Hotel Telomere in
whoop it up !




two




「へぇ〜、なかなかのもんだな、これは」



 このホテルの規模の関係上、残念ながらどれも同じ大きさのツインでしかなかったけれど、シックな窓枠から望む 水天一碧の湖と青碧にかすむ山並みと、丹精に集められた部屋の調度品とが、切り取られた絵画の一部のように目に 飛び込んできた。
 ここでアルバイトをしていたときは、とりたて気に留めるほどでもなかったそれが、少し距離を置いたいまとなっては 思わず感嘆の声を上げてしまう情景だ。ましてや、先に入ったあの無粋ものの流川でさえも、部屋に入るなり窓に近づき 見入るような間合いを持っている。そして漆黒の髪を揺らして背後の仙道を振り返りそうになるから、思わず手にして いたバッグを放り出して背中から抱きしめた。
 なのに。
「なに?」
 腕の中の存在は漆石の瞳に仙道の姿だけを映し、それでもそう睨めつけてきた。ふたりきりで旅行に来て、これはお約束 の展開だろう。旅先でなくたって隙があれば触れあいたいと思うのは当たり前で、こんなものに理由が必要になって しまったら、そこで恋は終わってると言っていい。
 けれど流川の中でその恋が始まっているかどうかすら怪しいから、苦労するわけで。
「すぐそうやって、なに、とか聞くだろう。ここでおまえと出会ったんだなって思ったら嬉しくなったんじゃねーか」
「だからってなんでくっつくわけ?」
「久し振りだから。抱きしめんの」
「先々週も会ったけど」
「入試を控えて我慢してたからなぁ、本気にならないようなキスで止めてただろ?」
 と、真昼間から聞くに耐えない科白を耳朶の辺りに落とせば、流川の反応が一拍遅れる。肘で押しやるか、お決まりの 「どあほう」で撃退するか迷っているうちに仙道は、白々しいような仕草で手を離した。それこそ、 ぱっと音が立つような呆気なさで。それこそ流川の方が目を瞬くほどの素早さで。そして、
「この件に関しては、おまえを説得しようとは思わねーよ」
 と、空いた手でクシャリと髪の毛をかき混ぜる。
 仙道の過剰なスキンシップに咎める声を出してしまうのは、もう、流川の習い性だ。以前から幾度となく「オレのこと好きか」 と問われ「どあほう」と返してしまったのは、条件反射そのもの。「きょうなに食べたい」「炒飯」とまったく同レベル。 彼に悪気はない。褒められた話ではないが、流川のぶっきら棒が筋金入りなら仙道の気紛れはその上を行っている、 と思う。
 拒絶の声を封じ込めて強引に推し進めるのも、いまみたいにこうやって簡単に引いてゆくのも、読めた試しはなかった。 だれが入ってくるか分からない場所だからなんて常識、誓ってもいいが仙道にはない。ひと気のなくなった 公園のストバスコートや、海南大の更衣室でだって、腰が砕けるようなキスを平気でかますヤツなのだ。流川のスタンスは いつだって変わらない。いつだって仙道のペースだ。被害者ヅラして眉なんか下げるな、と言ってやりたい。
「たまには流川の方から抱きついて欲しいよな」
 近頃よくこんな薄ら寒い科白を吐く。だれが、とそっぽを向いて仙道が笑んで、それでもその腕に抱きこまれたり するものだから、これは仙道なりの義務であり通達事項だ。ほんとうにそうなるとは期待していないらしい。
 それでも。
 呆気なく遠ざかった温もりに、流川の中でなにかが確実に蓄積してゆく。
 なんだろうと思う間もなく仙道はもう部屋の外に出ていた。「ハラ減ったからメシ、早く食いに行こう」と手招きする言葉 に艶や色や駆け引きはない。気分を害しているふうでもなかった。
 もう一度なんだろうと心の中で反芻して流川は仙道のあとを追った。



「えっ。ほんとに宿泊客はオレたちだけなんすか?」
 流川の母を見送ったあと、ダイニングに入って仙道は目を丸めた。
 もともとホテル料金に昼食は含まれていない。また十時のチェックアウトから三時のチェックインまでの空白の時間帯 でもある。が、次の来客に備えての怒涛の時間帯でもあったはずだ。なのに、ダイニングのテーブルを四つくっ付けて、 いかにもてんでバラバラの賄いを並べて、テロメアのスタッフ全員が顔を揃えての昼食なんか、考えられない。 不思議に思って口にすると、「他は断ったから」と藤真から簡潔な答えが返った。
「言っただろ。貸切だって」
「あれは、言葉のアヤかと思いましたよ」
「その方が心置きなくバスケ、できるからな」
 そう言ってチラリと視線を流川に送れば、バスケのひと言に反応した少年は、スモークチキンのサンドイッチやシュリンプ サラダやボロネーゼの中から、お気に入りのラスクを見つけ出し、そればかりもぐつかせながらついと顔を上げた。
「流川、菓子食うのはメシが終わってからにしろ」
「そういやぁ、ここにいたときから流川はラスクに目がなかったね」
「そうそう。大量にパリジャンが売れ残ったら、めちゃくちゃ嬉しそうな顔してやがったもんな、コイツ」
 通常、残り物のフランスパンやデニッシュトーストで再生される焼き菓子だ。お手軽なヤツ、と笑う三井の声も流川の耳に は届いていないようだ。
「バスケ?」
「うん。近くの体育館、借りたから、みんなで遊ぼう」
「お優しいだろ、藤真サマは。あり得ねーぞ。なんか裏あるぞ。心してかかれ」
「煩いよ、おまえ」
「いいのか?」
「ま、そういう一日があってもいいだろうということになってな」
「流川、メシ」
 流川は仙道の諌めなど聞いちゃいない。だれが見てもソレと気づく正真正銘の笑みを浮かべ、牧だけを見つめていた。
 知らず、仙道の眉根が寄る。
 そんな潤んだようなアツイ視線、アノとき限定なら手に入れたことはあるけれど、生理的な欲求でもなんでもなく、ただ 心の底からの喜びを隠すことなく微笑まれたことなんか、哀しいことに一度だってない。自分的にはなけなしの時間を割き、 お勉強会の名を借りたバスケ勝負だって、近頃はさも当然といったふうに顎を上げるだけだ。
 なんだこの違いは。他人には傍若無人で身内に優しいってどういうことだ。仙道、心の底からの叫びは藤真にだけつうじて いたようで、満足そうにうなづく横顔が目の端に映った。
 従兄弟同士の熱っぽくも甘やかな――見るに堪えない語らいは、いまや佳境だ。
「紳兄ぃも、する?」
「あ、ああ」
「練習してんの?」
「躰が鈍らん程度にな。だがおまえたち現役組と一緒にするなよ。オレたちが相手できるのはお遊びのバスケだ」
「走れる?」
「休み休みならな」
「それでもいい」
「楓――」
「一緒にバスケすんの、オレの夢だったから」
 おいおい。どこの流川楓だ、おまえは。仙道は思わず突っ込みたくなった。無愛想で無頓着でぶっきら棒でつれなくて。 プライドが邪魔をして欲しいものさえ欲しいと口に出来ない無精ものだったんじゃないのか。なのに、なんだ、いま。 ほんのり顔を赤らめて「夢だった」ときた。めちゃくちゃ素直じゃないか。
 そんな流川なんか見たことねーぞという抗議は、穏やかな容貌を突き破ってとうとう表出したようで、藤真があからさま ににっこりと微笑むから余計にムカツク。テロメアに予約の電話を入れてからきょうまで、あのとき絶句した敵は流川の 性質を踏まえた上での謀略を用意していたようだった。
 その容赦のない攻めは波状攻撃となって仙道を襲う。
「流川は牧のプレーに影響されてバスケ始めたんだってな」
「そう」
「そのとき神奈川の双璧PGって呼ばれたのはオレなんだ。予選で対戦したのもオレ」
「へー、そうだったんだ」
「凄かっただろ、牧は」
「うん。紳兄ぃの周りにボールが吸い寄せられんだ。でもそれは自分から動いて集めてんだって気づいたんは、ずっとあと だったけど」
「よく見てたな。そのときっておまえ、小学生だったんだろ」
「すげぇもんはすげぇ。そんくらい、分かった」
「手放しの褒めようだな。ほとんど、牧教の信者ってか?」
 藤真だけじゃなく、面白がって、他意のないはずの三井まで煽ってくれている。なにやら風雲急を告げ、暗雲立ち込める テロメア周辺――いや、仙道の頭上と言ったところだ。
「トクベツだから」
「特別ね。流川にとって牧は初恋みたいなものだな?」
「ん。そーかも」
 効果音はまさにドンガラガッシャン。言ってくれたよ、と嘆くべきか、言わせてくれたなとひがむべきか。 牧のプレイは、じゃなく、あえて牧はと藤真は言い切った。彼に対してだけはエラく素直な流川ときたら、なんの衒いもなく 答えている。「どあほう」は何処へ行ったと聞きたい。
 藤真の手前、頭を抱えるわけにもいかなかった。
 たぶん、平静は装えたと思うけど。
 ポイントはどうやらイーブンどころじゃなさそうだ。



「楓の子供のころ? そりゃ、可愛かったさ」
 時間どおりに桜木が軍団を率いて現れ、「てめー、なにしてんだ?」「いまは立派に客」「客だぁ。ナマ言ってんじゃ ねーぞ」「相変わらず煩せーサル」「あんだとぉ!」と、ちょっと懐かしく感じるジャブが交されたあと、木暮がハンドル を握るマイクロバスが一同を乗せて町立の体育館へ向っている最中だった。絶対にわざとやってるだろうという話題が 藤真から振られた。
 よりによって流川の、もっと子供のころの話だ。このメンツの中では牧だけが知っている事実をわざわざ掘り下げられて、 瀕死の身からすれば追い討ちもいいところ。どうやらこのあとの、仙道のお得意分野に入り込む前に、もう少しポイントを稼いでやろう という算段らしい。けれど聞かないフリをしてもつい耳は拾ってしまう。
 なにせ、コレのあどけない姿を想像してしまうのだから、ムカツクやらにやけるやら、ちょっと忙しい仙道だった。
「なに? コイツそんなときからこんな仏頂面だったわけ?」
「そうだな、豊かだったとは言い難いな。たったひとつのものしか見えてないってのも、美人だとか可愛いとか言われて、 言ったヤツの脛を蹴り上げて睨みつける凶暴さも、いまと変わらん」
「そのころから培われてたか」
「あぁ、そのギャップが見てるぶんには愉快だったな。そういやぁおまえ。あのインハイ予選のとき、試合終了後に控え室に 来てくれたよな。楓がどうしてもお祝いが言いたいからって、叔母さんに聞いて驚いたぞ」
 ほとんど母の手を引くように息を弾ませながら控え室に飛び込んできた八歳の従兄弟は、下級生が仕舞おうとしていた 海南大附属のネーム入りのバスケットボールを小さな手でつかむと牧に差し出したという。「オレもバスケ、する」「兄ちゃん みたいになる」「あんなふうにゴールしたい」「どうやったら負けないの」「ねぇっ」と、普段は無口な子供の口から 零れた言葉は、ほとんど絶叫に近かった、と。
「そんなこと言ったっけ?」
「おまえの泣きそうな顔を見たのも、アレが最初で最後だな」
「泣いてねーよ」
「泣きそうだとオレは言ったんだ」
「そんなツラ、してない」
「目に涙いっぱいためて、いまにも零れ落ちそうな状態を世間ではそう言う」
 牧はふくよかに笑う。流川が口を尖らせる。仙道は片手で口を覆った。あぁ、もう聞いちゃいられないし見てらんない。 っていうか、見てみたかった。そんな表情を。けれど、どう足掻こうがそれは当時の牧のものだ。
 『ハニー』なんて言葉がいっそ虚しい。
 ったく、この鬱憤をいったいなにで晴らそう。



 バスを走らせること十分。悲喜こもごも。人生唐草模様。禍福は糾える縄の如し。なんて思いで静かになった約一名を 交えた一行は町営スポーツ総合施設に到着した。
 この町民の数にしてこの整った環境。小高い丘の上につくられたそれは、温水プールやトレーニングルーム、公民館や 図書館も兼ね備えた立派なものだった。体育館としての規模はバスケやバレーのコートが二面取れるほどだが、 まだ真新しいリノリウムの床とシューズが立てる擦過音が小気味いい。
 二階席の窓から覗く蒼穹も目に優しい。そうだ。流川の希む形でバスケをするために来たんだと仙道は思い出した。
 もちろん、自分とのマンツー勝負や海南大での自主練習において、彼が物足りなさを感じていたとは思っていない。いつだって 真摯にそして喰らいつく勢いで挑んでくる瞳に対し、前を走り続ける充足感で満たされていた。目の前に立ち塞がる仙道の 存在に流川はいっぱいいっぱいだったはずだ。
 それでも偉大なる海南大OBの名を聞くたびに反応を見せる。後輩から語られる幾つもの伝説に聞き入る流川がいた。 どこ見てんの、と両頬を押さえ視線を取り戻しても、そこに嫉妬はなかったはずだ。
 ただ、いまの仙道と流川は思う存分対戦できるから、試合でまみえることはできなくても、同じ道を走ってゆけるから、 流川が取りこぼした夢に付き合ってやりたくなったのだ。いみじくも藤真が初恋と称した 過去の甘い夢を打ち砕けるなんて思っていないし、そこまで狭量にはできていない。ただ、叶えてやりたかった。
 いま。
 中学から高校バスケの世界へ足を踏み入れる彼に。
 きょう。
 ひとつひとつ積み上げてきた階段を一気に駆け上がる代償として。
 いや、ただ流川のために。
 オレって結構いいヤツじゃん、と悦に入り上体を思い切り伸ばせば、わずか十分の移動ですら熟睡できる少年は、 内臓まで見えてるぞと言いたいくらいの大あくびでトテトテと目の前を歩く。だから猫の仔よろしく首根っこをつかんで 引き寄せて、その場に座らせた。
 この暴挙で抗議の蹴りと睨みが飛んでこないのは、まだ半覚醒状態だから。両手で流川の背中をパンと叩いてストレッチ の補助に入った。
「ちゃんと躰をほぐせ。あのひとたちに応えるためにも」
 周りを見渡せば、みなそれぞれのペースで黙々とアップしている。藤真と花形はふたりで組んで丹念にストレッチ。 三井と木暮は軽快は調子でジャンプショットを何本も決めている。牧は桜木と仲良く並んでランニングをしていた。
 お遊びで気晴らしで息抜きで、十人すら揃わなくて、 それでもただ切欠をつくってバスケがしたくて。現役だった時代は遠く、仕事の合間ではトレーニングもままならない。 忙しさにかまけて離れているのは簡単だった。けれど一度手にすると、きのうよりもきょうと貪欲になる。
 そんな目をしていた。
「舐めてかかったらエラい目に合うぞ」
「わぁってる」
 あの小煩い桜木でさえもこの場に走った緊張を感じ取って静かに牧に付き従っている。まるで、そう。大きな大会前 のような静けさなのだ。
「三井さんも木暮さんも、キレイなフォームしてんな」
 何本も何万本も躰が忘れないように骨の髄まで叩き込む。そうやって手に入れたフォームだ。色あせるものではない。 そしてランニングを終えてただ、ボールをバウンドさせながらゆったりと歩く牧の存在感も、それにつられて立ち上がった 藤真の視線も、年月と場数と苦渋を越え、ただこの場にいる喜びで溢れていた。
「オレたちだっていつまで現役を続けられるか分かんね」
 立場をかえて今度は仙道の補助のために立ち上がった流川が、その特徴的な頭をポカリと叩いた。
「なに、しみったれたこと言ってんだ」
 そうだね。
 だからこそ。
「あんなふうにバスケを愛してゆきたいと思うよ」
 膝頭をひとつ撫でて、仙道は流川の重みを背中で感じていた。






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