月落ち 〜じゅうさん








 仙道が誘った先には全体に黒味がかった赤褐の黒鹿毛が、僅かに顎を上げた状態でじっとこちらに視線を送っていた。
 関東軍将校の愛馬たちは流石に威風堂々としている。仙道はそのうちの一頭の鼻筋を 穏やかな手つきで撫でると手綱を流川に向けてきた。本気で貸してくれるらしく、躊躇っていると流川の手を取り それを握らせてきた。
「名は赤兎(せきと)。賢い仔だからおまえが降りたら 離してくれていい。必ず戻ってくるから」
「せき、と?」
 三国時代の物語に出てくる有名な馬の名だ。三度主人を変えたが常に傍にあり続け千里を駆け時代を彩った汗血馬。 その名を与えて忠実さを求めたのか、名を馳せた英雄に自分をなぞらえたのか。ただ、燃えるような緋色をしていた という馬肌が、少し似ていたからという理由の方がらしいとも思えたけれど、男は浪漫だよ、と目を輝かせた。
「俺、満州に来たら絶対馬の名前は赤兎にしようって決めてたんだ」
「アレは漢人の物語だから舞台は満州じゃないし、持ち主は全員悲惨なことになってる」
「そう言うな。結末は興味ねーの。人馬一体。どこまでもコイツと一緒に駆ける。片時も離れない。関聖帝君も そうだったわけだろ。その生き様と共鳴できたらカッコいいじゃん」
「会ったことねーし」
「赤兎や関羽に? たりめーだろーが。あ、そうか。おまえ歴史なんかに興味なさそうだもんな」
「意味ねーじゃん。んな昔のこと教わったって」
「諸子百家とか四書五経とか」
「寝てた」
「辛うじて孫氏の兵法か?」
「取りあえず先手必勝。一発ぶちかませってヤツ?」
「え、ああ。兵は神速を尊ぶ、か。そういう解釈もアリだな」
「あれは面白かった。喧嘩に使える」
「大変な王子さまだね」
 クスクスと笑いながら仙道は、流川に手綱を預けたままで愛馬の鼻筋に頬を寄せ、片手で首を抱いてくぐもった声 を出した。
「赤兎。流川のこと頼んだ。無愛想だし、愛嬌ないし、ぶっきら棒だし、素っ気ないし、ツレナイし、無茶するかも 知れないけど、オレにとっては牧さんの次に傷つけたくないものなんだ。二番目って聞いたら怒るかな。そうだったら 嬉しいけど、牧さんはオレにとって生きてゆくための指針だから、その次でも結構な位置にいるって分かってくれたら いい。おまえの第一の使命は流川を送り届けること。第二はおまえの安全だ。その両方ともが叶えられそうになければ おまえの身を優先させろ。それはいつも言ってることだから分かるな」
 馬はプルンと小さく嘶き、仙道はゆっくりと何度も馬肌を撫で、流川はその場に打ち付けられたように身動き出来な かった。愛馬に向って語られた言葉は直接聞かされるよりも遥かに羞恥心を煽り、それ以上にはっきりと手に出来ない 覚束なさに怒りの方が先に来た。
 ひきょーもん。
 この場合この言葉が当てはまるのかどうかも知らないのに、一瞬そう口にしそうになった。あんな口付けかましといて、 いまさらこの物言いは卑怯だと思う。だからと言って手を取って囁いて欲しい類の科白でもない。敢えて聞かないフリを する。敢えて気づかないフリをする。それはこの男がつくった逃げ道なのかもしれなかった。
 それでもやっぱり卑怯だ。
 流川は手綱を手繰り寄せて轡近くを握り込み、強引に馬首を自分に向けさせた。主人に優しく愛撫されて気持よさそうに 陶然としていた赤兎は、突然の荒っぽい動きに露骨に歯を剥いて何度も首を振っている。
 よく分からないけれど、無性にムカツク。
「コイツ怒ってる」
「手荒なんだよ、おまえは。それに主人思いの仔だからな。流川がオレを殴ったとこ見て怒ってんじゃねー」
「馬を甘やかすから付け上がんだ。仕返しに振り落とされたらどーする」
「そうならないようにしっかり手綱を握ってな」
 流川は赤兎の目を見据えて服従させるために威嚇し、馬は馬で相手を値踏みするかのように三白眼で見下ろしていた。 コレにコイツを乗せるのは本気でやばいかも知れない。いつまで恫喝し合ってんだとひとりと一頭を交互に見比べて いたとき、上げていた馬首を下げて流川の匂いを嗅ぐような動きを見せ、先に折れてくれたのは四足歩行の生き物だった。
 流川よりもずっと大人だ。
 コイツらの道行きに一抹の不安を感じずにはいられないけれど、本気で張り合いそうなのが容易に察せられて 苦笑が漏れて、それでも仙道は願わずにはいられなかった。
「抗日馬賊が集結してる。それに流川がどこまで関わってるか知らない。あすは銃口を向け合うかもしれない 俺がこんなこと言える立場じゃないけど、それでも――」
――流川、死ぬなよ。
 もしかしたらこれで最後になるかも知れない仙道との邂逅。斬り捨てるように流川はヒラリと鞍上のひととなった。 たりめーだ、と返し、まだ殴り足りないしと口籠もり、それでもひととの係わり合いに一切忖度しなかった自分が、 どういう象にせよ次を願っている。同じように生きていて欲しいと。だから同様に自分も死ねないと。
 その思いを口にすることはないけれど。
 木枠が外され解放の喜びを素直に伝えてくる仙道の愛馬。手綱を絞って引き締め一度視線を落とした流川の躊躇いに 乗じて仙道は聞きたかった問いを口にした。
「この戦いが終わったらおまえはなにしたい?」
「満州を離れる。行きたいとこがあるから」
「ふうん。年ふりた楓の木か」
「あんたこそどーしたいんだ」
「ん? 俺は牧さんと共に満州の行く末を見守ってゆく」
「それが終わったら?」
 切り替えしに仙道が息を呑む。即答しろと願っていると先に零れるような笑顔に包まれた。
「それが終わったら――好きなヤツと共にありたいと思うよ」
――願えよ。
 そう叫びそうになり、しかし口をついた言葉は相反していた。
「んなキザったらしいこと言ってるヤツから流れ弾に吸い寄せられんだ」
「俺は大丈夫。緩急の付け方は知ってるからな」
「どっから沸いてくんだ、その自信」
「おまえだよ、向こう見ずに突っ走んのは。理解しろ、流川。無茶と無謀は別ものだから」
「あんたに言われるまでもねー」
「ん。じゃ、またな」
 当然のようにそう告げられ一度振り返った。
 彼はそれ以上なにも答えなかったがより一層の深い笑みを返され、馬腹を蹴って厩舎を飛び出したあとも、 いつまでも流川の脳裏から離れなかった。



 夜も更けた奉天の街を疾走し、湘北にたどり着いたときには約束の刻限まであと僅かという頃合だった。 ヤキモキしながら待ちわびていた仲間たちから安堵の溜息が漏れ、流川は完全に途切れてしまった藤真との絆 を思う。
 あんな象での別れってないと思うけど、会いたいと願ってくれた者に会えて、きっとこれでよかったんだ。 たぶん彼は彼なりに流川の身を案じながらも、本気で出立を阻止しようとは、それが可能だとも考えなかったのではないか。
 あの屋敷に居たのは彼らの他に家令の老人がひとり。つなぎ止めておくには寡兵であり過ぎる。彼の力をもってすれば 満州国軍一個小隊、闇に潜ませるくらい簡単だったろうに、屋敷を抜けてもそれからも道を阻むものはいなかった。
 背後から包み込まれた深い愛情を感じ一心に赤兎を駆ることができた。
 四才のときに母が逝き藤真に助け出されるまでの十年間は、自分たちに宛がわれていた粛親王家の別宅で、陰気な顔を した家令夫妻と入れ替わりやってくる家庭教師だけが流川を取り巻く世界だった。
 広大な中庭では馬術も銃撃も心置きなく練習出来る。体術や棒術も一流の教師と マンツーマンだ。湘北の仲間と出合ったとき流川の卓越したテクニックにだれもが目をむいたが、それだけの英才教育 を受けていたのだから出来て当然だと受け止めていた。世間では飢饉だ不作だと叫ばれた年だって、豪華な食事に ありつけた。闘争の銃声も事変の血生臭さからも完全に隔離された別天地だった。
 それでもだだっ広い寝室で熱にうなされて震えていても、夢見が悪くて飛び起きてもだれにも届かない。どんな 言葉も返らない。だれも助けにきてはくれない。実父の訪いは年に一、二度。これだけ兄弟の数が多ければ、それでも マシな方だとあとから藤真に教えられた。
――へぇ、おまえが楓か。
 最初は父にくっ付いて、そしてその父よりも遥かに足繁く顔を出すようになった藤真の第一声だ。
 小さかったけれど、そんな状態だったからなによりもよく覚えていた。
――ホント嫌味なくらい母上に生き写しだね。
 そう言って頭を撫でてくれた兄の手は暖かかった。
 そして去年。満州国が誕生した際に、天津の日本人租界に匿われていた皇帝溥儀の第一夫人を脱出させた藤真は、 ほんの少し足を伸ばしただけというのは本人談で、世間から取り残された別宅から彼を連れ出してくれた。そこで 初めて流川は屋根に邪魔されない蒼天と、果てることのない地平線と、草いきれの匂いだけの空気を知った。
――オレの手を取るならほんとうの世界というヤツを見せてやる。楽しいことなんかひとつもない。温室育ちのおまえ には想像も出来ないような現実が待っている。それでもいいというならオレの手を取れ。
 一緒に来い、と言われ真っ直ぐに手を差し伸べた。
 窒息寸前だった肺を満たした現実とやらは着る物も食べる物も温かい寝床にもこと欠く毎日で、それでも 縮こまっていた全身の筋肉が解放の悲鳴を上げていたのだ。
 一度も口にしたことはなかったけれど、もう一度会えたらきちんと言う。
 ありがとう、と。



 流川はご苦労とばかりに赤兎の首筋をポンと叩いた。いかにもおまえのために乗せてやったんじゃ ないといった表情でそっぽを向いていたが、駆けやすいように轡をと手綱を外してやり、行けと促すと赤兎は イキナリ流川の目の前で棹立ちになった。
「てめー危ねーだろ!」
 咄嗟に逃れて尻餅をつき、流川の鼻先わずかな位置でカツンと前脚を降ろして地を踏みしめる。そして前身を震わせて いるさまが、これでお役ご免だとか、せいせいしたとか、帰ったら消毒だとか、とにかく全身で嫌悪感を顕わにされ、 流川はがばりと立ち上がり赤兎の太腿にガツンと蹴りを入れてやった。
 さっき従順だったのは、己の主人がいたからしおらしいフリをしただけだ、きっと。使命を果たしたいまは守らなければ ならない対象でもないと、思ったかどうかは定かではないが、どうも胸にイチモツ潜ませた一筋縄じゃいかない馬だ。
 あの主人に似て。
 裏表のあるヤツ、と吐き捨てると途端に顔近くで盛大なクシャミを食らわされた。ほとんど全身赤兎のヨダレ鼻水 塗れだ。流川はコノヤローと、そのまま突進して首に纏わりつきヌルヌルの全身を擦り付けてやった。
 赤兎がヒヒンと身を捩って大きく嘶く。
 自分が出した体液を嫌がる馬も珍しいが、 その仕返しの仕方もどうかと思う。隠れ家に到着したのになかなか部屋に入って来ない流川を案じて、赤木が 表に出ると、無口で無愛想で生意気で無神経な男が、嫌がる馬を抱き寄せていると思しき場面に遭遇して目を丸めた。
「ぜってーぶっ殺す!」
 言葉と態度は不穏当でも変にちぐはぐな掛け合いに、ゴホンとワザとらしい咳払いで割って入った赤木の存在に、 ひとりと一匹が同時に視線を送ったのには驚きよりもかみ殺せない哂いが出て来てどうしようもない。なにせ どちらも鼻息も荒く土埃と体液でドロドロになっていたからだ。
 赤木が呆れてことさら口調を硬くした。
「なに遊んでいるんだ、流川。さっさと顔を洗って着替えて来い。時間がないんだぞ」
「……ウス」
 渋々離れて馬腹を叩いていま一度行けと促した。赤兎は顎を上げて流川を睨めつけ、その場で地面を叩いて 小さな円を描いてひと回りしたあと、大きく地を蹴った。狭い入り組んだ路地のため早駆けは出来ないけれど、 関東軍尉官の愛馬はそのまま二度と振り返ることなく闇に消えていった。
 流川は蹄鉄が地面を蹴る音を最後まで聞いて見送った。
 そして日付が変わる。



 まだ細長い眉月が薄っすらと中空にかかっている頃、白い息を吐き出す馬首を揃え奉天近辺を根城としている 馬賊たちが集結し出した。その数三百。
 全満にその名を轟かせた伝説の総攬把(ツォランパ)は、 いまはもう体格も様変わりし嘗ての名残は留めていないと思われたが、ひとたび騎乗し顎を上げゆったりと周囲を睥睨 すると、無骨で慣らした馬賊たちの背が伸びた。威嚇するものはなにもない。ただ穏やかな視線を当てられただけなのに、 その過去が背負った思いの総てで包み込まれるような陶酔感は、この年齢に達して備わってくるものなのかもしれない。
 いま一度作戦の全貌をとつとつと語る安西を見つめながら、赤木はそんな感傷に駆られていた。あの泰山のようなひと を継承できるのだろうかと。
「作戦というほどのものはなにもありません。幸い総員というほどではないが張学良の軍隊も集結してくれています。 だからと言って欲を出してはいけません。正規の訓練を受けていない我々には、高度な戦術は使えない。引き寄せて逃げる。 それだけで十分なのです。宜しいですか。わたしの願いはみなの無事。逸って軍功を上げようなどと努々思わないように」
 では参りましょう、と馬首を返した安西の両端に赤木と三井が従った。そのあとは各部隊ごとに一塊になり、数の 少ない湘北のメンバーたちはめ一杯身の置き場がない。木暮と宮城を前にして少し離れてぼんやり馬を走らせていた 流川の真横に、軍団と一緒に最後尾にいたはずの桜木が並んだ。寄ると触ると殴り合いに発展するから関わらないよう にしているヤツにしては珍しい。
 暫く無言で手綱を握っていたが、桜木は意を決したかのように口を開いた。
「ルカワ、きのう何処へ行ってやがったんだ」
 やっぱりそのことかと溜息が出たが、どうして自分の周りにはこうも詮索好きが集まるのかと、己の寡言さを 棚に上げてそう思った。
「かんけーねーだろ。時間には間に合った」
「そんなこと聞いてんじゃねー。てめーを迎えに来てたあの黒眼鏡の男。何者だ。なんなんだ。あのご大層な車は」
「るせーな。くっ喋ってると馬から振り落とされんぞ」
「おめーが消えてからずっと考えてたんだ。オレたちの仲間にはだれを取ったってあんな車で迎えにくる知り合いは いねー。なにものなんだ、おめーは?」
 流川はスッと前方を指差した。いま目に入るのは朧に揺れる地平線のみで、何れその前には武装集結した日満軍 が轡を並べる。その姿が目に映るっているように流川は目を細めた。
「あの中に兄貴がいるっつったらてめーどーすんだ」
「ル、ルカワ?」
「答えられねーだろ。ない頭絞ったってなにも思いつかないなら、首突っ込まねーで黙ってろ」
「黙ってろっつっても、おめー、それがどいうことか分かってんのか!」
「分かってる。だれよりもずっと」
「兄貴に銃を向けられんのかよ! なんでそんなことになってんだ! 親父に言ってくる。おめーは後方へ回れ」
 赤くなったり青くなったりと、ほんとうに忙しい男だ。気遣われたりすることが大嫌いだから。
 だからそんな言葉がまろび出た。
「どあほう」
「あんだと!」
「ウソだ」
「なに! ウソだと! てめー、ひとを揄うのもいい加減にしろ! 心配してやってんのに!」
「ウゼェ。邪魔だ」
 一言で斬り捨てた流川に向ける桜木の視線は、訝しさと懸念と憤りがない交ぜになっているのは分かるが、それを 払拭してやれるほどの話術と丁寧さを彼は持ち合わせていなかった。
 心配してくれなんて頼んでいない。いないけれど。居心地が悪くて聞いていられない。
 どいつもこいつも。
 流川はただ飄々と烈風が吹き荒れる曠野を睨みつけていた。






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