I will lay me down   〜翼を休めて








〜2



「約束。覚えてますよね」
 と、リョーマは開口一番そう告げた。
 もちろん忘れてはいない。約束というよりもただ一度の懇願だ。テニスしか欲しくないと置き去りに した欠片が、そんなエゴを分かって欲しいと微かに繋ぎ止めた自分の弱さがもう一つ、陽の光を 浴びて立っていた。



「俺も辛抱強くなったもんだよ」
 そう言ってリョーマは手塚の横に腰掛け、その膝の上にある猫を貰い受けた。喉の辺りをゴロゴロと 鳴らして、構えとねだる猫の思い通りにリョーマはその背を撫でてやっている。
「ところで、晴れて現役を引退した気分ってどう? 嬉しい? 寂しい? 虚しい? 虚しくはないか。あんたの場合最高の 引き際だったもんね」
「よく分からない。総て当てはまるとも言える」
「ふうん。そんなもんなんだ。で、これからどうするんですか? 色々と去就が取り沙汰されてるけど。 公私ともにね」
「何も考えられない」
「だろうね。別に俺も答えが聞きたかった訳じゃないんスよ。会いたかったからさ。どんな顔してるかなって 思って」



 あんたは俺の指針そのものだったから。



 もし自分のテニス人生の中で人に誇れるものと問われて真っ先に浮かぶのは、部長と呼ばれたあの頃に、 過去の柵を破ってこの後輩をほんの少し早く引き上げられたことだと思う。並みいる強豪校の名だたる選手しか 見ていなかった自分が、部長としての立場を思い知らされた瞬間でもあった。
 目標は全国覇者立海大附属。それを目指してチームの底上げをしなければならない。そのためには チームメイトの面倒も見る。一人一人の克服点を模索する。彼一人が強くても団体戦は大目に見てはくれない。
 気を回す気質でもなかったから、部内の出来事に関しては大石の方が詳しかった筈だ。それで いいと思った。帆先のように常に前を向いたまま指し示せば、部員はついてくるだろうと。
 その勝手な認識を小柄だったこの男が打ち破った。
 破らされた。
 自然と目が部内に向けられ、リョーマの熱に煽られた。
「俺初めてあんたのプレイを見たとき、この人ほんとにテニス好きなのかなって思ったよ。あんまし楽しそう でもなかったし。一方的で向い合うんじゃなくって、背中にボール返してるみたいな感じでさ。 レベルが違い過ぎたってのもあるんだろうけど、冷や汗かいて見てた覚えがある。でも、あんたみたいに なりたいとは思わなかった」
「随分な言われようだな。指針なんじゃなかったのか」
「うん。対戦して初めて分かったんだ。あんたも当たり前に発展途上で、俺みたいに瞬間湯沸し器じゃない 分、熱するのが遅いだけなんだってね。そう思って見てたらさ、笑っちゃうくらい不器用なあんたの連発で、 何なのこの人って腹抱えた次の瞬間には惚れてたよ」
「お前、俺を馬鹿にしてるのか?」
「うん。半分ね。でもさ、あんなに人が可愛いって思ったことってこれからもないよ。奇特だよね」
「新入部員に可愛いと褒められて喜ぶ部長がどこの世界にいるんだ」
 リョーマは慈しむように膝の上の猫の背をゆっくりと撫でた。まるで身代わりにといった感じで。
「俺以上に強くて、不器用で、頑固で、変なことだけピュアで。最初は何だろ。苦手だったあんたのテニスに 惚れて、あんたに惚れて、またあんたのテニスが好きになって、後姿ばかり見せられて。いつだって 隣にはあのデカイ人がいて。あんたにとって俺は後輩でしかなくって。それでも捕まえたくって手を伸ばして。 どうしたって手に入んなくて。で、そのまま消えちゃうんだもんな。ズルイよ」



 ニャァと小さく声を上げてリョーマの膝の上から猫が逃げ出した。一度庭木の中に隠れ、気紛れなその小動物 は、木伝いに塀を登りぷいとどこかへと姿を消した。それを二人して見守った。
「試合が終わって真っ先に会いたかったのって、アイツだったの?」
 それには沈黙しか落とせなかった。
「正直な人だよ」
 少し不機嫌そうだったリョーマの目が幾分大人びて丸められた。そこにはもう頑是ない後輩の色はない。 自分よりもいっそうさっぱりとしていると手塚は思った。
「前が見通しいいのってあまり気持のいいもんじゃないね。どっち向いていいのか迷子になる。 よくもまぁ、長い間こんなポジションにいたもんだって関心してる」
 手塚さん――と、リョーマは横にある手塚の頭をかき抱くように引き寄せた。
「そんな無防備な顔を晒されると襲いたくなる。それってつけ込む隙を与えてんだよ。もっと自覚しな」
「俺のことを隙だらけだと言うのはお前たちくらいだ」
 リョーマは小さく笑った。
「寂しいならそう言って泣きゃいいのに。どうしていいのか分からないって顔するからこっちまで刹那くなる」
「言っただろ。実感がないって」
「実感はある筈だよ。あまりにたくさんの思いが圧し掛かってくるもんだから、対応しきれないで拒絶 してるだけでさ。世話の焼ける人だよ、まったく。何なら俺が泣かせてやろうか? 真田さんにだって泣かされた ことないでショ」
「意味が分からん」
「好きとかアイシテルとかは何度も言ったな。あんたが部長でよかったってのも言ったっけ? 俺にしときなよ。 俺の方がテクあるし優しいし。I Will Lay Me Down。俺があんたを支えよう。クサい?」
「多少、な」
 じゃあ、こういうのどう? と言ってからリョーマは手塚の耳元に唇を寄せた。
「ありがとう」



 その後ニッコリと満足そうに笑ったリョーマを見送った。気がつけば、陽の翳りの早い初秋の庭先は思った よりも冷えてきて、両腕を抱くような格好で、手塚は立ち上がった。
 ザワッと身が震えた。右手で左の肘を捕まえる。そこに鼓動が集中するかのようだった。
 縁側に背を向けて一度振り返る。範囲を小さくしてゆく日向に目を奪われ、ドクンと何かが湧き上がった。
 この手には何も残さないだろうと思う。
 綺麗さっぱり跡形もなく。
 自分の中のテニスとは一線で戦い続けることだけ。もう二度とラケットは握らない。それはどこかで 確信していた。レッスンプロになるつもりも、遊びで続ける気も毛頭ない。総てが無理なら何も欲しくない。
 ただ、そう言い切り切り捨てるには、大きすぎる痛みと等価の小さな喜び。
 彼らとの出会い。
 差し出されるその手を振り解きながらも、繋ぎとめておきたかったのはきっと自分の方だ。
 忘れてくれとは言えなかった。むしろ総てを見届けて欲しいと叫んだくらいだ。俺の総てを目に焼き付けて、 けして忘れないでくれと。
 それは叶ったのだろうか。
 出会い。惹かれて遠ざけまた引き寄せられる。何度もすれ違い、その都度迷い、流されて踏みとどまって。 そんな不実な自分に対して「ありがとう」は過分な言葉だ。
――いち度も声に出したことはないけれど、感謝するのは俺の方だよ、越前。
 そう言ってもう一度ドクンと何かが溢れた。
 肩が震えた。
 熱い。弾けそうなくらい。
――本当は痛かったんだ。お前たちが見てるから言えなかったけれど。何度もラケットを取り落として、また 拾って、少しずつ前に進めたのは俺一人の力じゃない。
「真田」
 声に出してみた。
――お前は前に進め、越前と共に。俺を置き去りにして。見守れると思う。たぶん、お前がしてくれたように。 これからずっと。
 でも、リョーマに泣かされたと知ると、ヤツは一体どんな顔をするだろう。
 へたり込んで、襖に体を預け、暫くその感覚を楽しむ手塚の横顔を、翳る陽が照らしてくれた。




end








43210hitsを踏んで頂いたしゅう子さまに捧げます。
お題はほんとにありがたいことに「少年の孵化する音〜OPEN YOUR ARMS」シリーズの続きを頂戴しました。
読み返せば、確かにリョマくん書き忘れてましたよね(笑)
今回とっても手塚を泣かせたかったんですよ。
かなり昔、これで負けたら引退って試合の途中で泣き出して、先生にエライ怒られたことあったな、なんて思い出して。 流石に手塚はそんなお馬鹿なことしないですけど、綺麗に泣かせたいと思ったんだけど、とり止めのないわ〜。 しゅう子さまこんな話でごめんなさい。(ペコリ)