月落ち 〜じゅうに








「弟だと?」
 牧は寄せていた首筋から唇を離し、何気に問うたものの途切れがちに返った答えに動きを止めて、藤真の瞳に 見入った。そのさまは投げ出された四肢同様、情欲の名残をあっさりと手放し諦観し切っていた。
「この屋敷を探し出した諜報部だから、それくらい調べ済みだと思っていたが?」
「おまえに楓という名の弟はいないはずだ。オレはまた熱心な藤真さま命の親衛隊長か信奉者か年下の愛人かと踏んで いたんだがな」
「調査不足だな。ざまあみろ。れっきとした血の繋がった弟だ。尤もハラは違うが」
「それじゃおまえ、アイツもバリバリの王族じゃないか」
 牧は当然の疑問を口にした。
 永の繁栄を誇った清王朝があっけないクーデターにより消滅したのが1911年。 宣統帝(せんとうてい)溥儀の世は、みじかくもはかなく散った が、その後も混乱は収まらず広大すぎる中国大陸は迷走を続ける。そんな中かつての王朝を復活させようとする 運動が表出するのは自明の理で、その先鋒だったのが清王朝第二代皇帝ホンタイジの長男を祖先とする 名門、粛親王家の当主だった。
 藤真という名は日本名。親王府を構えるほどの地位にいた藤真の実の父粛親王が、大陸浪人であった清王朝復辟 活動家の日本人と意気投合して、まるで玩具でも差し出すかのように彼を養子に出したという。その経緯は公式文書が 伝えだれもが周知の事実だったが、その心情は未だに本人の口から聞いたことはない。しかし国籍があいまいながらも 消滅した清王朝の末裔であることには違いがなかった。
 世が世であるならば拝謁することすら叶わぬ天上人だったろう。ましてやこのように腕に抱くなどと。
「それは嫌味か? 傍系も傍系。うちの父は王族というよりも政治と経済に目端の利きすぎた商人といった感じだったけどな」
 それでも牧は関東軍と昵懇だった兄弟の実父から流川の立場を訝り、逆に藤真は王族が抗日活動をしていては可笑しいか、 と尋ねてきた。
「楓は幼名。わが敬愛なる粛親王殿下と第五愛妃との間に生れた第十一王子。ああ見えても 愛新覚羅(アイシンギョロ)の名を冠せられる ご身分だ。兄は幾人もいたけど、オレにとっての弟はヤツひとり。いまでも手のかかる末っ子ってヤツ」
「ではなぜ、兄弟で銃を向けあう関係を選んだ? 気紛れにしては酔狂過ぎやしないか?」
「オレは父の選んだ道を否応なく歩まされたからな。ひとりくらい、満人として真っ当してもらいたいじゃないか。あの溥儀 ですら日本人がつくった歯車の一部に宛がわれて、叶わなかったんだから」
「その細かい事情をあの小僧が理解しているとは思えんな」
 そう、なにも分かっちゃいない、と藤真は緩慢な動作で牧を押しのけ上体を起こした。再度を試みる牧の首筋に手を当て、 本気で圧迫にかかる。牧は降参とばかりに諸手を上げた。
「アイツはなにも知らない。だからこそしがらみを外れて生きてゆける。清王朝が当然とも呼べるクーデターで 消滅してもなお、復辟を願う強欲な満人の体質から逃れて、どこまでも」
 藤真はふとどこか遠くに視線を飛ばすような動きを見せたが、それも束の間、ガラリと口調を変えてきた。
「兄としての面目が丸つぶれだ。これじゃ、ますますアイツの足が遠のく。ここで軟禁状態にしてやろうと思ってた のに。アイツになにかあったら、オレはおまえを一生許さないからな」
「満人として真っ当させてやるんじゃなかったのか?」
 藤真は答えない。指摘されなくても分かっている二律背反だからだ。藤真の願いはあくまで彼に満人として 生き永らえてもらうこと。関東軍に隷属する満州国皇帝溥儀以下の貴族たちから離れ、忘れ去ってどこまでも 生きろと。それはこの時代、なにをおいても困難な道とも言える。
 牧は不器用な兄弟と、そしてそれをつくり上げた己をも痛ましく思った。
「弟か。どうりで押し付けたときの逃げ方もそのときの表情も武器の種類も似ていたわけだ」
 思い当たる節があったんだよな、と顎を撫でた関東軍の佐官の前髪を藤真は鷲づかみにした。
「あいつになにをした」
「おまえと同じことを――と言ったらどうする」
 即答を受けた藤真の昏い唸りに、それ相当の低さで対向して牧はその手を捉える。束の間のにらみ合いのあと、 彼はそれを払って立ち上がった。
「花形を呼ぶ。さっさと支度をしろ」
「情緒を解せんヤツだな。ヤキモチは妬いてくれんのか」
「言っただろ。楓になにかあったらおまえを許さないと。遅いかもしれないけど、いまならまだ捕まえられるかもし れない」
「あの勢いだからな。屋敷に留まっているとは思えんが。あぁ、意外な部分で鈍そうだから、仙道にとっ捕まって るかもしれないぞ」
 したり顔でそう告げると、はっきりと見て取れるほどの嫌悪を顔面に張り付かせた藤真のその様を認めて牧は、 態とゆっくりと身繕いをした。



「藤真さんと。そうなんだ」
 仙道はしみじみと呟いたが、その効果を理解していない少年は胸を逸らせてどこかエラそうだ。
「だったらなんだっつうんだ?」
 あっけない回答をもらって、これを聞いたらまた藤真さん激怒するだろうなと、この少年のあまりの概念のなさに 美貌の保護者の苦労が偲ばれた。尤も同時刻に、当の藤真も投げやり気味に披瀝しているとは仙道も思いもよらないが、 流川にとっては隠さなければならないものはなにもないのだろう。こと自分の身上なんかに関しては。
 ひとつ納得して、腕の戒めを解き流川の正面に身体を回し、目を丸くした仙道の第一声は牧とは――かなり趣きが違っ ていた。
「なぁ、兄弟構成どうなってんの? お姉さんとか妹とかいない?」
「なに?」
「妹さんは拙いか。う〜ん。上は三十五くらいから流川くらいまでのお姉さんがいい」
「言うことがそれかよ」
「流川タイプのお姉さんにはそそられるな。出来れば二十五、六でさ、お澄ましさんなのにどっかボウっと抜けてんだ。 鞍上人なく鞍下馬なしって感じで後ろ姿は凛々しいくせに、歩くたんびに柱にぶつかったりするんだよ、きっと。 藤真さん似だったらもう少し年上でもいいや。総てあなたのリードにお任せしますって。悩むな〜。どっちにしよう」
「ふん」
 言葉にするとニヘラ〜と称される仙道の表情が、たぶんいままで目にした中で一番嬉しそうだったからと言って どうってことはない。単なるもの好きの面食いで守備範囲が大陸並みの広さを持つタラシなだけだ。勝手に 妄想膨らませてりゃいい。こんなどこまでもお目出度いヤツに関わってる場合じゃない。
 一生悩んでろと流川は仙道の腕を突っぱねたが、敵も伊達にタラシのふたつ名を冠していない。相手の意表をつき、 懐に切り込んでこそ維持し続けられるのだ。流川の露骨に不快そうな顔ももろともせず、相手を 深く知りたいと願う気持の行く先をきちんと理解して、仙道の詮索は止まらない。
「お母さんてどっちに似てる? どっちにしても壮絶に美人なんだろうな。男の子は母親に似るっていうからな」
「覚えてねー」
「もう亡くなってたのか」
「四つんとき」
 そうか、と言ってからハタと気づいたのか男は丸くなった瞳をさらに丸くして大仰に空を仰いだ。
「ちょっと、待てよ。藤真さんの弟! ウソ。満州国皇帝と親戚? 流川って雲の上のひとだったんだ。うわ〜、 これって身分違いの恋ってヤツ? 折角歩み寄れたのに」
「だったらなんだっつうんだ」
「凄いな。能ある鷹は爪隠すっていうより、うん。見事な隠し方だ」
「意味、分かんね」
「そう言えば藤真さんや花形さんは流川のことを楓って呼んでたな。家族間の呼び名を他人においそれと教えちゃ 拙いだろ。藤真さんが怒るのも尤もだと思うよ」
 『大東飯店』での折に咄嗟に名乗ってしまった嘗ての幼名は、既に郷愁化され手から零れた過去のものだ。 けれどいまの流川という母方の姓を告げるわけにもいかず、結局それ以外に他に思いつかなかったから口をついた。 流川にしてみればの失態も、そこから微かに繋がったか細い絆が確かに存在したと仙道は思う。
 願えば会えたじゃないか。
 これは一種、言葉の祝いだ。それもと呪いだろうか。
「楓の葉って対生なんだって。知ってるか?」
「はぁ?」
 ポーンとなんの脈絡のない言葉が投げかけられた。さっきまでのお気楽ミーハー振りがなりを潜め、 箱の中からとっておきを出すような、その反応を心待ちにしているような顔をしている。
「中国のひとにしたら一文字は珍しいじゃない。だれがつけたんだ、その名前?」
「たぶんハハオヤ」
「対生って植物の葉が一つの節に一対生ずることなんだけど、ロマンティックに解釈すると対になる存在と一緒に 陽の光に手を伸ばす。落葉するまで永遠に。比翼の翼や連理の枝と同じだ。母上がそうであった のか、流川にもそうなって欲しかったのか、捨てるには勿体ないくらいの綺麗な名前だと思う」
「違うだろ。黒龍江省にあったハハの実家に、立派な楓の老木があったって話だ。過去を懐かしんで オレを見て呼んで思い出してたってだけだ。シラフでよくそんな戯言吐けんな」
「そりゃ、残念。けど真実は都合よく曲解するのが俺の身上だからね。根はロマンティックに出来てるの」
 想像どおり冷淡に斬り捨てられたはずの仙道は、なに食わぬ顔で流川の後頭部を右手で固定すると、それがさも自然で あるかのようにゆったりと唇を寄せてきた。



 以前受けた一度目よりもずっと強く情愛のこもったそれを唇の端に感じ、トクンと跳ねた意味不明な心臓の音を 厭って反射的に振り上げていた拳は、仙道の左頬にめり込むことなく肘で払われた。簡単にあしらわれたことで血が逆流 する。両肩を押して離れようとした流川に仙道の低い怒りが被せられた。
「なにすんだっ」
「むしょうに、こうしたくなって」
「なに、トチ狂ってやがるっ」
「そう言ってもさ、本気で抵抗する気がないなら、無駄なことは止めろよな」
「んだとっ」
「簡単に払われるようなしょぼい攻撃じゃ、男の本気は止まらないってこと覚えておいた方がいい」
「てめー!」
 叫ぶよりも早く上衣の裾を払って腰に吊るしたホルスターからブローニングを取り出し撃鉄を起こし、それを 仙道のこめかみにまで当てる時間はひとに誇れるほど早いと自負している。現に仙道は身じろぎひとつ出来ないで されるがままになっている。なのにヤツはその状態のままで、触れるだけの口付けに飽き足らなくなったかのよう に深く合わせてきた。
 乱暴とさえ感じさせた舌先の侵入は、頬の裏から歯列の隅々まで弄るようにうごめき、息苦しさと次第にざわめき 出した後頭部の痺れを感じさせた。それに煽られまいと、仙道のこめかみに当てた銃口をグイと押し付けても 火傷しそうなくらいに熱いうねりは止まらない。どこからどこまでが己のものなのか、それすら分からなくなって 一度呼気が解放された。
「――ぁ……」
 浅ましくも肺一杯に吸い込んで吐き出した息は艶を帯びていた。目が見開かれる。空いた手で口元を押さえる。 呼吸が元に戻って自分が肩で息をついていたことに初めて気づく。なにがこのさんざめきの原因なのか。なにに 怯えているのか。なにに感覚の総てを持っていかれそうになったのか。
 考えたくもない起因が目の前で瞳をそばめていた。
「ぶっ殺すぞ、てめー!」
 震える手でゴリと音がするほどに銃を押し付けても、いいよ、と甘く見られた答えが返った。流川は口の中に 残った感覚を吐き出してブローニングを宙に放る。その軌跡を目で追った仙道のガラ空きのボディに膝頭を 埋め込ませた。
「ぐはっ」
 ふたつ折りになってしゃがみ込んだ仙道のツンツン頭を鷲づかみにして顔を上げさせて、その瞳に思い切り 睨みを利かせても、それでも口の端を上げてくる男に出口のない感情が邪魔をして、流川は次の攻撃に移れなかった。
「……手荒い。けど、ひと思いに殺さないんだ」
「んな間近で銃をぶっ放したらてめーの脳漿塗れになっちまうからだ」
「それでなくてもおまえは俺を殺さないよ」
「舐めんなよ!」
「殺せない。流川は俺のことが好きだからな」



 この言葉は呪いだ。



「な、に?」
「結構、惚れてんだよ」
 ありえねー、と吐き捨てて流川は仙道の髪を乱暴に離すと、背を向けて改めて馬の物色に移動した。 なにか別のことを考えていないとズルズルと引きずり込まれそうになる予感に唇をかみ締め、確認するように もう一度ありえねーと口にする。
 背後で仙道が激しく咳き込んだ。それを無視して足早に馬の表情を一頭一頭見て回る。 どれも調教されていて乗りこなし易そうだけれど、 一度目に留めたあの竜騎馬の凛々しい姿が頭から離れなかった。乗ってみたいという誘惑には勝てない。クルリと 踵を返して、しゃがみ込んでいる仙道の足元で流川は奥の枠を指差した。
「そこどけ。コイツ、もらう。邪魔だ」
「無理だと思うよ。俺もさっき試乗させてもらおうと思ったんだけど、鞍さえつけさせてくれなかったからな」
 仙道は両手を後ろについて上体を仰け反らせる格好で痛みをやり過ごしていたが、無理のひとことに反応して木枠に かけてある鞍を手に挑んだ流川の姿には苦しそうに笑いを堪えている。底なしの負 けず嫌いらしいが、当の竜騎馬は馬首を振り胴を震わせて最小限の動きで抵抗を試みている。それに流川も執拗に 食い下がった。
「急いでるんじゃないの?」
 馬の胴を押さえて鞍を装着しようとしても、すげない仕草で一蹴され馬首で押しやられている。遊びのある木枠の中 でカツンとたたらを踏まれては近づくことも困難だ。両足を投げ出して、難しいだろと揄う仙道の声が耳に入らない のか、流川はただ挑み続けていた。
 先ほどの痴態はきっと忘却の彼方だ。どこか他のことはなにも目に入っていない状態。集中力があるというより相当な 視野狭窄の持ち主だ。焦って息せき切って 厩舎に駆け込んで来たんじゃなかったのかと重ねて尋ねたくなってきた。時間が許せば、額に汗を浮かべながら この馬を乗りこなしてゆく流川の姿をずっと見守っていたいのだけれど、何れ本来の目的を忘れていたことに 気づく。
 それだけが忍びなかった。
「そいつほどじゃないけど、俺たちが乗ってきた馬も結構なもんだぞ。なんなら送ってってやろうか」
 仙道は引導を渡すことにした。
「いらねー」
「遠慮すんなよ。あ、そうか。関東軍の将校とニケツしてるとこ見られたら、立場的に拙いか」
「ふたり乗りだと馬速が落ちるからに決まってんだろ」
「へぇ。そうか。じゃ、貸してやるよ」
 緩慢な動作で身体を起こすと、仙道は厩舎の入り口近くの来客用の囲いへと流川を促した。







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