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――覚えてる、手塚さん。十二月二十四日。オレの誕生日なんだよね。その頃に帰る予定だからから会ってよ。
今回はひと月は居られそう。久しぶりに手塚さんと打ち合いたいし、
話だってあるんだ。いいだろ。その日なにか予定ある? 真田さんがケーキの蝋燭吹き消して、クリスマス祝うなんて
想像できなくってさ。きっとふつうのウィークデーでしょ。
随分失礼な科白だったが事実だった。
十二月も押し迫まり急に寒波が関東地方を襲った日の夕刻。越前が遠征先から連絡を寄越してきた。
年に何度か帰国するたびに
その旨を律儀に一番に教えてくる。それで大抵は当時の全国制覇を成し遂げた青学メンバーがどこかに集って、同窓会まがいの
集まりに発展するのだが、今回は誰にも言わないで欲しいと念を押された。みんなも会いたがっている筈だと嗜めると、オレが
会いたいのはあんただけだからと、少し低めの声で真摯な言葉が返ってきた。
手塚は少し絶句した後、その想いに応えることは
できないと、切れた電話に向って呟いていた。
手塚にとって他人からの想いを受け止めるほど困惑を来たすことはない。それが真摯であればあるほど真正面から向き合えない。
他のことでは毅然と困難を解決できるアビリティーを持っているのに、会いたいとか、愛しているとか、欲しいとかの
直接脳に響くような言葉を並べられると、もう言語中枢機能は停止する。
相手は当然その答えを要求する。しかし満足に応えられた試しはない。「すまない」と「今は考えられない」の繰り返しで、
「じゃぁ、一体いつ考えるの」と呟いたのは誰だったか。それなのに今は真田の押しの強さに絆されて、一緒に住んでいる
のだから偽善的だと自分でも思う。
そう言えば真田は俺に答えを問うことはなかったなと一人ごちる。当然のように彼の生活に入り込み、否応なしに関わり
続け、当たり前にようにこの生活が始まった。
何一つ応えていない。何一つ確かな言葉をかけていなかった。
翌日手塚が起床したときにはすでに、真田は食卓で食後のコーヒーをすすっていた。近頃特に低血圧に拍車がかかった手塚
を叩き起こしてまで、一緒に朝食にあり付こうとはさすがの真田も考えていない。食卓の上には輪切りされたトマトが数切れ
残された皿が置いてある。真田はそれを顎でしゃくった。うーとかあーとか言葉にならない返事でお座なりに応えて、真田の向側に
座ると、投げ出された両腕の上に頭を乗せた。その行儀の悪さに真田の眉が跳ね上がる。
「珍しいな。寝不足でもあるまい。昨日は早く休んだだろう」
「あぁ、なんだか寝た気がしない」
真田はさっさと食ってしまえと促すと、読んでいた新聞を律儀にたたんでテーブルの上に置いた。その様子を手塚はただぼんやり
見つめている。あまりのらしくなさに心配になったのか、真田が額に手を当ててきた。幾分自分より大き目の温かい手。熱はない。
体温が低い自分よりいっそ熱いと思った。
「風邪でもなさそうだな。きょうの予定は?」
「学校へ課題を提出しに行ってその後トレーナーと会う。そのまま練習」
「大してハードでもないが、具合が悪いのなら練習は止めておけ」
そういう訳にもいかないと呟く彼に、真田は珍しく追い討ちを掛けた。
「なぜだ。試合が控えている訳でもあるまい」
「真田。十二月二十四日、何か予定あるか?」
その脈絡のなさに真田は無言で続きを促した。
「越前が帰ってくる。打ち合いたいと言われた」
「またか。あいつの精力は底なしか。たとえオフが一日しかなくても帰国していそうだな。それもおまえに会うためだけに」
それもここ暫くは頻繁過ぎると言うと、らしくないとの答えが返った。確かに悋気など似合わないだろうが、俺だって木石
で出来ていない。特に越前は押しが強いからと、長い体を折り曲げて手塚の頬に手を添える。そのまま軽く唇を寄せてきた。
押しが強いのはお互いタイだろう。猛々しいの代表がふてぶてしいの代表を誹る謂れはないと思った。
「きょう帰りが早いなら外で一緒に何か食おう。それ以降は少し遅くなるかも知れんからな。おまえ、辛いならもう少し寝ていろ」
そう言い残すとテニスバックを肩に掛け立ち上がる。別に毎朝玄関まで見送る習慣はないが、寝室に戻るつもりで一緒に
立ち上がった。じゃあなと背中を向ける真田に何故か言いようのない衝動に駆られた。そのままリビングの扉辺りで真田の背中に
縋りつく。纏わりついたと言ってもいいかも知れない。
テニスバックが取り落とされ、真田の鼓動が跳ね上がるのが背中越しに感じられた。
行って欲しくないとか居て欲しいとかの感情からではない。ただ縋りつきたかった。
何かの贖罪として。
しばし互いの鼓動だけを聞いていて満足したのか、胸の前で交差させた腕を離そうとした。だが今度は真田が離れるのを許さない。
手塚の両手を押さえ取り、背を向けたままの状態で彼が好む低い声で呟く。
「何が不安なんだ」
おまえを不安がらせる要素は与えていないと真田は喉の奥の方で嗤った。
「越前に会うのが不安ならやめておけ。俺も会って欲しくない」
「先輩として約束を反故することはできない」
言っておくがな、と真田は振り返り彼の後頭部を片手で固定した。そのまま空いた方の手を彼の頬に添える。
「ヤツはおまえを先輩だと思って誘っていないぞ」
縋りついたのは自分の方からなのに、情念の火が灯った真田の視線から目を逸らせてしまう。そんな躊躇に何の遠慮なく深く
唇が降りてくる。噛み付くように絡み取り、呼気を求めて幾分喘いだ手塚から急に離れると、にやりと余裕を持って倣岸に笑う。
「朝っぱらから煽ってくれた意趣返しだ。覚悟して待っていろ」
そういい残して真田は出て行った。
大学でゼミの教授と少し談笑したあと、彼のメディカルトレーナが待つスポンサー企業のトレーニングルームへと向った。
企業の専属ではなくフリーで数多くのスポーツ選手の体を調整しているその男とは、手塚がプロの世界に足を踏み入れた頃から
の付き合いになる。豪胆だが確実に選手の弱いところを指摘してくる技能の高さに全幅の信頼を置いていた。
大会が近くなくともストレッチとトレーニングのためにほぼ日参している。
「先生、今月の二十四日に向けて調整して頂きたいのですが」
平台の上でうつ伏せになった手塚が突然切り出してきた。肩から肘にかけての筋肉を解していたトレーナーの手が止まる。
「何か大切な試合でもあったか?」
「どうしても万全の状態で試合をしたい相手がいるんです」
「簡単に調整時期をずらせろと言うがな、全豪オープンはどうするつもりだ? 諦めるのか」
年明け早々に行われる全豪オープンに真田共々出場することが決まっている。来年の卒業に向けて国内で燻り続けたきた
真田の事実上の世界デビューとあって、周囲の期待は相当高い。手塚にあってはほぼ一年ぶりの四大大会。慎重に調整を重ねて
一月に標準を合わせてきた。それを――と言い募るトレーナーに手塚はトロンとした瞳のまま問うてきた。
「俺の関節は一カ月のインターバルを置いて試合できないほど脆弱ですか?」
「一回戦で敗退する心積りがあるならそれでもいいさ」
そっけない返事を返しトレーナーは入念に筋肉を解してゆく。続く言葉は返されないが、滅多に口にしない手塚の望みを
何とか調整してくれる人でもあった。すべてを委ね心地よい手の温もりが蓄積された疲労を癒してゆく。解かれて、解けてゆく。
一通りのマッサージの後マシンへと促された。
「少し筋肉を酷使してもらおうか。負荷と緩和。単調で地味なトレーニングばかり強いることになる。それと少し栄養指導と
日常生活の瑣末事にまで口を挟むかも知れん。これは今回の調整が些か押し迫っているから
という理由だけではないんだ。今まで一つの試合に出場するために、君には気の毒なほど長い調整を必要とした。それを
改善しようと思っていたところだったんだよ」
それともう一つ――と手塚の生活スタイルと状況を知り尽くしている彼は続ける。
何も永遠にという訳ではない。是非はないだろうと告げる彼に手塚は承諾の旨を告げた。
マンションに帰り着くと先に帰宅していた真田がパウダールームから出てきたところだった。
頭を濡らす雫をふき取りながら、
思ったより時間がかかったなと、冷蔵庫のミネラルウォーターに手を伸ばす。そのまま口をつけて入浴後の渇きを癒していると、
バックをかけたまま下ろしもしないで、リビングの入り口に立ち尽くしたままの手塚に気づく。
何やら慎重な面持ち。
また些細なことにあの形のいい頭を悩ませているかと思うと苦笑が漏れる。
まったく何時もながら狡い手だと思う。
こちらから気配を察して話を振らない限りずっとあのまま立ち尽くすような男だ。
たまには自分から持ちかけてみろとばかりに、
カウンターテーブルの高いスツールに腰掛けて辛抱強く待つ。
きっかけを与えてくれるつもりはないのだと分かると、漸く
バックを下ろして真田の前に腰かけた。
「実家に帰ろうかと思う」
「いきなり前振りもなしに真正面に打ち込んできたか。まぁいいんじゃないか。正月は帰って来るようにと、ちょうど先ほど
彩奈さんから電話があった。おまえの携帯に連絡したらしいが、
ずっとマナーモードだったんじゃないか? それでこちらに連絡してこられた。おまえ、携帯の着信記録を見る癖をつけた方が
いいぞ。それともう少し頻繁に連絡を寄こすよう伝えてくれとも言われた。来春、三が日を過ぎたら渡豪するつもりなんだから、その前に
ゆっくりしてくるのもいいだろう」
そんな話かとばかりに冷蔵庫へミネラルウォーターを収そうと立ち上がった真田の腕を手塚が捕まえる。
「俺も調整ばかりに時間を割くのはもう飽きた。本格的に始動しようと思う。トレーナーには男二人で暮らしていて、
三食のうち一番バランスが取れているのは学食だろうと言われた。長期ロードに出ても肘や肩に支障がないようにトータル
的に管理をしたいと。筋肉トレーニングの強化とともに栄養面のバックアップも必要だからと、そう言われた。
暫く帰った方がいいと」
珍しく一気にまくし立てた彼に、おまえが考えて決めたことに何の異論もないと真田は静かに答える。
「渡豪するときに落ち合うつもりだ」
つまりそれまでは帰らないと言葉尻が掻き消えた。
「それもいいだろう。今更成長期の餓鬼でもないから、栄養面への配慮が足りなかったのは事実だな。しっかり管理してもらって
状態を整えてもらえ。言ったろう。お前が決めたことに口を挟むつもりは毛頭ない。しかし――」
なぜおまえはそんなに不安そうな顔をしている、と耳元で囁く真田の腕に手塚は倒れこんだ。
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わはは、です。手塚乙女度200%アップ(当サイト比)。相当苦手な心理描写に励んでおります。手塚と真田とリョーマの
それぞれの不安が書ければいいなと。
かなり焦れた話になる模様。
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