月落ち
て
〜じゅういち
「なんだ、酒臭い部屋だな。いるだけで悪酔いしそうだぞ。おまえいつからやってたんだ」
牧は酒精の充満する部屋に入るや、藤真の驚愕を無視して顎を上げからかってきた。いつだって毅然とした態度を
崩すことのない誇り高き満人が、思いもよらない日本人の登場に動揺と不快感を顕わにしている。牧はそれを認め
てえも言われぬ笑みを零し、酔っ払いにこれは不必要かと、両手にはどこから調達してきたのか舶来のボトルが
二本、ぶら下がっている。
奉天には藤真が名前を隠して借り受けている一軒家や屋敷がいくつもあった。それなのになぜ、と彼は信じられないと
いった表情を抑えることが出来ないでいる。
「そんな幽鬼に会ったような顔をするな。見かけに寄らずザルでワクなくせに、見かけどおりに舌が肥えてる藤真
さまのお口に合う酒を見繕うのはいつも苦労するんだ。喜べ」
「――どうして、ここが」
漸く搾り出した声は途切れがちだった。
「藤真さまのことなら総て知っていなければ気が済まないんだな、きっと」
ひとを食った戯言にギンと睨みつけてもこの男には効かない。同じように緞通の上にじかに座り込んだ男を避け、
藤真は立ち上がり目線を下げた。
「オレの行く先などお見通しというわけか。関東軍諜報部の優秀さを自慢しに来たのか、牧。オレなど取るに足らんと」
「そう尖がるな。まぁ座れ。進発前のひと時はおまえと過ごしたいと約束したのを忘れたのか?」
「なにが約束だ。おまえが勝手に決め付けただけだろうが。きょうはだれかと飲みたい気分ではない。
悪いが帰ってくれ」
そう言うな、と牧はサイドボードからグラスを勝手に持ち出すと、持参したワインをそれになみなみと注いだ。
そして藤真自身のグラスを空けるように顎でしゃくる。
この男の押しの強さも強引さも実証済みだ。居座ると
言えば頭上で砲弾が飛び交っていようが、総司令の呼び出しがあろうが忖度しない。それを許される立場であることも、
そのための行動力も能力も推進力も備え、そして努力も怠らない男だった。
あからさまに溜息をついて腰を下ろそうとした動きのどこに隙があったのか。ほんの一歩接近を許したと気づいたとき
には宙が逆転し、藤真はそのまま床に押しつけられていた。
手荒い行動ながらワインボトルもテーブルの上のグラスも揺れることなく収まっている。相変わらずキレのいい、
地上の得物を狙う猛禽類のような動きだ。両手を肘の辺りで押さえつけられ、牧の両腿で挟まれた下半身はビクとも
しない。
「貴様!」
「やはりこの眺めが一番だな。唯一おまえを手の内に留めておける」
「ひとを弄るのもいい加減にしろ!」
「弄るなどと、おまえに焦がれ続けた男の純情を踏みにじるな」
どのツラ下げてと叫ぶ怒りは降りて来た牧の唇で塞がれ、呑みこまれ、砕かれた矜持を取り戻そうと肩を押し返しても
怯みすら与えられない。一息ついて角度を変えその度に深くなる交情は、確かに幾度となく慣れ親しんだものだった。背に
回された腕の強さも、辿る指先の熱さも、耳にかかる吐息の甘さも、抱いた嫌悪さえ粉砕してしまう。
――アイツが来る。
いますぐ離れなければ取り返しのつかないことになる。
なけなしの理性は詰襟を肌蹴られ耳朶から首筋を辿る指の侵入で弾け跳びそうになった。その先を促すように
貪る執拗な舌の動きから逃げ回り、それが次第に絡み合い、だから憎いと、藤真は何度も何度も叫ぶしかない。
――おまえが憎い。
知っているとその叫びを呑み込みながら牧の動きは止まらない。
――殺してやる。いつかこの手で殺してやる。
牧の肩を押していた手が宙に浮いた。両手で首筋を握りこみ、一度締めるつもりの指がいつもいつも力をなくし、
再度浮いて絡むように巻きついてゆく。
心を置き去りにして体がその先を希う。
そのときだった。
ガチャリと、なんの許可もなく入室してくるのはアイツくらいなものだ。どんな緊急事態だろうが軍司令からの通達だろうが、
だれもがそれなりの手順を踏んで彼に面会を求める。腹心の花形ならなおのこと、牧がいれば呼ばなければ寄りつきも
しない。
だからこんな不躾な真似をする者は知れている。無理を押して呼び寄せた。アイツの立場も省みず待っていた。
その存在を知っていて、牧の行動を本気で跳ね除けない己は一体なんなのか。それも殺したいとまで打ち明けていた相手の首筋
に縋って口付けを受けている自分は。
開かれた扉の音と同時に漏れた呼気の音。室内の気温が一気に下がり、牧はゆったりと顔を上げて背後を振り返った。
撒き餌を蒔いて網を張り、導かれてきた哀れな子羊に態と顔を晒してニヤリと笑む。藤真は絡めていた手を牧の首筋
から緩慢な動作で離した。
いまさら、なにもかも、もう、遅いのだけれどその名を呼ぶ。
「楓」
と。
ツヤツヤと濡れそばった唇をこじ開けた言葉は必要以上に艶を含んでいた。
「――んで……」
「楓……」
「なんでだよ。あんたコイツが憎いっつってたんじゃなかったのかよ!」
その情景を目の辺りにして頭の後ろ辺りが真っ白に弾けた。だれがだれと睦み事を繰り広げようが、喩えそこが往来だろうが、
とやかく言うほど子供でもないし実際興味もない。それが男同士だろうが黄昏ていようが迷惑だとも思わない。
けれどもあの日、この男が憎いと泣き腫らしたような瞳で玻璃に映る自分の顔を睨みつけていたのは藤真ではないか。
だから叶えてやろうと思った。身動きの取れない身分だから、変わりに殺してやると宣言して襲い掛かった。
それなのに、なぜ。
「殺したいっつったから、だから、オレは――」
倒れたんじゃないのか。どうしても会いたいと呼び出したんじゃなかったのか。それがどうしてこんな場所で
密会のような場面に遭遇しなければならない。偶然なのか故意なのか。故意だとすれば自分が取った行動は
どこにも到達点のないひとりよがりになってしまう。
本気で殺すつもりだったんだ、と叫びそうになった。あんたは哀しそうに笑っただけで少しも止めなかったじゃないか、と。
それも不手際から逆に殺されても可笑しくなかった。そのどちらを望んでいたのかという問いかけの答えが目の前の秘め事
なのか。
自分はこの戯言の上に成り立つ愛憎劇に踊らされていただけなのかと、鈍いと散々な風評を得ている自分にだって
分かる。
こんな時代、次はいつ会えるか分からないと言ったのは赤毛の天敵のような男だ。その言い分を拾ったわけでは
ないけれど、どちらも無事とは限らないから、だから時間がないのに抜けてきた。
そのあんたは一体、とぶつけたい言葉は憤りの強さから、あまりの深さからくぐもったままで象にならなかった。
「あんたのしてーことが全然分かんねー!」
流川は叩きつけるように扉に当り散らしてその場から目を背けた。
閑静な屋敷の中で激しい物音を立てれば当たり前に響き渡る。廊下に出て階を降りた流川は、物音を聞きつけて飛び出して
きた家令の老人の怯えたような表情とぶつかった。その視線から逸れて一階奥の厨房へ走りこんだ。
このまま正面玄関から出るのは拙い。乗ってきたフォードを車寄せに駐車して戻ってくる花形と鉢合わせしてしまう。
見つかれば花形は絶対に解放してくれない。ここに留まれない理由を告げるのも、それを告げたときの彼の顔を見るのも、
そしてなによりも、もうだれにも会いたくなかった。
ウソをつかれるのも誤魔化すのも感情を持て余すのも、もうごめんだ。大人の事情とやらで振り回されたくない。
あのとき藤真は牧を殺してやりたいと言った。だからそうしようと思った。
さらに一年前。一緒に暮らすことは出来ないからと赤木たちの元へ行けと言われた。だから従った。
考えるのも億劫だから。その裏に潜むものがあったとしても理解出来ないから、言葉を額面どおりに受け取って、
それが少し違うんだと言われたら、もうどうしようもない。考えたくないことが多すぎて。
なんで母があの若さで急に逝かなくてはならなかったのだとか。なんで父は母の死後幽閉するみたいに自分を十年も
閉じ込めたのだとか。なんでそこから助けてくれたのが藤真だったのだとか。なんでそのあと一緒に住めなかった
のだとか。その藤真の気持ちはどこにあるのだとか。ほんとうは自分にどうして欲しいのだとか。
言ってくれなきゃなにも伝わらない。
厨房にぶら下がる鍋の暖簾を掻き分けて流川は裏口から屋敷の外へ出た。湘北からここまで道程を考えて徒歩で
は無理だから
そのまま厩舎へ向った。本当のところ赤木たちの元へ帰る義理もないのだ。あそこは藤真が用意してくれた
場所だからその命に従ったまでで、その彼の心中が覚束ないいまでは、守らなければならないものはなにもない。
けれど考えられる場所はそこしかなかった。
少し走っただけの理由ではない荒い息のまま厩舎に忍び込むと、それを敏感に感じ取って激しいいななきの声を上げる
馬たちが棹立ちになった。呼吸が上手く継げないまま馬腹を撫でようにも、馬たちが吐く息は激しいほどに白い。
闖入者の登場に落ち着けと念じる方がどうかしている。それでも時間がないのだ。
焦って泳いだ視線が流れて一番乗りこなしそうな馬を見繕うが、見回した先ついその一頭に目が奪われた。
数頭ほどが囲われた厩舎の一番奥、明らかに毛並みの違った馬が、周囲のざわめきなどもろともせずに、プルンと首を
震わせている。
満州に見られるずんぐりとした農耕馬とは遥かに一線を画した竜騎馬。コサック騎兵たちが乗るシベリア種と
蒙古馬とを交配させた戦闘用の馬だ。スタミナも速さも兼ね備えているという。
けれど、どこかで見た覚えが、とゆっくりと鹿毛の映える生き物に近づいたそのとき、
「その馬、見事だよね」
足元から余りにも長閑過ぎる声がかかった。
まさか厩舎の干し藁に寝転がっている者がいるとは思わない流川は、驚愕を隠せないで後ろに跳び退いた。男は
そこで本気で居眠りでもしていたのか、ふあ〜と間延びした声を出して伸びをしている。起き上がった拍子に、その
見事なツンツン頭からハラハラと干し藁が零れ落ちた。
思えば牧がいてこの男の姿が見えない方が可笑しかったのだ。まさかこんなところで惰眠を
貪っているとはだれも思わないだろうけれど。
「眉間に皺なんか寄せてどした? 殺気を漲らせてるから馬がいきり立ってるじゃん」
流川はその問いかけを無視し、足元の仙道を避けて竜騎馬から離れ、馬たち一頭一頭を囲ってある木枠を越えようとした。
しかしおもむろに伸びた長い手がその後ろ首をまるで子猫を攫うように止めた。グエと喉元を圧迫されて後ろに倒れこんだ
身体を抱き込んだのも仙道だった。
「落ち着け。危険なのは分かってるだろう。顔面に蹄鉄食らわされるぞ。馬はデリケートな生き物なんだから、
おまえの状態感じ取って怯えてるじゃないか」
「触んな!」
「馬、使いたいんじゃないの? だったら落ち着け」
「ウルセー。てめーらの顔も見たくねー!」
「流川、よく考えてみろ。俺、間違ったこと言ってる? そうじゃないだろ。自分自身の平静が保てないときに
無闇と近づいちゃいけない。馬にも無駄な怪我をさせちゃダメだろ。大丈夫だから。あとでちゃんと離して
やるから話を聞くんだ」
もがいて両肘で押しやるとその上からふわりと両腕で包まれた。ほとんど身長が変わらないから流川の後頭部と仙道の
頬が密着し、彼はまるで頭に語りかけるように、流川の状態の訳は分かっていると確信的に口を開いた。
「まさか俺たちがここにいるとは思ってないよな」
「……」
「もしかして牧さんと藤真さんが一緒のところにハチ合わせした?」
沈黙しか返らないがそれを肯定と受け止める。仕方ないひとだな、と彼は上司の性急さを笑った。
「そりゃ、随分な目にあったね。ま、犬も食わないっていうか、だれにも止められないって思うんだけど、
イキナリそんな場面に遭遇すれば、ふつうにびっくりするよな。何よりも大っぴら気に出来ない特異な関係だし。
けど、非難されるのはそのタイミングでふたりがどうとかってんじゃないだろ? それは分かるな。
流川が、その、藤真さんに長年焦がれてたっていうのなら怒る権利はある。牧さんに目にもの見せてやるって
いうなら目を瞑っててやる。一応あんなのでも敬愛する上司だから手加減よろしくな」
沈黙が怖くて立て板に水状態で埒もない援護射撃だか焚きつけているのだかを続ける仙道を、遮ろうという
強い思いはなかったが、この男は自分が発した言葉をきっちりと拾おうとしてくれているのだと、それだけは分かった。
オレ、と言ったあとはっきりと手に分かるほど身を竦ませた流川のさまが、迷子になった子供のような不安定さを
感じさせ、コイツほんとに藤真さんのことが好きなんだなと、少し淋しく思わなくもない。
「……アイツのこと、殺したいほど、憎んでるとばっかり……」
「藤真さんがそう言ったのか? 殺したいって。だから牧さんを狙ったんだな」
「けど」
「違ってたんだろ」
「分かんねー」
「俺たちは流川が藤真さんに呼ばれてここへ来るだろうって予想してたよ。そんな会話を立ち聞きしたから。
けど牧さんは流川と鉢合わせする前に引き上げるつもりだったんじゃないかな。オレはそう思ってた。
藤真さんはとにかく流川を隠しておきたかった。けれどそれ以上に牧さんは、どうしても今夜じゅうに藤真
さんに会っておきたかったんだ。軍人だから。あすは進発だから。そういう理由で」
「それじゃ――」
「憎んでるのは間違いないと思う。その、結構手荒なひとだから。満州国軍を率いてるっていっても藤真さんの場合、
微妙な立場だし、満州国という傀儡政権を立てたのは牧さんの発案であることは間違いない。けど、その深さと同じように
第三者の目からは分からないくらいの繋がりも確かにあるんだ。
現に牧さんは進発の前には必ず藤真さんとの時間を取るようにしている。なにを差し置いても。
だれにも邪魔されないように。多分出会ったときから」
「だったらオレなんか呼ばなきゃいい。好きな男と一緒にいればいい。そうしなきゃ、オレに見られてあんな哀しい顔
する必要なかった」
「俺たちがここをつき止めるとは思ってなかっただろうしね。藤真さんにしたら事故にあったようなもんだ。
あまり悪く言うな」
「オレが牧をし止めてたらどうするつもりだったんだ」
流川、と仙道はそのサラッとした癖のない髪の手触りを確かめるように指ですいた。何度も何度もすいた。
投げかけた言葉に答えが返らないのは、多分流川も仙道もそのときの藤真の姿が想像できたからだ。
きっと言う。よくやってくれた、と。
そう言うだろう、あの男なら。
憎しみと同等するなにかを抱えた相手を殺されても、きっとゆったりと微笑むつもりだったのだろう。
もう瞑目するしかない。
ほんの暫くの沈黙のあと、気づけば先に荒い呼吸を収め出したのは繋がれた馬たちの方だった。それを知ってなぜか
さっきまでの憤りと胸の底に貯まった澱のようなものが仙道の手の動きに反応してユルユルと溶けてゆく。
複雑に入り混じった彼らの心情は理解できなくても、やたら温かく感じる節の高い指の動きがまるで子供に与えるような
愛撫で心地よく、それだけがいま現在の唯一確かなことだ。
この男の手は不思議だ。
「目を閉じて深呼吸しな」
ひと慣れしない猫科の動物が、そう言われて素直に従っているさまは、毛づくろいされて喉元を晒しているようだと
仙道は音もなく笑んだ。背中を抱えて同じ方向を向き合っているためその表情は伺えないけれど、この少年の性質上、これは
結構貴重な体験なのかもしれない。
「ひと息入れたら馬たちの怯えが解けてゆくの分かるだろ?」
「ん」
「馬が手足の満州人だもんな」
すうーと流川の胸部が大きく上下した。吐き出す息はどこかさざ波を含んでいたけれど、触れてもいないのに穏やかに
脈打つ鼓動が背中越しに感じられて、つい問いがまろび出た。
「おまえ、藤真さんとどういう関係なの」
「なんでんなこと聞くんだ?」
「いや、すごい慕い慕われてるのは確かだなって思ってさ」
「あんたには関係ねーだろ」
「ん。そうなんだけど、言いたくないとかすごい秘密が隠されてるっていうなら構わないけど」
「別に。ただの兄弟だから」
さらっと答えが返った。
continue
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