月落ち
て
〜じゅうろく
風に乗って舞う雪の音が聞き取れるほどに壮絶な静寂さが辺りを覆う夜だった。鉛雲に覆われて月の光は
寄る辺なく、行く先すら覚束なくさせる。ミシリと地面を踏み馬の手綱を取って流川は立ち尽くす。夜も明けきらぬ
昏冥の曠野で不思議と寒さは感じなかった。
ひとと馬とが吐く息が真白い象となり、そこだけが確かに生を紡ぐ証でもある。北を目指して馬を駆ければ、どこかに
集落が姿を見せるだろう。そこの軒下でも借りて、少し休んで日が差してきたらまた駆ける。けして振り返るなと
自らを駆り立てた。
一年。初めて手にした仲間という名の居心地の悪い枷は、敵意のない悶着や手加減のない殴り合いを与えてくれた。
よろしくなと肩を叩かれ、頼んだぞと背中を押され、生きてりゃ痛いんだと諭され、そして絶対なんかないと怒鳴られた。
賑やかで口喧しくて騒動ばかりで満足に昼寝も出来なくて座りが悪かった初めての仲間。
なんど殴られたか殴り返したか、分からない仲間。
餞の言葉は流石に痛かったけれど、いまの自分を排除する以外のなにものでもなかったけれど、そこにある
息苦しいほどの気遣いに触れて、感じて、思い至って、後ろを見せた。何処へでも行って頭を冷やして来いと、
言われた気がした。
自分を失って手に入れたもの。
そして永遠に失ったかもしれないもの。
あのとき、オレはあいつの何処を撃ち抜いたんだろうと、日満軍の野営地に当たりをつけて視線を巡らせば、
滲んだ月夜にとぼとぼと優雅に並足で近づく二騎の姿を見た。
少しだけ雲が途切れ見て取れた姿は昨日別れたはずのひとだった。向こうもこちらを確認したのか、馬速を上げて
近づいて来る。
「なんであんたがこんなとこにいんだ?」
二騎のひとつが前に出て流川の目の前で止まる。鞍上の男――藤真は馬から降りようともせずにその問いに笑顔を
見せた。背後の花形が小さく頭を下げる。
「おまえが呼んだような気がしてさ」
「呼んでねーよ」
「呼んだね。痛くて苦しくてどうしようもない。だれかどうにかしてくれって」
「いつからんな戯言吐くようになったんだ」
「いい訳だよ。おまえに会うための。そんな泣き言吐く可愛げがあったら、もっと楽に生きてこれたよな、楓」
藤真はヒラリと馬を降りるとその手綱を差し出してくる。なに、と訝しげに目を細めると流川の手綱と自分のそれとを
取り替えようとした。なんでと視線を上げて藤真の愛馬を改めて確かめると、それはあの屋敷で出会った竜騎馬だった。
「おまえにこれをやろうと思って。わざわざ陣を抜けて来たんだ」
「この馬――」
「竜騎馬の中でも名馬中の名馬らしい。父上が領地のひとつを売り払ってでも欲しがったらしいから、相当なもんじゃ
ないかな。さしずめ走る金塊ってとこだ」
「だから見覚え、あったんだ。けど、オレ、コイツにバカにされた」
「お互いが矜持の塊だからな。けど出来るよ。おまえなら」
「あのひとの形見なんだろ。いいのかよ」
「それほど恩に着る必要はない。もの凄い老馬だから、戦場を駆けさせるのは無理があったんだ。払い下げってヤツ。
末弟の宿命だな。観念して乗りこなせ。それにうちの頑固な馬方に言わせたらオレは乗りこなしてないらしいし。
そう言えば意地でも自分のものにしたくなったろ」
「あんた、オレに新しい玩具を宛がったつもりか」
「そだな。銃を持たせるよりマシだ」
みんな同じことを言いやがる、と思いながらも、流川はあのときどうしても御せなかった雄姿から目が離せなかった。
「けど、乗れねー馬をいま貰ったって仕方ないんだけど」
「こんな真夜中に何処へ行くんだ」
「還る」
ふうん、とひとつ納得して藤真は流川から受け取った馬の首を撫でた。何処へとは聞かない。逃げるのとも違う。
いまのままこの弟が抗日運動に手を染めていっても心が死んでゆくだけだ。それほど異質なものを感じ、
それを悟って赤木や三井は彼を解放してくれたんだと、一度も会ったことのない花形の幼馴染たちに感謝した。
「藤真」
流川は別の想いから少し言いよどんでその先に詰まった。どうしたと返されて、やっぱいいと言うしかない。確かめる相手が
違うし、気遣う権利もない。彼を撃ち抜いた衝撃は未だに手に残っているが、きょう、自分が屠った命は
それこそ数知れないのだ。悦に入って研ぎ澄まされて、日本人だとか満人だとかの認識もなく、総て標的でしかなかった。
その最後に一撃がもたらした残像は、生涯消えることはないだろう。
とてつもなく重い枷。
それを払って流川は躊躇いなく父の形見に手を伸ばした。フルンと顎を上げて一瞥される。どうやって手なずけたのか
は分からないが、果てしなく続く曠野へと身を投げ出すいま、バカにされたとか気が合いそうにないとか言っていられない。
流川は手綱を強く握りこんで有無を言わさずに飛び乗った。
鉛雲が少し晴れて、月の影に棹立ちの馬の姿が映る。
振り落とせるものならやってみろと、これは彼と馬とのバランス勝負だった。左に振られれば右に体重を移し、馬体
が波打てば同じように跳ねて衝撃を和らげる。いくら悍馬だとて自らの身を傷つけまでして跳ね回らない。
竜騎馬は観念したように大人しくなった。
それを見て藤真はやれば出来るじゃん、と小さく笑う。そして、オレもおまえも――と月に向って語り出した。
「オレもおまえも、出自は大層なもんなのに、巡り合わせがいい方だとは思わない。属国に成り果てる祖国。
地位はあるのに無責任な親。その親の檻から逃れられない惰性。到達点なんかなくて転がり続ける運命。そしてだれかを
殺さなければ守れない日常。けど、なにがあったって、だれを傷つけたって前を向いて歩いていかなくちゃならない」
楓、と彼は視線を戻した。その光を背に受けて逆光で表情が捉えられない。それでもそのときの彼がいつもの
不遜な笑みではなく、心の底からホッコリと白い歯を見せたのが分かった。
「オレは――おまえをいいと思うよ。喩え味方のだれが詰っても、敵の総てから恐れられてもオレはおまえを許す」
それが一体だれのことを差しているのか流川には分からなかった。だれを、日満軍の数多の兵士たちのことなのか、
ただひとりに囚われている男のことか。数の理念から言えば、流川が途切れさせた兵士たちの人生の方が何倍も重い。
あいつに放った衝撃がいまでも残っていたとしても、痛いとも言えない。
自分がそれを口にしてはいけない。
それでも藤真はなにもかもを許すと言う。
「おまえはおまえとして生きてゆけ。この馬はおまえと粛親王家を繋ぐ最後の糸だ。コイツと一緒におまえはふつうの
流川になって暮らしてゆけ。地に根を張って地を駆け回ってどこまでも生きてってくれ」
「藤真――」
「それが最後の願い。もう会うこともないかもな」
そういい残すと彼は馬首を返してもと来た道を帰っていった。
言わなければと舌がもつれ、いま言わなければとまろび出た言葉は突然巻き上がった風にかき消えただろうか。
「藤……――兄さん!」
それに答えは返らない。けれど片手を上げた藤真たちの後ろ姿を見送り、軽く目礼してそのまま強く馬腹を蹴った。
いままで目に映った総てのひとに代えて。
そして翌日、進軍させて命令を無視した挙句、ただの民兵を退けることも出来ずに軍を返した関東軍佐官に、
当然のような処断が下されていた。
関東軍総司令の執務室に出頭させられた牧は、着席を進められても扉前に立ち尽くしたままその命令を聞いていた。
「本国からの通達を申し伝える。牧中佐は本日付を持って大佐に昇進。同日関東軍籍を解任。即日のうちにジュネーブに
向うよう」
「ジュネーブ?」
「左様。松岡洋右大使の随行員として同行されるようにとのお達しだ」
「先の戦闘における命令違反はお咎めなしですか。それとも咎めたくない案件でしたか? 正規軍を前に三百の馬賊を
蹴散らせと命じる方も、そしてその攻撃を受けて崩れそうになったわが軍というのも体裁が悪い。きょうの戦闘は
公式記録からも抹消ですか?」
牧は口の端を上げて揄ったが、政治屋的習性が染み付いた総司令は完全に流している。
「ジュネーブで行われる国際連盟総会においてわが国の旗色が究めて悪いことは君も承知だろう。中国側から提訴された
満州撤兵勧告案について、わが国の実情と満州の現実を一番理解し、連中を説得出来る任務は君をおいていない」
「熱河の侵攻はどうなさるおつもりだ。張学良にも抗日馬賊にも大した損害は与えておりませんが」
「牧大佐。君は究めて優秀な戦略家だ。この短期間で満州国を生み走り出させた戦略は大したものだった。あとは
戦術レベルで対処してゆけると本国は踏んだのだろう」
「本国は中国の底力を侮っている。ソ連の参戦を夢物語だと思っている。そんなブツ切りのビジョンで、この先満州国
を導いてゆけるのですか!」
「君ほど傑出した軍人は今後そうは現れないだろう。儂も鼻が高い」
「あなた方が欲しいのは同じ民族同士が憎しみ合ったこの土地なのか。満人と漢人と蒙古人と朝鮮人とが入り乱れて、
銃を向け合ってその跡に日本人の楽園が築けるとでも思っておられるのか」
「ジュネーブはいい。いまごろリラの花が咲いているかもしれんな」
「一体この広大な大陸にどれほどの土着の民が生活しているがご存知でしょう。この圧倒的な数を侮っては
いけない。我々の奇策がいつまでもつうじると信じてはいけない。本当に満州に足がかりが欲しいなら――」
牧、と多田総司令はニッコリと哂い一刀の元に断罪した。
「いままでご苦労だった」
踵を鳴らして体制に背中を向け、牧が次に向った先はヤマトホテルに隣接している真新しい病院だった。民間からの借り上げ
ながら入り口には当然のように関東軍の哨戒兵が立ち、軍服が大手を振って闊歩するほど仰々しく、それでも近隣にも
音に聞こえた有数の設備を誇っているのは確かだ。
アルコールの匂いが充満する中、牧はワインのボトルを背に担ぐようにしてその病室をノックした。中から微かな
いらえが返った。
「よう、死に損ない」
日差しを和らげるためにかけられたレースのカーテンが映し出す縮緬皺が、まるで波紋を描く湖面のように
揺れている。その波紋の中で仙道は首だけ動かして上司を出迎えた。
「どうだ。調子は」
「絶好調、ですよ。どこも痺れて動けやしない。綺麗な看護婦さんもいないし、退屈で死にそうだ」
「実際死にかけたヤツがなにを言うか。三途の川ってどんなだ? 見たんだろ? それともいきなりケルベロスか?」
「なんで冥府の番犬に会わなくっちゃならないんですか」
「なんだ、見てないのか。詰まらん」
「あなたの好奇心を満足させて上げられなくて申し訳ないです。けど、重病人の見舞いがワインとは、って。ああ、そうか。
あなたが呑むんだ。重湯しか口に出来ない俺の前で」
「祝杯だ」
そう言って牧はオープナーを懐から取り出しコルクを一気に引き抜き、備え付けの湯のみにそれ並々と注いだ。
零れないように慎重に目の高さまで掲げ一気に煽る。どうせならグラスも用意すればいいのにとは、この上司の苛立ち
を知っての逃避みたいなものだろう。
「ジュネーブだとよ、仙道。松岡さんのオブザーバーだ。この俺がだぞ。戦争屋の俺が会議の資料と睨めっこだ。
ちくしょう。満人の手によって蜂の巣にされる夢はいつになったら叶うんだ」
「けど、大佐に昇進なさったんですね。おめでとうございます」
「さっきまで意識不明だったくせになんで知ってるんだ」
「俺の情報網を侮ってもらっては困ります。あの若さでこの出世。私たちの英雄ですよって、実は配膳係の兵士が
教えてくれたんですけどね」
ふんと鼻であしらって牧はパイプ椅子を引き寄せてドスンと腰を降ろした。まったく、重病人の枕元である気遣いは
ないようだ。
「ひとがなん人か集まればそこに必ず優劣が生まれる。だれかを抑えつけないと納得しない者。それに追従する者。そして
虐げられて安心する者。それが異民族間ではさらに顕著になる。五族が手を取り合って欧米諸国に対向できるなど
やはり夢でしかなかったのかもしれん」
「牧さん」
「満州国設立は関東軍にとっての最大の成果であり、俺にとっての最悪の失策だな。この地にむらがる日本人たちを
増長させただけだ。アイツらは満州に来れば、日本にいるよりもいい暮らしが出来ると思っているぞ。属国じゃないと
何度口を酸っぱくしても、軍のお偉方が満州国の政治にまで干渉している。上があれで兵卒に示しがつくはずが
ないじゃないか」
仙道は起き上がれない体を少しだけねじって椅子に腰掛ける牧の目を捉えた。彼は手の中の空になった湯飲みを
掲げたままだった。一体なにに敬意を払っているのか。それは満州という荒れた大地そのものだったかもしれない。
「理想は崇高であればあるほど、実現までに時間がかかって捻じ曲げられ易い。でもその考えを生み出して本気で
成し遂げようとしたあなたを誇りに思いますよ」
「慰めるな。情けなくなる。明後日にはジュネーブに立つ。おまえも一緒に来いと言いたいところだが、その体じゃ
動かせないな」
「置いてくんですか?」
「俺には枷がある。だがいまのおまえを縛りつけるものはその動かない体だけだ。何処へでもゆけるんじゃないか」
「あなたのいない関東軍に留まる意味などどこにもないし、絶対窮屈になりますよ。願い下げだ」
仙道は規律主義の軍お偉方を名をひとつ挙げるたびに大げさな溜息をついた。あのひとたちが掌握した
関東軍。性質から歪みそうだ。
「なんなら、仙道少尉はその銃創がもとであっけなく鬼籍入りと流してやってもいいぞ。それが俺の満州における
最後の仕事というのも情けない話だが、内地へ後送される可能性も高い。傷痍軍人だからな。恩給も弾んでやろう」
「大佐は戻って来ますよね」
「無論だ。俺と板垣さんとで生み出した満州国だ。俺が舵を取らないでだれが取る」
「だったらお願いがあります。俺に特別任務を与えてください」
仙道はニッコリ哂い、牧はふむと顎を撫で、関東軍将校たちが互いに課せた心算を包み込んで、
そのまま季節はゆっくりと移って行った。
極寒のこの地にも春には高梁の種が蒔かれ芽を吹き、夏になると青々とした葉叢を風になびかせるようになる。
一面雪に覆われていた曠野もいまは日照を返すようになり、街道脇から立ち昇る草いきれが辺りを潤していた。
あのあと、身繕いに忙しくなった牧は、多田、板垣の両少将というお歴々に見送られて機上のひととなったらしい。
最初はひっきりなしに見舞いに訪れてくれた同僚たちも段々と足が遠のき、彼が無事に退院したときには、かねてからの
希望どおり軍籍はあっさりと抜かれていた。
仙道の手には少尉であったという証の肩章と、北方調査室室長という取ってつけたような肩書きと、そして
退職金代わりだとの説明つきの銀行預金だった。本気で一生遊んで暮らせる。モノグサな俺なら、あんたが帰って来る
まで上海辺りで豪遊して待ってますよと、詰りたい相手ももうその場にいなかった。
そして仙道は彼の新たな任務を遂行すべく北に進路を取る。勿論、赤兎と一緒だ。
いくつもの街を過ぎ小さな集落でお世話になって気ままな旅を続け、とうとう仙道は記憶と僅かな情報が合致する場所を
見つけた。流川がポツリと漏らした彼の母親の故郷のキーワード。それは黒龍江省から外モンゴル一帯という気の遠く
なるような広大な範囲を示していたが、そこにルカワという名の部族があると、とある集落の長が教えてくれたのだ。
第一声はどう来るだろう。会いたかったなんてあり得ない。大丈夫かと気遣ったり、両手を広げたら胸に飛び込んでくる
なんて夢のまた夢。それでも、そんな素っ気なさを楽しみにしている自分がいる。
彼の申し出は完全な公私混同。牧は仙道の提案になにも口を挟まなかったけれど、対ソ戦略における
北方地域の視察なのか監視なのかの任務が、ゆくゆくは重要さを増してくるだろう。己が去ったあとの満州の実情
を確かな視点で掴んでいたくての、あの口座預金なのだと思う。
そしてその名を冠した村に仙道は足を踏み入れた。
北方騎馬民族の流れを脈々と受け継ぐ部族のひとつルカワは、いまは戦闘用の騎馬の生産に力を入れているらしく、
集落の中にたくさんの厩舎と広大な牧場を有していた。ニコニコと意味のない笑顔を振りまきながら住民に挨拶
するが言葉が通じない。身振り手振りを交えながら楓だの少年だのと悪戦苦闘していると、そのお下げ髪の少女は
仙人の如き容貌の老人のところに連れて行ってくれた。言葉が通じないと分かっても、ここに赴いた理由を
公用語で告げると、仙人は笑みもしないで牧場の方を指差し、あそこにいると綺麗な北京語で呟いた。
「え、ほんとにここに楓が?」
あれから抗日馬賊の中で流川がどうなったかは知らない。けれど確信的に彼が行きたいといった母の故郷に――
それがここであるという確証もなかったけれど、憑かれたようにここまで旅してきてもその確率に驚きの
声が上がる。
仙道は老人が指差した方角に目をやった。なだらかな丘のような形状をなした牧場の切れ目。揚柳の低木の
中にひっそりと佇む一本の楓の高木がある。仙道は礼もそこそこに赤兎に飛び乗った。
楓に近づく。放牧中の馬のまばらな群れを抜けて仙道は赤兎を駆けさせた。もう一歩近づく。高い音を立てて
赤兎の蹄が鳴り土の塊を巻き上げた。その老木の根元まで見渡せる位置まで進んで仙道は、そこに無防備に横に
なっている人影を認めた。
いくら季節がよいからといってその格好では風邪をひくぞと諌めたくなるほどの軽装だった。鞍上のまま近づくと
その爆睡体の前で赤兎は突然棹立ちになる。おいおい、と手綱を引きながら愛馬に突っ込みを入れた。流石に
執念深い。天敵流川を忘れていないようだ。敵愾心も顕わに赤兎は前脚で流川の体近くで地を捉えたが、相当な衝撃を
与えたはずの敵は無言のままで寝返りを打った。その胆力には感嘆しかない。
仙道は歯をむき出しの愛馬の手綱を楓の木に結わえて彼の傍らにしゃがみ込んだ。サラサラと風が揺れて漆黒の
髪に流れを与えている。いまそれを目に出来る至福。ただそれだけでここまで出向いた甲斐があったのではないかと
思えるくらいに長閑な風景だった。
「流川」と声をかけて髪をすく。くすぐったそうに払われた手を取って地面に貼り付けた。ままならない窮屈な
戒めに不機嫌さも顕わに流川が目を瞬き出した。その至近距離で、焦点の合わない視点をなんとか絞ろうと懸命になって
いるのが手に取るように分かった。理解しようとしてもその現実に気持の部分でついてゆけない。常識が邪魔をして
真理に手が届かないのか、それでもつい防御の体勢を取る流川に、仕返しに来たわけじゃねーよ、と仙道の笑みが落ちた。
けれど――
「あんた――」
「よう」
「なんで生きてんだ!」
第一声がそうくるとは思わなかった。そのあとの科白は懸命にも飲み込んだようだけど、きっとオレが仕留めたはずなのにと
続くのだろう。それはどう考えてもあんまりなのではないか。なんで生きてるのかと問われると、担当外科医の腕が滅法よかった
のと自分の体力と運のよさが成せる業で、せっかく生還を果たしたというのに、どこか詰るような毛色が含まれている
と感じてひがみたくなるのも当然と言えた。
これには流石のお調子者も落胆の色が隠せない。
「なんだよ。傷つくな。死んでた方がよかったのかよ?」
あれで、と一度流川の言葉が口籠もり吐き捨てるように続けられた。
「あれで生きてるはずねー。血溜りが出来てたし。あんた以外にも厭つうほど手にかけた」
「ちっとは心配した?」
「生きてる方がおかしい」
「確かに悪運は強いかもしんねーけど。そう力説するなよ」
「鉛玉ひとつで簡単に殺せるんだ」
「そう易々とくたばってたまるか。おまえになら本望だとか言わねーよ」
「胸とか、頭とか、間違いなく」
「肋骨が肺に突き刺さって、ま、大変な手術でした。三途の川を渡りかけたことだけは確かだな」
「だれの区別もつかなかった。みんな一緒くただった」
「けど俺は生きてる。折角生還したのに、死に損ないとか生き意地が汚いって牧さんは言うんだ。食い意地が汚いとか
じゃなくて、家庭内害虫みたいな言い草だと思わないか。よくそんな造語をつくれるよ」
「なんで――」
「会いたかったろ」
「んなこと言ってんじゃねー」
「おまえに殺されてさ、おまえの思いでの中に染み付いて生き続けんの厭じゃないか。そりゃ、俺のこと
忘れないだろうけどそれも一生はあり得ない。そんな手触りのねーもんに成り下がるのは堪んねー。実際、医者も
びっくりしてたけどな。俺の生命力に」
「なんでくたばんねーんだ」
「おまえ、あんとき初めて俺の名を呼んでくれた」
「せん、ど……」
「そう。いつもあんた呼ばわりだったのに、せんど、って呟いたろ」
――だから。
突然目の奥が沸騰しそうなくらいに熱くなり、仙道を捕らえていた視界が歪みそうになる。周囲の大気に
冷やされてそれが零れ落ちることはなかったけど、泣くってこういう熱さだったんだと思い出した。
それが零れることはなかったけれど、それは哀しいときだけでなく、温かさに触れて溢れそうになるのだと
知った。
いままで手を伸ばせなかったもの。手にしたいとも手に入れられるとも思ってなかったもの。それが確かな
象となっていま流川の目の前にいる。あんなに傷つけたのに、あんな目に合わせたのにニヤケ面はいつものままで、
なにも変わらなく、それが返って染み渡る。触れただけで溢れそうになる。
ムカツク。ムカツク。ただムカツク。
「なんであそこで俺の名を呼ぶかな。諦めるみてーに。諦めきれないみてーに。途切れがちな声出して。
だから死に切れなかったんだ」
――おまえが呼び止めたんだ。
したり顔の戯言には無視を決め込むに限る。相手をしなきゃいい。そうだともそうでないとも。けれどこの男の
顔をみた瞬間に覚えたのは驚きよりも畏れだったのだ。どこまで囚われているんだと、まず、そう思った。
それは確かな事実。
それを確かめようと思ったわけでもないが、徐に流川は上体を支えていた両腕を男の首筋に絡めた。絡めて鼓動を
鼓動で受け止めると、早鐘が交じり合うようにリンクする。生きているという確かな証。バクバクと波打ち続け、
埋めた隙間をなくすように力を込めると、仙道の手が流川の腰に回った。
これ以上ないというくらいにひっそりと。
「会いたかったか?」
「しつこい」
「聞きてーじゃないか。野を越え山越えやって来たのに。勿体ぶらずに言っちまえよ」
「るせーんだよ。いつか、本気でぶっ殺してやる」
「いつ?」
「分かんねー。いつか」
いつかなんてないようなもんだと耳元で囁かれ、きつい戒めのような流川の両腕を少し緩め隙間が出来た。
その隙間を埋めるように一度離れた仙道の顔がいま一度近づいてきたとき、その背後に広がる蒼穹が、なんで
こんなに近いんだと、目に飛び込む蒼さに瞳をそばめる。
空が近い。そしてこの男も。
降りてきた唇を受け、そこから始まる物語があった。
手に入れたもの。
それは少し埃っぽかった。
end
ようやく終了しました。ほんと長いお話に最後までお付合いいただいた皆さん。ありがとうございました。
こんな昏い時代で、しかも仙道は悪名高き関東軍将校だし、受け入れてもらえないだろうなと、ハラを
括って書き出したんですが、BBSをはじめ拍手でも色々と嬉しいお言葉を頂いて、有頂天になって、最後まで
楽しんで書けました。まさか、年内に終わるとは、自分でも異常な集中力にびっくり ♪
最初からこの区切りで終わりにしようと決めてたんで、ふたりがくっ付く過程は、ちょっと時間を置いて番外編でいちゃこら
させようと思ってます。(ヘヘ)
次は日常のお話で、「やさぐれ仙道と健気な流川」←ありえへん!
そのあと、また性懲りもなくパラレルを書こうと。今度はカラっとしたのにします。
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