OPEN YOUR ARMS |
〜1 けたたましく鳴る電話の呼び出し音と、目覚まし時計の音とに安眠を妨げられて、真田弦一郎の寝起きは 相当悪い。 時間を確かめると午前八時。こんな早くに起きる予定はなかった。昨晩気絶するようにベットに潜り込んだ ときに、いつもの癖でセットしてしまったのだろうと、舌打ちした。 のそりと這い出してリビングへ向うが、電話はファックスに切り替わったところだった。暫くの沈黙のあと、 排出されるファックス用紙の音。カシャリと切れたのを確かめて取り上げると、巨大な文字が用紙を埋め尽くさん ばかりの勢いで書きなぐられていた。 ――弦一郎! 連絡請う! 母より 家出捜索人でもあるまいに、と用紙をくしゃりと丸めてダストボックスへと放り投げた。 天蓋は一面の群青で覆い尽くされ、筆が走ったような一刷毛の雲が白秋の訪れを告げる。 暦の上では寒露。だが日中は未だきつい日差しが、テニスプレーヤーにとっての殿堂を容赦なく 照り付けていた。 ジャパンオープンテニス、男子決勝。 ATPランキングのトップランクに名を連ねていた男が、きょう引退を向える。 ストイックな物腰と、ガラス細工のように繊細で怜悧な美貌。周囲が騒いでも微動だにしない 落ち着きと、時折見せるはにかんだ様子とが、ビジュアル的にも人気のあった選手だった。 まだ若手の域と言ってよく、引退を余儀なくさせる年齢でもない。だが、成長期過程から痛めた関節は すでに限界を超えており、不調が伝えられ、最後にと選んだこの大会まで、なんとか騙し騙し調整 してきたと言っていい。 寡黙な天才プレーヤー手塚を崇拝する者は多い。地元組も海外に拠点を置く選手も、そしていまはラケットを 握らなくなった嘗ての選手たちも勢ぞろい していると、「月刊プロテニス」の井上は今更ながら彼の影響力に感嘆した。 ボックス席には学生を終えると共にテニスも卒業し、現在は青年実業家として活躍している跡部景吾の姿が。 また、かつての全国制覇を成し遂げた青学のメンバーとともに、手塚とランクの凌ぎを削っている越前リョーマ。 そして、もう一人の世界ランカー真田弦一郎は、同じようにランクインしている切原赤也や、当時の立海大選手と 共に、この試合が始まるのを待っている。 手塚を取り巻くライバルたちの揃い踏みだった。 「やぁ、真田くん。君もこの試合のために帰国したクチだな」 井上は取材抜きといった風情で立海大関係者が集うブースへ歩み寄った。 「井上さんか。お久し振りですね」 「当然っショ。だれもが恐れてた手塚さんの最後の試合。何を置いたって、地球のどこにいたって 見に来ますよ。副部長じゃなくてもね」 真田を押しのけんばかりの勢いで、切原が言葉を引き取った。相変わらずだね、と苦笑が洩れる。 「同窓会が開けそうだね。それも飛び切りグレイドの高い同窓会が」 「あの当時のジュニアのメンバーが、いまの日本庭球界を支えていますからね」 そう言う柳も変わらずの瞑目スタイルだ。 「実際あのときの全国大会は、未だにスポーツ記者の間でも語り草だよ」 遠くへと馳せるような井上の眼差しにも、当事者たちは淡々としたものだ。切原は前大会である ウインブルドンの様子を柳相手に力説しているし、真田は前のめりの体勢のままコートを睨みつけている。 思い出にするには早過ぎる。いまを戦うプレーヤーたちだった。 「ところで、今回どうして国内の上位どころは揃って欠場だったのかな? 越前くんなんかは繋がりが 深いから最後の対戦相手に立候補しそうなものだよね」 「越前くんの意図は分からないが、弦一郎は調整不足だそうですよ。赤也は――」 「コート脇でずっと手塚さんだけを見ていたいからね」 真意など掴ませない飄々とした物言いで追求をかわす。 色々な思いがある。 今回の大会には、破竹の勢いで世界ランク一位を掴み取ったオーストラリア人 選手が出場している。きょうの決勝の相手だ。手塚の孤独な戦いを見守るつもりなのか、みなで示し合わせた のように、日本人選手の参戦は少なかった。 手塚くんはホントウに愛されていると井上が言うと、 「偶々みなの都合がつかなかったんでしょう」 素っ気無い真田の態度に井上は目を側めた。 湧き上がる歓声の中、決勝を戦う二人が姿を見せた。 直に目に触れる久し振りの手塚。ただでさえ線の細い四肢がさらに削がれている。 世界ランク一位のパワーテニスに対抗できるのかとだれもが息を呑んだ。 「相手が相手だけに何か痛々しくもあるな」 「そう思わせて一段上のフィールドで試合をするからね、あの人」 「下馬評どおりの決戦だが、手塚の不利は否めないと思う」 「相手は手塚さんと初対決だからね。術中にハマったら分からないですよ」 柳と切原の談話にも真田は前のめりなままだ。気づいた二人は顔を見合わせあった。 しわぶき一つない静寂が、やがて来る激闘への予兆を物語る。 少し前方向に上げられたトス。耳の奥に響くようなインパクト音。世界ランク一位の唸るような サーブで試合は始まった。 相手は激しい息遣いでそのパワーを更に加速させるが、序盤の手塚はコーナー際へとボールを 集める冷静なテニスだった。左右前後への揺さぶり。緩と急。相手選手のスポットを外すような自在な スピンをかけて、翻弄する。 手塚が何気に上げたボレーが相手の頭上を越えて、エンドライン上に 吸いついた。どよめく歓声の中、審判のサービスブレイクの声。 いままで息をつくことも忘れていたかのように、真田はほうーっと座席に背を預ける。それを認めて 切原の揶揄った声がかかった。 「副部長、なに固まってるんですか」 「喧しい」 「まっ、弦一郎も心穏やかではいられないよね」 そう言う柳の声を遥か遠くで聞いていた。 最後の最後に対戦したいと思った。したくないとも思った。 同じフィールドに立つのと、客席で観戦する のとでは捕らえ方も感じ方も違う。 幾度となくボールを応酬しあい認め合った相手。 渇望し、執着して手の中に押し留め、心ならずとも羽ばたきを認めて現在に至る。 手塚の汗が飛び散るさままで目に映る。 息遣いは耳朶のすぐ横にある。 同体し、同じように呼吸を詰め、そして吐き出す。 指先が痺れると気づけば、ラケットを握るように力を込める右手があった。 相手のサーブとストロークが更にパワーを増した。伊達にランキング王者ではない。 手塚はそのパワーに押されないようにと、どうしても両手持ちの場面が多くなる。その分ボールに与える 回転がどうしても平坦になってしまう。ジリと焦れたような 色に混じって、あるかなしかの苦痛が手塚の表情に浮かんだ。それを見逃す真田ではない。 「まずいな」 疲れと痛みを知らないパワーテニスは弄るように手塚に襲い掛かる。その重圧を跳ね除け、 スピードとコース取りでの応酬。 ごくりと嚥下する音。 目を瞬く暇すら惜しいような試合だった。 continue |