少年の

孵化する







 パタンと乾いた音を立てて病室のドアは閉じられた。
「ちくしょう!」
 リョーマはうつ伏せになり頭から上掛けを被って吐き捨てた。
 割り込むような真似はするな、とばかりの真田の態度に 苛立ちが募る。元々手塚さんはオレのものだったんだと一人ごちた。
 頭が固いだけの優等生かと思えば、部創立以来の伝統 を綺麗に打ち砕き高みへと引き上げてくれた人。
 左肘に爆弾を抱えながら、リョーマの冷えた闘志に指針を灯してくれた人。
 激痛に苛まれながら勝負への執念を体現してくれた人。
 引き寄せられ、目で追い、いつしか他の誰も 見れなくなった。心を占拠された。何よりも手塚の目の前で無様な真似はしないと誓った。
 リョーマが手塚と一緒に戦った最初の半年間、押しなべて公平で青学のためだけを思い、人にも自分にも厳しかった 部長が、存外利己的な部分を持ち合わせているとすぐに知れた。無敗を誇っていた彼の負け試合によって。
 彼が「青学」という看板を支え、『俺たちが』と一括りにするのは、きっと勝負のためなら団体戦の意義を捨ててしまう 自分の直情さへの戒めだったのでないかとさえ思った。
 冷静に見えて勝つことへの執念と無謀さに呆れながらも瞬時に惹かれた。それ以前に行われた試合によってリョーマが 一方的に打ち砕かれたときには、手塚よりも強くなりたいと願い、しかし氷帝戦では彼が発した高い熱度に煽られて気がついた 時には気持が前のめりになっていた。
 落ちるとはよく言ったものだ。最初に彼を越えたいと希い、次には欲しいと渇望してもすでに手塚には真田がいた。 あの時ほど二年の年齢差を恨んだことはない。
 無茶ばかりすると手塚はよく言う。リョーマにすればあんたにだけは言われたくないだ。手塚の方こそいつも崖っぷちじゃないかと 言った覚えがある。当の手塚は、まったく 無自覚なのだろう。追い詰めていることにも無頓着な人だ。
 それを支えているあの存在。
 広い懐で何もかも丸抱えで全身で見守って。でも――。
「風切り羽をもいでどうすんだよ」



 病室のドアを閉めると、手塚の背から音をたてて離れた真田の手。ふと、背中の一点のみに感覚が集中する。 一歩踏み出した足が凍り付いた。
 それは常に彼の背中にあったもの。強く温かく心のすぐ傍にあって当然と思い込んできたこの何年間。前へ前へと 押し出してくれた大きな真田の象徴。それが――ただそれだけの行為で何かが瓦解する。
 耳の奥で脈打つ鼓動。手を離した真田が手塚の前に出る。縫いとめられた彼を置いて距離が出はじめた。 その手が遠のく予感に苛まれながらも次の言葉が出てこない。
 呆れられて当然のことをした。それは今回だけではないとの自覚はある。鷹揚とはお世辞にも呼べない真田が 心穏やかでいられないのは十分承知していたし、その度に要求される強い結びつきで許容されたと思っていたのかも 知れない。しかしそれでは一緒にいるのは贖罪のためか。リョーマが言い放った防御壁という喩え以上に空虚なの ではないだろうか。そう感じるともう一歩も動けない。
 自分が思った以上の距離を感じて漸く真田が振り返った。ゆっくりと。ほんとうに緩やかに。そんなふうに向けられた 表情は真田であって、真田でないもの。手塚の知らない彼がそこにいた。そして紡がれる残酷なほど静謐な言葉。
「体を厭えよ」
 そう言い残し、もう彼は振り向かない。
 それでも何の言葉も出なかった訳は喉がひり付いて仕方なかったからだ。それでも一歩も進めなかった訳は――。
 もう届かない。



 何の抵抗なく回るドアのノブに柳は正直驚愕した。
 開かれた室内からは灯り一つなく、家電が僅かに上げるモーター音 のみがほんの少しの救いだと感じる程の静寂さだった。
 居るのは分かっているとばかりに声をかけた。予想に違わず 返事はない。やれやれと肩を竦めて彼はリビングへと進んだ。
「電気も点けないで何やってるんだ」
 聞こえているのかいないのか、ソファで横たわったままの真田が少し身じろぎする。突然灯された照明の眩しさに 呻いて、手で覆うその仕草は泣いているのかとさえ思えた。ここまで憔悴し切っているとは、柳をここに遣わした男も 思っていないだろう。
 少し気持のすれ違いがあって、と彼は途切れ途切れに呟いた。なるほどこれは大変なすれ違いだが、ここでいらない お節介をやく程お人よしに出来ていない。だが一応頼まれ事は律儀にこなすか、と寝そべったままの真田に近づいた。
「支度しろよ。飯食いに行こう。来てやったんだから当然おまえの奢りな」
「どこなと行って好きなだけ食ってこい。俺は行かん」
「冗談じゃないよ。らしくもない。こんな薄暗い部屋に閉じこもって、しょげ込む練習でもしたいのか。おまえは、このまま 終わってしまうなんて一片たりとも信じちゃいないだろうが。ドンと構えてここで待っていればいい」
「手塚は帰って来ない」
「言い切るじゃないか。諦めの早いことだな」
 真田は緩慢な動作で横たえていた体を起こした。そのままキッチンへと進み、冷蔵庫からミネラルウォーター取り出して あびるような勢いで流し込んだ。飢えていた喉が何度も上下する。水分を取ることすら忘れていたのかと、その昏い瞳から 目を背けたくなる。
「弦一郎……」
 例えその存在をかけるような試合で大敗したとしても、ここまで沈み込む様は見られないだろう。強靭な精神力で 乗り越え明日への糧とできるだけの男だ。
 しかし人と人の関わりに敗因など存在しない。精神力など介在できる 範疇ではないのだから。
 この様を彼に見せてやりたいと思った。真田をここまで追い詰めることの出来る唯一の存在に。あの鉄面皮が揺れる瞬間を 拝みたいとさえ思った。しかしそれは今、目の前に居る男が許さない。
 呆然と立ち尽くす柳に真田の自嘲ぎみの笑みが返った。
「おまえも大概無粋なヤツだな。俺は別にこの状況に酔いしれている訳ではない。明日に己を取り戻すには今は深く沈み 込む。年がら年中俺があの調子だとでも思ったか。俺だって木石で出来ていない。誰に言われて来たかは想像できるが、 それをわざわざ――。来なければ見せることもなかったろう」
 無粋だとはそういう意味だと言い、ペットボトルを冷蔵庫へと直した。そのままリビングを出て洗面所へと向う。
「まぁ折角の好意だ。有難く受け取ろう。支度をする。待っていてくれ」
「なるほど。それは悪いことをした。真田弦一郎消沈の図。末代まで語ってやるよ。取り合えず赤也のヤツに報告だな」
 ふんと吐き捨てる真田の背中に少し安堵した柳が続けた。
「昔っからおまえ程往生際の悪いヤツはなかったよな。そう簡単に諦めるなら最初から執着などしない」
 そうだろうと問いかける柳に背を向けた真田がピタリと立ち止まった。ほんの刹那、肩が揺れたと感じたあと、
「あれは、もう開放した方がいいのかも知れん」
 やけにさっぱりとした言い方だった。



 年に一度の誕生日。
 念願が叶い歓喜したかと思えばこの有様。日頃の行いがそれ程悪かったのかと考え付く 限りで詫びを入れるが、それも次第に飽きてきた。
 検査責めに合い結果がでるまで缶詰にされるかと思うと、脱走の 一つでもかましたくなる。コーチにはそれ見たことかと責められ、家族には呆れられ誰もリョーマの気持など汲んで くれない。別にそれが辛い訳ではないが、誕生日に病院ではいくらポジティブなリョーマでも、どこまでも発想が 沈み込む。たまにはそんな自分に付き合うのも悪くないかな、とさえ思った。
 消灯時間もとうに過ぎ、開け放たれた窓の外がやけに白いと思えば雪だった。大昔ならいざ知らず今は相当量の 不純物を含み、穢れなき聖なる象徴でもないだろうが、それでも醜い何かを静かに覆い隠す。穏やかに深々と。
 つとベットから半身を起こし、窓にかけたリョーマの手がそのままへばり付いた。
 なぜと問う前に病室を飛び出していた。
 早鐘のように脈打つ心音は耳のすぐ隣にある。
 足が縺れ階段を三段で抜き、 非常口へと迷いもせずたどり着けた事に感心する余裕もあった筈なのに、上に羽織るもの一つない姿に舌打ちした。
「手塚さん!」
 何時から居たのか。なぜ居たのか。こんな夜更けに。雪に降られて。冷えて昏い瞳のままで。
 強引に引き寄せ抱きとめて 購わない繊細な体に自分の熱を分け与える。それでも芯から冷え切った彼の体に温もりが灯ることはなかった。
「何考えてるんだよ。こんなになっちゃって! 風邪でも引いたらどうするんだ。何時から居たの? どうして……」
 越前、とリョーマの肩辺りにある手塚の唇から途切れがちの言葉が紡がれた。
――誕生日おめでとう、と。
 ただそれだけの為に。そう思うと心が震えた。一番欲しかった人からの一番の言葉。だが、冷えた体ごと伝わる冷え切った 心のままでは歓喜と共に畏怖さえ沸き起こる。
 愛情からだろう。その行動の一端にあるのは自分への愛情からだと信じたい。 けれど、その拠りどころの不確かさを腕の中に繋ぎとめた体が伝えてくる。あまりにも遠い。遠い存在。
「おまえには感謝している」
「感謝って、何さ」
 こんな場面でお礼を言われて喜ぶヤツがいたらお目にかかりたい。そう告げるとクスリと笑いリョーマの腕を押しのける。 思ったよりも強い力で。それは拒否の意思表示。
「手塚さん……」
「自分のキャパシティーがこれほど狭量だったと今回初めて知った。俺はおまえや真田とは違って、総てを抱え込むような 器用な真似は出来ない。テニスで一杯にすると他は見れない。もういらない。テニスしか欲しくない。そんな俺を おまえたちは許さないと思う」
 肩に落ちる雪。積もる前に溶けてゆく。漸く灯った彼の熱によって。
「俺は今まで以上にエゴイストになる。欲しいものを手に入れるためには容赦なく斬り捨てる。でもそれは必要ない という意味ではないことを知っていて欲しい。我侭は承知だ。けれどおまえと真田には知っていて欲しかった」
 今は好きにさせてくれと、彼は離れていく。
 随分身勝手な、そして双方にとっても到底納得のできるものではなかったし、 惚れた弱みに付け込まれたと分かってはいる。だがあと何年、自分たちがラケットを握れなくなるまで、お互い前だけを 見て突っ走りたいと彼は切望した。おそらく三人の中で一番選手生命が短いのが手塚だろう。何年、あと何年と 先を数えることなく一瞬を生きると選んだ。そして置き去りにする欠片。封じる残片。手塚は、いっそ汚したくなる程 綺麗に笑って離れていった。
「手塚さん!」
 リョーマは声の限り叫んだ。
「あんた倒すから! オレが倒すから! あんたはオレのもんだかんな! 覚えてろ!」
 遠ざかる。雪煙に見えなくなる。ふと振り向いた笑顔がはにかんだ。
 ヤなヤツ。吐き捨ててリョーマも踵を返した。
 二人の間に雪は降り続ける。深く、静かに、深々と。