨めしそうに睨んだ。
「……例えば?」
「おしっこ」
「さっきと同じじゃん」
「じゃあなんて言って欲しいの?」
「子作り」
「子作り。はい、これでいい?」
「いいよ」
「じゃあ、この話は終わり」
「うん、終わり」
椎名は本を読み始める。山崎は満足そうに頷いていたが、暫くすると何かが違うことに気づき、机を叩いた。
「違う、違う! そうじゃなくて!」
「子作りじゃなかったの?」
「いや、それは正解だけど――だからそうじゃなくて! まだ話は終わってないの!」
「そうなの?」
白々しい言い方だった。
冷やかな視線に晒されて、山崎は自分のしていることの馬鹿らしさに気づいた。いや、気付かされたというべきか。
「はぁ……もういいよ」
山崎は首を横に振った。
「そういや、椎名はないの? したかったこと」
「ないよ」
即答だった。
「正確に言うなら四日前になくなった」
山崎の眉間に皺が寄る。
「? どういう意味?」
「……毎週読んでる雑誌の発売日はもう過ぎた」
山崎はその言葉の意味を暫し考えた。深読みをしようにも、そのままの意味しかないことに気付いて現実に戻ってきた。
「……雑誌読むのが夢だったの?」
「一週間で果たせる小さな夢でしょ」
「そんなつまらないことが夢なわけ?」
椎名を小馬鹿にしたような言い方だった。アドバンテージを取れたのが嬉しいのか、山崎の顔はにやけていた。
「そんなつまらないことを糧にして、人は日々を生き抜いていくんだ」
「ふーん……なんか雰囲気で誤魔化してない?」
椎名は苦笑するしかなかった。実際に誤魔化しているのだ。
だがその苦笑いも長くは続かない。
椎名は本を閉じて立ち上がった。
「……君がいると本が読めないね」
その言葉に山崎への拒絶の色はない。
椎名は本を机の上に置き、教室を出た。山崎について来いと言わんばかりにゆっくりと歩きながら。
山崎は何も言わずに椎名の後を追った。