徒然なるままに
〜月落ちて番外編 いち
それ以上どう言葉をつむげばいいか分からなかった。
分からないものを無理に引き出せば取り繕ったものが存在する。
気にするなとか忘れろとか、そんなものは風にさらわれた花びらのように儚く舞って落ちてゆく。
ならばいっそ、忘れるなと言ってやる方が大事なんだという気がしてきた。
身に傷を受けた者。心に傷を負った者。互いが相対するということは互いの傷と向かい合うことになる。
それでも手を伸ばさずにはいられなかった。
触れたいと願って。
サラサラと流れる初夏の風を受けたまま、腕に閉じ込めた少年の躰をかき抱き、出来るだけ情欲の灯らないようなゆったり
とした口付けに酔っていると、見ていられないと思ったか、いい加減にしろと呆れたか、仙道の愛馬が主の襟を噛んできた。
いいとこなんだから、もうちょっと待ってくれよと
片手で払うと薄っすら閉ざされていた流川の瞳がパチリと開く。開いて仙道を通り越し、仙道の愛馬
赤兎と目があったようだ。
「――!」
天敵を目に前にして完全に覚醒し切った流川は、
先ほどまでの稚さが消えて一気に臨戦態勢だ。赤兎も流川もその間に挟んだ仙道など目に入っていない。
もの言わぬ者同士の――この際流川が同列に語られるってどうかとも思うが――無言の恫喝に、フタマタをかけて
いた現場を抑えられた節操なしの気分を味わって仙道は身を竦めるしかなかった。
奇蹄目馬科の聡明な生き物と人間目猫科の凶暴な生き物とで、つうじるものがあるのかと侮ってはいけない。
敵愾心は全種目共通なのだ。
きっと翻訳すると、「ご主人から離れろ」「てめーに指図される覚えはねー」「おまえとは決着をつけねばならないと思って
いた」「望むところだ」「容赦はしないぞ」「たりめーだ」。などと。
モチロン確信はない。ないが絶対そんな会話が成立している。そう思わせるほどの険悪な火花が散っていた。
自分を抱きしめていた仙道の身体をほとんど殴る勢いで突き放し、立ち上がった流川はガンつけの様相。それに対して
赤兎はどこまで打撃を与えていいのか様子を伺っている――ように見える。古今東西、浮気を見つかったお調子者は、
どっちも大事なんだよと、両者の間で右往左往するしかないようだ。
馬と人間との板ばさみ。そんな特異なケースもあるにはあるだろう。共通しているのはそこで自分が首を突っ込むと
さらに火に油を注いでしまいかねないという結果だ。哀しいことにそれは過去に何度か実証済みな仙道だった。
だから、赤兎は賢い。赤兎は聡い。流川にも理性はある。分別もあると念仏のように唱えて状況を見守るしかない。
この種族間を越えた三角関係というより、本能に赴くままの意地の張り合いを息を詰めて見守っていた仙道は、
流川の背後から近づいてくる一頭の馬の姿に目を止めた。
その馬は流川の真後ろに立つと――突然――声をかける間もなく――振り子のように横に大きく首を振って
彼の頭をはたいた。
「――!!!」
小突くなんてそんな生易しいものではなかったろう。
強靭な顎と前歯で構成された口が当たってガゴンという派手な音までしたのだから。
「ってぇー! てめー!」
思わぬ方向からの攻撃に頭をかかえた流川が振り向けば、仙道にとっても見覚えのあるその馬は、なにを遊んでいるんだと
言わんばかりにヒヒンと鳴いてキレイに歯を見せて哂った。
「おまえって、なんでか分かんないけど、馬からぞんざいな扱いを受ける体質みたいだな」
仙道がからかえば流川はジロリと睨んで、るせーとだけ呟く。
いまは流川の愛馬――あの日藤真の別宅で見かけたこの竜騎馬は蚩尤
と名づけられたらしい。へぇー貰ったんだと羨望交じりの眼差しを向けると、少し、ほんの少し得意げな顔をして
流川は頷いた。
「よく乗りこなせたな。あのときは鞍もつけさせてもらえなかったのに」
「ムリヤリ」
「でも従ったんだ、こいつ」
「ここに向う前だったから。でなきゃ、こっちが野垂れ死んじまう」
「けど、しゆう、って太古の邪悪な魔物の名前だろ。天候を自在に操って黄帝を苦しめたっていう。縁起がいいとも
思えないけどな」
「じーさんが思い切り難儀な名前を考えろっつったから」
「ああ、逆説的な厄除けか。これ以上の災いが降りかからないようにって?」
「うん」
生まれてきた子の幼名にわざと縁起の悪い名をつけて息災を願うという風習が、確か大昔からあったはずだ。
そして流川言うところのじーさんとは、仙道が先ほど出会ったこの村の長であり、実際に流川の母方の祖父にあたる
らしい。いまはその爺さんの離れに住まわせてもらっていると、なんとか人馬決戦を回避しことなきを得て、
牧場から集落に戻る間にポツポツと聞き出した。
「いまは馬の世話を手伝ってんだ。楽しい?」
「別に」
他にすることねーしと続け、流川は集落の中でも一際大きいレンガつくりの平屋に仙道を誘った。馬の足音を
聞きつけたのか、母屋らしき建物から村長が顔を出して流川の名を呼ぶ。彼は自分に宛がわれた房なのだろう――無言で
そこを顎で示して母屋の方へと歩いていった。
ひとり取り残された仙道は思い切り所在ないが、腰を落ち着けてしまう前にと、愛馬を馬房に入れ飼葉と水の世話を
して労う。実際ひとにとっても馬にとってもアテのない精神的に過酷な旅だった。どこで戦闘や抗争が起き
ているか分からない。避けて避けてただ北を目指し、その終着点のない彷徨も、人語を理解しているとしか言いよう
のない賢い生き物とのふたり旅だと思えばかなり癒されてきたのだ。
「無理させて悪かったな。少しゆっくりしよう。いい牧草地だよ、ここは。旨い草を好きなだけ食って好きなときに
駆けさせてやるからな」
疲れが見え艶を失った馬肌が愛しくて何度も撫でて語りかける。躰も洗ってやらなきゃな。とにかくいまは休めと
囁かれ、主の愛撫を受けて陶然としていた赤兎が突然目を剥いて歯を鳴らし出した。やっぱりなと
思う前に、馬房の入り口に立っている流川の姿を確認する。低い唸り声を上げている赤兎の様子には目もくれず一歩
踏み出して、一言「湯、運べ」とだけ告げて踵を返した。それだけではなんだかよく分からないが、とにかく湯を運べば
いいのね、とそのあとに続く仙道だった。
取りあえず旅の垢と疲れを落とせということなんだろう。流川の房の前にはホカホカと湯気を立てている桶が
三つ仲良く並んでいた。
気候も風土も大陸的なおおらかさも利己的な現実主義も、仙道にとってはすでに身体に慣れたものだったが、
満州に来てなにが哀しいって湯殿にゆったりと浸かって足を伸ばせないこの瞬間だ。名のとおった素封家の屋敷など
には施設として備えられているかもしれないが、一般家庭にそんな習慣はない。大きな桶に湯を張って湯浴み程度で
済ませてしまう。それも毎日はない。まだ贅沢な方だろう。湯を沸かせるだけの手間隙をかけていられるのだから。
湯桶を室内に運ぶのを手伝うわけでもなく、突っ立ったままの流川の前で湯を張り、背中を向けて埃まみれ上着をバサリと
落とした仙道は唇を突き出した。
「こういうときって日本じゃ風呂に限るんだ。手足を思い切り伸ばして温めのお湯でじっくり長風呂。頭に手ぬぐいなんか
乗っけてお盆に熱燗浮かべてキュっとね。あ、あれは冬がいいか。雪見酒」
「アツカン?」
「そ、清酒をな人肌に温める。いい風情だろ」
「じゃ、日本に帰ればいいじゃん」
「そういうわけにもいかない。あー、温泉に浸かりてー。ないのこの辺り? あんまり聞かないよな、温泉って。
どこかに湧き出てないかな? おまえ知らない?」
「知らね」
「だれかに聞いといてくれよ」
上半身裸のまま振り返った仙道の姿に流川は一歩後退って目を背けた。瞳が揺れて肩に緊張が走る。「流川」と
伸ばしかけた手を厭って距離を置き、着替え、と彼は端的にその在り処を顎で示した。
仙道の手は宙に浮く。
「あとで母屋に来い。じーさんが話があるからって」
そういい残して流川は逃げるように房を出て行った。
ああ、そうかと仙道は己の身体に残る銃痕に手を合わせる。流川にとっての自分とは、あの日の後悔と慙愧とが
服を着て歩いているようなもの。イキナリ現実を突きつけちゃったかと、下着も総て落として仙道は
足首までしか湯のない桶の中で身体を縮込めた。
「仙道彰と申します。日本人です。しかもつい三月ほど前まで関東軍に籍を置いていました」
質素ながらも極寒を想定した重厚なつくりの母屋の一室で、皮敷きのオンドルの上に直接胡坐をかいた仙道は、
黒龍江省の一部を掌握する流川族の長の前で自らの素性を包み隠さずに告げようと背を伸ばした。弄する策も
なければ偽る身分も思いつかない。行くアテはないけれど、これで追い出されれば仕方ないという開き治りが彼に顔を
上げさせていた。
一方ルカワ族の村夫子(村長)――孫翁は奇妙な
来訪者と対峙し、何者だと問うた仙道の答えから、聞かれたこと以上の言葉を
重ねない頭のよさを感じ取っていた。しかし賢い者が無辜であるとは限らない。明晰な頭脳を持つ者が、己の才覚に
溺れて祖国を我が物顔で蹂躙してきた歴史も事実の一旦だ。
同席するように言われたのか、少し離れた場所に同じように胡坐をかいた流川は、興味なさそうに座っていた。
「ではなぜ、日本人の貴官がこのような辺境の地に来られた」
「私はすでに関東軍の軍籍を抜かれた者です。しかし、上司であった佐官の使命を帯びてソビエトの国境付近での
動向を探るために参りました」
「おひとりでか?」
「そうです」
「そのような特命。ふつうは大軍を率いて駐留するのではないのか」
翁は関東軍が大挙して押し寄せてくる可能性を危惧している。その懸念にはまだ猶予があるというのが仙道と
牧の持論だ。関東軍は熱河の攻略で手一杯だから。そんな余裕はいまのところないし、喩え熱河を平定しても
その足でソビエトを怯えさせる行動に出るとは思えない。
中国の東北地方といっても満州はとてつもなく広い。どこか手足の縮込んだ日本人には掌握しきれないのでは
ないかと思うくらいだ。そう告げると孫翁はゆったりと頷き質問の矛先を変えてきた。
「楓とはどういう間柄なのか」
「敵対していた、でしょうか。命のやり取りも何度か」
直裁な答えに翁は真っ白な眉をひそめた。視線を移した先、受けた流川はチラリと目線を上げただけでなにも答えない。
事実そうだけど、なぜと問われてもうまく説明できないからだ。愛孫からなんの説明も得られないと知っても、
彼に対する敵愾心が感じられないからと言っても、翁にとってそのまま丸抱えできる話ではない。
「そのような仔細があってなぜこの村を選ばれた? ただの偶然ではなかろう。現に貴官は楓の名を上げて探していた。
なぜこれを追う? なんの意図があっての行動か?」
長年ソビエトと国境を接する導火線のような地域で、部族をまとめ上げてきたであろう翁の声は、凛としていて深みが
あり、激昂しなくても居住まいを正さざるを得ない英気に満ちている。口先だけの言い逃れが通用する相手ではなかった。
「流川は――いや、楓くんが抗日組織に身を置いていたという話は?」
「いや、お恥かしいがなにも知らん。まこと口数の少ない子で」
「でしょうね」
恐らく必要最小限の説明しかしていないことは用意に知れた。炯々とした翁の眼差しが不安に揺れ、それは最早
無口だけで済まされる問題じゃないぞと、肉親の情に触れてもそっぽを向いたままの仏頂面を詰りたくなった。
「一際抜きん出た優秀な戦士でしたよ。でも彼はその活動を止め、私も個人的な事由から関東軍の軍籍を抜きました。
先ほど申しあげた上司が満州を後にして、つまり追い出されて、それでも彼はこの地が気がかりで、なによりソビエトの
情勢から目を離したくなかったのです。それで私が国境近くのこの村へ。なぜ楓くんを追ってきたかと言えば、
彼とは大概が反発し合いながらも一点で繋がっていると感じたからでしょうか」
己の進むべき方向に流川が向った。流川の母親の故郷の方向に満州を愛する日本人として、牧を補佐する部下としての
本懐があった。なにもかも放り出して恋情だけで動いたのではないと自分を納得させるものがあった。
ただ闇雲に欲する本能のまま衝動を起こすには自分は大人すぎる。理性とその後の展望が邪魔をする。けれど、
奉天の病院の一室で目覚め、身動きの取れない躰のまま天井に広がる染みをぼんやりと数え、暫くして見舞いに訪れた牧
の顔を見て、途切れた糸を手繰り寄せる答えを見つけ出してしまった。意識不明の間にずっと考えていたのでは
ないかと思うくらいに、スルリとその提案が口をついたのだ。
――俺に特別任務を与えてください。ソビエトとの国境に派遣してください。
追わせてください、彼の後を。そう続けたかった言葉は口にはのぼらなかったけれど、薄々牧は感じ入っていた
かもしれない。目尻に小さく皺を寄せて「酔狂だな」と続けたのだ。
「この村に暫くご厄介になりたいと願うのはムシのいい話です。しかし、この地域にとってもソビエトの国境警備隊
並び本隊の動向は度外視できない懸案なのではないでしょうか」
「脅しか」
「いかようにも。しかしそうは言っても私ひとりで動くには限度があります。なんの防波堤にもならないかも知れません。
厄介者をひとり抱え込む結果となるかも」
翁はクシャリと自嘲気味に哂った仙道から視線を外し天井を見つめ、ゆっくりと流川に移していった。
「おまえの意見はどうだ」
そう問われても傍から見ている分には流川の表情にはなんの変化もない。返るものも相変わらずだ。
「政治的なことは分かんね。けど、牧童をひとり雇ったって思えばいいんじゃねーの」
「それで構わぬのか」
「じーさんが決めることだ」
「儂はおまえの気持を聞いておるのだが」
「コイツがいて困ることはなんもねー。手が足りないから助かるかも」
手が足りないから助かる、か。まるで雇用の面接を受けているみたいだなと、仙道は重い嘆息を吐き出した。
つい先ほど感じた腕に閉じ込めた温もりや、口腔内の艶かしさなどまるで泡影のように思えてしまう。
分かっちゃいるけど、つい過度の期待や淡い妄想を抱いてしまうんだよな、と。けれど流川が多弁なのは言葉よりも
瞳の方だ。
潤むときがある。纏わるときもある。
だからなおのこと、先ほど見せた相手を刺すような怯えが仙道の心に影を落としていた。
そのあと少し逡巡を見せた翁は、「楓の客人として迎えよう」とふたりを解放してくれた。大したもてなし
はできないがと、母屋で晩ご飯をご馳走になったが、寡黙な血筋を累々と受け継いでいるふたりと、甲斐甲斐しく
世話を焼いてくれる家人らしき女性との晩餐は、正直肩が凝ってしまった。
その場の雰囲気が読めない仙道ではない。軽快に話しかけるも、ものの一分で諦めて食事に没頭した。
楽しいのか楽しくないのか、よくわからない滞在になりそうだ。
凝り固まった肩をボキボキ鳴らしながら母屋を辞したときには、辺りはすっかり暮れなずんでいた。あすの
晴天を約束したかのようなおびただしい数の星が降る中、
「こんな穏やかな気分でおまえと星空を眺める日が来るとは思わなかった」
と、声をかけても情緒を解さない男はなにひとつ耳に入っていないのか、フラフラと自分の房へ戻ってゆく。
たぶん爆睡まで一歩手前だ。扉に柱にぶつかる寸前で躰を返して、なんとか歩き続ける無意識に笑いながら、
仙道が続くと、流川は冬場はオンドルになるらしいアンペラの上に敷かれたフカフカの綿織物の上に倒れこんだ。
身体をくの字に折りたたみながら、片手は傍らに寄せてある上掛けを手繰り寄せている。どうやら敵は客に寝床
の用意をする気はないようだ。
燭台の灯りだけに落とされた薄暗い室内で、辺りは墨を落としこんだ闇とはいえ、まだ宵の口。そうそう
お布団と仲良くなれるわけがない。別の意味でのお誘いとも思えない。仙道は上掛けからはみ出ている素直にバラけた
黒髪に指を絡めた。
「おまえ、なにも分かっちゃいねーだろ?」
もう寝ちゃったかなと続けると、
「分かってるよ」
と、くぐもた答えが返った。分かってると言いながらも髪の毛一本にまで緊張が走っている。そんな流川に
これ以上、どう言葉をつむげばいいか分からなかった。
だからそのまま一緒に横たわり、背後から抱きしめて肩の強張りが解け、静かな寝息が聞こえてくるまで
そのままでい続けた。
continue
なんだかんだと書いてますが、ただイチャコラさせたいだけのコンセプト。近頃、甘いだけのお話を
書くにも大層な理由づけが必要という。大げさやな〜、とシミジミ。
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