月落ち 〜じゅう








 一方、背後から突き刺さる視線をもろともしない関東軍のふたりは、階下の執務室へ戻る牧がそのまま 軍の統括本部へ向うつもりの仙道を止めた。
「進発の準備は他の者にさせる。おまえは別件で動け」
 別件――と仙道はこれ以上ないというくらいの乾いた笑みを張り付かせ、執務室に入室するや皮肉な笑みで口の 端を上げた。
「つかぬことをお伺いしますが中佐、それって満州国軍と連合するにあたって、藤真軍司令の弱みを握りたいとかの 高度な政治的配慮だと曲解していいですか」
「無理することはない。ただの知的好奇心故の探求だと言ってくれ」
「随分と興味本位な知的好奇心もあったものだ。暗殺者の身元に興味はなかったはずだから総ては藤真さんか。 あすは出撃なのに。まさか忘れてないでしょうね」
「だから今夜ならちょうどいいんじゃないか、仙道少尉。詰まらん任務の前のちょっとした息抜きというか、 一服の清涼剤というか」
「中佐の場合、満杯の清涼剤の中に任務が埋没してるって感じですけど」
「なかなかいい表現だ。藤真の奉天での隠れ家は?」
「総て抑えてあります。うちの諜報部はみな優秀ですから」
「しかし、暗殺者が藤真の手の者だったら相当愉快じゃないか。弱みをちらつかせて押さえ込むという手もアリだな。 アイツのしたり顔が歪む瞬間が眼に浮かぶ」
「ロクな死に方しませんよ、きっと」
 吐き捨てた仙道に、それはそうと、と今度は牧が矛先を向けてきた。
「さっきの科白をそっくり返すが、仙道。あの小僧がだれかに頼まれてオレの暗殺を請け負ったとか、次は自分の意思で 狙うだとかいつ聞いたんだ。クラブではそんな暇はなかったはずだが」
「ですからきのうです」
 尻尾を捕まえたと思わせてもシレっと言い張る仙道に牧は小さく舌打をした。
「なに?」
「申しあげたでしょう。広場でのゴタゴタの折に西施ばりの傾国に再会したって」
「そのことだったのか。呆れるくらい抜け目のないヤツだな」
「運命論者になろうかと思いましたよ、一瞬」
「心にもないことを」
「なにをしたのかは分からなかったんですが、きっちり憲兵に追いかけられてましたね。匪賊の処刑を邪魔した 分子がいたとかいないとか。それ絡みかもしれません」
「前科が増えてるじゃないか」
「そうですね。それと憲兵で思い出しましたが北沢さん。沢北さんか、大尉の。お節介にも軍内部の中佐排斥の動きを 仄めかされました」
「いまさらだな」
「いまさらですが、きょうの通達を聞いて露骨な手段に出たなというのが印象です。中佐のお立場で最前線に お出になることなんかあり得ない。中佐は政治的なしがらみがお嫌いだから、帷幄の中での指揮官に治まっていたく ないでしょうけど、体のいい厄介払いじゃないですか。それに言っちゃあ悪いけど藤真さんの部隊は私兵に毛が生えた ようなものだ。戦争のプロにアマチュアを織り交ぜて匪賊を追い払う。満人のことは満人に任せろだって?  後ろから睨みを利かせて言う科白じゃない。張学良の軍に遭遇する前に内部分裂を起こしそうだ。できるものなら 退役したくなりましたよ」
「退役してなにをするんだ? ヒモか? 盆栽いじりか?」
「高梁畑の肥やしです」
「なんだそれ」
「そういう将来設計もいいなと近頃思いつきまして」
「夢があっていいな、おまえは」
 揄うわけでもない真面目な表情で牧がソファに沈み込んだのを確かめ、仙道は堅苦しい敬礼を送って執務室を出て 行った。



 踏ん切りがついてからの安西の行動は早かった。その場にいた抗日馬賊の幹部たちをなんの衒いのない言葉で やんわりと説得し、早い者は取って返えすように仲間を引き連れ熱河に集結し出した。張学良の正規軍とは完全に 一線を画す義賊軍の誕生だった。
 安西を熱河に残し赤木と三井はその日のうちに馬を駆って奉天に戻った。湘北の隠れ家に着くや彼らが不在の間に 起こった冒険譚を宮城が語る暇も与えずに、赤木はメンバーたちの至急の招集を命令する。
 ボツボツと集まり出した彼らを前に、赤木は安西が語った熱と言葉を――彼が将来総攬把を継ぐかもしれないという 夢想を省き、言葉を選ぶように語り出した。
「張学良の軍隊と一緒に戦うわけじゃないんですか」
「ああ。安西先生は馬賊同士の結束を募られた。いまも続々と熱河に集結中らしい。張学良の正規軍とは距離を置く。 だが、さっきも言ったように作戦が関東軍の揺さぶりという程度であっても、オレたちからすれば 初めての実線だ。心してかかれ」
「銃撃戦にはならないようにするんですよね」
 オレたちあまり得意じゃないし、と不安と憂慮とがない交ぜになったような角田たちを三井は容赦なく斬り捨てた。
「いったんことを構えて関東軍と対峙するんだ。絶対安心なんてことはない。だれにも確約は出来ねー。馬速も銃の精度も ヤツらとは格段に劣ってるんだ。それに逃げるオレたちを 追う関東軍の背後を張学良がついてくれなきゃ、追いつかれる可能性だってある。安西師父は関東軍なら、牧なら、きっと オレたちなんざ目もくれねーって仰ってたけどよ。ま、一生逃げ続けるなんてことは避けてーな」
「その作戦はちゃんと行き渡ってるんですか?」
「師父は使者を送られた。けれどそれを張学良が受けるとは限らん。馬賊などとバカにするかもしれんし、 オレたちを敵に食いつかせて見捨てるかもしれん」
「なにが起こるか分かんねーっつうこった」
 ゴクリとだれかが息を呑んだ音がした。
 子供の域を脱しなかった自分たちが、憧れて止まない任侠の徒としての生業。祖国を取り戻したいという 渇望と憤りがいま象になろうとしている。しかしそこにはまだ見ぬ恐れと痛みが存在することも確かだった。 湘北に地盤を置いて憲兵隊相手と小競り合いを続けてきた日常からかけ離れてしまうのだから。
 向うところは戦場なのだ。
「無理強いはせん。仲間といってもそれぞれ事情がある。なにかを失くすかもしれんし、得るかもしれん。 参加はおまえたちに任せる。準備もあるだろうから出立は三更(午前零時)だ。遅れるな。それまでによく考えておいてくれ」
「オレは行くぜ。安西師父が陣頭に立たれるんだ。お守りしなくちゃな」
 親指を立てた三井にそれまで唖然と話しに聞き入っていた桜木が、彼の肩をパンパン叩きながら大声を出した。
「よっしゃぁ! ここいらでひと暴れしてやろうぜ! 憲兵相手にちまちました殴り合いにゃ飽きてたとこなんだ!  腕が鳴るぜ。なぁ、ゴリ。洋平たちにも声かけてもいいよな。あいつら馬も銃の扱いも上手いんだぜ」
「無理強いはせん代わりに拒みもせん。声をかけるならきちんと説明だけはしろよ。園遊気分は困る」
「任せろ! いい働きしてやるぜ!」
 言い放つと桜木はそのまま隠れ家を飛び出して行った。それを見送って宮城は、言いそびれていた桜木軍団 救出劇のあらましを簡単に語っている。赤木は眉間の皺を深くし三井は面白そうに顎を撫で、三人同時に いまの話し合いに黙ったままで壁に背を預けている流川に視線を移す。相変わらずの様相で、聞いているのか立ったまま 寝ているのか、俯き加減で長い前髪に隠されて判別はつかなかった。
「あいつがそんなことを」
「快哉もんだな。やるじゃねーか。宮城」
「少しは自覚が出てきたのか」
「そんなお優しいタマじゃねーと思うけどな」
「しかし無謀過ぎるぞ。宮城。おまえはもう大丈夫なのか」
「心配すんなって。コイツは異常なくらい打たれ強いんだぜ。ま、結果オーライでいいじゃねーの」
 宮城はそれぞれ違った感想を漏らしているふたりに視線を戻した。
「軍団もかなり恩を感じているみたいだから、乗ってくるかもしれないすよ」
「賑やかなのは結構だけど、ただ単に喧しいだけになるんだろーが。桜木だけでも大層なのによ」
「三井サン、けっこうーヤツらのこと買ってるくせに」
「ヤツらと同じような匂いをしているからな、三井も」
 一緒くたにするなと三井が吐き捨てどっと笑いが起こったとき、隠れ家の扉がおずおずと開かれて、顔を 覗かせたのは赤木の妹の晴子だった。すっと周囲を確かめ壁際の流川を認めると、開いた扉と同じようなぎこちない 動きで近寄った。
「流川くん、あのね」
 かけられた言葉よりも空気が動いたのを感じ取って顔を上げた流川の目線まで手を差し伸べ、晴子はそれをゆっくりと開く。
「さっき黒眼鏡の男のひとにこれを渡してくれって頼まれたの」
 眠そうな目を瞬いて見るそれはクロガネ色に光るブローニングの銃弾だった。流川はなにが言いたげな晴子を 制するように黙ってそれを受け取り目の高さまで掲げた。
 極力接触は避けるようにしていた。先日のあれは彼が怪我をしたと知ったための行動で、別たれた立場上そう頻繁に 連絡を取り合う間柄でもない。寝ぼけながらも赤木たちの説明は聞いていた。関東軍とことを構えるということは、 藤真の満州国軍と銃を向けあうということだ。
 それなのに。
 流川はそれを袴子(ズボン)のポケットに仕舞い込み、小さく晴子に礼を言ってから、目的に向けて沸き立つ仲間 に背を向けた。



 思えばそのとき背を向けない方がよかったのかもしれない。
 それはあとから分かったことだ。



 日中は日差しも柔らかくなったといえ日が傾き出すと身震いするような冷気が辺りを包む奉天の町を、隠れ家を出て から狭い路地を進み、なにも考えずに一直線に大通りまで出た。
 伝言も書簡も避けて以前手渡されたブローニングの銃弾を晴子に預けるという抜かりのない目端の利く花形のことだ。 どこかできっと様子を伺っている。湘北から離れれば勝手に向こうが 見つけてくれるだろうと思っていると案の定背後から近づく影。一定の距離を保ちながら、路肩に止めてあるフォード に乗るようにと指示された。
「なんの用だ」
「藤真さまが倒れられて」
 えっと振り返りそうになる流川に、そのままでと針のような叱責が飛んだ。
「悪いのか」
「いえ、疲れが出たのかもしれません」
「それだったら」
 そんなことくらいで呼び出すなと非難をこめて語尾を尖らせると、黒眼鏡の男はそれ以上の強い調子で言葉を重ねて きた。
「どうしてもお会いになりたいと仰っておられます」
 フォードまで近づくと花形は先に回りこんで扉を開けてくれた。伝言かなにかの軽い用事だと勝手に解釈して いた流川の逡巡を押すかのように花形は手を置く。
「オレたちは今夜――」
「分かっております。ほんの少しで結構です。お手間は取らせません。もしかすると今生になるかもしれませんから」
 お互いが、と切羽詰った言葉の刃が背中から襲い掛かる。切り裂かれた流川が不承不承長い身体を折り曲げたそのとき――
「ルカワ!」
 と、かけられた声の大きさに流川は肩越しに振り返った。フォードの丁度真後ろ、聞き覚えがあるもの、見覚えがあるのも そのとおり。赤頭のガタイの立派な少年が仁王立ちしていた。たしか桜木は軍団を率いて湘北のみんなと行動を共にする のだと言っていた。後ろに水戸たちの姿も見える。きちんと実情を説明したのかどうかは分からないが、この 集結の早さ。本当に仲のいいことだ。
 拙いのに見つかったと舌打したい気分だが、見られたものはしょうがないし、クドクドと説明するほどのことでもない。 言い訳も必要ないと、なにごともなかったように車に乗り込む彼に桜木は畳み掛けた。
「どこへ行こうってんだ! こんなときに! だれだ、そいつ!」
「てめーには関係ねー」
「逃げようって魂胆じゃねーだろーな」
「チガウ」
「どうせそういうヤツだと思ってたぞ。怖くなったんだろ。きっとそうだ。尻尾巻くなんざ軟弱キツネらしくて 泣けてくるぜ。おめーなんかどこへ消えようがオレさまがゴリたちを守りきって、関東軍を粉砕してやる!  もう帰ってこなくてもいいぞ!」
「ウルセー。迷惑だ。黙ってろ」
 どんな煽りにも安い挑発にも冷徹な白皙を下げチラリと視線を送っただけで、なんの弁明もせずにフォードに乗り込 もうとした流川を守る花形を押しのけて、桜木は宿敵の後ろ手を取った。
「あんだよ」
「今夜には出発すんだぞ」
「分かってる。手ぇ離せ」
「止めろ、ルカワ。いまはダメだ」
「帰ってくんなっつったのはてめーだろうが」
「いまはダメだ。オレさまのカンがそう告げてる。いまは湘北を離れない方がいい」
「根拠のねーカン。深夜までには時間がある。それをどう潰そうがオレの勝手。そこ、どけ」
「てめーは絶対寝過ごす!」
「喧嘩売ってんのか」
「いま離れちまったら次はほんとに会えるかどうか分かんねーんだぞ! 洋平たちともそーだった。逃げろって 別れて気ぃついたら捕まってた。助かったからいいようなもんの、次の瞬間にはどうなるかなんざ、だれにも分かんね ーんだ!」
「なんの話してんだ?」
「だから絶対なんかないってことだ!」
「てめーの指図なんか受けねー」
 パシンと態と音を立てて流川は桜木の手を払った。弾かれた手を浮かせたままで一度小さく伸ばされたそれは、 意思を持って強く握りこまれた。
 そして向けた背に向ってかけられた言葉。
「ゴリが哀しむ」
 流川はピクリと小さく反応したが、もう一度根拠ねーとの呟きだけを残して、フォードは灰色の排気ガスを 吐き出して走り去った。



 奉天郊外にひっそりと佇んでいる某艶福家から借り受けている屋敷の一室で、洋風に拵えられたマントルピースの 前の緞通にじかに座り込んでいた藤真は、揺らめく炎の動きをじっと見つめていた。日が傾きかけ室外との 温度差で、はめ殺された玻璃の窓には結露の雫が流れている。
 その流れを目で追って、低いテーブルの上に置かれたワイングラスを物憂げに掲げて一口すすった。 どうにも酔えそうにない。高価なワインが勿体ないとひとりごちたそのとき、家令の老人が客の到着を 告げた。花形なら案内を通さずにここまで入ってくるだろうにという危惧が過ぎり、それでもガチャリと音を 立てて開かれた扉を背にしたままで藤真は声をかけた。
「早かったな、花形」
 廊下の冷気が一気に室内に入り込む。それ以上に、かけられた冷え切った声が先ほどの予感の答えだった。
「花形でなくて悪かったな。いいワインが手に入った。出撃を前におまえと一献差し向かというのもいいだろう」
「牧――」
 先ほど別れたばかりの関東軍高級参謀が浅黒い端正な顔を少し歪めて立っていた。






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