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〜焦燥





 部活を引退し、受験体制に入った最上級生も、合間を縫って気晴らしに姿を見せたりする。内部進学 組みは推薦が内定しているものだから、日参といってもよかった。
 休日明けの青学男子テニス部コート。
「英二先輩なんか毎日でも来てくれた方が華やかになるし」
 とは、新たに部長に決まった桃城の弁。
 たまに大石と二人揃えば、強力な練習相手となってくれる。また、桃城のパワーテニスの相手は河村でないと 勤まらないし、テクニックなら不二はだれの追随も許さない。乾に至っては、下級生の成長に合せた練習 メニューを考えてくれたりする。
 面倒見がいいい。本当にありがたかった。
 三年生が参加してくれているその当たり前の状況で、彼だけは違った。
 引退してからは一度もない。このコートで姿を見かけたことは。
 部長になった桃城に遠慮しているのだとか、外部進学を目指して猛勉強中なのだとか、一度流れた海外 留学の準備に忙しいだとか、やはり大会での無理がたたって調整中なのだとか、いろいろと取り沙汰された。
「手塚さんのケチ」
 リョーマなどは毎日のように零していた。練習相手がいないとそれはもう露骨に。



 けれども、本当に彼だけは違っていた。



 青学レギュラージャージは嘗てその位置にあったという証明。何も在籍中だけの特権ではない。引退した後も 引き渡される。着用も随意だ。
 その日、前体制のレギュラーたちが、いつも身に着けているその目にも鮮やかなスカイブルーが、彼に纏われてコートに 一歩踏み出された。制服姿ではない。それだけで、ざわついていた辺りが束の間、シンと水を打ったように静まり 返った。
「部長!」
「手塚さん!」
「手塚先輩!」
 部活の手を止め、部長である桃城を筆頭に駆け寄ってくる。彼がトップであった頃には考えられない 事態だった。
 想像以上の歓待と秩序の乱れを目の辺りにして、明らかに『グランド三十周』の言葉を飲み込んで戸惑っている 手塚に、苦笑しきりの不二が近づいてきた。
「漸く姿を見せたね。よくもまあ、勿体つけてくれたもんだよ。テニス馬鹿がテニスしないで、いままで何してたのさ」
「我々は受験生だろう、一応」
「推薦受けないの? 外を受験するって噂はホントなのかな」
「まだ、決めていないんだ」
「本気? みんなと一緒に高等部へ行くもんだと思い込んでいたよ。何処を受けるつもりなのさ」
 不二の瞳が不穏も顕わに開かれた。まさかという次の言葉は飲み込んでいる。そんな選択するつもりは ないだろうと、脅迫されているような気さえした。
「同じメンバーで同じ栄冠なんかは、興味ないのかな、君にとって」
 剣呑な物言い。詰る色を肩ですかして、手塚は言い放った。
「不二、悪いが打ち合いたい。相手をしてくれ」
「そんなのもとよりって言いたいけど、先に越前と一戦交えなよ。あいつったら、食いつきそうな顔してる」
「大人だな、不二は」
 そんな視線に気づきもしなかったと零す手塚に、不二は満面の笑みを浮かべた。
「先だとか後だとか、争わないことにしたんだ。君を。戻ってくるから、僕の元へ」
「どいつもこいつもすぐそれだ。確かに大事な時期に戦列を離れた咎はあるし、その原因も自分で招いた かも知れん。関東だって出場したかった。叶うならそうした。出来ないから離れたんだ」
「……手塚、君って時々殴りたくなるくらいテニスのことしか頭にない」
「意味不明だ」
 言い捨てて越前の元へ歩み寄る手塚の背に、不二はポツリと告げた。
「少しは周りを見なよ。でないと君の与り知らないところで足元をすくわれるよ」



 リョーマの放つクイックサーブで彼らの打ち合いは始まった。
 だれもが手を止めてそのコートに視線を送っている。こりゃ、練習にならねぇなと桃城自ら観戦を認めた。
 リョーマのテニスは相変わらず序盤から攻めの様相で一貫し、飛び散る汗と共に黄色いボールを相手コートに 叩き付ける。その力技をいなし、相手の隙と崩れどころを見極める手塚も、リョーマのペースに合せてテンションを 上げてきた。
 弾けるインパクト音。周囲の息を呑む音。コートを蹴るシューズの擦過音。遅れてまたインパクト音。
 現役中も余りお目にかかれなかった対戦に目が釘付けになる。
「手塚さんさ、腕鈍ってないじゃん。どこかでこっそり練習してた? 姿見せないからてっきり勉強ばっか してると思ってた」
 リョーマはネットに詰め、嬉しそうに語りかけてきた。それにはすぐさま睨みが入る。
「試合に集中しろ、越前」
「してるよ、集中。でもさ、こんな機会でもなきゃ、あんたと話せないじゃん。テニス以外のことで 近づいても、忙しいとか言って逃げられるし」
「何を呆けたことを」
 苛立つように手塚は右サイドにラケットを振りぬいた。辛うじて届いたボールをなんとかロブで返す。逆サイドに 振ると予想をつけたリョーマの逆をついて、それを足元に叩きつけた。
 リョーマは高い音を立てて口笛を吹いた。息をつくこともせず、手塚は踵を返してサーバーの位置へと 歩を進める。相変わらず情け容赦がない。だが――。
 ねぇ、不二先輩と幾分眉根を寄せた桃城が近づいてきた。
「部長、なんか攻め急いでませんか?」
「うん。珍しく手塚が凶暴だね」
 あの冷静冷徹を地でいく男も、本来はそういう資質を持っている。けれど部長という指導する立場にあって、 部活内では牙を収めていた観はあった。完膚なきまでに打ちのめす必要も、その気もなかっただろう。 たとえそれが青学恒例の校内ランキング戦でも、彼が本気を出す場面にお目にかかったことはない。
 だが、ごく稀にちらりとその牙を向くこともある。それは相手がリョーマだからか、その他の要因があっての ことか、不二には計り知れない。
 けれども凶暴という表現は当たっているなと、試合から目を離さないで不二は思った。
 リョーマの逆をつく。体重のかけられた渾身の一撃をにべもなく返球する。頭上を越してオンラインで落とす。 あのリョーマが一歩たりとも身動きできないリターン。サーブ&ダッシュ。間合いの極端に短い攻め。
 不二の瞳がスッと絞られた。
「桃、止めた方がいい」
 ハッと気づいたように桃城は手を挙げた。
「そこまで! 越前もういいだろ」



「あ……した」
 睨みつけるように、試合後の握手を求めてくるリョーマの視線を心地いいと感じる自分は、やはりどこか 病んでいるのだろうか。
 押さえ切れなかった苛虐性を、知り尽くしたかのようにギュッと握られたリョーマの右手から伝い来る熱。
 埋り火を持て余す自分とは違い、焼き尽さんばかりに放熱を続ける。
 いつまでも埋めてやらない距離。焦れて、己を苛んで、咎めて、それでもこの後輩はたとえ半歩でも近づこうと腕を 伸ばす。前のめりになる。そしてほんの指先が触れる場所にまで到達してくる。
 その潔さと推進力と溶解度の高さが羨ましいだけじゃないかと、手塚は握手もそこそこにコートを離れた。
 途中、手塚の行く先を遮断するかのように立ち塞がる不二とすれ違う。自虐的な笑みを浮かべて彼は問うた。
「次を相手してくれないのか?」
「したかったけどね。いまの君と一戦交えたら、不愉快な気分にさせられる」
 一刀の元に斬り捨てられた。
 しかし、いかに鋭い不二の切っ先でも最深部を抉ることは叶わない。いっそ到達してくれた方が、後腐れ なくすっきりしたのにと、どこまでも他力本願な自分がいた。
 どこかが膿んでいるという実感。切り裂くことが出来ない臆病さに嫌気が差した。
「不愉快か。確かにそうかも知れないな」
「手塚!」
 不二の腹の底から絞るような声音は、手塚の足を止めるに十分な響きを持っていた。
「君は強い。だけど、驚くほど脆い。人に寄りかかれるだけの強さを持てないって言うんだったら、無様な 姿を僕らに見せるなよ。君の不安定さはみんなに引っかき傷を残すんだ。それくらい分かってるだろ」
「……」
 不二が手塚に食って掛かる場面なんて珍しくもない。現役中もコートを離れるとよくやっていた。一方的に 不二が鬱憤を晴らし、一言二言手塚が返答し、納まるという毎度のパターンだったりするが、きょうの剣呑さに 諌めに入ったのは河村だった。
「不二、よせよ」
「タカさんは黙ってて」
 制止のために添えられた河村の手は不二の肩に置かれたままだ。
「らしくないなんて言わない。そういうところもひっくるめて君だって、少なくとも僕は知っている。 それを認めないのは君の方だ。認めたくないって意地張ってるだけじゃないか。何に拘ってるかは知らないけど、 せめて言葉にしなよ。でないとだれにも届かない。テニスで発散するような真似はするな! 体動かして、 頭空っぽにして、尖って、食らいついて、相手を翻弄して、それが全然見事なんかじゃなくって。そんなテニス 見せられるくらいならね、泣きつかれる方が何倍もマシなんだよ!」
 お節介なと目を細めた。言いたいことを吐き捨てた不二の方が何倍も辛い顔をしている。
 けれど。
「善処する」
 口に出来た言葉はそれだけだった。



「タカさん!!」
 立ち去る彼を見送って、同じように背を向けた。肩にかけられた河村の腕にもたれるように顔を伏せた。 不二の長い前髪に邪魔されて、河村からはその表情は読み取れない。
「不二……」
「あのバカ!」
「だから、その、手塚はバカじゃないよ」
「言葉が届かないなんてサル以下だ。いまどき、ゲームのキャラだって、育てたら何らかの反応を返してくるよ。 言っても言っても無表情で、言っても言ってもまだ言い足りない!」
「その、不二。君は十分言いたい放題だったけど……」
「届かなきゃ意味ない。僕一人ヒステリー女みたいじゃないか!」
「不二はホントに手塚が好きだから」
 空いた手がポフンと不二の頭を撫でた。何度も何度も撫でてくれた。その余りの心地よさに、恥かしさが 際立って、いまさら顔を上げられない。
「冷静になれば気づいた筈だ。手塚には届いていたよ」
「タカさん、それって、どう……」
 見上げた先、河村の視線は手塚の背を追っていた。穏やかな河村の表情がなお一層陽だまりのようで、 つられて視線の先を追った。
「あれは、俺たちの知っている青学手塚の背中だから」
 もう一度、大丈夫だよと言われ、不二はコクンと頷いた。






ごめん、焦れ焦れで!
幸村の登場でうちの手塚に変化が現れます。
それも楽しいと思えるほど大人になったっていうか、 妄想腐れしているというか。溺れる者は藁でも掴むというか。(泣き)
溺れかかってたのか? ハイ。瀕死でした。
そんな感じです。(苦笑)