【指導フィロソフィ】   平成23年9月27日PM更新

心技体を教える。
心がなければ体力は向上しない。体力が向上しなければ正しい技術は身につかない。技術が向上しなければ向上する意欲がわかない。私の場合は簡単な技術指導から着手する。それでバスケットボールを好きになってもらう。苦しい事へのチャレンジの動機を興味づけからはじめる。『好き』になれば、それだけで既に素質である。後はサイクルを続けるしか意欲の維持は出来ないと考える。


常に学ぶ。学ぶ事をやめたときは、教える事をやめるべし。
今ある知識が正しいとは限らない。今までも自信を持って教えてきたことで間違っていた事が多々ある。 これからもそうである可能性、怖さを持てば学ぶ事をやめられない。


やって見せ、言って聞かせてさせてみて、誉めてやらねば人は動かじ。
山本五十六の言葉である。教え方の基本だろう。基本から逸脱する時は、それ相応の理由がある場合に限る。逸脱ばかりしていて基本を見失うのは、指導者として最悪な事である。


駄目な事を駄目と叱る
叱る事に一貫性がない指導者は、私の周りにもたくさんいる。なぜ叱れないのか。叱る事はかなりパワーが必要になる。叱れないのは自分に甘い指導者ではないだろうか。最近では叱れない親も多い。


暴力で教えられるなら、暴力なしでも教えられる。
暴力で言う事を聞くようになっても、それは自分より強い者の言う事しか聞かなくなる可能性が高い。理屈は別にして、強い者に弱い人格が育ってしまうだけかもしれない。暴力で理解、納得できるなら、他の方法で理解し、納得できるはずである。
ただ愛情を伝える方法としては効果がある場合がある。そして教える事でなく正気を逸脱している時に正気に戻す方法としては必要な場合もあるが、その場合でも緊急を要するときに限られるだろう。
ちなみに私は今まで一度も選手に手をあげた事はない。



怒る時に一番愛情が伝わる。
誉められるより、怒られた時に愛情が伝わる事が多い。愛情があるから怒るのだ。どうでもいい相手を誉める事は出来ても自分の全く得をしない事で怒ることは出来ない。だから感情をぶつける時も必要である。怒ったフリをしなければならない時もある。ただしいつも怒ってばかりだと効果はない。
『お前にとって一番うるさい大人は誰だ?』と子供に聞く。『親です。』と答える。次に『ではお前にとって一番お前の事を愛していると思う大人は誰だ?』と聞く。『親です。』と答える。最近そういう子供ばかりではない。どちらの質問にも『コーチ』や『先生』、挙句の果てに『おじいちゃん』『おばあちゃん』や『塾の先生』と答える者もいる。悲しい現実である。



可能性を信じる。可能性を決めつけない。
『こいつはこれを教えても出来ないだろう。』なんていう指導者の身勝手な判断で可能性を潰してしまう事は絶対に避けたい。よく保護者に言われる事がある。『まだ子供なんですから、そんな事言ってもわかりませんよ。徐々に教えてあげて下さい。』それがすでに子供の能力を否定しているのである。『うちの子は昔から病気がちなんです。だからほかの子と同じように練習についていけないかもしれません。』と平気で子供本人の前で言う。それがどれだけ子供にとって可能性を潰しているか、認識するべきではないだろうか。


自信を持てるだけの努力をする。努力を続けて自信を持って教える。
自信を持てなければ選手に伝わらない。しかし自信を持つには学ぶ事を努力しなければならない。努力をすれば自信が生まれる。選手もコーチも同じ事である。


常に謙虚である事。自信を持っていた事でも思い込みにならない事。常に柔軟であれ。自分のフィロソフィと真逆の可能性を忘れない事。
自信を持ちすぎて思い込みになり、人からの正しいアドバイスを受け入れないと損をするのは自分である。間違いに気づいても意見を押し通す人に誰もアドバイスはしてくれない。人に指摘されやすい人格者を目指す。そうならないと知らない事が増える。


どんな相手からでも学ぶ事は出来る。弱小チームのコーチからだろうが、教えている選手からだろうが、常に指導のヒントは落ちている。
人を結果から決めつけてはいけない。弱小チームのコーチでも、自分より優れた知識や考えを持っている。それを盗むのも優れたコーチの条件である。教えながらにして教えられる事はよくある事。それは選手に対しても言える事である。自分の思わぬところで理解してくれたとか、自信を持って教えている事が伝わらなかったとか、結果が出なかった事などで学ぶ事は大きい。


怒らず叱る。
怒りの感情をぶつけても、反発しか生まれない。時にはその反発を良い方向に作用させる事もあるが、その時でも怒っている振りでなければならない。本当に怒りをぶつけてはいけない。理屈がなければ誰も納得しないのは指導の原則である。選手からすると『コーチの為にバスケットをやっているんじゃない!』となる。


選手を愛する事。
選手を愛せないと進歩を望まなくなる。愛するからこそ指導に熱が入る。そして愛せないと自分中心になり、選手中心でなくなってしまう。そしてそれは選手のうち一人でも例外はない。全ての選手を愛せなければならない。自分を犠牲にしてでも選手の進歩を望む事が『愛する事』である。


自分が主人公にならない。あくまで選手が主人公である。
コートでプレイをしているのは選手である。コーチではない。コーチの思い通りに選手が動けば、選手はただのロボットである。ロボットを育成してはいけない。人を育成する事。指導している選手が自分以上の人になって初めてコーチである。


コーチとは人を目的地に導く役目の人。自分の目標を選手に押し付けない。しかし目標を与えてやる事も忘れない。
コーチの為に選手がいるのではない。選手は部下でもロボットでもない。コーチの為に選手がいるのではなく、選手の為にコーチがいるのだ。選手が望む目的地に導いてやるのがコーチである。


結果を褒めず、努力を褒める。
結果を褒めてしまうと褒められた方はプレッシャーがかかるし、意欲を失うことがある。努力を褒める事で結果は蓄積される。


悪い結果は常に自分の責任と考える。
常に自分の責任と言う考え方は、原因を見誤らない。そして起こる問題を予測する事が出来るようになる。選手や他の関係者の責任にした時から自分の力で問題解決に向かう事はない。そして問題解決は他力本願となる。ゲームの敗因も含めてコーチである自分の責任だと考えた時から進歩は始まる。


片手間に叱らない、頼まない。
何かをしながら注意をしたり、叱ったりすると重要性が伝わらない。そして甘えを生む事になる。頼み事も片手間にし続けると、幼少期なら集中力のない子が育つ。


コーチの特別扱いを求めない。
小、中、高校生などの子供に指導する時に、大人だから特別・・コーチだから特別と言う理論で、子供に叱っている事をしない。引率でバスや電車に乗って自分だけが座っているなどもってのほかである。選手に指導中にコーチが立っているのは当たり前の事。遅刻も同じ。


理解してくれたことに感謝する。
10人中10人が一度で理解してくれる事は当たり前ではない。1回言ってわからなければ10回言う。10回言ってわからなければ100回言う。『イチイチ言わされる・・』と思ったら指導は出来ない。ただし、一度で理解してもらえるように工夫するのも必要である。自分以外の優れたコーチなら一度で理解してもらえるかもしれない。


選手の中でたった一人が出来なくてもそれは落ちこぼれではない。
必ず出来る時期は来る。あくまでその過程である。イチローはオリックス時代に2軍を3年経験した。


理解させられなければ知識がないのと同じである。
いくら知識が豊富でも選手が理解できていなければ、それは知識がないのと同じである。コーチなら理解のさせ方、伝え方のスキルを身につけなければならない。


『権力』を持たず『権威』を持つ。
『権力』は会社の社長など給料を払ったり、餌を与えられる者でしか生まれない。よってコーチは権力者ではない。選手に対して『権威』を持つためにはリスペクトされるしか方法はない。そのためには地べたを這いずり回ってでも選手以上に努力をしなければならない。知識だけを振りかざしたりして最初にリスペクトされても、それは一時のものでしかない。


天狗になるくらいの自信過剰な選手を育成する。
選手の自信を失わせる事は簡単である。しかし折っても折ってもへし折れないほどの鼻の高い自信を持たせる選手を育成するのは非常に難しい。そういう選手を育成する事が私の目標である。


聞く耳を持たせる事が最初の仕事。
長年の営業経験から学んだ事だが人間の行動を変えるには、情報収集を行い、興味付けを行い、選択させる。選手の事も知らないで指導は始まらない。そしてこれは勉強を教える場合でも同じ事が言えるが、興味を持たせることが重要である。おもしろいと思わせることが出来れば聞く耳を持たせる事が出来る。営業ではこれで8割成功したと言える。器を作らなければ、耳を傾けさせなければ指導は始まらない。


笛を極力使用しない。
笛で集合させたりするのは簡単である。選手はロボットではなく人間である。笛で反応する選手はゲーム中、コートの中でコーチの声に反応しなくなる。


選手に叱ることは自分も守る。
コーチだからとか大人だからとかの理屈は道徳的に通用しない。規則やルール、法律を教えるならそれでいいが、道徳的な事を教えるのに大人も子供もないし、コーチも選手もない。


一度叱った事は妥協して叱らない事がないようにする。一度も漏らす事無く、必ずその場面、そのタイミングで確実に叱る。
叱る事を面倒くさがってしまったら重要性が伝わらない。叱り漏らしをしてはいけない。その為には見落としも出来ない。


差別しないが、一人一人指導方法を工夫する。
まだリスペクトされていない選手に向かって追い込んだ指導をしても潰れてしまうか反発されるかである。10の事を1言って理解できる選手と、10言って理解できる選手、そして20言っても理解できない選手もいる。同じ1でも方法を変えて伝えるべきである。それでも駄目なら20でも100でも言う。


見捨てない。
当たり前の事だが一人でも見捨てない。いくら努力しても理解できないからと言って辞めさせたり、辛さから逃がしたりしない。ただし他の選手に明らかに悪い影響を与える者は仕方がない。ただその場合もコーチとしての自分の力不足だという事を忘れてはいけない。


指導の内容を残す。
毎回の指導において出来るだけ細かく、どんな指導をしたのか、それにおいてどうなったのかを出来る限り残しておいたほうが良い。私の場合は選手の出欠状況、どれくらいの時間どのドリルを行ったかという事は必ず残している。成果を分析するには必要な時が多い。


計画を立てる。
行き当たりばったりで指導しない。選手と同じく目標を設定したら、どの時期にどこまでのレベルにという前提で時期とドリルの選択を吟味する必要がある。3年の部活動で全てのファンダメンタルを指導するのは環境によってはほぼ不可能。私の経験ではいつも何を削るかと言う事が最大の悩みとなっている。


『選手を使う』とは言わず『起用する』と言う。
メンバーチェンジの際に『選手を使う』と言う言葉遣いは間違っていると思う。選手はコーチの駒ではない。勝つ為にベンチにいる全ての選手の中から適任者を選択して判断するという仕事をしているだけである。使うのではなく、チームの勝利に貢献してもらうために起用するのである。


自責と他責
自分の責任か他人の責任かと言う考え方、思考方法。どんな場合でも全て自分の責任だと考えるところから進歩が始まる。同じ過ちを繰り返さないためには自分が変わらなければ他力本願となる。
そして今行っている行動もそれで良いのか?・・・自問自答する。これが予測の始まりである。



成績が指導者を評価するものではない。
チームの成績が良いから指導者が良い・・・と決めつけてはいないだろうか。決して決めつけられる事ではない。確かに目安にはなるだろうが、学校事情や、環境等も大きく作用するのは間違いない。強いチームばかり渡り歩くコーチがいることも確かである。弱小チームでも優れた指導者は山のようにいる。逆に強いチームでもリスペクト出来ない勘違いしている指導者が多いのも現実である。それらを正しく評価できる業界になればもっと日本のレベルは上がるだろう。



練習は出来るようになるために行う。
『練習は何のためにやるのか?』この質問を何人かの指導者に問いかけてみた。しかし『勝つために。』とか『上達するために。』とか『自信を持つために。』など、うわべの答えが一番に返ってきた。選手はそんなことを考えながら練習に取り組まない。ひたすら出来るようになるために取り組むのだ。ダンクが出来ないのにダンクシュートの練習をするだろうか?
指導者は出来ると思って指導しているはず。しかし選手の大半は出来ないと思って取り組んでいる。指導者もそのうち出来るかもと思って指導していることはないだろうか。毎日練習して2ヵ月後に出来るなら、今日出来ない根拠はない。名プレイヤーやすぐに上達するプレイヤーはここが違うのだ。わかっているようでわかっていない。私はもしこれが理解できれば、『名プレイヤー、名指導者にあらず。』ということは言えないと思っている。



目標を持っていないのに厳しい指導は無理。
モチベーションを上げるには目的を持つことしか方法はない。餌を与えるか目標を持たせるかである。もしこの指導が出来ていないうちに厳しい練習を課しても選手の心が折れるのは当たり前のことである。
そして指導者もこの目標を持つ必要がある。当たり前だが、目標を持っていない指導者も心が折れるのだ。

私の教育論