手塚が風呂から上がってタオルで髪の毛をふき取りながら、ペットボトルのサプリを飲んでいるときに、 シンと静まり返った居間で電話の音が鳴り響いた。乱暴にタオルで口元をふき取りながら、時計を見る。 十時前。他所様のうちにかけるにはギリギリの時間だなと思って出ると、いつもは携帯にかけてくる真田からだった。 珍しいとまずその一言が出た。真田はそれには応えずに一通りの挨拶を済ませる。そのあとに突然話は切り出された。 『お前、以前、神事を見るのは好きだと言っていたな』 「あぁ。訳もなく落ち着く。神社仏閣に訪れると、山に登るのと同じような静謐さが味わえる。 神事なんか尚更だ。俺も生粋の日本人だな」 「そうか。やはりお前もサマーバレンタインよりも夏越大祓、クリスマスよりも追儺の儀式のクチだな。 安堵した』 「何語だ?それは」 『たるんどるな。生粋とほざいた癖に知らんのか。どちらも悪鬼を祓う儀式ではないか』 「ふつうは知らんだろう。祢宜か宮司のうちに生まれない限りは」 『手塚家は氏子としての務めを果たしているのか? 一年の節々には様々な行事が氏子を中心に執り行われる。 役病を祓って安寧を願う。さてはおまえ、邪魔くさがってなおざりにしてきたな。だからいらぬ怪我を背負い込む 羽目になるんだ!』 結局そこへ話は落ちる。このまま大人しく聞き耳をたてていると、延々と講釈が始まるかも知れない。手塚は意を決してぶった切るように、 「何の用だ」 と、言い放った。 真田も切り替えが早い。時間を無駄にはしない男だった。 『今度の土曜に、うちの近くの地域の総社で神剣奉納居合いの儀式がある。それをおまえに見せてやる』 「見せてやるっておまえが執り行う訳でもないだろうに」 エラソウにとの言葉は呑みこんだ。ここで話を折れば、また違う方向へ進むからだ。 『俺が奉納する』 「えっ?」 『三日間精進潔斎して紋付袴で神事の露払いだ。お前、惚れ直すぞ』 さぞかしニヤリと音を立てて微笑んでいることだろう。手塚はその部分には触れないように努めた。 「……お前も、多趣味なヤツだな」 『趣味ではない。義務だ』 「氏子としてのな」 『当然だ』 一般男子中学生が拘るレベルからかけ離れているがそれは今更だ。そこに引っかかるとまた話は進まない。 随分と慣らされたものだと手塚は肩を竦めた。 「特に用事はないから付き合ってやってもいい」 『そうか。遅くなるかも知れんから泊まるつもりで来い』 「そんなに時間がかかるものなのか?」 『うちの了解はとってある。母はお前が来ると聞いて喜んでいる。母上はご在宅か?』 「ふつうの主婦はご在宅だ。で、何の用だ』 『俺からきちんとご挨拶申しあげる』 「はあ?」 お前は何者だとか、俺は小学生じゃないとか、一々でしゃばらないでも了承は取れるとか、恥かしいから 止めろとかいう抗議は総て却下された。当然の義務だとの一点張りだった。面倒なので本気で電話を切って やろうかとも思ったが、恐らくすぐにかけなおして来る。儀礼に訴えている分、ストーカーよりも始末に終えない、と 手塚は母を呼んだ。 「お母さん、ちょっと」 「どうしたの?」 「今度の土日に真田が泊まりに来いって言ってるんですが、その件で話があるとか」 「あらぁ、いいわね。え? 話って?」 手塚は母に電話を突きつけた。彼女はそれを不思議なモノでも見るように受け取った。 「はい。こんばんは。――ええ。――それは楽しそう。――まあ、さぞかし立派でしょうね。それはもう、 不束な息子ですが、こちらこそお願いします。お母さまにもよろしくお伝えくださいね。では、ごめんください」 同年の友人と母親との会話とも思えないが、電話を切ったあと、ほう〜と溜息をついた母をじっと見る。 その視線に気づいて母は取り繕ったような笑顔を見せた。 「あら、いやあね。そんなに見るもんじゃないわ」 「何か真田が失礼なことでも言いましたか?」 「そんな訳ないじゃない。それはもう丁寧に、国光のことは一切お任せ下さいって。責任持ってお預かりします からですって」 「あのバカ。調子に乗りやがって」 手塚の憤慨も気づかず母は頬に手を添えている。 「どうしてかしら。国光をお嫁に出すみたいな気分ね。ちょっと背が高いのが難かしら。でも真田君なら 釣り合い取れてますものね」 「な、何を!」 「冗談よ。でも、ね。真田君ほんとうにいい声してるわ。耳元で囁かれでご覧なさい。お母さん腰砕けそうになっちゃった」 「お母さん!」 「あらっ。冗談じゃないわよ」 ほんとに始末が悪い。手塚は軽い眩暈を覚えた。 最寄の駅まで大層な車に出迎えられ、横付けされた邸宅は相変わらず荘厳と佇み他を圧し、一般大衆としては やはり心地悪い。厳粛とした門を重い足取りで踏み出した手塚を迎えてくれたのは、ピンボールのように 弾けて飛び出してきた真田家の次男だった。そのまま覆いかぶさるように抱きつかれた。 いつもいつも心臓に悪い歓迎の仕方だ。 「手塚くんだぁ! 待ってたよ〜」 「そ、惣一郎さん。苦しいですから離れてください」 「相変わらず抱き心地悪いな。でも鬼の居ぬ間にめ一杯抱きついとこっと」 「鬼って。真田はいないんですか」 「うん。総社の方へ詰めてる。君が着いたらすぐに送るように言われてるんだ。エラソウだろ。僕を顎でこき使うん だから。僕も手塚君みたいな弟がよかったな。交換しよっか?」 遠慮しときますと即答すると、彼はにっこり笑いながら肩に手を回して誘った。 徒歩圏内の距離にある武神をご神体とする神社の拝殿前には、胡床がいくつも並べられ二人の姿を見つけた真田家 長兄が小さく手を挙げた。すぐ前の最前列には真田夫妻がデンと鎮座ましましている。 真田一族の揃い踏みだった。 長兄と次兄の間に挟まれる格好で着席した手塚は、身じろぎ一つできない。厳粛な雰囲気に慣れているとはいえ、 息苦しいことこの上なかった。 しかしそれも剣を佩き正装した真田たちの登場で、肩の強張りは解け手塚は前のめりになる。 初秋の日の翳りは早く、キンと冷えた空気が喉を圧迫するような空間だった。 拝殿に向って恭しく礼を取ったあと、剣を手にした男たちは構えの姿勢からゆるりと立ち上がった。 中段に構えられた剣先は硬質な尾を引いて大上段に振りかぶられ、大袈裟斬りの型で下ろされる。 そしていま一度上げられ逆方向からヒュンと空を裂いた。 剣先と真田の視線がピタリと手塚に合せられる。 そのまま斬り捨てられるような錯覚さえ覚えた。 呼吸もままならない奇妙な高揚感。 「中坊の分際で相変わらず腰が据わってるねぇ」 「何せ弦一郎は宗家のお気に入りだからな」 二人の兄が呟いた言葉が合図だったように、手塚は漸く詰めていた息を吐き出した。そのさまを見て 恭一郎が諭すように口を開く。 「昔から武人が剣の道を鍛錬しようと思えば、まず居合いの道を究め、しかる後に剣を学べと教えたらしい。 『手の内』と言ってね、その剣が本当に人を斬れるかどうかはそれにかかっている。握りとも言うかな。道具と一体になる ことを要求される訳だ」 「それって?」 「そう。弦一郎に言わせるとテニスのラケットも同じだそうだよ。心の乱れは恐ろしく敏感に伝播する。 定まった形と心で強い力が生まれる。居合道の方が先に習い始めたのに、どうやら巻き藁を斬るだけでは 飽き足らなくなったらしい。どうしてあいつがテニスを選んだのかは分からないけれどね」 手塚はその言葉に頷くと、綺麗な所作で礼を取り退出してゆく真田を眼で追った。視線を外せなかった。 惣一郎に、帰ろうと袖を引かれるまでそのままだった。 すぐに帰ってくるからと真田の自室に通されて、所在なさげに蔵書をあさり、つらつらとページを めくっていると、存在を誇張したような足音が聞こえてきた。 ドスドスと剣呑な音をたてて、機嫌でも悪いのかと溜息をついていると、勢いつけて襖は開かれた。 立派に不機嫌丸出しの真田だった。 そして開けたときと同じようにピシャリと閉められる。建てつけがいいのだなと変な感心をしながら、 襖は音を立てずに閉めろと憤慨していると、ほとんど覆いかぶさるように抱きしめられた。 手塚の華奢な骨格が悲鳴を上げた。情愛の欠片もない、ほとんど締め付けるような力の入れようだった。 「バ、バカ! 折れる! 加減しろ!」 身を捩ることも出来ずに潰されたような声にしかならない。しかし耳元に寄せられた真田の唇から 同じようにくぐもった声が発せられて、手塚の体は更に強張った。 「真剣を握ると、血が、滾る」 「おま、何寝ぼけたことを! 家の人に気づかれる!」 「みんな出払っている。誰もいない」 「なんて腰の据わらない家族だ! 誰か一人くらい残っていろ!」 「皆の予定は把握してある。お前こそ、さっきは纏わりつくような視線を這わせたくせに、観念するんだな」 「冗談じゃないぞ! こんな時間から! 腹へった。晩飯食わせろ!」 「後でイヤというほど食わせてやる。いまは、無理だ――」 すまんと小さく詫びた言葉が耳朶に絡んできた。加減できないとの弱気は舌の上でくぐもった。 「お前の災厄は俺が祓ってやった。ありがたく思え」 お前のための禊だったと人のせいにしてくる。 「卑怯者」 「甘んじて受けよう」 クツクツ哂って戒めは緩められた。その隙を縫って両手を真田の首に巻きつける。 真田の声は腰にクル。そして脳を直撃してくる。そのせいだと、麻痺してしまったと、自ら唇を寄せた。 真田はさらに哂う。 「そうだ。まだ、言っていなかったな」 恐らく――誕生日おめでとう、と囁かれた言葉は最後まで聞き取れなかった。 continue
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