真田一族の膂力 〜1







 その日は朝から小糠雨がシトシトと振り続ける生憎の天気だった。とっぷりと夜が更けてもなおも止まず、 陰鬱な気分にさらに拍車がかかる。
 肌に纏わりつくような湿気を真田弦一郎は一番嫌う。気候は暑いか寒いかに限ると常々豪語するだけあって、 どちらかと言えば春も得意ではない。このような湿った夏の雨などもっとも煩わしいものの一つだ。
 出された課題に珍しく時間をかけて一息ついたところに、彼の携帯の呼び出し音が鳴った。
 反射的に時計に目をやれば、深夜十二時少し前。
 そう言えば死んだ祖母が、日付を挟んだ頃合の電話は良くない知らせだと零していたのを思い出した。
 画面表示には「手塚」の二文字。
 伸ばす手がやけに重く感じる。
 医者には行ったはずだ。だが、その結果はまだ聞いていない。
 意を決して真田は通話ボタンを押した。



 翌朝、純和風の朝食が揃えられている茶の間には、幸いなことに次兄の惣一郎だけがぽつんと一人で食事を 取っていた。 何事も飄々とした浮き草のような兄と、違い過ぎる回転数に辟易することしかりだが、この際頼めるのは この兄しかいない。おはよう、と味噌汁椀に口をつけた兄の前にどかりと腰を落とした。
「惣、折り入って頼みがある」
 折り目正しく正座した真田の目の前にいきなり片手が差し出された。それも掌を上に向けてだ。
「何のつもりだ」
「聞いてあげるからお小遣い、貸して」
 真田はフンと鼻白む。
「無理な相談だな。兄貴からきつく止められている。おまえに必要以上の金銭を持たせるなというのが、 真田家の最重要事項らしいからな」
「ちっ、先手必勝か。欲しいホイルがあるんだけどなぁ。じゃあ、お兄ちゃんって呼んでくれたら聞いてあげよう」
「茶化すな」
「んじゃぁ、聞いてあげない」
「おまえもしつこいぞ」
「当たり前だよ。弦一郎ってば三才ごろから僕のこと呼び捨てにしてたんだ。僕は弟が出来たって聞いたとき から、お兄ちゃんって呼ばれるのを楽しみにしてたんだぞ。それが一向に叶ってない。兄貴呼ばわりはぞっと しないからヤだ」
「一度池の水でもたらふく呑んで頭を冷やしてみるか?」
「――で、相談ってなに?」
 この回りくどいさは次兄流のコミュニケーションツールでもある。物見高い彼が神妙な顔をした弟の相談に 耳を貸さないわけはなかった。真田は脱力感を抑えながら話を進めた。
「おまえ、医学部の医師で外科の権威、特にスポーツ医学に精通している人に知り合いはいないか?  いれば紹介して欲しい」
 惣一郎の味噌汁をすする手が止まった。普段から口の両端がへらりと上がっている彼が、束の間端正な 表情を見せる。
「怪我でもしたの?」
「いや、俺じゃない」
 くふんと鼻で哂って、それでもそれ以上詮索してこない兄の次の言葉をじっと待つ。
「大学病院内にスポーツ医学研究所っていうのがある。そんなに親しくもないけど、紹介だけはして上げられる。 急ぐのか」
「あぁ」
「電話で用件は足りる?」
「いや、伺う」
「じゃあ、教授の空き時間を聞いといてあげるよ」
「恩にきる」
 そう言い残して神妙なまま真田は立ち去った。



「宮崎かぁ」
 大気の乱反射が目に痛い。
 テニスコートのフェンス前で座り込み、気の抜けた声を出したのは三年レギュラーの 一人菊丸英二。あぁとかうんとかの生返事を返したのは副部長の大石だった。
 部活が始まる前のほんのひと時の憩いの時間。一年たちは手際よくコートの整備に勤しんでいる。
「遠いよね、いくらなんでも」
 不二や乾たちも続々と集結しだした。
「距離もそうだけれど、期間がな。未定だろ。みんな頼むから気を引き締めてくれよ」
「抜いちゃいないッスよ、副部長」
「それは失礼」
「それにしても宮崎の附属病院に長期滞在。治療費はスポーツ保険の範疇だが、往復運賃は自費だろうな」
「そゆこと心配するか?」
「あ、でもどうだろう。近くの病院に入院通院するなら保険適応だろうけど、宮崎だよ。過剰治療っていうの?  当てはまったりして」
「不二まで」
「怪我させたのは跡部のヤロウなんだから、ヤツからぶん取れないんスかね」
「試合中の怪我に、させたも何もあるわけないだろうが。ちったぁ、頭使え、このタコ」
「あんだと! もいっぺん言ってみろ! こら」
 二年生コンビの睨みあいに間に入ったのは大石だけだった。あとのメンバーはそれぞれ勝手な方向をただ 見つめている。
「なぁ、乾。宮崎の附属病院って立派なの?」
「それは立派な医師がいるかという意味だな」
「当たり前っしょ。あの手塚が、プールにジャグジー、サウナまで完備したホテル並みの豪華設備で 食事は三食フルコースなんてのに惹かれて選んだって言ったら、オレ、グランド百周してもいいぞ」
「あぁ。そういう設備を兼ね備えた病院がなくはないな」
「でも附属だから生徒には優待割引があるかも知れないな」
「連泊するとあとは半額とかね」
「看護婦さん、美人かな〜」
「あぁ。なんか部長のイメージが……」
「立派な医師の話はどうなったんスか」
「昨日のきょうで附属病院のデータまでは取れていない。ただ――」
「ただ?」
「治療だけが目的なら、首都圏から離れる必要はなかったのだろうなと思っただけだ」
「スミレちゃん、詳しく話してくれないからね」
「そっかぁ。必殺技を会得するために、勇者は一人で修練の間に向うんだ」
「エージ先輩。ロープレじゃないんだから」
 コート整備が終わりました――と一年たちが報告に来た。十分だらけていたレギュラー陣、笑顔を引き締め 臨戦態勢をとる。その切り替えの早さが流石だった。
「さぁ、きょうも気合入れて行くぞ!」
 さっさと立ち上がりコートへ向う三年生レギュラーの背中を見送って、桃城がポツンと漏らした。
「センパイたちは一体何の話だったんだ?」
 青学一のクワセモノをして彼らの思いは計り知れない。



 手にしていた書類をパタと机に伏せ、その青年はゆっくりと立ち上がった。
 薄紅に染まる事務所には彼とその書類を提出した部下の二人きり。青年は端正な顔立ちにゆったりとした笑みを浮かべ、 マホガニーの重厚な机を挟んだ先に佇んでいた。
 何か逡巡するかのように、彼の長い指が顎の辺りを流離う。直立不動で立ち尽くす部下は、その癖を知り尽くしている ようで、次の指示が下るのを辛抱強く待っていた。



 真田恭一郎氏、二十七才。
 父親を国会議員に持ち、その第二秘書として従事する傍ら、次のステップへの足がかりの業務に日々明け暮れている。 豪快で、ある意味もの覚えの悪い父親のサポートから、経済、流通、外交問題の勉強会にも名を連ねる多忙さなのに、 いま目を通している報告書は、彼が抱えている問題とは比べようもない瑣末事だ。個人的関心と言ってもいい。それも 末弟の弦一郎がらみで。
 その弟。長兄が何に腐心しているか知れば、一体どんな顔をするか楽しみだ、と恭一郎氏は口の端を上げた。 そのさまを見て部下が声をかけた。
「恭一郎さま、報告書に何か不備がありましたでしょうか?」
「いや、詰まらないことに手を煩わせた。悪かったね。十分だ」
 ほっと一息ついて有能な部下は、その報告書が何に使われるのかなどの質は挟まずに退出していった。 どう使うかなど恭一郎氏にも定かではない。ただ、調べずにはいられなかった。
 青春大学附属病院のスポーツ外科チームの実力と、立海大附属病院とのその対比など。
 単なる個人的興味の中には、真田家の持つ実力と影響力を知らしめたいという思惑もある。才覚や采配に対する 賞賛は飽きるほど浴びてきた。だが、生き馬の目を抜く政界に身を置いていれば当然養われるそれを、一中学生 プレイヤーに行使してどうしようというのだ。
 その思惑の出所に困惑して彼は自嘲気味に嗤った。



continue







惣一郎兄ちゃんは医学部だったんです。(ご都合主義炸裂!)ま、そゆことで。 (おほほ)
宮崎ネタしかないのかという感じですね。(苦笑)だってないんだもの。
宮崎に何があるのかな?  誰がいるのかな? どうバージョンアップして帰って来るのかな?