月落ち 〜く








 吐き出された暁闇がゆるゆると辺りを侵食し出すころ、室内に入り込んできた冷気のせいで目が醒めた仙道は、 暫くベットで微睡んでいたが、いつになく眠り浅かったわけを思いめぐらせているうちに、二度寝は無理だと 諦めて上体を起こした。
 カーテンを開き窓の外の静謐な空気を取り込むと、まだ春霞に煙る外気と相まって己の吐く息も白い。 それが象どって大気にぼやけ、春の芽吹きは永らく凍った大地の下でしか息づいていないと仙道は知る。 彼はもう一度ホウーと息を吐き出して呼吸の象を目で追った。
 市街地にある関東軍の宿舎に宛がわれた自分の部屋。滲んだ月が大地に溶けてゆくさまは建物に邪魔されて見えないが、 それが落ちたからと言って昇って来るのは朝日とは限らない。仰ぎ見た象はそれであっても、道を誤らないで 歩いてゆけるだけの明るさを伴っていないと仙道は窓縁に両手をついて背中を逸らした。
 旭暉よりも夕暉の方がこの地の行く末を示し回り続けている。何年も何年も変わることのない自明の鳴動。 その先に迷いもがき悩み苦しみ、同胞を傷つけて裏切られ、返す刀で皆がそれぞれ身体から血を流している。 その痛みを吸った大地もまた啼いている。夜の闇を総て払って一日の始まりを告げるのなら、いっそのことそれも 流してしまえればいいのに。
 明けない夜はないという。けれど自分が生きている間に明けるとは限らないのだ。
「月が滲んでなにもかも隠滅、か。けだし明言だな」
 牧が以前呟いた言葉を拾って反芻して仙道は窓を閉めた。出勤には早過ぎたが、身支度を終えて奉天ヤマトホテルの牧の 執務室にたどり着くと、存在の際立った彼の上司は応接セットのソファで長々と健やかにお休み中だった。
 上に羽織っているのは軍服のみで、春の遅い奉天にあって、暖の落とされた室内でその軽装ではさぞかし夜中は冷えた ことだろう。気の毒ともなぜここでという疑問も浮かべて、仙道は執務机の真後ろの窓にかかった重厚なカーテンを一気 に引いた。
「――眩しい……」
「朝ですから当然です」
「仙道、水」
「珍しい。お強いのに深酒? それともヤケ酒?」
「うちの優秀な補佐官は、理由を告げないと水ひとつ持って来てくれないのか?」
 はいはい、と仙道はサイドテーブルの上の水差しからグラスになみなみと注いでそれを差し出した。緩慢な 動作で上体を起こした牧は一気にそれを飲み干して片手で眉間を押さえる仕草を取った。ほんとうに珍しいことだ。 ついでに機嫌も口調も急降下だった。
「なにニヤケ面晒してるんだ。さっさと自分の仕事に戻れ。書類が片付いてないだろう」
 仙道の興味深いとも訝しげとも取れる表情から視線を逸らして牧は苛立った声で部下を御しようとしたが、 そんな力のない恫喝で怯む男でもない。
「中佐はなにを苛立ってらっしゃるんですか。いい天気になりそうなのに」
「天気が関係あるか。ったく、憲兵隊のやつら、自分たちの不手際を棚に上げて、奉天の関東軍が手ぬるいから、 抗日ゲリラがのさばってるとネジ込んできやがった。んなことまで構ってられるか」
「ああ、広場でひと悶着あったことか」
「知ってるのか?」
「ちょうどブラついてましたから、きのう」
「それでどうしておまえが上機嫌なんだ?」
「ヤだな。分かりますか? そのお陰で伝説の西施か王昭君ばりの傾国と再会出来ましたからね。市中警護でお釣りが きちゃいました」
「ふん、なにが警護だ。物色しに行っただけだろうが。ったく、どこまでも己の趣味に突っ走ったヤロウだ」
 ふと、牧はなにかに思い至ったような顔をしたが、それには興味はないとばかりにソファに背を預けた。 憔悴感がはっきりと顔に出ている。
「憲兵隊にネジ込まれたくらいで酒に呑まれる中佐ではないでしょう? なにがあったんですか?」
 仙道はもう一杯どうかとコップに視線を送るが牧は片手で却下した。
「熱河への侵攻が打診された」
「そうですか。とうとう」
 表立った敵は熱河に駐留している張学良の軍隊。撤退要求を大人しく呑むとは思えないから、きっと長く陰鬱な 戦いになる。
 清王朝の末裔、死人のような皇帝溥儀を担ぎ上げて傀儡政権を打ち立てたときより、この日が来るのは 分かっていた。広大な満州において関東軍に帰順していない最後の砦。満州国旗と日章旗を掲げられない満人の一掃だ。 壊滅戦になるだろう。敵も味方も夥しい 血が流され、広大過ぎるこの地を掌握したとしても、あとに残るのはしとどに血塗られた曠野。
 憎しみと厭世と敵意と遺恨と怨嗟とに彩られた大地。
 牧が思い描いた五族(日本人、朝鮮人、満人、蒙古人、漢人)協和の理想はだれも許さず、ただ頭上で空回りする思念に近いのではないかと近頃思う。 協和と呼ぶには、傀儡政権が発足したあの時点で日本人が満人を喰ってしまっている。
 理念を捨て去って自国の繁栄のみを推し進め、力の理論を振りかざしてしまう方がずっと簡単で軍の士気も上がるだろう。 それがただの簒奪者であると考えないように五感の総てを塞いで息上がる軍のお偉方の、楽観視した肥え蓄えた贅肉を 日本刀で削ぎ落としてやりたい気分になった。
 それでも――。
「あまりことを荒立てられませんよう」
 と、牧の昏く澱んだ表情の奥の、一握りの良心があらぬ方向を向かないように仙道は釘を刺した。沢北に言われた言葉も 蘇る。告げようかと迷って一言飲み込んだその隙に、躊躇いがちなノックの音と、踵を鳴らして敬礼する次官の 出現にタイミングを逸してしまった。
「牧中佐! 多田少将がお呼びです! 執務室までご足労願います!」
 分かったと呟くと牧は腰を上げた。寝ぼけ面を晒して関東軍総司令の前に出るわけにはいかない。続き部屋へと 消えてゆきながら牧は仙道を振り返った。
「地獄の窯の蓋が開く。歴史的瞬間というヤツだ。おまえも来い」
「かしこまりました」
 仙道は敬礼を止めて腰を折って礼に変えた。



 奉天ヤマトホテルのインペリアルスイート、関東軍総司令多田少将の執務室には先客がいた。
 重厚な革張りのソファにゆったりと背を預け総司令と談笑していた先客―― 満州国軍第二方面司令藤真は、牧と仙道が入室すると少し表情を強張らせて自分のかけていたソファを譲るような 形で立ち上がり、多田少将の真後ろに移動した。
 さらりと真っ直ぐに伸びたとび色の髪が窓から差し込む朝日に透けて一層印象を儚げなものにしている。少し深めの 息を吸って上げた白皙は、白さを通り越して蒼くさえあった。青年とは思えないあどけなさはいつまでも失われて いないが、見た目を大きく裏切ったその気質を現しているのが炯々とした光で見据えてくる瞳だった。
 楽にするようにという少将の言葉ではなく、真っ直ぐな藤真の視線を受けて牧は敬礼を解いた。 視線が絡んで藤真は薄く哂う。うちに抱え込んだ思惟を読み取らせないような微笑だった。
「久し振りだな、藤真。相変わらず美しいと言っておこうか」
「変わらず君も口先だけで生きているのだね」
「その声を聞くのも何週間ぶりだろう」
「おやおや。全満を掌握されている牧中佐に、過去を振り返る余裕があるとは思えないが、その余裕面で足元がすく われないように気をつけたまえ」
「私の微妙な立場を案じてくれているのか?」
「被害者面するのは止めろ。立場を微妙にしたのは身から出た錆だろうに」
「よく理解してくれているのだな」
「からかっているだけだ」
「そんな言葉ひとつでも、かけて貰えるだけで満州国軍の兵士が色めき立つそうではないか。別名藤真さま親衛隊とか。 男にもオンナにもモテて羨ましいことだ」
「オレの軍を愚弄するつもりか」
「これは失礼した」
 ふたりとも大人気ないと少将が水を差したが、このせめぎ合いもどこまでが本心なのか分かったものでもない。 大人の巧緻な駆け引きのひとつなのだと認識しているし、それともウサ晴らしに見せかけた彼ら流の確認作業なのかも。 何れにしても仙道はこのふたりの間には割って入らないことにしていた。
 それも過去の教訓のひとつだ。
 ゴホンとワザとらしい咳払いをして場を引き取った少将からは、満州がいかに対ソ戦に対しての要かという錆ついた 説明が持論のようになされ、分かりきった話を聞きながら牧の視線は藤真に張り付いたままだった。 彼の反応を試しているようでもある。
「ひとつお伺いしても宜しいでしょうか」
 ひととおりの説明が終わったころを見計らって牧は質問をはさんだ。少将は鷹揚に顎を上げて続きを促す。
「作戦の意図と経緯は理解しました。しかしこの場に満州国軍の司令が同席されている理由をお聞かせ願いたい」
 藤真はいかにも驚いたという顔をしている。多田少将は牧の怒りにも似た感情の発露が理解できないのか、 いまさらなにをと小さく笑った。その事実に仙道の肌がチリリと焦げる。三人の行き違った方向性に到達点が あるのかという苛立ちだ。
 これは牧がもっとも唾棄すべき事象なのだと仙道は思う。相手の傷口に気づきもしない鷹揚さと鈍感さを 履き違えた命を出す者と、その傷口を広げられてもなんの感情も見せない鉄壁の自尊心を持った者。その両方に対して 牧の底冷えのするような怒りは収まらない。
「どこに問題があるのだ、中佐。満州のことは満人に任せるというのが貴殿の持論ではなかったか? 私はそう理解して いたが」
「それも満州国という一個の人格が存在しての話だと思われます。傀儡であるということは満州国軍もそれと同等。 同族に向けての殲滅戦に、関東軍の手先となって銃を向けなければいけない藤真どのの心中はいかばかりかと推測 されますが。躊躇や手心といったレベルの話を言っているのではありません」
「君は誤解している」
 少将が言葉を発する前に藤真がそれを引き取った。少将の後ろで一人がけのソファの背に両手をつき、正面の牧を捉えて、 ごく冷静な声音で藤真は言い切った。
「満州にとってなにが大事なのか私は君以上に理解しているつもりだ。同族同族と君は連呼するが、清王朝が続いていた 時代から匪賊は己の主義主張だけを貫いて体制に牙を剥く。中華全土を掌握させる技量も存続させる気概もないくせに 破壊することだけは一人前だ。オレはなんのイデオロギーも持たない自国民も許せないんだ。 満州国軍という関東軍の出先機関に雇われているオレを中佐は哀れんでいるのか。それこそ失礼極まりない話だとは 思わないか。オレはオレの考えで満州国軍を率いてきた。 これからもそうするつもりだ。その信念に基づいて熱河侵攻に加わる決意を中佐は疑われるのか?」



 牧は押し黙ったままだった。言い負かされてグウの音も出なかったのではなく、武装した理論を振りかざした 藤真の真意の底をさらおうとさえしている。仙道は仙道で藤真のウソをひとつ見つけた。イデオロギーのぶつかり合いは 即戦いへと発展する。民草の理念は生き永らえることだけだ。飢えないですむ環境を捜し求めて彼らは武装する。 蜂起する。破壊する。それを知らない藤真でもないだろうし、牧はもっと――そう、 心情的な部分で藤真を訝っているのだろう。
「そのくらいでよいではないか。我々の利害と藤真くんの心意気は完全に一致していると思うが、中佐はそうでは ないのだろうか? これからふたりが手を携えて進んで行ってもらわねばならないのだから、余計な確執は避けて もらわねば」
「はっ」
「無駄な諍いは避けるに越したことはないと常々申していたのは中佐の方だ。藤真くんがいることで帰順する兵士や 馬賊もいるかも知れないだろう。そういう旗印でもあるのだよ、彼は」
 その言葉をどこか遠くで聞きながら牧は、弾かれたように腰を上げた。仙道が止める暇もなく、その表情は 本気かと問うている。本気でそう思っているのか。侵略者に対する嫌悪よりもそれに組した同族に向けられる憎悪 の方がより深く根強い。土着の満州人からすれば藤真はれっきとした裏切り者なのだ。
 それを旗印にどこへ進めと言うのか。
 牧のこぶしが音がするほど強く握られたそのとき――
 叩きつけるようなノックのあと少将つきの次官が入室してきた。
「ご報告申しあげます! 抗日馬賊に不穏な動きがあるとの連絡がありました! 数は把握できておりませんが、 続々と熱河に集結している模様です!」
 少将は腕組みをし、牧は中腰のままその次官を振り返り、仙道は行動が早いと小さく舌打をしたが、少し顎を 上げた三白眼のままの藤真の白皙からはなんの感情も読み取れない。覚悟はとうに出来ているといった諦観だろうか。
「ちょうどいい。関東軍本隊より先んじて、まずは我々で露払いといこう。君はオレのお目付け役だろう。恭順の 姿勢を貫きながら敵に寝返らないようにせいぜい見張っているんだな」
 藤真は冗談とも本気ともつかない顔をして少将に敬礼を送り踵を返した。あくまでも穏やかに、パタリと締められた 扉から視線を戻し、
「そういうわけだ。牧中佐のお手並み拝見といこうか」
 と少将は腕組みを説く。こちらは懇願に近いのかもしれない。
 厄介なお役目だと牧は上体を戻した。
 そして一方、藤真が少将の執務室を退出すると、見計らったようなタイミングで近づいてきたのは花形だった。そのまま歩き 続ける藤真の横にすっと並び歩調を合わせる。コツコツと響く軍靴の音が無言の彼の思案の行方を知っている。 藤真は前だけを見つめて口を開いた。
「熱河侵攻のこの時期に、どういうわけか抗日馬賊たちが集結し出したそうだ」
 窓から差し込む日の光だけが唯一の廊下を曲がり階段の手摺に手をかけて、藤真は初めて花形を捕らえた。 そして頼みがあると声をひそめる。
「楓さんですね」
「連れ出してくれないか。理由はそうだな、なんでもいい。顔が見たいとか、久し振りに会いたいとか。 とにかく赤木たちから引き離したい」
「楓さんは聡いとあなたは言われた。さらに、もうこちらには戻られないだろうと仰ったのもあなただ。我等には寄る辺が ないからと一年放っておいていまさら里心が沸くとも思えません。わたしには納得づくでお連れする自信がない」
 カツンと一際高い軍靴の音が廊下に響き渡った。
「納得など必要ない。繕うのが厭なら正直に言えばいい。おまえに銃を向けたくないからそこを出ろと正直に。 おまえが行かないならオレが行く」
「こうなることは分かっていて私の案に乗られたのでしょう。楓さんには満人として真っ当してもらいたいと。 あなたは捨て去るを得なかったのだから」
「状況が変わった」
「一生恨まれますよ。ご自分だけが蚊帳の外に連れ出されて生き永らえたとしても、恐らく一生」
「恨まれることにオレが慣れてないとでも言いたいのか?」
「楓さんを子ども扱いするのはおやめなさい」
「花形!」
 ふと空気が動いて二人はいま来た廊下を振り返った。階下へ向う唯一の階だ。聞き耳を立てていたわけでは ないと、腕組みをした牧と肩を竦めた仙道が立っていた。
 牧が一歩藤真に近づく。
「珍しいな。仲睦まじい主従が人目も憚らずに言い争うなどと。ついでに藤真さまの激昂したご尊顔も久し振りに 拝見したぞ」
「道をふさいで悪かった。行ってくれ」
「なにか問題でも起こったのか? おまえと俺のよしみだ。なんなら相談に乗るが」
 階段を譲った藤真の横をすり抜けざまに牧は一段下った状態で顔を上げた。下から見上げる格好だから彼の 秀麗な表情がよく見て取れる。
「君には関係ない。さっさと行って軍を整えたまえ。時間がないのだろう」
「そうとも言えないんですよ」
 今度は仙道だ。上から藤真を挟むような位置に立ちクフンと笑みを漏らす。藤真は仙道のこの笑顔が大嫌いだった。
「以前、中佐のお命を狙った匪賊に楓という名の少年がいましてね。藤真さんとはまた違ったタイプの美人さんだった ので私たちもよく覚えていて」
 牧の位置からは藤真が僅かに目を見開いたのがよく分かった。
「まさか暗殺者が我々に名前を名乗っているとは思いもよりませんよね。一本木っていうか事態をよく分かっていないと いうか投げやりっていうか。とにかく不思議な子だった。あなた方の話題に上った名は偶然でしょうか?  そういえば中佐の暗殺もだれかに頼まれたって言ってたな。けど今度は自分の意思で殺しに来るらしいですよ、中佐」
「やれやれ。嫌われたものだ」
 牧は背中を向けて階を降り出した。仙道もそれに続く。その背に嘲笑が混じっていると勘ぐるのは仕方ないことだろう。
「身辺色々と気ぜわしいようだが、一両日中には軍備を整えて出立できるようにする。おまえの活躍を楽しみにして いよう」
 そう言って片手を上げた牧たちは階下へ消えて行った。思いのほか強く唇をかみ締めている藤真の表情は、見ている だけで鉄錆の味が広がってきそうだった。
「あのバカ」
 呆れてものが言えない、育てた親の顔が見て見たい、必要なことはなにひとつ喋らないくせにと口内でくぐもった 連続罵倒は、きっちり花形の耳に届いていた。揺るぎない自尊心で武装された彼の唯一の泣き所でもある。 こんな状況なのに、微笑ましさからつい口元が緩む。
「どの部分で楓さんが聡いのか、私には分からなくなりましたよ」
 藤真はその穏やかさから目を背けた。
「一刻を争う」
「牧たちが首を突っ込んでくるとなると、承知せざるを得ませんね」
「無理やりでも引っ張ってこい。尾行がつくぞ。心してかかれ」
「今夜じゅうにカタをつけます」
「任せる」
「かしこまりました」
 花形は階の途中で藤真を置き去りにしてその場を立ち去った。藤真はそれを見送って手摺を強く握りこむ。
 間違ってばかりだと思う。
 自分が取る選択はどれもこれも。
 あとから非難することはだれにでも出来る。そう、それでも他に方法がなかったのだと、握りこんだ手摺の上に 彼は額を乗せた。






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