真田一族の野望 (2)






 珍しいこともあるもんだ、と青学の天才の名を欲しいままにする不二の両方の眼が開かれた。
 部活が終了し、明日は久しぶりの休日だということもあって、菊丸などはさっそくみんなの招集をかけている。 関東大会を目前にした唯一の休日を、思う存分楽しむのだとあちこちに声をかけまくっている。その雑然とした 中で手塚の携帯が続けざまに二度鳴り、何か揉めているかと思ったら、眉目秀麗、質実剛健を地でいく彼の口からため息が漏れた。
 奇特なのと役得なのとで、目ざとい連中は何事かと手塚に擦り寄る。一旦部活を離れると彼は、やたらと周囲から構いたく なるオーラを発する困った人物に成り果てるのだ。
「なんなんスか、部長。ため息なんかついて」
「手塚、困ったことがあれば、まず俺に相談するんだ」
「手塚が大石にプライベートな相談事を持ちかける確立、二十八パーセントというところか」
「微妙な数字だな。今まで持ちかけたことがあったのか?」
「にゃに、にゃに、悩み事? もしかして恋煩いかにゃ?」
「部長に限ってそんなことあるわけない。フシュー」
「部長は恥ずかしがり屋さんなんだから、こんな人の多いところで話してくれるわけないっしょ」
 さあ、こっちへとばかりに唯我独尊の一年レギュラー、手塚の手を引こうとする。それを不二の舜刹笑顔攻撃が扉直前で 制した。
「越前くん、あまりスタンドプレイに走らない方がいいよ」
「ちぇっ」
 一年レギュラーに手を引かれた状態だというのに、当の手塚はまだ茫然自失としている。とにかく椅子に座らせて その訳を問う格好になったが、レギュラー人の総取り囲み状況に漸く自分を取り戻したようだった。
 手塚を見つめる二十四ならぬ十六の瞳。さぁさぁと詰め寄られて説明できる訳がない。というより説明をしたものなら 暴動が起きる可能性だってある。いや、絶対ある。
 桃城や河村に飛び出された日には、自分ような縦に長いだけの体が防波堤になるはずもなく、 乾なら全身全霊をかけて怪しげな飲み物を作成しそうだし、不二に笑顔と嫌味で直談判されたり、いつもお気楽な菊丸が反撃の 名を借りた嫌がらせに集中する と怖いものがある。越前なら確実に相手校に堂々と乗り込んで一騒動起こすだろう。それは瞬く間に学校問題に発展し、下手をすれば大会 の出場停止だってあり得る。
 青学の全国制覇を誰よりも願う男、ここで情に流されるつもりはない。もの凄い決意で彼は黙りこくった。
「大したことはない。ただ、あすが少し気忙しいだけだ」
 つまり、ダブルブッキング。真田と跡部の双方から押し切られ、言いくるめられて、断れなかったなんて口が裂けても言えない。



 翌日、お天道さまがやけに眼に染みる。神奈川と東京の往復。なんで唯一の休日を戦地に赴くような気分で迎えなければならない。 憤りの持って行き場を失って、電車のつり革を持つ手に力が入る。
 午前十一時から真田家ご母堂主催のお茶会。そして午後三時から跡部令夫人主催のパーティー。なぜ、自分んちの部員を呼ばない。 根本的に間違っていると思うが、それをきのうの時点で明言できなかった自分にも非がある。
――母がおまえを名指しでご指名だ。断ろうものなら拉致されるぞ。そうなる前に自分で来い。
――用事があるだぁ。んなもん、断れ。いいか。必ず来い。分かったか。遅れんなよ。
 きのうのやり取りを反芻するだにため息が出る。一つため息を落とすと一つ幸せが逃げてゆくというが、出るものはしょうがない。
――何なんだ、あの男たちは。
 人の予定などお構いなしにズカズカと平気で入り込んでくる。
――大体真田のあの言いようはなんだ。ご母堂を縦にして脅迫してくるとはなってない。まだ自己中全開の跡部の方が 可愛げがある。
 その憤りのわけを理解するには、手塚国光十四才。まだ青かった。



 遠い。実にここまで遠かった。ついでに門から玄関までも嫌になるくらい遠い。
 横浜の市街地にこのような広大な屋敷が存在 していることがすでに犯罪だ。その上、門前にはSPなのか護衛なのかの強面に、頭のてっぺんから足先まで一瞥され、疲れも 相まってあるかなしかの手塚の感情、これ以上下がりようがなかった。
――高校庭球界はいうに及ばず、プロも一目置く自分を呼びつけるなら、自宅前にリムジンでも横付けにしろ!
 普段ならおこるはずのない自制心の乱れ。ついでにここまでの交通費も請求してやろうと確信する。揺るぎなく確固たる手塚の自我。 めったなことで壊れないが、今や風前の灯だ。
 門前チェックを通り抜け、なにやら和服の正装した老若男女の群れに圧倒される。とある高貴な場所で行われる園遊会とは こういう感じなのだろうかと一歩踏み出した。
 こういった場所柄学生服姿の手塚は異分子的に目立つ。一斉に視線を浴びせられたのには辟易した。つい躊躇して立ち止まった 彼の前に、話し込みながら近づいてくる一団があった。銀縁眼鏡をかけた上背のある男を先頭に、忙しそうに打ち合わせをしながら 出かけるといった風情だ。その人物が所在無く立ちすくむ手塚に気づいた。
「君、弦一郎の友達かな?」
「あ、はい」
「もしかして手塚くん?」
「はい」
「そうか。私は弦一郎の一番上の兄です。君のことはヤツからよく聞いているよ。ヤツが相当お世話をかけているようだね。 しかし、想像していてよりずっと魅力的だ」
「そうですか。随分と仲がよいのですね」
 意外だとばかりの手塚の言いように、恭一郎のにこやかな笑みが消えた。
「なるほど。子供だと思っていると痛い目を見る、か。悪かった。少し君の事を調べさせてもらったことがあるから」
「弟さんの友人関係がそれほどご心配ですか?」
「ただの友人なら」
 意味が分からないというふうの手塚に恭一郎はほくそ笑む。その真田兄に傍らの人物が耳打ちをした。
「せっかく出会えたというのに、残念ながら時間がない。弦一郎なら奥の茶室にいると思う。ここまで迎えにこないなんて、 ヤツの気が知れないな。君みたいな子をこんなところで待たせるなんて」
「別にエスコートなしでも歩けますよ」
「そんなことを言ってるんじゃない。ヤツは君を呼びつけたことに、自尊心を満足させているのかと思ったのさ」
「実際満足しているでしょう。俺はのこのこやってきたわけですから」
「この衆目の中を君が弦一郎の下へ向うことに意味があるんだ。おそらく」
 理解不可能と手塚が眉根を寄せるのを一笑して、真田恭一郎は左右を固める人物たちに促され出て行った。不可思議な真田の 兄もやっぱり不可思議だった。なんとなく納得して、手塚は言われたとおりに茶室へと向う。
 いっそこのまま帰ってやろうかとも思ったが、律儀な性格がそれを許さない。帰るなら文句の一言、咬ましてからでも 遅くはないだろう。その律儀さに後々泣く目にあうとは現段階では予想できなかった。



 自宅の庭にあってよいのかの竹林を抜けると、茶室前には真田が腕組みをしたまま睨みつけるように立っていた。 手塚の姿を確認すると、挨拶もなしにただ眉を吊り上げる。この年でこの仕草がこれほど似合う人物を他には知らない。 というよりいないだろう。
「遅いぞ、何をしていた」
 第一声がそれかと、分かりきっていたがため息が出る。
「おまえの兄さんに挨拶をしていた」
「なんだと」
 事実を言ったまでなのに、真田は腕組みを解き、嫌悪感も顕わに手塚に近づく。なぜかその剣幕を恐れて少し後ずさりをした。 それがいけなかったのか、強い力で腕を掴まれる。振り払う術がなかった。
「何を言われた」
「別に、挨拶を」
「あいつがそれで済むはずがない」
「何を言っているのか分からないが、そんなに嫌ならそもそも呼ばなければいいだろう。おまえの家で兄さんに会って、 何の不思議がある」
「出かけると分かっていたから呼んだ」
「兄弟とはみなそんなものなのか?」
 一人っ子の自分には理解できないのかと言う手塚に真田の語気が上がる。
「あんな兄貴がそんじょそこいらに居てたまるか」
 そのとき、茶室の小窓ぴしゃりと開けられたかと思うと、針のような叱責が飛んだ。
「静かにしいや、弦一郎!」