OPEN YOUR ARMS |
〜2 時間の感覚が麻痺している。 スコアは手塚がセットカウントをタイに持ち込んだところまでしか覚えていなかった。 気温が一気に上昇する兆し。熱い――と見守るだけで声が呻いた。 序盤に苦痛の表情を浮かべたきりで、その後の手塚は恬淡とゲームを進めている。痛くないわけがない。 痛みを凌駕した浮遊感に身を委ねていているのかもしれなかった。 手塚の目に痛いほどバランスのよいフォームは、終盤を迎えても崩れることはない。ゲームメイクも一貫 している。徹底してコーナーへ。若い相手選手が平常心を失って、世界最速と言われるストロークの威力が何度 も殺がれ、また力んでネットにかける場面も出てきた。 手塚のフィールドが出来つつあった。 「世界ランク一位が根負けしだしたな」 「手塚さんの配球が生きてきた」 「焦ったらどんどん手塚の冷静さが恨めしく思える」 弦一郎と、柳が呻くような声を出した。 「最後を楽しめるなんてうらやましい限りだ。そう思うだろう」 肯定の意味で目を伏せ、もう一度コートの手塚を目で追う。 だれが決めたのか限られたこの空間で、風を感じてボールを追う。一球に渾身の力を込め、 想いの総てで相手コートへ送る。 ――この一球は絶対無二の一球なり。 遠い昔にだれかが言った言葉。 恐ろしいほど研ぎ澄まされた感性は、ボールが上げる唸りまで聞こえていそうだ。 何もかもが見渡せているのだろう。 テニスをつうじて、これほどの出逢い。 何度も同じコートに立ち、同じ熱を分かち合い、同じ夢を馳せ、その終焉をいま迎える。 だれにも訪れる瞬間が、ただ人よりほんの少し早かっただけのこと。 先に体が悲鳴を上げ、心の慟哭はそのあとについてくる。 手塚の体はもう痛みを凌駕しているだろう。その代わりにいま、心が啼く。 その想いが伝播して唐突に震えがきた。 ――ふいに ――アリガトウと手塚の唇が動いた。 ただ息をついただけかもしれない。 だがその軌跡さえ愛おしい。 すり鉢状のセンターコートに割れんばかりの歓声が沸き起こり、新たなチャンピオンが称えられるべき 高みに昇った。冠された称号にはにかみ、受け取る優勝杯を高らかに掲げることすらできない状態の勝者 だった。 協賛、後援企業からの優勝セレモニーが続く中、今更遠くなった手塚には用はないとばかりに真田は 立ち上がった。もう見るものはなにもない。刻み込んだ手塚のテニスが、脳裏から離れることはないだろう。 やけにさっぱりとした去り方だった。 「えっ、もう帰るのか?」 「手塚さんに会ってかないんですか?」 「必要ない」 そう言えば、実家の母から呼び出しがあったなと眉をひそめた真田だった。 それでなくてもツアーで日本にはいないのだから、と母はかなりお冠だ。帰国しているのなら、 実家に帰るのが筋だろうと、いい年した男を未だに子ども扱いする。適当に聞き流していたら、 目の前にドサリとうず高く積まれたそれらしい書類。敢えて聞かなくても意図は顕わだ。 「結婚なんかする気はないと何度言えば分かるんだ」 またその話題かと鼻白らむ真田に、到底納得できない答えだと母の追及と説得はしつこい。これだから 実家に帰るのは嫌なのだと話も途中に立ち会った。 その背中に母の言葉が突き刺さる。 「いつまでもそんな我侭がとおるわけではないよ」 何を持って我侭と定義されるのかわからない。時を同じにと願う者はこの見合い写真の中にはいないだけだ。 ――おれはあいつしかいらない。 言っても到底理解してもらえないと真田は吐き捨てた。 ウサ晴らしと昼間の熱を冷ますため、あれから軽く練習をこなし真田が帰宅した頃には、とっぷりと 日も暮れていた。自宅マンションのエレベーターを降りたあと、玄関先のポーチにうずくまる人影を見つける までにはさほど時間はかからなかった。 不審者は立てた膝の上に頭を預け眠っているようにも見える。真田の眉が思い切り跳ね上がった。 「こんなところで何をしている?」 シンとした廊下に真田の低音が響く。彼はのそりと顔を上げ、小さく哂った。 「祝勝会はどうした。お世話になった方々や、協賛くださった企業への挨拶は済んだのか?」 口をつく小言。他にかけたい言葉がある筈なのに、まずそう切り出してしまう。それには眠たげな声が 返った。 「一通り済んだ。二次会を抜け出したきただけだ」 何かが振るえ、抱きしめてしまいたい衝動が湧き上がるのに、なぜか冷静に対処する自分が分からない。 この男からの別離にまだ傷ついているからなのか。それとも激情すら忘れてしまったのか。それほど 離れている時間が長かった。 「――おまえ、酔っているのか」 「少し、乾杯の最高級シャンパンを、ほんの、すこし――」 酔いはその量ではないと伺えた。とにかく立てと、手塚の体を抱き支え、どうにか開けた扉の隙間から 中に入った。 細い。 片手ですっぽりと腰に手が回る。 この体でよくここまで――おまえは凄いと心底そう思った。 「真田……」 ふいに腕の中の手塚が真田の首に縋りつく。全体重を貰い受ける。真田の背は扉に預けられ、もうこれ以上後戻りは 出来ない。 「終わってしまった」 「ああ、おまえはよくやった」 「腕も肘も、痛くて上がらない」 「いま、こうして上がっているじゃないか」 揶揄る響きにクスリと笑みが零れた。 「俺は幸せだったよ」 「そうだな。おまえほど愛されて畏怖された選手もいないだろう。色んな意味でな」 ああ、と外された視線。 どうしてここに来た――ヤツはどうした――と問い詰めたい。聞き出したい。手塚の口から直に聞きたい。 それほど貪欲で加虐的な自分がいた。 惹かれ、焦がれて触れる唇。ドンペリの甘い香り。それだけで弾け、手塚の体が折れるほどかき抱く。 呼気すら与えず貪る。隙間を埋めるように。 どれ程の間の喪失感。それがおまえに分かるだろうかと責める。許しすら受け付けない。 気がつけばシャツの裾からたくし上げられた手は白い素肌をなぞり、頭の芯が痺れるほどに手塚の 呼気を乱していた。 「おれはおまえしかいらない」 あの日――引き千切られる思いで放った言葉。 おまえを待つような真似はしないと、想いを封印して解き放った。 あれからいくつもの恋を拾い、愛を捨て、往き過ぎては振り返った。その先には手塚しかいなかった。 「もう、おまえ以外はいらない」 「――ちょっと、待て……」 弱々しい力で小さな静止がかかる。 「馬鹿が。これ以上待てるか」 「おまえから――」 ――まだおまえから祝いの言葉を貰っていない。 潤む瞳を上げて言う科白かと苦笑した。 相変わらずどこか拍子抜けした男だ。それが真剣だというのだから先々が思い遣られる。 真田は手塚の体を横抱きに救い上げた。そしてゆっくりとその耳元へと囁く。 「優勝おめでとう」 そのまま室内へと攫っていく。 ――もうだれもいらない。 手塚は頷いたのか、聞き流したのか。それでも首に回された手に力が込められる。 「おまえはよくやった」 もう一度そう言ってゆっくりと口づけを落とした。 end |
14000hitsを踏んで頂いたうららさまに捧げます。 お題は限りなくシリアスで手塚が真田を希うということで、ありがたくも「少年の〜」の 続きをリクして頂きました。 手塚の最後の試合。いつか書こうと思っていたので、リクに便乗ですが、な、長い。 うまく纏められなくて、いつもながらごめんなさい。 今回は真田にいい目をみさせてあげようと、思い切り真田を書き込みました。 でも途中、場面の断片だけが浮かんできて、文章がいつも以上にブツ切りで、思うように進まなかったのには 正直へこたれました。文才のないのは今更なので、手塚への熱い想いでカヴァーだぁ、と頑張って ちょっと満足です。 うららさま。機会を与えてくださって、ホントウにありがとう。 |