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〜曇りのち雨





「テニスで発散するな、か」
 手洗い場で頭から乱暴に水をかぶりながら、一番痛いところをつかれたなと、手塚は長い嘆息をついた。
 確かにあのとき、目の前のリョーマだけが視野に入っていた訳ではない。どこか散漫で、しかし他を圧倒する テクニックで凌ぐ試合など、相手に対して失礼だと、見ていて不愉快だとまで言われる所以は苦笑するしか ないが。
 ジリジリと身の内から湧き上がってきた怒気。謂れのない、出口のない単純な苛立ち。
 向き合わない限り、いくらラケットを振るったところで解決はない。そんな簡単なこと分かっていたのに。 ただ、正対したくはなかったのだろう。自ら決めたくはなかったのだろう。
 恐らく、そんな身勝手な理由。
 真摯な思いをぶつけてきた幸村の足元にも及ばない迷妄。
 関係ないと突き放しながらもどこかに燻る執着は、影のようについてくる。しかし瞬時に体が動かない 訳は心がついて来ていないからだ。迷う訳は、手にしていたものを失うだけの恐怖か。そこにあの男の 存在はあるのか。
 手塚は頭を振って頭上の時計を仰ぎ見た。
 影が長くなり始めた初秋の夕暮れ。いまから急いでもヤツの元に到着する頃には日はとっぷりと暮れている。 あすの学校だってある。第一自分たちの間には何の確約もなく、縛る権利も絆も存在しない。
 一方的な強い調子で押し切られ、振り回され、捕らえられた二の腕。離せと何度詰ったか分からないほどだが、 それでも前しか見ない自分の横に立つ真田を許容してきた事実が重く圧し掛かる。
 それを心地いいと思い出したのは一体いつからなのか。いつまでもその位置にいるのだろうと、漠然と慢心していた。 その真田が左に逸れる。
 風通しがよすぎる。
 少し――寒い。
 言葉は何かを約するのだろうか。それほど必要なことだろうか。
 手塚はもう一度時計を見た。
 時は容赦なく過去を切り捨て刻々と過ぎる。気づけばサラサラと両手から零れる残骸たち。
 ただ立ち尽くすだけでこの手に何か残る筈もなく。動けなかった言い訳だけで終わりたくない。
 失いたくなければ。
――いや。
 恐ろしいのは喪失ではなく、確かに存在していた想いを全否定してしまうこと。
 このままでは。
 けれど別に急ぐほどのことでも、会って言うべき言葉も見つからないのは事実。電話でもいい。いや、週末でもと、 考えているうちに手塚は走り出した。



――手塚は卑怯だ。
 確かにそうかも知れないなと真田は立ち上がった。
――真田だけは僕のものだ。
 部活を引退したあとに訪れた手に余るような平穏な日常は、彼の平常心を掻き乱すような言葉が何度も降りかかる。 きょうの課題を目の前にしても視線は上滑りを続けるだけだった。
 立ち上がったついでに目に入る彼の携帯。無機質なシルバーがやけに空々しく思える。
 手塚はもう自宅に帰っただろうかと、ふと、そう思った。
 人が動いている日中に携帯にかけるのを真田は極端に 嫌った。移動中に、プレイ中に、誰かと会っている最中に、繋ぎとめる鎖のようだと思えたからだ。
 だから緊急ならいざ知らず連絡を取るのはいつも日付の変わる前。その時間ならほぼ間違いなく相手は一人。
 手塚からの連絡など皆無に近いが、なぜかヤツもその時間を狙う。手塚の場合は寝る前に思い出したという可能性 が高いが、真田はもっと利己的だ。
 誰かと一緒の場面に踏み込みたくはない。
 というより周りを取り囲まれた手塚など見たくも聞きたくもなかったからだ。
 頭を振りたくなるような妄執だなと、真田は己の禁を破って携帯のアドレスを繰った。
 長い呼び出し音。真田は時計を見る。夕食にはまだ早い。これは手塚の逡巡の間合いだ。根拠なくそう思えた。
『……』
 返事なく通話が繋がる音。真田も思わず息を呑んだ。
「俺だ」
『ああ、分かっている』
「元気にしていたか」
『まあな』
 手塚との会話はこんなものだが、いつにも増して続かない。核心を外すからどうしてもそうなる。沈黙ともどかしさに 焦れた真田が直裁に問うた。
「幸村に会ったそうだな。大体の経緯はあいつから聞いた。随分と失礼な科白を吐いたとか。悪かった」
『……』
 手塚からは言葉は返らない。仕方なく真田は続けた。
「アイツも焦っている。思うように動けないもどかしさはお前も理解できるだろうと思う。だからと言って 人を不愉快にしていいというものでもないがな」
 やはり返事はない。カチリと何かが弾ける。お世辞にも真田は気が長いほうではない。
「手塚。聞いているのか」
『ああ』
「だったらなんとか言え」
 僅かな沈黙の後、零れるような言葉がぽつりと告げられた。
『なぜお前が謝る』



「なに?」
『お前が何をした。幸村と俺との出来事でお前が詫びを入れる必要がどこにある。不自然だろう。部長、副部長 の間柄ならなおのことだ。お前には関係ない』
「関係ないだと」
『関係ないさ。それに失礼な言動など今更だ。立海大附属は揃いも揃って傲岸不遜の集団じゃないか。お前を筆頭にな。幸村の 的外れな申し出なんて可愛いものだ。尊大な立海大を束ねているとは思えないくらい物腰が柔らかかったぞ。 お前たちこそ見習え』
 真田は携帯が悲鳴を上げるほど強く握りこみ、低く呟いた。
「手塚、わざと的を外すのはよせ。分かっていながら雄弁に語るなどらしくない」
『相変わらず何もかも分かったような口を利く。ならばはっきり言ってやる。幸村から、お前を返せと言われて、 俺がどう感じたか分かるか』
 歯止めが利かない。溢れる苛立ちをどうすることも出来なかった。
『誰のものだとか、奪っただとか、返せだとか、そんなに縛りたいのなら首輪でもつけておばいいだろう。 幸村に言っておけ。妙な邪推をする前にしっかりと体を治せと。 お前たちにはもう関わらないとな。煩わしいことに今後一切俺を巻き込むな!』
「お前がいまどんな顔をしているのか見てみたものだな」
『自信過剰も大概にしておけよ』
「とにかく一度会おう。携帯では埒があかん」
『必要ない。同じことの繰り返しだ』
「では、俺の顔を見て同じことをもう一度言えばいい」
 ハッと息をのむ音。互いが与えた沈黙は余裕を失った方に不利に傾く。手塚の逡巡が真田には伝わる
 夕暮れなずむ街並み。どこかでサイレンの音がする。彼誰時の帳は二人の間に下りたままだ。だが、携帯をとおして 同じように掻き消えてゆく硬質なその物音に、真田は携帯を持つ手を変えた。
「手塚! お前、いまどこにいる!」



「近くまで来ているんだな! そうだな!」
 サイレンの音は同時に遠ざかっていた。
 引っかくように切られた携帯。ちっ、と舌打ちをついて真田は自室の窓を開ける。玄関に向って真っ直ぐに 開けられたそこからは、邸宅前の広い道路が見渡せた。
 薄闇と同化する漆黒の後姿。見間違えるとでも思っているのかと、真田は自室を飛び出した。
 必要以上に広い自宅が恨めしい。階段を三段で抜き、叩き付けるように玄関を開け、広い前庭から門扉を 飛び出し、見当たらない後姿を捜して携帯を鳴らした。
 どこかで無機質な着信音。すぐに切られる。二度目を鳴らす。それだけで距離が縮まる実感。
 当てなく何度も角を曲がる。手塚に土地勘はない。
 恐らく電源をオフにするつもりで立ち止まった手塚の腕を漸く捕らえた。



 漸く捕まえた。



 向けられた切れ長な瞳。怒りの色がアリアリと浮かぶその様に愉悦の笑みが、つい零れる。抑えられない高揚感。 自然と伸びた腕に閉じ込め、抱き寄せ、抗議も聞かず、壁に縫い付けた。
 早鐘のように打つ鼓動が重なる。追跡劇からの呼吸の乱れなどすぐに収まる。いま残っているのは異なる 理由からだ。
 真田は肩を震わせて哂った。
「だからたるんどると言われるんだ、お前は。逃げるなら事前に下調べでもしておけ」
 ヘラリと揶揄われるのを厭って手塚は顔を背けた。一つ息をついてから唐突に告げる。
「……そういう訳だ。俺がわざわざ出向いた訳は。もう関わらない。だから離せ」
「お前、現国は他の教科よりも劣っているだろう。5W1Hは習わなかったか。まったくもって意味を成さん。 目を逸らすな。顔を見て同じことを言うのではなかったのか」
 言えるものならと囁かれ、反応した手塚が真田の腕の中で暴れる。しかし、膝を繰り出しての攻撃は呆気なく 封じられた。肘で押しやってもびくともしない。悔しいが体格差から喧嘩では勝てない。 ついでに口でも勝った試しはないが。
「お前がここまで出向いたという事実が俺には驚きだ。出不精の見本のようなヤツがな」
 人通りが少ないとはいえ立派な路上で、抱かれ、思考の総てを封じ込まれ。それは手塚が最も忌避すること だったのに、また流されて、直に体温を感じて、何度も口付けられて。
 離れたくはないと、ただそう思った。
 己を呪う言葉は空回りする。
 何度も何度も。
 空を彷徨っていた手塚の手が真田の背にたどり着いたそのとき、真田の携帯が鳴った。



 一瞬の躊躇。固まった手塚が出ろと促す。乾いた空気が辺りを支配し、仕方なく手にすると、そこには柳の文字。
 真田は手塚から離れて壁を背に真横に並び通話ボタンを押した。
「あぁ、どうした」
 努めて冷静に会話をしていた真田の表情が僅かに歪む。ちらりと横目でそれを確認して、なぜか手塚は 顔を背けた。
「……なぜ。そんなことに」
 二人の間の空気が澱む。厭って壁から離れた手塚の手を真田が押し留めた。いたたまれなくなって、それを振り切る。 真田はそれを許そうとはしない。
「わかった。すぐに行く」
 切られた携帯を手に真田はゆっくりと手塚の背に語りかけた。
「幸村が病院を抜け出したそうだ。柳たちと落ち合って探しにゆく」
 そうか、と口に出来た言葉はそれだけだ。さっさと行けとか、幸村にはお前が必要なのだとか、もう、どうでも よくなった。この状況は嫌だ。我慢できない。考えるのも億劫で、真田の手をいま一度振り切った。
「すぐに帰る。おまえは待っていろ。すぐに戻るから」
 言い訳でもないだろう。大切なチームメイトが大変なのだから行ってやるべきだ。副部長として当たり前の 対応。
 けれども。
 払った腕に力を込めて握り拳にをつくり、思い切りバックスイングして。
 到達した先。
 拳は、初めて真田の頬にクリーンヒットしていた。






ごめん、焦れ焦れで(パート2)
しかもまだ続くし。(アレレ?)
こんなリリカルな話はイヤだとわめきながら、たまにはいいかと言い訳。でも ちゃんと落とせるんだろか?
基本的に「受け」はピンで男前が前提なんですが、今回みんな女々しいわぁ〜。そんなつもりじゃ(滂沱)
構成力と設定力と文章力のなさに本気で涙です。