少年の

孵化する







 どこかでぴちゃりと水音がする。
 ダウンライトの明かりが開け放たれた扉の隙間からリビングへと逃げ、鈍色の光の帯が伸びて反射し屈折して、 壁に波の文様を浮かび上がらせていた。
 それを水音と知覚したのか、少し息を継ぎ、相手の首元に縋っていた手を緩めてその 在りかを探った。少しの隙間がやけに寒く感じられ、どれほど互いが密着していたのかが知れる。
 手塚は軽い眩暈を感じ、両手を 突っぱねて彼の体から離れようとするが、 そのわずかな休息すら真田は許さない。
 かえって片手で支えられた細腰を引き寄せられ、圧迫感が増す。わずかに上がった悲鳴ごとおりて 来た唇に飲み込まれて、 息苦しさからあふれ出す涙が止まらない。それすら承知と受け止めて、真田は目尻に唇を寄せてきた。
 目尻からこめかみへと何度かそれは往復し、厭々をするように頭を振る動きすら、相手の存在を深く感じる 痴態の一つに 過ぎないと分かっている。それでも真田の唇から逃れようとする彼の汗ばむ額に優しく手がかけられた。
 深く息を一つ ついて、きつく閉じていた彼の瞳が朧に開かれる。
 ぼやける視界の先にある真田より、そのずっと後方の文様がまた目に入った。
 何かの媒体がなければ姿を現すとこのないそれが、まるで自分のようだと思った。
 ぼんやりとそう感じた。
 強い動きで視界がぶれるのが堪らなく辛い。
 また閉じられた瞳に真田が何か呟いた後そのまま唇は耳元へ。何か睦言を囁かれたが途切れる意識の下、 それを理解することは叶わなかった。



 翌朝、目覚めると必ず触れるベットの窓際の定位置に、僅かな窪みを残して手塚は消えていた。
 期限があってないような別離に、身を切られるように執拗に手塚を追い詰めたのは自分の方だ。
 お互い寝入ったのは明け方 近くだったというのに、この引き際の潔さ。しかし泥のように疲れきった体を叱責しつつ、彼が身づくろいをしている 姿には少し同情してしまう。もう少し痛めつけておけばよかったかなとも思うが、こうと決めたらたとえ一睡もしていなくても 彼は出て行くだろう。
「まさかこのまま別れるつもりではないだろうな」
 そのあまりのあっけなさにそう愚痴りたくもなるが、律儀すぎる男がなし崩しに立ち去るとこはけしてないと言い切れる。 かえって面と向って挨拶される方が不帰を約束した気になるものだから、敢えて無理をして彼が寝入っている間に 出て行ったのだろう。
 しかし――。
 やろうと思えばこんなふうに跡形もなく消えてゆくのだという寂寞感は否めない。
 昨日手に入れていた温もりはもうない。ただ、その感覚をわずかに残しているのみで。



 重い体に鞭を打って帰りついた我が家の前で出迎えてくれたのは、玄関掃除に勤しむ母だった。
 あの時家を飛び出した訳では なかったが、ある日突然真田と同居すると言って出て行き、それ以降それこそ盆と正月くらいしか寄り付かなくなった不肖 の一人息子に、昨日出かけた者を迎えるような笑顔を送ってきた。
「お帰り。随分早かったのね」
 朝ごはんは済んだ? お昼は何が食べたい? と溺愛ぶりハイパワーモードの母は、あらっと首を傾げた。
「ねぇ、真田くんは? 後から来るの?」
「えっ? 俺一人ですが」
「どうして。コーチから連絡があって、あなたがちゃんと食べているかが心配だから帰すって仰っていたわよ。だとしたら 真田くんも同じでしょう。きっと一緒に帰って来てくれるって楽しみにしていたのよ」
「真田のことは真田の実家がなんとかするでしょう。俺たちが心配しなくてもいいことでは?」
「随分と薄情なことを言うのね。あなた真田くんのことを分かっているようで分かってないわよ。あの子は絶対お家に 帰らない。母親のカンにかけてもいいわ。だからあなたが引っ張ってでも連れてこなくちゃ。きっと二人で居たからきちんと していた部分ってあると思うのよ。一人ぼっちで栄養失調にでもなったらどうするの? それなのに真田くんを放っておいて 自分だけ帰ってくるなんて、薄情って呼ばれても仕方ないでしょ」
 母親のカンとやらは概ね正しい。
 けれど視点がズレていると指摘したくても出来ないし、孤独に背を丸めた真田の 栄養バランスが崩れているところなど想像できない。例え人類が死に絶えても両手を合わせてきちんと三食、頂きますと 言える豪胆な男だ。
「あなたは元々食が細かったけれど、 真田くんはたくさん召し上がるでしょう? 一度言ってみたかったのよね。育ち盛りが二人も居ると食費が大変なのよって」
「育ち盛りと呼ぶには俺も真田もトウが立ちすぎていませんか」
 あらっ、男の子が細かいことに拘るものじゃいわ、とお決まりの科白が出た。
 あの時――家を出ると言った時は真田が「ご両親に一言ご挨拶申し上げる」だの、厳格な筈の祖父が「甘やかしてばかりでは 国光のためにならん。 千尋の谷に突き落とされて這い上がってこそ獅子の仔」と言いながら悦に入ったり、息子が二人になると母親が異常に喜んだり、 父に至っては家具でも買ってやろうかと、パンフレットを取り寄せる始末。本当にこのまま嫁に行かされるんじゃないかという 狂喜乱舞ぶりだった。反対されるものだと身構えていたのに、肩透かしを食った覚えがある。
――どこかズレている。
 天然だの大ボケだのと呼ばれる自分がそう思うのだから、この家の住人は相当だ。そう思った手塚の体が少し傾いだ。立って いるのがやっとといった感じだ。
「朝食はいいです。部屋で休ませてください」
「辛そうね。寝不足?」
「えぇ。まあ」
「きっと暫く離れ離れになるから朝まで語り明かしていたのね」
 無邪気なのか装っているのか、母親の言葉は朝の日差しを浴びて寝不足気味の彼には眩しすぎた。



 越前リョーマが連絡を寄こしてきたのは、それから一週間ほどたった彼の誕生日の前日だった。
 オレと試合してくれんでしょ。 室内コートを借り切ったからと言ってきた。無駄なことをと呟くと、
「オレとしてはあんたと最初に戦ったあの高架下のコートがよかったんだけど、大会前にこの寒空の下でプレイして関節や筋を 痛めたら洒落になんないからね。あんたとオレの試合だよ。生半可な場所じゃギャラリーが煩くって仕方ないじゃん」
 本気でいくから。楽しみにしているよと言って携帯を切りかけたリョーマに、手塚は当然の質問を問いかけた。
「待て、越前。なぜこの時期なんだ」
 南半球で行われる次の大会のために、季節のまるっきり違う日本に帰ってくるのは無謀ともいえた。そう告げると、  携帯の向こうで不遜ににやりと笑う姿が容易に想像できる沈黙の後、
「年に一度のオレの誕生日、一緒にプレイして祝ってよ」
 約束、守ってくれてありがとう。そう小さく呟いて携帯は切られた。



 指定された室内コートで先に到着して既にアップを済ませていたのはリョーマの方だ。
 いつも遅刻ばかりしていた男が 成長したものだと思うが、二つ年下ながら世界を向こうに回して戦うトッププレイヤーが遅刻でデフォなど 許されない。
 リョーマの手に取るように分かる成長の痕跡は、そのまま自分との差を歴然と知らしめることに繋がる。
 早熟だったが故に 各部の故障に泣いた自分とは違い、同じく早成りだった少年は身の内にある技量を余す所なく発揮して、今の位置にいる。 嘗て自分がそうであったように、いま総ての力で持って立ちはだかる。
 それは恐ろしい程の幸運と思えた。
「調子はどうです?」
「万全だ」
「それはよかった」
 リョーマは上機嫌でハーフスピードでのサーブ練習を始めた。
 相手コートに打ち込まれた黄色いボールが幾つも転がる。 手塚は立ち上がりその一つを掴んで同じように練習を始めた。手塚はリョーマの立ち位置ギリギリを狙い、そしてそのリョーマは 転がっているボールを目掛けて。お互いが意識を持って納得するまで。
「相変わらずヤな位置。体ギリギリに打たれると、あんたのスピードなら取れないって」
「そういうおまえこそコントロールに磨きがかかったな」
「あんたを倒したくて、倒したくて戦ってきたんだ。当然だろ」
 コートに散らばったボールを拾い集めながらリョーマは、サービス位置に立つ。そしてラケットを突き出して挑発してきた。
「戦わなきゃダメだよ、手塚さん。一時でも休んだら牙をもがれた野獣も同じだ。体を休め過ぎたら闘争心も止るっしょ。 治ってるんだよ、あんた。ねぇ一体いつまでぬるま湯に漬かってるつもり?」



 歯牙ないと言われ瞠目した。ぬるま湯と呼ばれ何かが弾けた。
 そんなお安い挑発に乗るほど、リョーマの言い草が的を射て いるとは思わない。好きなテニスを調節しながらでしか続けられない痛みが分かるか、と叫びたい衝動に駆られた。 事態を諦観していたわけでも気長に待っていたわけでもない。だから敢えて今この場所に居る。
 手塚はトスを高く上げそのまま トップスピードで、リョーマの下げているラケット目掛けてサーブを繰り出した。けして油断していたわけではない筈の それが弾き飛ばされる。高い音を立てて後方の壁まで飛んでいったラケットの軌跡を目で追い、リョーマは満足そうに ヘラリと笑った。
「それでこそオレの知ってるあんただよ」
 手塚の表情は変わらない。元々無理やり喜と哀と楽の感情を、産まれる時に母親の胎内に置いてきたような節はあったが、 それでも今は手をかざせば溶解しそうな青白い炎が見て取れる。リョーマは飛ばされたラケットを拾うと、もう一度 手塚と対峙する。
「あんたさ、真田さんと別れなよ。真田さんが何をくれたって言うのさ。心の安らぎ? 居心地のいい場所? そんなものが テニスプレーヤーに必要あんの? 何もかも包み込んでくれる恋人が居て、学業も常にトップクラスで、誰からも愛されて、 それでテニスが最強だなんて虫が良過ぎんだよ」
「四の五の言ってないでさっさと始めるぞ」
「嬉しくって震えがくる」
 リョーマのサーブからその試合は始まった。