月落ち 〜じゅうし








 月落ちて、東の彼方には地平線を紅く染めた曙光が曠野に弾け、眩しく光を放っていた。
 星辰と旭暉とが絡まるようにして始まる満州の早暁は、風も木も大地もそして時間さえも凍ると言われている。 極寒の地に一条、二条と熱を持った輝線が延びだし、それに呼応したわけでもないだろうに、 乾き切ったひび割れの大地から添うように発せられた長く尾を引いた野犬のいななきが、風の唸りに呑まれて消えていった。
 そして蒼々としたなだらかな稜線を見渡しても、なにひとつ届くことのない耳に痛いほどの沈黙が落ちる。
 その地を紅く染めて、長い戦いの前哨戦が始まった。



 真正面に抗日馬賊の寡兵。その右四十五度の位置で距離を置いた後方に張学良の正規軍。歪な形をなした敵の布陣に、 牧はしきりに顎をさすっていた。さながら馬賊たちは先鋒か。捨石か。情け容赦のない構えだなとひとりごちる。
「完全に二手に別れたか。提携などあってないようなものだな。仙道、おまえならどうする」
 牧は傍らの腹心に意見を求めた。
「軍をふたつに分けるのは得策ではないですね。まず張学良を叩く。あちらが崩れれば寄せ集めの馬賊は必ず 浮き足立つでしょう。そこで訓練を受けているかいないかの違いが出る。あるいは優秀な指揮官がいるかいないかの」
「同感だ。敵のかく乱には目もくれずに一気に張学良を目指せ!」
 天高く掲げられた牧の左手が振り下ろされる刹那に、真白い息を吐きながら駆け込んできた一頭の騎馬がいた。 本隊からの伝令だ。またなにを捻じ込む気かと動きを止めて斜めから睨めつける牧に、小柄な兵士は馬が完全に停止 するのも待てないとばかりに飛び降りた。
「お伝えします! 先に抗日馬賊から壊滅させよと総司令のご命令です!」
「優先させなければならないのは張学良の方だろうが。あんな足並みの揃わん民兵は放っておけばいい」
「寡兵なれど馬賊は抵抗する民の旗頭。ここで壊滅させて後続を断つようにとの仰せです」
「小賢しいことを言う」
「中佐!」
「ヤツらを見てみろ。腰が引けてるじゃないか。深追いして背後を正規軍に突かれでもしたら、いくら関東軍といえども ひとたまりもないぞ」
「しかしご命令が――」
「軍法会議ならあとからいくらでも受けてやる。ここは現場の者に任せて頂こうと帰って伝えよ」
 中佐――と背後で伝令の悲鳴のような声を聞いた。仙道は少し速度を上げて馬首を並べる。牧の浅黒い端正な 横顔は驚くほどに強張っていた。
「いくらなんでも拙いですよ」
「素人相手に本気で仕掛けりゃ、ただの殺戮だ。先に張学良から叩けと言ったのは仙道少尉だったと記憶するが」
「喩えそうであっても武器を携帯すれば立派な敵だと総司令はみなしています。こんな取っ掛かりであからさまな 方法を取ってしまえば、ヤツらに中佐糾弾の格好のいい訳を提供するようなものじゃない ですか。取りあえず命令には従って標準を馬賊に定めましょう。それから反転させればいい。張学良が背後から襲い かかってくると情報を流せば軍を返しても命令違反にはならない」
 春霞に凍った風が頬を弄り肺を突き刺し愛馬のたてがみを震わせている。所々を紅く染めた無謬の大地。 いつもと変わらない普遍の情景だ。 初めて満州の地に足を踏み入れたころは、ただこの瞬間が見たくて愛馬を駆ったこともあった。
 けれど、いつまでも変わらないものなどなかったのだ。特に、将来遅い来る仮想敵への備えのために満州国を つくり上げた男の周囲の状況が。
 苛烈なほどに様変わりしてゆく。
 切れ味の鋭い業物を携帯するにはそれ相当に鞘が必要になる。
 総司令とその背後にいる関東軍の首脳陣は有無を言わせない鞘だった。
「ひとたび動けばどんな小手先合わせだって互いに犠牲が出る。戦術のなんたるかを理解しようともせず、銃弾 の飛び交うことのない帷幄の中でのん気に茶などをすすっている連中の命で、オレの部下のだれひとり犬死させたく はない」
「冷静になってご自分の立場を再認識してください。あなたが満州に居続けることで我々の犠牲は最小限で 食い止められるんだ」
「軍人と民兵との違いをおまえに講釈する日がくるとは思わなかったな」
 仙道の背に冷や水を浴びせかけて牧は前方だけを見据える。張学良の軍隊も満人。抗日馬賊たちも満人。けれど、 敵と見定めたならどんな感情も押し殺して殺戮人形と化す軍人に対する容赦のなさを、自らの生活と身を守るために 決起せざるを得なかった馬賊たちに当てはめたくないという凡そ軍人らしくない個人的な美学。
 このひとは俺よりも一層ロマンチストだったんだと、仙道はほの昏い空を仰いだ。
 宥めなければならないと思う。牧が夢見た満州の理想をこんなところで手放したくはないのは仙道も同然だった。 それをだれよりも分かっているはずの上司は天秤にかけて美学を取った。
 けれど、
 甘ったれんなと飲み込めない断罪が飛び出すのが抑えられない。
「夢だけを見てきたわけじゃないでしょ。ドロもかぶって世間の断罪も受けての実現だったじゃないですか」
「俺はこんなことをするために五族協和を提唱したんじゃない」
「牧さん! 満州国を投げ出してもいいのか!」
 仙道の叫び声は突然吹き荒んだ風にかき消えていった。



「やはり我々には目もくれませんか」
 関東軍と満州国軍との連合軍が進軍の先を自分たちではなく、正規軍に向けたのを見て取った安西は、 予想していた行動と予想外の行動の早さに眉を曇らせた。先に仕掛けたかったのはこちらの方だ。それが 対峙したとたんに日満軍は馬賊たちなど存在しないかのように軍を進めた。
 もともと、満州にこの男ありと称された関東軍佐官を追い詰めるための出陣だ。いま、ヤツらを素通りさせるわけ にはいかない。牧ならば民兵など歯牙にもかけないだろうと予想はしていたから、 ここはこちらから煽らなければならない場面だ。しかし本当に討って出てよいものなのか。かく乱が目的とはいえ、 敵に後ろを見せて逃げる際にはどうしたった犠牲は出てしまう。
 安西に集まる六百の瞳。それを見回してそれでも、とほんの少しの逡巡のあと安西は前方に視線を移していつにない 大声を出した。
「日満軍の横っ腹を突きます。まずは鶴翼(かくよく) に広がってその後鋒矢(ほうし)に展開。 相手が乱れたら即左右に分かれて元の陣形に戻す。距離を保つように!」
 「鶴翼」とは鶴が羽を広げたような横広がり陣立てをいい、「鋒矢」とは弓矢などのやじりの先のような陣立てのこと をいう。寡兵で大軍を相手にする場合には横に長い隊形を取っても包み込めない。先端を細くして被害を最小限に 留めるしかなかった。
「相手の射程距離を忘れてはなりません! 混乱させるだけで宜しい!」
「よっしぁ!」
(ヤー)ッ――!」
 安西の掛け声と共に三百の寡兵は馬腹を蹴った。



 鶴翼に広がって前進し目標を定めたあと三井は、安西を挟んだ向こうで駆けている赤木を制するかのように前に出た。 オレは湘北の包頭(パオトウ)(遊撃隊長)だ。先陣は切るとでも 言いたげに、そして師父を任せたと宮城を伴い錐先となって敵に斬り込む。そのあとに桜木と流川も続いた。
 張学良の正規軍を目指して駆けていた日満軍もその動きに気づき、進軍の速度を落とした。
 先ほどは薄明かりの差していた東の空に鉛を落とし込んだような重い雲が立ち込める。刺すような風が流れたと 思ったら、細かい氷の粒ほどの小さな雪が風に乗って落ちてきた。
 春といっても暦の上でのこと。中国東北部の 冬は尽きることなく続く曠野のようだ。氷片と化した雪は視界を遮るほどでもないが、肌に突き刺さるのを防ぐ ために流川は外套の襟を立てて防布で目から下を覆った。
 馬首を並べていた桜木は意識的に鼻先ひとつ流川の前に出た。桜木軍団救出の際に追った怪我を慮ったのか、 さっきの一言をどこか心に留めたのか、よく分からない気の遣い方をするヤツだ。それでもなにからも庇って欲しくなく、 敢えて先んじる。桜木の舌打が聞こえた。息遣いさえ聞こえるほどの間近にいるから当然だ。
「余計なこと、考えんな。前だけ見てろ」
「ルセー。てめーがちっとでもオレさまの前を走ってんのが許されねーだけだ!」
 前方を睨み据えたまま吐き捨てた男の真意に、上辺の言葉だけでないものを感じ取れないほど流川も鈍くない。 軍団第一主義のこの男が仲間の傍を抜けて真横に並んだことでもよく分かる。それほど恩に感じているということなの だろうが、桜木たちとは違いこの戦いに強い願いを持っていない自分だからこそ、身体を張ってでも見つけなけ ればならないものがあった。
 ムツカシイことはなにも知らない。自分がこの場に居合わせた理由付けなど探っても詮方ない。だから敢えて前に 出て三井たちに横に並び真正面を指差した。
「流川?」
「日満軍が進軍を止めた。ヤツらが来る」
「流川! 待て!」
 止める間もなく流川は強く馬腹を蹴った。三井と宮城、そして桜木もそれに続く。手綱を放し腿で馬腹を締め、両手で 銃身の長いモーゼルミリタリーの標準を合わせた。目の前にある日満軍の黒い塊を目視し、カンと高い音を立てて発砲。 まだ届かない。流川はあぶみだけで立ち上がり馬速を緩めることなく連射した。
「止まれ! 流川! 標的にされんぞ!」
「あのバカヤロー!」
 三井たちの諌めの叫びは耳に入らなかった。大して憎いわけでもないのに、敵だという認識もこんなに薄いのに、 目の前に横たわる黒い塊が、くっきりとしたシルエットとなって流川に目標を教える。的確に頭部。そして胸部。 かく乱などという指令は頭の片隅からすっかり抜け落ちて、ただ連射し続けた。
 この、えも言われぬ不思議な高揚感。
 流川の底に眠るなにかをさらって覆されるような浮遊感さえある。
「ダメだ! 戻れ! だれか流川を抑えろ! 師父のご命令を忘れたのか!」
「目を醒ませ! この寝腐れキツネ!」
 三井と桜木が流川を挟む形で真横に並んだ。桜木が手を伸ばし流川の手綱を取って無謀を止めようとし、三井は防御が ガラ空きになる桜木の援護に回った。しかしその三人の間に間断なく銃弾が飛来してくる。異常に 接近し過ぎた目の前に日満軍。桜木は一度引いた体勢を戻すと流川の馬速を緩めるために精一杯手綱を引いた。
 急激に加えられた力で馬が棹立ちになる。
「そのまま左に折れろ! これ以上突っ込むんじゃねー!」
 ――桜木が叫んだそのとき。
 ガクンと仰け反った反動で防寒帽が飛び、振り落とされまいと上体を持ち直す流川の目の端に鮮血が飛び散った。
 両端に湘北の仲間。左。だれだ。どっちだ。
 赤頭がなにか叫んでいる。コイツじゃない。弾かれたように逆方向を振り返った流川の瞳が揺れた。
 三井サン――
 前のめりに戻そうとする流川の体と、衝撃で仰け反る三井の体が交錯した。歯軋りの音と共に呟かれた悪態。 耳で聞いて理解する前に三井の体は馬から放り出された。
「三井サン!」
「ミッチー!」
 瞬時に桜木と宮城が馬から飛び降り、その映像を目の奥で確認した流川の中でなにかが弾けとんだ。



 いままでの浮遊感が一気に霧散し、流川はようやく馬を止めた。こめかみが疼き脈打つ心音が耳奥で 煩く戦慄いた。吐き出した嘆息は白く丸く象どり、そこにさも言葉があるかのように重く流れてゆく。
 体重の関係から桜木は宮城の馬に二人がかりで三井を乗せ、主を失った馬の尻を叩いて逃がしてやった。 三人ともかける言葉はなにも浮かばず、銃弾が降りしきる中を宮城は三井の体を抱えて敗走する。その背を見送り桜木は、 燃やし尽くても足りないといった激しい憎悪を流川に浴びせてきた。
「なに考えてんだ、てめーは!」
 いつもいつも、ひとの理解を得ようとはしないヤロウだったけど、顔に似合わず口よりも先に体が動く ようなヤロウだったけど、ここまで思慮をぶっ飛ばしてキレるヤツだと思わなかった。それに桜木軍団が見舞われた 騒動のときには、したり顔で計画性がないと詰ってた本人がだ。
「あんときなんつった! 他人を巻き込んで笑ってたオレたちをノー天気だとか抜かしたな、確か。じゃ、 いまのてめーはなんなんだよ! てめーの無謀のせいで撃たれたミッチーになんて謝んだ! 軍功をたてよー なんて焦んなって言った親父にどういい訳するんだ、ルカワ!」
 ここが戦場でなければ殴りかかっていたであろう桜木の怒気すら逸らして流川は真正面の敵と対峙した。
「聞いてんのか、てめー!」
 桜木の怒鳴り声よりも敵が立てる発砲の音よりも、いまはずっと脈打つ音の方が煩い。
 どうしてこんなに声が遠い。
 敵が引鉄を絞った瞬間に立てる発砲の音が届くより、そして飛来してくる弾丸より、白いツブテが先に見えると言ったのは、 粛親王家に出入りしていた古武術指南役の家庭教師だった。だから集中力を高めれば銃弾も避けられるのですよと。弾丸がアラレのように 降る戦場にあって防御は最大の攻撃に相当する。防御によって研ぎ澄まされた精神は、凄まじいほどの射撃の 命中率を生むのだと。
 あのとき、老師のしたり顔に遠慮なく侮蔑の表情を向けてバカくせーと吐き捨てた。
 ひとの目で銃の高速弾の軌跡を見分けられるわけがない。そんなことに腐心するよりもひとりでも多くの敵を 沈めた者勝ちだ。どうあっても攻撃は最大の防御だろうが、と。
 けれど。見える。白いツブテ。避けるほどの大きな動きを取らなくても、なぜか耳元を銃弾が掠る音だけが背後に 伸びてゆく。その深淵のように底を見せない流川の逸りを危惧した桜木が再度叫び声を上げた。
「オレらを全滅させる気か! 寝ぼけんのもいい加減にしろ!」
 遠くでその叫びを聞きながら、そのとおりだと思いながら、恐怖も怒りも怯えもなにもなく、タガが外れたかのように 流川は一歩馬を進めて銃を構えた。
「ルカワ?」
 ガウンと発射の衝撃で、みぞれで凍った流川の癖のない髪がパラパラと風に弾けた。
 桜木は目を剥く。
 こんなにも遠い自分の声。これほど大声を出しても流川には届かない。そして、ただその一連の動作がこれほど 目に焼き付けるヤツだったのか。
 桜木は知らない。いつもいつも無表情で無口で無愛想な口汚いヤロウだったけど、こんなに底冷えのする眼のままで 狙いをすませる流川を知らない。訓練じゃないホンモノの戦闘で、殺意もなく滾る熱もなく薄っすらと愉悦の笑みを 浮かべる壮絶な男なんか知らない。
 桜木は初めて目の前のもの言わぬ秀麗な男が、自分たちの常識では測れない澱を持っているのだと知った。 それでも叫ばずにはいられない。
「ルカワ! 引けっつってんのが分かんねーのか!」
 桜木の引き戻そうとする力。感じないわけがない。けれど、眩暈すら感じるほど研ぎ澄まされた感性は下界からの 総てを閉ざしていた。
 ひとがひとに銃口を向ける意味。それが喩え金のためでも出世欲でも征服欲でも復讐でもただの上官の命令でも、そして 手助けでも自己防衛であっても、ひとを殺して己が生き永らえるならばそれなりの衝動が必要になる。
 三井の怪我に触発されたとしてもそれが原因でないことは確かだった。
 殺意のない純粋な観念。
 ただ遅い来る敵に標準を合わせて引鉄を絞る。思うものがなにもないから闇雲な殺戮兵器に落ちてゆく。目の前で 腥血が飛び散ろうと、悲鳴が覆いかぶさろうと、ひとの命を奪っているという実感はどこにもない。
 面白いように銃弾が身体を避けていった。
 心技体のうちの、心の部分が抜け落ちていると、流川を評して件の古武術指南は言った。
 技術的には申し分がない。しかし楓さまにおかれましては武器を手にする環境は避けられた方が賢明かと。
 それはこういうことだったんだ。
 絶望よりも湧き上がってくる狂気が抑えられず、流川の軌道は冴え渡った。






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