「やっぱ躰が重いな」と言ったのは三井だったか、「手首が堅くなってる」「だからだな。バックスピンがかかり辛い」
と返したのは木暮と藤真だったか。花形なんか「床が滑る。整備がなってない」と呟いて率先してモップがけをしている。
仙道もそれにならった。もう一本を流川に差し出して、コートひとつ分、ランニングもかねて走り回った。
淡々とアップを終えた彼らはそれでも飄々と軌道修正を行っている。サイドライン側のゴールに幾つもの放物線が
舞い、モップを仕舞い終えた流川が、そのひとつひとつを目で追っていた。
牧が何気にひょいと放り投げゴールに嫌われ跳ね上がったボールを、一直線に走り込んできた桜木が横からかっさらったのが
切欠だった。それを奪うと怒涛のストライドで逆ゴールへ向って突っ走る。喧嘩っ早いねと一同が呆れる中、そのコース
を遮って切り込んだのは流川だ。こちらも瞬間湯沸しの点火は早い。
流川が腰を落とす。包囲網を敷く。まだ初心者レベルを抜け切っていない桜木には中央突破しか手はなく、反則承知で
突っ込んでくる躰から身を引いて、流川は彼の手と目線の動きだけを見ていた。
いったいいつの間にここまで成長したのか、細かく打てるようになった
ドリブルの合間、手を離れた瞬間を狙ってそれを奪い取ると、その場に残るのは呆気に取られた桜木の棒立ちの躰だけ。
このタイミングで奪われるとは思ってもみなかったのだろう。振り向く間もなくドリブル音が消え、男たちの様々な色を
なす視線の中で流川の躰は宙に舞っていた。
ガツンと体育館中に響く衝撃音。ギシリと一度フープを揺らして流川は地上に降り立つ。その瞬間、天井からの照明を
サラリと弾く黒髪の流れすら見て取れて、我に返った桜木は肩を怒らせて走り出した。
「こんの流川っ! てめーばっかにいいカッコ、させられっか!」
「ふん」
「不意打ち、食らわせといて、エラそうに、顎上げてんじゃねーっ」
「るせーんだよ。サルの上にザル。ボロボロの穴だらけ。、てめー、ディフェンスの練習、してなかっただろ。
大口叩くんは、カタチが出来てからにしろ」
「なにぉっ。てめーこそ、モヤシの親戚みてーな体格から全然成長してねーだろうっ。この軟弱虚弱もんがっ」
「バスケはガタイでするもんじゃねー」
「んなわけあるかっ。てめーみたいなんが、ぴょんぴょん跳ねたって、ちっとも怖くねーんだからよっ」
「ただデカイだけの壁なんか、いくらでもかわせる」
「負け惜しみ、言ってろ!」
「あーもう、煩せぇガキどもだっ。さっさと始めようぜ」
「みんな、アップは大丈夫か?」
藤真が嘆き牧が重ねて、猛獣ふたりを牽制しつつ、ティップオフの合図もなく、チーム分けも至って適当に、それでも
全員がオレンジ色の軌道を追って目の色を変えた。
かつて夢が半ばで潰えた男たちがいた。否応のない現実に膝を屈した男たちがいた。敵味方入り乱れて交差する
この長方形のコートでは、真冬ですら密な濃度でままならない呼吸器官が喘ぐ過酷なスポーツだ。純粋に高めた技術
だけでは渡ってゆけない現実があり、だが離れてしまったその熱から逃れられない男たちでもあった。
いったいだれが始めたものか、たったひとつのボールを目指して奪い合う。なにに惹かれてなにを求めて、走り出し
走り続けるのだろう。切欠こそさまざまで、けれどその視線の先にあるものは絶対唯一のものだ。
そこにボールとコートがある限り。
牧が藤真と対峙する。三井と木暮が得意の角度に回り込む。花形と桜木はゴール下で何度も躰をぶつけ合った。
汗が散る。息遣いが耳元で聞こえる。そしてまだ肌寒い初春の、初めて訪れたこのコートで、流川の前には仙道がいた。
いつだって目の前にいた。
あの、ひとを小ばかにしたようなしたり顔の下、いつものように飄々と流川との間合いを計る。肌と肌が触れ合う息苦し
い接近戦を制する身体能力の高さも、詰めたはずの距離を許すその瞬発力も、そして視線すら動かさずに味方の位置を
把握できる瞬間視と動体視の協応運動能力も、いまの流川には到底及ばないものだ。
だから、煽るように下げた眉の動きにかき混ぜられた躰の熱は、霧散することなく澱り留まってゆくだけで、それを知って
仙道は笑む。流川の苛立ちも困惑も総て丸抱えするような笑みだ。
「まだまだおまえにとっ捕まるわけにはいかねーからな」
「言ってろ、このニヤケ野郎っ」
「カッカしても、縮まんないぜ」
この距離は。
そんな分かり切った事実を突きつけてヘラリと哂い、仙道の手にあったボールは、上下のコースを阻む流川の厳しい
ボディチェックの隙をぬい、床に叩きつけると見せかけその頭上とおり藤真の手に落ちた。
「ナイスパスっ」
戻る木暮を尻目にワンフェイク入れて、藤真はバスケ教本どおりのキレイなジャンプショットを決める。藤真、三井、
仙道、桜木チームの初得点だった。
「ざまーミロ、ルカワっ。おめーこそ、あれからなにひとつ成長してねーだろうがっ」
自分のことのように喜んで煽る桜木を尻目に、どあほう、とはき捨てて流川は顎を上げる。そう。桜木と諍いあっている
余裕はなかったのだ。
中学最後のこの瞬間。出逢った彼らとの邂逅を純粋に嬉しいと思う。牧から飛んできたボールをまた牧に戻して走り
出し、その前を遮るように躰を張る仙道のディフェンスをステップを変えて振り切り、また囲まれて、対峙するたびに
上昇する鼓動を持て余しながらボールを死守した。
どう動けばこの男をかわせるのか、この展開でどう振り切ればいいのか、真っ向勝負か、もう一度戻せばいいのか。
木暮に回して仙道を置き去りにする。プレッシャーがなくなってインサイドの密集地帯に切り込んで、そう思ったのも
束の間、背後から伸びてきた男の指がボールの方向を変え、腕を伸ばしたけれど間に合わず、舌打ちをしながら
テンテンと転がるそれを追った。
バランスを崩しながら取り戻して振り返ると、またあの男の笑みが真正面にあった。大きく両手を広げたその姿勢が
なぜか羽根を広げ地上の小動物を狙う猛禽類に似て、身震いを覚える。囲まれていると錯覚する。そう思うと同時にその
高みから引きずり降ろしたくなる激情に駆られた。
けれど、喰らいついても喰らいついてもふたりの間に横たわる差は縮まらない。些細な原因から休部していたあのときでさえ
そうであったものが、居場所を取り戻して本気になった仙道の多彩な攻守は圧巻ですらある。
もっと子供のころ、牧のプレイによって目覚め一気に開花し、敵はいつだって超高校級の従兄弟だったのだから、
流川の目線が高くて当然だ。けれどその固執さゆえに周りから浮き、だれのせいにもしない代わりに、
大切な試合ひとつひとつ、なんの記憶も感慨もない時間だった。
いまはそのいっときすら惜しい。
流川の中でぽっかりと空いていた大きな空洞。その隙間を埋めてまだ余りある男の存在に引き寄せられたのだとしたら、
それはもう自然な成り行きだと思うようになっていた。そしてまた固執する己の視野の狭さと、この偶然と、身近にある
だけで感じる恍惚感と、それに翻弄されつつもなお近づきたいと願う強欲さと、総てを引き連れて流川は高校生になる。
いつか。
この唯一の存在を凌駕するために。
当の仙道が目を見開くくらいの鋭いドライブで、きょう初めての流川のジャンプショットが決まった。
藤真の思いつきから始まったこのお遊びにも、たぶん、それぞれの内包した想いが凝縮されていた。したたる汗と久し
振りに張り上げた大声によって洗い流されるものもある。だれも得点などつけていないから、どちらがどうとか問題じゃなく、
それでもゲームの中で一度や二度、全盛期に匹敵するプレイを体感できたはずだった。そうなると欲が出てきて当然なの
だけれど、哀しいことにこれ以上は躰の方が先に悲鳴を上げた。
「くっそぉ。もう、動けねー」
「オレもだめだ。腕が上がらないよ」
けどさ、と仙道はタオルを手にしながら目を細めた。
「あんたたち六人でスリーオンスリー。ホテルの目玉にしたらすげぇ、客寄せになるんじゃない?」
「無理。んなもんやったあとでディナーなんかつくれっかよっ」
「立ってるのがやっとかもね」
「ミッチーもメガネくんも年だな、年っ。だらしねーの。オラぁ、いまからだってもう一試合できっぞっ」
「るせーんだよ。てめーのは若いだけだろーがっ。オレだっててめーくらいのときにはなぁ、底なしの体力と目を見張る
よーなテクニックで時代を席巻したんだっ」
「ウソつけ。メガネくんが言ってたぞ。しょっちゅう、試合中にバテてたってな」
「そうなんだよ。あのときの三井にふつーの体力があったらな。そりゃ、スゴイことになってたと思う。うん」
「木暮っ」
怒鳴ったついでにとうとう三井はしゃがみ込んでしまった。手にしていたボールを木暮ではなく桜木の足に目掛けて
投げつけて、それをひょいとかわした男は「このノーコン」と、エラソウに仁王立ち。反撃しようにも尽きた体力では
手足じゃなくって口しか返せない。
「ガキ。どシロート。体力だけ男。赤点スレスレの田舎もん」、なんてはき捨てて、状況を察した花形が桜木を羽交い
絞めにしたが、「田舎もんはてめーも同じだろうがっ」と、ああ、喧しい。牧は「どっちがガキだ」と諌めるしかない。
静謐でいて神聖なゲームが一瞬にして霧散してしまった。牧や藤真が諦めて動けないのは、既に上がり気味の顎のせいだ。
「年とは耳が痛いな」
「おまえの場合、過度の酒と慣れないデスクワークと接客と資金繰りと仕入れ先なんかへの折衝のせいだ。無理して
不摂生の悪循環からだろう。年なんか関係あるか」
「心配してくれているのか嫌味なのか、相変わらずよく分からんな、おまえは」
あしたは筋肉痛だと牧が肩を回し、ほんとに年寄りなら一週間後だと藤真は指を組んで大きく腕を伸ばした。
お祭りは終わりだ。
流川の前を行き場を失ったボールが転がってきた。少し屈んで取り戻して、両手で挟んだそれを流川はコツンと額に
当てた。火照った肌にヒンヤリとした感触が気持いい。その祈るような仕草に、からかいかけた仙道の指は宙に浮いた
ままだった。
流川があのボールに願うことはたったひとつだ。
全身の筋肉が引き千切られるその瞬間まで、走り続けさせてやってくれ。
オレもゆくから。
それは仙道の願いでもあった。
「満足したか?」
厳粛な雰囲気を裂くように無粋な言葉を投げかける。流川がチラリと視線を寄こした。
時おり海南大のメンバーたちに混ざってコートを駆け回っていた中学生だ。技術的には比べようもない。けれどもっと
精神的なもので満たされた顔をしている。藤真にどう詰られようが、『テロメア』に連れてきてやってよかったと思って
いると、仙道にしか届かないような小さな呟きが漏れた。
「……と……」
「なに流川? 聞こえないよ」
「……う」
「なんつった?」
「どあほー」
ほんとうはちゃんと聞き取れた。ちゃんと届いた。この流川が、この不精でものぐさでずぼらな横着もんが、たぶん
自発的に自分から告げた礼の言葉なんだから聞き逃すはずがない。
その後、併設する大浴場に全員で乗り込み、190センチ超級の大男が我がもの顔でのし歩くするものだから、ほどなく
貸切状態になったのはご愛嬌だ。まったくもって健全なスポーツの後の裸の付き合いなのに、惜しむことなくさらけださ
れた流川の肢体も、湯船の中でほんのりと色づく肌理の細やかな肌も、見慣れたと平静を装うほど老成はしていない。
よほど欲深な顔をしていたんだろう。
「冷や水、頭からかけてやろうか」
と、洗い桶にいっぱいの水をたたえ、ニコリと笑った藤真の顔がそこにあった。
「あとでちゃんと慰めてもらうから、いいすよ」
そう言い切ったあとの表情が怖くて、早々に退散した仙道だった。
戦い済んでひとっ風呂浴びて『ホテルテロメア』に帰り着けば、エントランスから続くラウンジにあったソファ
が脇に寄せられ、それなりのスペースが出来ていた。車座になれば大男の十人くらいは座れそうだ。
ここで、ドンチャンしてもいいんですかと仙道が聞けば、カーペットを汚したらコロスと藤真は言い放ち、花形は
ブルーシートを敷いたらどうだ、と進言している。
「花見じゃないんだから、ブルーシートの上なんかで呑めるか」
「気分でねーぞ」
「だが、あしたは予約客が入ってるんだ。ここを汚さない自信があるんだろうな」
「酒豪で酒乱なのはおまえだろ、花形っ」
「そーだっ。酒グセわりーって聞いてんぞ。暴れんなよ」
「おまえだけに言われたくないぞ、桜木っ」
「なんでオレだけなんだよ!」
「ここがダメなら牧の部屋か? 事務所兼だからあそこが一番広いけど」
「いくらなんでもこの人数は無理だ」
「ま、そうだな。なにか不手際があれば、そのものが責任を持ってチェックインまでに整備整頓メンテナンスを行う、で
いいんじゃないか。みな、節度を持って楽しむように」
このメンツに向って節度を問うおまえが一番節操ない、と藤真は冷やかしたものの、そこへ、帰ってからどこへ消えていた
のか、サンドウィッチを乗せた大皿を抱えた流川が現れた。きっとわき目も振らずにキッチンへ直行して、冷蔵庫に頭を
突っ込んだだろう。気が利くのではなくて、ただ我慢が出来なかっただけで。
当然、藤真の眉が跳ね上がる。
「……流川――」
「なんすか?」
「オレたちはいま、ここで食っていいものかどうか議論してたんだ」
「なんで?」
「食事のたびに食べこぼしたり、グラスを引っ掛けるようなお子ちゃまがいたりするからだよ」
「桜木?」
「おめーだっ、おめー!」
すかさず桜木の矢のようなツッコミが入るけれど、ハラが減って思考能力80%ダウンの流川の耳には届いていない
ようだ。
「厨房で食うんすか?」
「そういう問題じゃなくって、ちょっと待てって話で――」
満腹状態でもひとの話をちゃんと聞いているかどうか怪しい流川だが、ハラが減った、と、しゃがみ込み大皿を
抱え込んで、自分で取ってきたのだからコレの所有権は自分にあるとでも言いたげ。このままトロトロしていたら、
だれに口にも入らない展開に陥る。
「って、仙道っ!」
藤真はその名を呼ぶしかない。
「またオレ? 保護者は牧さんでしょうが」
「おまえがコイツのダーリンなんだろう。牧は流川が絡むと好々爺なんだよっ」
「へぇ〜、認めてくれたんだ」
「言葉のアヤだ。なんでもいいから、流川を押さえとけ。料理が並ぶ前になくなってしまう」
流川の膝にあった大皿を横取りして、取りあえず藤真はサンドウィッチをひとつほお張った。
continue
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