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左利きの手塚相手に右でクイックサーブを打つ必要はない。
その分右より威力もカーブも増すが、手塚は顔面を襲う
そのコースを瞬時に読んで、跳ね上がり切らない高さで叩いて相手コートに返した。心底嬉しそうにリョーマのストロークも
冴える。
お互い癖も決め技も知り尽くした相手。幾度もの試合を常に間近で見続けた相手。
しかし二人が実際同じコート
に立ったのは数える程しかなかった。特に手塚の不調が伝えられてからは皆無だ。それでも互いがどれほどこの対決を
渇望していたか、返るボールを受け止める度に強く思う。
同じオールラウンダーとはいっても性質がそれに現れているのは
明白で、リョーマの意表をつくスタイルとテニス教本どおりの正確さを武器とする手塚とでは、どちらかに優劣をつけるのは
結果次第のみと言えた。
「ほらね。あんただってオレと打ち合いたかったんでしょ。生き生きしてる。あんたにはオレが必要なんだよ」
揶揄った後の一瞬の躊躇。左を抜いてオンライン入れられたボールを目で追って、リョーマは高い口笛を吹く。
意図は顕わな決定打。ニコリともせず手塚は言い放った。
「ゲーム中に何に気を取られている。そんな余裕はない筈だが」
「仰るとおり」
皮肉な笑顔はそのまま。しかし次の瞬間――
リョーマの上げたトスのボールが彼の足元に点々と転がった。
続いて手から
零れるラケット。苦痛に歪んだリョーマの顔を確認できたのはその後だった。
手塚はネットを飛び越えてリョーマの元へ駆け寄った。
「越前!」
「っ、ってぇ」
前のめりになったリョーマの背に手を添える。噴出しているのは信じられないくらいの冷たい汗。ガクガクと細かい
痙攣を起こしているリョーマを抱き起こすと、
「へへっ。役得!」
ヘラリと笑って手塚の首に抱きつき軽く唇を寄せられた。おまえいい加減にしろ、と突き放そうとしたその体がもう一度
大きく震えた。
「やば、なんか、変……」
「越前!」
そのままリョーマの意識は遠のいていった。
大急ぎで救急車を呼び搬送された病院の一室。わずかに開いたカーテンの隙間から西陽が長く伸びている。
ベットに近づいて覗き込むと、点滴を受けるリョーマの
顔に少しずつ色が戻ってきているのが確認できた。
疲労による一時的な筋肉の収縮。安静にして検査項目さえクリアすれば、すぐに退院は可能だと医者は言った。しかし
それが不随意筋にまで影響を及ぼしたらしいから、その疲労の度合いが知れようというものだ。
「おまえは無茶ばかりする」
リョーマの家族とコーチの双方に連絡を取り、誰かが駆けつけるまで自分が付き添うからと申し出た。リョーマから
の希望で行われた試合とはいえ、その行動の一端が自分にあるから責任がないわけではない。そう律儀に
告げると対応に出た父親の南次郎は、ヤツも本望だろうと豪快に笑った。
『あんまり早くに行くとリョーマに恨まれそうだな。一晩付き添った貰えるとアイツも大喜びだろうよ、って冗談だよ。
冗談。真に受けられると叔父さん困っちゃう』
南次郎は相変わらずだった。
手塚のため息がつい重くなる。リョーマがベットに横たわる姿なんて想像できなかった。
屈み込んで、リョーマの規則正しい
呼吸と顔色をもう一度確かめて少し安堵する。そのままベットサイドの椅子に腰掛けて自分の利き手を握り締めた。
雌雄を決することなく閉じられた試合。ラケット越しに伝わる熱く激しい想いはリョーマだったからだろうか。それとも
自分の中で何かが変わったのだろうか。
特に際立ってリョーマが強い対戦相手だったというのではない。
自分だって世界を向こうに張ったテニスプレーヤー。世界ランクの上位との対戦だってある。
なす術なく矜持を叩き折られた
経験も、逆に上位ランカーを完膚無きまでに粉砕した事だってある。そんな相手とでは感じなかった何か。関わりや因縁
が深いだけの理由ではないと、ただ思える。
自分の掌をじっと見ていた視界の端に当然のように伸びてくるリョーマの手。掴まれて視線を上げると、しきりに目を
瞬かせる越前の大きな瞳がそこにあった。覚醒し切れないのか霞がかった視線を送ってくる。
「ここ、どこ? なんで寝てんの」
試合中に倒れたと答えると、信じらんないと髪の毛をかきむしった。点滴が外れるからとその手を押さえる。
「過労だそうだ。いいか、過労だぞ。人のことをとやかく言えた義理か。大会を前に自分の欲求を優先させて
その様はなんだ。トッププロのすることではないだろう」
つい口調が部長のそれになっているのを嗜めるようにリョーマが柔らかく笑う。
「久し振りに部長節が聞けて、嬉しいと思ってるオレって自虐趣味があんのかな」
「変態の域に入ってないか」
「酷い言い草」
リョーマは掴んだままの手塚の手首を思い切り引き寄せて、自分の胸元へと倒れこませる。空いた手をベット横に
付いて抱きとめられるのだけはなんとか耐えた。
微かな抵抗にリョーマはもう片方の手で手塚の柔らかな髪を撫で、、
じっと瞳を覗き込んでくる。その不安定な姿勢のまま手塚は静かに問うた。
「俺の私生活にまで口を挟んでその結果がこれか。結局おまえも俺のことをプレーヤーとしてだけでは見てくれない
んだな」
「そんなのがあんたの望みなの? 人としてのあんたに惚れてなぜ悪いのさ」
「先ほどおまえは虫が良すぎるとか言わなかったか。言った口からその一端を噛んでどうする。真田と別れておまえと
付き合ったとしよう。おまえなら何を与えてくれると言うんだ」
「何も。ただ平行して走り続ける。動けなくなるまで」
真田は、と言いかけた言葉は発せられることなくリョーマの唇に飲み込まれた。少しの油断すらそれを見逃す後輩では
なかったと今更ながら実感した。長い口付けから開放されて少し肩で息をつく。
「真田さんの懐のでかさは認めるよ。安心を与えてくれるんだろ。でも研ぎ澄まされていた筈のあんたが、みるみる内に
角がなくなっていった。それっていいことなんスか。野生の豹が飼いならされて人に懐く姿なんか見たくない。安定なんて
引退してから貰ったって十分じゃん」
「それでは俺たちが引退するまでの関係ってことか」
「ご冗談を。その頃にはオレだって今の真田さん以上に懐のデカイ人間に成長してるッス。だから永遠にオレのもの」
今一度強い力で抱きすくめられ、抵抗するも何の役にも立たず唇が重なり合うその時――突然病室のドアが開けられた。
手塚はリョーマに絡め取られた状態のまま振り向く。
痛いと思った。こんな場面を見られたことより、こんな状況に追い詰めたことをただ、痛いと。
それはどちらに対しても。
なぜおまえが居る、と問えたのは暫くたってからだった。
「コートでぶっ倒れたと聞いたが異様に元気そうだな」
腕組みをしたまま戸口で立ち竦む真田。音を立てたように眉は跳ね上がり殺気に似たオーラを全身に纏っていた。
そんな剣呑な雰囲気に引けを取るようなリョーマではない。いかにも可笑しいそうに笑うと、よい機会だとばかりに挑戦的
に言い放つ。
「まあね。付添い人が極上だから回復も早かったッス。でもさノックくらいしてよ。人様に見せられないような
状況だったらどうするんスか」
「何度もした。聞こえなかったのか」
「あぁ。じゃ、さっき濃厚なキスしてた時だな。意識は忘却の彼方ってヤツ」
そんな挑発など肩ですかして真田は手塚に視線を戻す。怒りではなく何か別の感情が侵食しているそれを認めて、リョーマに
手を離すように告げた。
「ヤだね。折角優越感に浸ってるのに」
「真田は俺に話があって来た。このままじゃ聞けない。おまえはただの駄々っ子に成り下がったのか」
年下扱いされることを異様に嫌がる後輩の泣き所を擽って、渋々離された手からすり抜けた手塚はなぜここが分かったのか
と真田に尋ねた。
「越前のコーチからおまえへのコーチへ連絡がいった。病院に詰めているらしいからと。すぐにトレーナーの所へ向かう
ようにとのきついお達しだ。越前との試合を許可する交換条件だったのだろう。別に付き添いがいる程重病人には見えん。
さっさと行って来い」
「わざわざすまない」
「病院では携帯は使えんからな。まるで子供の使いだ」
真田弦一郎ともあろう者がと自虐的に嗤い、何なら手塚の代わりに俺が付き添ってやろうかとの申し出に、リョーマは
大ウケする。
「精神衛生上よくないから、謹んでご辞退申し上げマス」
お互いになと言いながら手塚を促して病室から立ち去ろうとした彼らに、リョーマの科白が突き刺さった。
「ねぇ手塚さん。オレ、あんたがなぜ真田さんと一緒にいるのか分かった気がする。一種の防護壁なんじゃないッスか。
それも特別高くて頑丈な。真田さんだとあの不二センパイだって無闇に近づけない。割り込めない。あんたの気持を
掻き乱されなくって済むからね。その分テニスに打ち込めるんでショ。きっと考えたっていうより無意識でそれを
選んだ気がするけど、いい選択だったんじゃない。でもそれも必要ないよ。オレがいるから」
二人ともリョーマに背を向けたまま押し黙った。
違うと告げる言葉が出てこない。そうかも知れないという内なる
声すら聞こえる。
それでも背に添えられた真田の手に力が込められるのを感じない訳にはいかなかった。
病室を出た
時には、喉の奥が痛む程乾いていたことに気づく手塚だった。
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