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〜願い





 全国大会が終了し、その余波も冷めやらぬ頃、突然その男から連絡が入った。
 不躾でゴメン。でも、一度会いたいと。
 手塚は携帯を手に暫く固まったままだった。
 接点などない筈だとは正直な感想。互いに共通の友人はいるが、二人っきりでどうしても話したいことがある と重ねられ、気が重いという感想しかなかった。
 渋々承諾すると、明らかにホッとしたような溜息が落とされ、それが一層受けなければよかったという 思いに拍車をかけた。
 厄介なことだと。
 次の休日。彼が指定したのは、ターミナル近くのカフェテリア。
 店内に足を入れ、探すまでもなく一目で彼と知れた。手塚を呼びつけたその相手は、通りに面した窓に肩を預け、 行き交う人の群れを悠然と目で追っている。
 儚げで消え入りそうな横顔。これほど線の細い男だったろうかと、彼が背負った背景にただ、目を伏せて しまった。
 手塚の姿を発見するなり、小さな笑顔をつくったその男は、開口一番、ゴメンと詫びた。
「本当なら僕の方から出向かなければいけないのに。こんなところまで呼び出してしまって。実は、まだ退院 出来ないんだ。外出許可を貰っただけだから、遠出は無理なんだよ」
 そう言って、ふんわりとした笑みを送られた。



 立海大附属中テニス部部長、幸村精市。



 面識はほとんどない。昨年の大会で顔を合せたくらいで、その後不幸なことに入院生活を続けているという。 真田からの情報のみの男だった。
「まずは全国制覇おめでとう。凄いチームになったって、真田が褒めてた。人を見ると説教をかますか、小言を 並び立てるかのアイツがだよ。やはり君は凄いよ、手塚くん」
「ありがとう」
 それ以外の言葉は出てこない。他に何と言えばいいのだろう。どんな答えを期待しているのだろう。
 その心中が察せられたのか、幸村は癖のある髪を揺らして穏やかそうに笑った。
「見に行きたかったよ。見にじゃない。コートに立ちたかった。部長という責務からじゃなく、 ただのテニスプレーヤーとして立海のみんなと一緒にいたかった」
「まだ、その、退院には時間がかかるのか?」
「……うん。そうかも」
「そうか」
 以前真田に――おまえたちを見ていると、何の障害もなくテニスを続けられる僥倖は、ただの偶然だと 思わされる、と言われたことがある。更に苦虫を踏み潰したような表情で、
「だが、おまえの場合は不養生が原因だがな」
 と付け加えられた。
「不養生などした覚えがない」
「それは失礼した。ならば言い換えよう。己のキャパを無視した負荷のかけ過ぎだ。練習は積めばいいと いうものではない」
 その後、スポーツ理学に則れだの、筋肉を休める重要性だの、青学にトレーナーはいないのかだのと説教を 食らい、はいはいと聞き流していた記憶がある。
 手塚の怪我は外的な要因を取り除きさえすれば回避できたと言い切るところから、幸村の場合は天災に 見舞われたようなものなのだろうが、それがどのような種類なのかまでは、よく知らない。 聞いてもいなかった。
「それで用件とは?」
 いつまでたっても核心に触れようとしない相手に焦れ、つい詰るような口調になってしまった。幸村は ほんの少し視線を落とす。しかし最初から相当覚悟を決めて、呼びつけたのだろうとは、次に告げられた 言葉から窺い知れた。
「君は何もかも手に入れたじゃない。日本一の称号も、そのチームを率いた部長であるという賞賛も、 苦しみと同等の歓喜も。でも、僕には何もないんだ。この身動きのままならない体だけで。だから――」



――だから真田くらいは僕に返して欲しい。



 その後どうやって別れたか覚えていない。
 まるでお気に入りのCDなんだから早く返して、とばかりの恬淡とした調子で、その分、覆い隠し抑圧された 感情の底に澱む昏い闇が手塚を圧倒した。
 返せだなんて心外だと、なぜあの場で言えなかったのか。冷静であれば、あんなヤツだれが所持しているものか と反論もできた筈。
 だれのものでもない。まして俺のものでも。
 なぜ、言えなかっただろう。
 放り出された雑踏の中、足早に過ぎ去る人々の群れに贖うように手塚は立ち止まった。
 何もかも手に入れたとはどのポイントを言うのだろう。
 全国制覇の栄誉は、その瞬間から過去のものとなる。ゲームセットの声を聞いた時点で、どの学校も 打倒青学を目指し来年に備える。
 山を越えれば目の前にあるのは、また別の山。踏破した事実だけを頼みに、目の前の山は越せない。
 確かに同じフィールドに立てなかった苛立ちは理解できる。できるがそれを振りかざされ、何かの代償を 求めるなんて的外もいいところだ。
 けれど――
 陽に晒されることのなかった幸村のほの白い容貌。手塚のように焼けないのではなく、それすら届かない。
 青い血管の目立つ腕。
 諦めきれずに諦めた横顔。
 穏やかに、そして最後にチラリと見せた激しい熱。
 真田への一直線な想い。
 大嫌いな雑踏の中、人の流れはさまざまで、それでも目的に向って歩き続ける。
 ここにいれは迷子になる。強い思いのない者は弾き出される。
 それよりも居場所がない。
 手塚はそのことばかり考えていた。



「きょう、青学の手塚に会ってきた」
 真田が病室に入るなり、唐突に幸村はぶつけてきた。そのまま、僅かに視線を絞ったふうの真田を 観察するように彼は押し黙ったままだ。
 束の間、真田の視線は幸村を捕らえ、そしてゆっくりと外される。かわすなよと幸村は呪った。
「外出したりして大丈夫なのか」
 意図も顕わな、的を外した問いに幸村は天井を仰ぐ。それすら真田は見ないフリをするのだろうかと。
「何を言いに行ったんだって聞かないのか」
「外はまだ暑い。出掛けるのなら十分気をつけるんだ」
「余裕だな。手塚を傷つけたかも知れないのに」
「おまえはそれほど愚かではない」
「そんな信頼、欲しくないな」
「何が言いたい。愚にもつかんたわ言をいつまでも聞いているほど俺は暇ではない」
「そんなに忙しいのならここに来なければいい。哀れみの惰性か。いまさら引けない同情か。 無様にクサる僕も、おまえに当り散らす僕も、総てひっくるめて抱えきれないなら、もう来るな!」
「幸村――」
「一緒に戦うことも苦しむことも出来ないで、おまえたちの後姿だけを見続けて、何もかもおまえに任せきりで、 そんなお飾りの部長が何処にいる! 僕の居場所なんかどこにもない。こんな状態になって、どうして 名前を残したんだ。あのとき、どうしておまえが部長にならなかったんだ。おまえたちに情けをかけられて、 僕が喜ぶとでも思ったのか!」
 いたたまれず、真田の手が、震える幸村の肩を押さえにかかった。ごっそりと筋肉の落ちた、嘗ての名残さえない細いその 肩に触れ、ビクリと指が慄く。
 すぐさま、えも言われぬ哀しみに満ちた幸村の視線とかち合った。
 くっと唇を噛み、目を伏せた幸村の緩やかな髪が真田の腕にかかる。
 髪先から伝播するものがあった。



 助けを。



 彼らが現役の間、どんな辛い治療にも孤独にも無言で堪えていた男が、ここにきて悲鳴を上げている。何も 出来ない。約束すら果たせなかった。
 ただ幸村が詰る理由は他にあって。それは明白で。それに応える言葉を己は持っているのかと、責めに似た思い が去来した。
「おまえは最後まで俺たち立海大附属の部長だった。同じコートに立てなくとも、一緒に戦っていたのでは なかったのか。少なくとも俺たちはそう思って戦っていた。おまえは違ったのか」
「……したい」
「幸村」
「テニスがしたい!」
「いまは無理だ」
「おまえの隣に並びたい!」
 思いのほか強い力で引き寄せられ、幸村の両腕が真田の首筋をからめ取り、肩の辺りに顔を埋めた。 バランスを崩しかけ、ベットに手をつく無理な体勢から、幸村にしがみ付かれたままそこに腰掛ける。
 病人独特の匂い。それがこの華奢な体に染み付いている。
 真田は片手でその腰を抱き取った。
「手塚に何を言ったんだ」
「……おまえを返してくれと」
「あいつの困惑した表情が目に浮かぶな」
 茶化すなと彼は腕に力を込めた。
「手塚は卑怯だ」
「そう言ったのか」
「手塚はズルい。欲張りだ。努力する気概も、それを持続させる熱も、痛みに耐える力も、人を惹き付ける人望も、 栄誉を手にする幸運も手に入れて。僕が何一つ実現できなかったもの、欲しかったものを。だから――言った」
 そう言って幸村はゆっくりと視線を上げる。潤んだ瞳に吸い寄せられて、真田は身動きできなかった。
「他になにもいらない。真田だけは僕のものだと」
「幸村――」
「僕だけのものだ」
 真田の首に絡めていた腕が解かれたのが合図だった。
 眩暈がするほどの衝動。
 どちらが望んだ形なのか、呪う言葉すら飲み込まれた。








今しか書けない。たぶん。勢いのみで強行しました。
幸村、ヤな奴になってないといいけど。 初書きだったから、考えたのはそればかりです。
天然いい子じゃないな。演じてる気もする。それが嫌味じゃ なくって健気なタイプ。重い背景をしょってるからというのがMY設定。
原作に多少の動きがあっても これで暴走しますぅ。