I will lay me down   〜翼を休めて








〜1



 その訪れが余りにも唐突だったから、夢ではないかと疑ったくらいだ。だから夜中に何度も 目が醒めた。そこにある姿を確認し、少し安堵してまた微睡む。繋ぎとめる確かなものなど 何もないからそれは仕方のないことで、それでも手に入れたと、ただそう思った。



 なのに――。



 午後近くになって完全に覚醒した側に手塚の姿はなかった。またやられたかともう一度 褥にうっ伏ぶして、だが微かに聞こえる物音を訝って、真田はベットルームを後にした。
 扉を開けた先、その男はリビングで胡坐をかいたまま背を向け何やら熱心だ。周囲を見渡せば、 片づけをしているのか散らかしているのか分からない状態になっていた。その後ろ姿に多少の安堵を覚えて声をかけた。
「朝っぱらから何をしている」
「おはよう。しかしもう昼だ」
「そんなことを聞いているのではない。朝飯は――」
 と言いかけてキッチンにも目をやる。朝食の支度をした形跡はなく、そこもひっくり返したような有様だ。
「模様替えでもしようという気か? そんなものは後にしろ。さっさと片付けて何か食おう。腹がへった」
「一人で食え」
 振り向きもせず背中越しの言葉だ。真田の眉が微妙に寄るが、何もこんな日に言い争いを する必要はないと、努めて冷静に続けた。
「俺はな、手塚。こんなとっ散らかった部屋で飯を食う猥雑さは持ち合わせていない。さっきから なにをやっているんだ?」
「育ちだけはいいからな」
「どういう意味だ」
 それには答えないで彼は大きめのゴミ袋を指差した。後片付けというよりも、ゴミ出しといった ところだが、おまえ人のうちを勝手に、と詰りかけてその中身が気になった。
 歯ブラシ、コップ、携帯用の化粧品、ヘアピン、マッサージクリーム。ついでに口紅。
 つまり、捨てるのも面倒でそのまま放置しておいた誰かの遺留品だ。
 唖然としたあと、真田はクツクツと哂い出した。らしくもなく可愛らしい真似をするものだと 言ったあと、手塚の背中から抱きしめる。
「突然帰ってきたと思ったらいきなり悋気を起こしたか。お前、何年俺を放っておいたと 思っているんだ。その間に誰と付き合おうが誰と住もうが、とやかく言われる筋合いではないな」
 以前では絶対感じることのなかった優越感に浸りきって真田は、その細い首筋に唇をあてた。 手塚は少し身じろいだだけで無反応だ。気をよくして、リビングの女性雑誌などをゴミ袋に 放り込んでゆく作業を暫く見守っていた。
「気に入らなければ全部捨てろ。足りなければ買い足せばいい。実家に取りに戻る物があれば つきあってやる。彩奈さんにもご無沙汰だからな。ご挨拶に伺おう」
 少し大きめの真田のトレーナーを首筋からずらせば、手塚の肩口にまで行き当たる。そのまま 耳朶のあたりと往復している唇を手塚の手が押し留めた。
「真田、俺はここに住む気はない」
「何だと?」
「同居は、止めよう。お前は現役で俺は引退した身で、それぞれペースが違う。俺も何かを見つけなければならないし」
「ペースが違うなど今更だろうが。以前だってお互い乱すようなことはなかったぞ。仕事を見つけるのなら ここでも出来る。暫く何も考えずにのんびりするのもいいだろう。お前は俺の元に帰ってきたのではなかった のか?」
「帰って来たというのは少し、違う」
「ではなぜ来た」
「お前に会いたいと思ったから――」
 たどたどしくも直球できた。ガツンと一発喰らって脳震盪を起こしかけたが、相手はそんな 効果を与えたなど毛ほども感じていない。珍しくも素直だがどこかひん曲がっている。
 会いたかったが一緒に住むのは嫌で、おまけに冷静に真田の過去の痕跡を消そうとする 行動が理解できない。そこは惚れた弱み。ぐっと堪えて真田は問うた。
「では聞くが、お前がいまやっていることは何だ?」
「片付け」
「ただの片付けではないな。洗面所で見知らぬ歯ブラシを見つけた。イラだった。捨てようと 思った。それは立派なヤキモチではないのか?」
「風景が変わると落ち着かない」
「叙情的な物言いで誤魔化すな。お前が俺に執着してくれるなど高笑いしたいくらいだ。 嫌なら変えればいい。好きにさせてやる。しかし気に入らないと引っ掻き回した挙句、一緒に 住まないとはどういう了見だ」
「たまに来ることもあるだろうと思ったから。だがお前の言い分は尤もだ。元に戻す」
「戻すな!」
 彩奈さん、済まないがこのバカ殴ってもいいだろうかと拳が戦慄いた。そうか、と立ち上がり、 ゴミ袋を引きずって捨てに行こうとする手塚の背に、真田はさらに罵声を浴びせた。
「ここのゴミは分別が厳しいんだ!」



「で? あの手塚さんが燃えるゴミと燃えないゴミに分けて捨てに行ったんスか?  見たかったな。そんな姿。でも、そこに拘る副部長も相当だし、律儀言うこと聞くアノ人にも泣けてくるよな」
 ひとしきり腹を抱えて笑ったあと、切原は涙目のまま聞いてきた。それには答えないでお代わりとばかりに マグカップを突き出す。勝手知ったるキッチンで、コーヒーを注いで切原は戻ってきた。
「手塚さん、テニス辞めたらどうなるのかな? テニス馬鹿ってのとはニュアンスが違うけど、テニス 以外は何の関心も興味もする気もなさそうじゃない。一般人としてちゃんと生活していけるのか 心配になっちゃいますよ」
「それで手塚は何処へ行ったんだ?」
「知らん」
 いつだって無表情な柳の口元も心なしか緩んでいた。
「今後のことは何の話し合いもナシか」
「きのうのきょうだからな」
「副部長も苦労が尽きないッスね。あの人のペースはある意味凶暴だよ。平常でいられるには相当の鍛錬を要するってね」
「慣らされた」
「へへ。天下の真田弦一郎がヤニ下がっちゃって、カッコ悪いったらないよな」
「きょうばかりはどんなに罵倒しようが許してくれるんじゃないかな? 日頃の意趣返しならいまのうちだぞ、赤也」
「あぁ〜。くそぉ! いざってときに思いつかないや!」
 大げさに頭をかきむしる後輩にフンと鼻白んだ。
「貴様らの目は節穴か? これのどこが機嫌がいいんだ」
 短い付き合いではないよ、と柳。嬉しくって小躍りしてそうじゃないですかと、切原からさらに畳み掛けられて、 真田は顔を背けた。



 きのうの試合終了後に、観戦に来てくれた両親と祖父には挨拶したきりで、堂々の朝帰りとなったひとり息子に 母は何も言わずに日本茶を出して迎えてくれた。
 お疲れさまと涙ぐんだのはきのうのロッカールーム。呆然としまま涙さえでてこない息子に代わって泣いてくれた。 よかったね。でも痛かったでしょ、と左腕に添えられた温かさを忘れないと思う。
 いろいろなものを代価としてテニスに捧げ、何を得たかったのかと問われてもあの優勝杯はただの結果だと はっきりと言える。
 悔しくて泣くことも、嬉しいと喜ぶこともほとんどなかった。欲しかった結果に喜べないで、一体この二十年近く 何を目指してきたのか分からないなと苦笑が洩れた。
 けして器用ではないから。一つのことにしか集中できないから、テニスしかいらないと寄せられた思いを斬り捨て、 世俗を断ち切ったような生活を己に強い、手に入れた多大な評価。それまでの過酷な道程。勝ちたいと渇望 した瞬間の積み重ね。その総てがいまは何も残っていない気がする。
 後悔とは別の不燃焼感。限界は悟るのではなく自分で決めたときに発生する。
 まだ戦い足りないと心のどこかが飢えているのかも知れない。
 泣けない訳。実感の沸かない理由がもどかしくもあった。
 日差しの柔らかい縁側で、いつからか家族が飼いだした猫を 膝に乗せて自嘲気味の手塚に、お客さまよと母が案内してきたのは、紛れもなく前を突き進む現役テニスプレーヤーだった。
「何呆けてんスか、部長」
 日向に愛されたかのように庭先に突っ立った青年が眩しくて、手塚は少し視線を逸らせた。




continue