月落ち 〜じゅうご








「流川……」
 構えていたモーゼルの標準から目を放して仙道はただ、そう呟いた。
 無謀とも取れる馬賊の少年の単騎駆けに応戦していた日満軍にも、実際、動揺の色が広がりつつある。
 訓練されていない民兵らしく統率のないままに走り出した敵が四騎。こちらの攻撃を受けて二騎が離脱し、 その後方に見受けられる一塊の集団からはまばらな銃撃が浴びせられるだけだ。
 重火器を使うほどの勢力ではなく、銃だけで応戦していたのに前方の二騎の勢いは止まらない。逆に寡兵過ぎて狙いが 定まらないというのはいい訳だ。現に流川は恐ろしいほどの正確さで日満軍に打撃を与えていた。
 一塊になった集団に対して乱射すれば、どこを狙ってもだれかに当たる。けれど数打ちゃ当たるの戦法でないことは、 味方の被弾箇所を見れば一目瞭然だった。重傷の者が異常に少ない。ほとんどが即死だ。
 信じられないほどに無駄打ちがない。
 そしてその細かい動きを裸眼で捉えられるような間近に迫った彼らの目には、浴びせられる銃弾を流川が避けて いるようにしか見えなかった。
「あの、小僧……仏子(フーズ)(神仏の遣わせし子)か?」
 いや、
追命鬼(チュイミンクイ)(死神)だ」
 日満軍の中――とりわけ満州国軍の方に怒りよりも一層厄介な畏れが広がりつつあった。常軌を逸した流川の反応と、 なにかに憑かれたかのような銃弾の中での躊躇いのなさ。鬼神でもあるまいしと思いながらも、その動きを目の当たりに して兵士たちは己の通念の限界を知ってしまう。
 どんな攻撃もつうじないのではないかと。
 砂埃とみぞれが吹きすさぶ中、陽炎のように体を揺らめかせ厳然と銃を構える流川の姿は、戦場に降り立った神仙めいて いた。仏子に銃を向けると神仏の加護を失う。そう思わせるほどいまの流川にはひとの生気が失せていた。
 束の間シンと静まり返り、気づいた小隊長が攻撃を続けろと味方を鼓舞しているが、怯えきった指は引鉄にかからない のだろう。
「俺が相手してやる」
 それまで異様とも思える流川の動きを醒めた視線で見つめていた仙道は、傍らの牧が取り囲めとの司令を出すのを制して、 前方にいる兵士を押しのけるように前に出た。いつまでもあんな神業めいた幸運が続くわけがない。 いかに精神が研ぎ澄まされていようとひとの集中力には限界がある。そうなると、いままで奇跡のようにすり抜けていた 弾丸が今度は吸い寄せられるかのように集まりだすのだ。
 だれともつかない者が放った銃弾で彼の体が貫かれるのならいっそのこと。
 そしていまは彼ひとりにこれ以上の殺戮を重ねさせてはいけない。
 これ以上狂気の淵に沈めてはいけない。
――アイツ、止めなきゃ。
 でもどうやって。
 方法はひとつしかないと、仙道はいつかの夜のようにモーゼルを構えて流川の腕に標準を合わせた。関東軍いち と称される射撃の腕。躊躇いなく引鉄を絞って白煙を巻き上げる。だが、手応えを感じたはずなのに、目の前の 少年は馬上で綺麗に背筋を伸ばして攻撃を仕掛けてくる。それだけではなく、射撃の後すぐに防御の姿勢を取って馬首と 共に沈み込んだ仙道の軍帽が弾け飛んだ。
 流川の狙いは仙道の頭部だったのだ。後方に飛ばされ落ちた軍帽を名残惜しげに目で追って、仙道の背に厭な汗が 流れた。
 彼の位置から流川がはっきりと判別できる。それと同じことが向こうにも言えるのに、流川の目には仙道とてその他 大勢の兵士のひとりにしか映っていない。だれも識別できていないのだ。
――いっちょ前に意識持ってかれてんじゃねーよ。
 本気で仕掛けなければこっちがやられてしまう。なんの躊躇いのないアイツに情の残っている自分が撃ち勝つことが 出来るのか。止められるのか。
 それでも。
――早く止めなきゃ。狂っちまう。
 仙道は敢えて低く取っていた姿勢を怯むことなくスッと引き上げた。
「仙道!」
 叫び声は牧のもの。この上司に満州を投げ出すつもりかと諌めながらも、いま取っている自分の行動はなんだと 苦笑が漏れた。一緒に見守り続けたかったのは事実だけれど、青臭い己の美学を貫こうとした牧のそれとなんら 変わりのない、いや、一層子供じみた衝動にどこか安堵している。
――これだからガキを相手にするのは厭だったんだ。
 一目で惹きつけられたお気に入りの美少年。そんな認識がいつの間にか様変わりし、腕に抱き込んでお遊びで済まない 口付けを貪り、こんなにも強く囚われてしまっていた己に舌打でもしたい気分だ。
 いつ果てるとも知れないこの戦い。終われば手にしたいと願ったものもあったけれど、その対象があれじゃね、と、 仙道は高まる意識を流川に向けた。



 時間にすればコンマ何秒の刹那、先に身に受けた衝撃で体が崩れたのは流川の方だった。掠りもしないとタカを 括っていた銃弾。以前一度受けた利き腕と同じような箇所に焼け焦げる匂いを感じモーゼルを取り落としていた。痛みが 薄っすらと意識を戻し、己の立っている場所を知る。目の前にひとつ抜き出た騎馬の姿。耳煩かった銃声がいつ止んで いたのかも分からなかった。
 ずっと正面を見ていたはずなのに、どこか陶然と流離っていた焦点がいま合致する。見覚えのある男が騎上に。 男の引き絞った口元が見て取れるほどの間近にいたといま知って、それが緩むと同時にその体が力を失くして馬から 崩れ落ちた。
「仙道!」
 だれかが遠くでそう叫ぶ。ざわっとした怖気に似た敵の視線を一身に集めた。再度隣にいた桜木に手綱を強く引かれ、 馬首を反転させられる。桜木はこれ以上の説得は無理だと判じて強行手段に出た。戦功を上げたといえば上出来だ。 その一番の功労者の状態を思えば喜んでもいられないし、コイツの気が失うまで殴ってやりたい衝動の方が大きい。 いずれにしても引き際はとっくに過ぎている。
 仲間の援護射撃を受けながら敵から背を向けた流川は一度背後を振り返った。
「せん、ど……」
 あそこで、あの雪がまばらに積もりかけた凍えた大地に、あの男を叩きつけたのはだれだ。ピクリとも動かない背中。 閑散とした大地にドス黒い染みが広がり出し、その周囲に兵士たちが取り囲んでなにか大声で叫んでいる。
 関東軍最高参謀の懐刀。射撃の名手という通称はひと間違いでないかと思うくらいに、どこか浮世離れした男だった。 何度か出会い、抱きしめられ口付けられて、長閑さにも以外に鋭い切っ先にも触れ、次会うときは殴り損ねたもう一発を お見舞いしてやる予定だった男。
 敵だから撃った。違う、だれとも分からずに撃った。ここは戦場だから、喩えそれが藤真でも引鉄を絞っただろう。 死ぬなよと微笑まれ、死んで欲しくないと願い、もしかするとどこかで交わっていたかもしれない 絆をぶった切ったのは自分だ。
 これは己の臆病さと自己防衛がなせる業なのだろうか。だからなおのこと常人には測れないほど精神が研ぎ澄まされて我が身を守る。
――そういうことか。
 流川は己がどれほど生に対してしがみ付いていたかをいまさらながらに知った。死にたくないと全身が訴え、 そして。
 おまえを殺そうとして撃った。
――仙道。
 桜木から手綱を取り戻し風を受けた流川の耳に、赤兎の悲鳴のようないななきが突き刺さった。



 こちらには大した被害は出ていないのに引き上げるよう安西が指示を出したのは、日満軍の横っ腹を叩いて 敵が崩れそうになっても動かなかった正規軍との連携を取れなかったからだった。五千の軍を擁しながらも、張学良は 諦観を決め込んだ。安西はそこにある高度な政治的見解とやらに溜息をついて撤兵を指示した。何れにしても 当初の目的は完遂されている。
 三百いた馬賊たちの中にも被害が出ていた。とりわけ三井は重傷だ。馬賊たちは奉天まで戻らずに放置されたと 思しき集落に腰を落ち着けることにした。
 この兵力差で敵に与えた実害を思えば凱旋に近いものがあったのに、湘北のメンバーたちの表情は晴れない。
 人家のひとつを病室として宛がい湯を沸かし食事の用意も済み、腕の傷にお座なりな治療を受けたあと、あまり大した働きも せずに突っ立ったままの流川の肩を掴んで振り向かせ、激しい憤りの拳をその白皙に叩き込んだのは桜木だった。
 受身も取らずに、バキっとモロに直撃を受けて流川の身体は後方になぎ倒された。
「桜木!」
「止めろ! 花道! 流川も怪我人なんだぞ!」
 倒れ込んでいる流川の襟首をなおも掴んで引きずり起こし、さらにもう一度振り上げた太い右腕を止めたのは水戸だ。 そして二人の間に割り込み突然の暴行に一喝しようとした赤木は、肩で荒い息をつきながら、殴られた流川よりも一層 青い顔をして湯気を立てている桜木の悲しみに触れてなにも言えなかった。流川の裏切りとも言える暴走に、 傷ついたのは撃たれた三井だけではなかったのだ。
「なんとか言えよ。いい訳があるんなら聞いてやる。なんとか言え、ルカワ!」
 掴んだ流川の襟首をきつく握り込み俯いたままの顔を上げさせても、その漆黒の瞳はなにも映していない。釈明も 謝罪も泣き言もその奥に仕舞いこんだ頑なさ。怒りをぶつけて少しでも返るものがあるなら桜木の拳も行き場 がある。すこしでも殴り返せばまたそれを畳み掛けて納まるものもあるのに、あれほど手の早い男が殴られたままで 身動きしないものだから、辛らつな言葉を吐くしか手はなかった。
「親父の話のどこを聞いてたんだ! あのままだったら全滅だったんだぞ! このオレが何回止めたと思ってる!  なんで聞こえねーんだ! おめーが聞く耳持ってねーからだろ! 違うか、ルカワ! てめーひとりでなんとかなる なんて、思い上がんのもいい加減しろ! どこまで天狗なんだ、てめーは!」
「それくらいにしとけ」
「ミッチー!」
 隣の病室から木暮に肩を支えられて姿を現した三井は、怪我の度合いに似合わず、しっかりとした口調で桜木を 制した。寝てなくて大丈夫なのかと問われて、あんな薬品臭い部屋で安眠出来るほど無神経じゃねーよ、と端正な 顔を歪ませて笑う。
「それにしても起き上がるのは拙い。いまは我慢して寝ているんだ」
「どってことねーよ、赤木。脇を掠っただけだ。いますぐにでも出撃できるぜ」
 そう言うと三井は赤木を押しのけ、床に投げ出された流川と桜木の間に割り込むように片膝をつく。そして流川の 襟首を掴んでいた桜木の手を離そうとする動きに、だれもが固唾を飲んで見守った。
「ミッチーは休んでろ。代わりにオレがイヤっつうほど締めといてやるから」
「いいんだ、桜木」
「なんで」
「なに言ったって聞きゃしねー。またどうせ、オレたちには関係ねーんだろ。けどよ、 傷が治ったらな、コイツの面相変わるくれーに殴りつけるのはオレの役目だ。だからいまはいい。残しとけ」
「よっしゃ。そんときゃ、オレがルカワを押さえつけといてやる」
「んな必要ねーよな、流川。黙ってオレに殴られんじゃねーの。さすがおまえもよ」
 じっと瞳を覗き込まれた居心地の悪さに答えが口腔内でくぐもり、流川は中に広がる血を吐き出した。
「あんときおまえ、なに考えてた」
「……なにも」
「だろうな。理性が残ってたらあんな動きはできねーよ、ふつう。鬼神めいてて傍にいて頼もしいっつうより、 オレたちも一緒に葬られんじゃねーかってくれーに恐ろしかったぜ。なぁ、流川。信じられねー働きで今度の戦い、 おまえほど頼りになるヤツはいなかった。けどよ、おまえほど味方にして怖ろしいヤツもいない。言っちゃ悪いけど、 んな動きの読めない仲間は必要ねーんだ。おめーの動きについてけない。だれもがそうだ。死にたかねーからよ。 はっきり言っていまのおまえと一緒に戦うのは無理だ」
 桜木が息を呑んだ。赤木の肩がビクリと一度上下し、宮城は一歩踏み出してその場に凍りついた。水戸たちは 呼吸をつくのも息苦しいと重い嘆息を吐く。
 澱んだ空気を払うように桜木が三井の肩に手を伸ばすが、おまえには無理だとばかりに彼はその手を外させた。 おまえではこれ以上畳み掛けられないだろうと。
――言われなくても分かっている。
 流川はそれ以上は必要ないと三井の手を振り切って立ち上がった。三井にもこれ以上言葉の刃を重ねさせては いけない。傷の痛みからか他が痛むのか、頬から一筋の汗を流している先輩の表情を見て取って彼は決心した。
「悪かったす」
 ただその一言で仲間として過ごした一年を終わりにしようと流川は立ち上がり、ペコリと赤木に一礼すると 何事もなかったかのように去って行った。



 いままで流川が倒れていた場所にまだ残る残像が消えず、暫くだれもが息を詰めたままだった。穏やかながら 鋭い切っ先で詰り、流川を追い詰めた三井は、片膝をついた状態のままでピクリとも動かない。桜木や水戸は彼が出 て行った扉を睨みつけるしかなかった。
「な、なんなんだアイツ」
 違うとどこかで叫びながら桜木がポツリと漏らす。それを受けたのは隣にいた水戸だった。
「いいのか。ほんとに出てったぞ」
「んとに融通の利かねーやろうだ。次から気をつけるでとおる話じゃねーか。なぁ、ミッチー」
「出てくっつっても、アイツ他に行き場所があんのかよ」
「追いかけよう、赤木。このままじゃ拙い。流川だって怪我をしてるんだ」
 宮城は戸口を見つめたまま、そして木暮が赤木のしかめ面から三井に視線を移しても、彼はその場にしゃがみ込んだ ままだ。その背がかもす状態が手に取るように分かって、桜木が 鉛で固めたような重い腕を伸ばそうとしたそのとき、ガチャリと音をたてて 隣室から入ってきたのは安西だった。いつだって穏やかな表情を崩すことなく泰全としていた男の体躯が、 心労を示して前かがみになっている。けれどこの張り詰めた雰囲気をサラっと流していつもの穏やかな笑みで 三井に声をかけた。
「いまのやり取り、聞くともなしに聞いていました。三井くんには厭な役目を負わせてしまいましたね。申し訳ありません」
 三井は自分の背に向ってかけられた言葉を打ち消すかのように何度も首を振った。いくら敬愛する師父でも 労われるのが厭で何度も。何度も。
「あれはオレの本心ですよ、師父。アイツが傍にいたときの恐ろしさったらなかった。だから真実を言ったまでです」
「喩えそうであっても本来ならば私が言わなければならなかったんです。いや、初めから流川くんを傍に置いて抑えて いればあんな顕著なことにはならなかったかもしれない」
「師父は流川がああなることを見抜いておられたのでしょうか」
 背中を見せたままの三井と安西とをその場にいただれもが見比べた。
「危惧はありました。彼の頑なな性質や抜きん出た技術を思えば。いままで、彼ほど傑出していなくても、技に走った 若者を幾人も見てきましたから。それこそ何人も戦場に散っていったのを。彼の技量に瞠目しながら、そうならないよう に願っていたというのはムシのいい話です」
「安西師父」
「彼にはいくつもの枷がありましたから」
 スッと遠くへ視線を飛ばすような仕草を見せた安西に赤木は誘われるようにその問いを口にした。
「師父は流川の身上をご存知だったんですか」
「そう。六、七年ほど前でしょうか。ほんの子供だった彼に会ったことがあるんですよ。 流川くんはここで私と再会したとき、なにも覚えていませんでしたけどね。まぁ正直、素直ないい子だったとは申せません が、真綿のように総てを吸収し尽くす貪欲さも、不可能を可能にする努力も、そして教えられたものを使いこなす 巧緻さも持ち合わせていた。育て方を間違えればソラ怖ろしい存在になるのではないかと思いました」
 粛親王家の別宅で十才に満たなかった少年と関われたのはほんの数度。体制に阿る憤りを感じながら、その熱を 馬賊との二束の草鞋で払い続けた安西は、そのあと総ての地位を捨てて己の信じる道に身を委ねた。
 あのとき――技術的な面だけでなく、もう少し深く関われたらと思い至るのは無責任な話だ。
「心技体のバランス。戦いの場に身を置くには彼の成長していない部分が妨げとなる。彼に必要なのは自分の激情を 抑制する意思でしょう」
「流川は我々にとって諸刃の剣。こういうことだったんですね。ヤツの身上だけでなく」
「それでもね、赤木くん、三井くん。彼が自分のリミットを解除してしまった理由は三井くんが撃たれたからですよ。 限界を突破してしまった切欠が湘北のみなさんなら、抑制できるのもみなさんの力によるところが多いと思いませんか」
「けど、親父!」
「そうは仰いますが、我々は流川を突き放したも当然のことを」
「勿論、いまはダメです。流川くん自身が自分を信じられなくなっていますからね。みなさんとこれ以上行動をともに することをヨシとはしない。でも、彼は三井くんの言葉に傷ついたわけではありませんから。彼の中で確実になにかが 芽生えたのだと思います。仲間意識や他人からの情愛などが。あとはそれをどう手にするか。目に見えぬものを理解 したとき流川くんは変わるんじゃないでしょうか。そのときはきちんと迎えてあげましょう」
「帰ってくるかよ、あのプライドの高いキツネヤロウが」
「戻って来ますよ。だって三井くんは、いまのおまえとは、って言ったでしょう」
「あ……」
 三井は振り返って安西を見る。僅かに視界がブレた。
「無意識は正直ですね、三井くん」
 安西は眼鏡の奥の瞳を何度も瞬いて、してやったりという顔をした。






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