月落ち
て
〜はち
「いないと言うより失ってしまったのです」
馬賊の頭目のことを大攬把と呼ぶが、さらに彼らを
取りまとめ、全満に数人しか存在しない大頭目を総攬把
と称して横のつながりを密にしてきた。
かつて奉天軍の総帥であり、のちに関東軍に爆殺された張作霖(1875〜1928)もそのうちに数えられたひとりだった。
その牽引者たちも数々の戦闘でひとり失いふたり失い、求心力を失った馬賊社会は迷走せざるを得ないのだと安西は
語る。
「それじゃ、安西師父がなりゃいいじゃないですか。精通しておられるんでしょ。えらい慕われてるみてーだし」
三井が当然の疑問を口にするが、それに対して老齢の紳士は自らの皺を刻んだ両手を掲げて答えとした。
「私たちの世代は絶望を見すぎました。余りにも多くの血が流された。
仲間が目の前で銃弾に倒れて敵を討ちたいと願う前に、そんなことをしても怨嗟の輪廻は断ち切れないと悟ってしまう。
抗日の戦いで親を亡くした子供を見ると、銃を手にするよりもどうかこの子だけでも幸せにと祈ってしまう。
年のせいにはしたくはありませんが、不甲斐ない国の在りように私たちがなぜ命をかけねばならないのかを考えてしまう。
私には彼らを諭すことも引き連れてゆくだけの力もないのです」
「しかし、安西師父は私たちに指針を探せと仰った。それでここに連れてこられたのでしょう。その答えがこれですか。
確かに問題は山積だと聞いておりましたが、これでは崩壊しようとしている馬賊社会を目の辺りにしただけだ。
師父は私たちにどうせよと仰るのですか」
力のある若い総攬把の登場を――と呟いて安西は、
真顔で続けた。
「君がなりましょうか、赤木くん」
「ご冗談を」
赤木は大きな体を傾けて目の前でブンブンと片手を振る。突然なにを言い出すのかと三井も冷や汗をかいていた。
「あながち冗談でもないのですが、馬賊は系列社会ですからね、確固たる地盤かそれを引き継ぐ実績が必要となります。
数々の銃弾を潜り抜け周囲が認めて初めて大攬把
と呼び称される。そしてさらに上に進むにはまたそれなりの経歴が必要で――しかしそれではあまりに時間がかかり過ぎる
のですよ。ひとりの総攬把が誕生するまで気長に
待っていては、この地はまさしく日章旗で埋め尽くされてしまう」
わたしもかつて抗日の英雄と奉られ、かの張作霖すら及ばない巨魁と称されていた時期もありました、と安西は
昔を懐かしむような口調で続けた。
馳せる視線。絞られた光彩と網膜に焼き付けられた茫々たる無謬の大地。一言の元に関外の馬賊が総結集し、地平線
を彩った馬首が吐く真っ白な息。傍らにあった友の姿。けれどあの日はあまりにも遠い。手に馴染み一体となって敵を
退けてきたモーゼルミリタリーを手にしなくなって何年になるだろうと、かつての名残の片鱗すら見せない
表情で安西は手を掲げた。
赤木と三井のふたりは、やはりそうだったのかといった感でその続きを聞き漏らすまいと前のめりになっていた。
「私が持っているものは過去の栄光だけ。しかし、三井くんが言ったように未だに私を慕ってくれる者もいる。
それをそっくりあなた方に引き継ぐには周囲が許さないかもしれない。けれど私という神輿を掲げて、
そして足並みの揃わない彼らを纏め上げてくれるのは、若いあなたしかいないのではないかと思い始めました。自分に出来なかったことを
あなた方に押し付けるようで心苦しくはありますが」
「師父――」
「出会いは偶然です。けれどあなた方と繋がっていたいと感じたのは必然でした。少しずつそう思うようになって
いったのです」
赤木はゴクリと喉を鳴らした。ポツポツと語られるなんの気負いもない言葉が、かえって事態の深刻さを増してゆく。
分かりましたと即答できる話でもなかった。
「そうは言っても全満の馬賊がイキナリあなたの下につくはずもありませんから、急に味方が増えたりもしません。
その代わり敵を分断させましょう」
「と、仰いますと?」
「関東軍の切り崩しです」
「大将の首狙いすか!」
「そう。けれども三井くん、首違いです。暗殺という手段は絶対に取ってはならない。人道的な話からではありません。
現在関東軍の中枢にいる男、牧を暗殺して喜ぶのは抗日組織だけではないからです。
突出し過ぎた能力というものはいつの世もやっかみを生む。それを器用に避けて素通りさせる小技を使うような男でも
ないようです。それでも抗日組織が手を下せば、関東軍に牧の弔いという理由を与えてしまうことになる。そうでは
なく、自ら消えていただく」
「内紛?」
「関東軍は<乾いた森>と言ってよいでしょう。小さな火種ひとつで燃え広がる。たったひとつの失態で構わないのです。
起こさせましょう」
「具体的な方法は?」
「武装蜂起」
ザワリとふたりの肌が粟だった。足並みが揃わないと嘆いた口でこの温厚な紳士はこともなげに言い切った。
「そして前面対決を避けての撤退。取り合えず引く。関東軍にしてみれば、熱河侵攻のよい切欠となるでしょうから、
必ず喰らいついてきますよ。そして引く。どこまでも引く。なんの組織力も持たないと侮っている我々を、
討伐できないことで牧の立場は少しずつ悪くなる」
「それほどの損失を与えられるのでしょうか」
不安げに呟く赤木に安西はニコリと笑って現実を見据えた。
「あまり期待してはいけませんね。けれど、なす術なく熱河を掌握されるのも業腹な話でしょう。それくらいの気持で
気軽に参りましょう」
「牧ひとりがどうなったからって関東軍に揺るぎが生じるんですか?」
「牧紳一という関東軍の佐官にはそれだけの価値があると私は思っています」
分かりましたと頷くふたりを残して安西は早速と、重い体を持ち上げて椅子から立ち上がった。目の前で先ほどから
なんら進歩のない議論を続けている幹部たちを説得するのだと、少し気だるそうな表情を見せる。一歩踏み出して安西は
ふたりを振り返り――そして、とその表情のままでポツリと呟いた。
「流川くんの存在。そう、残念ながら彼は我々にとって諸刃の剣ですね」
底の知れない昼行灯男と執拗な憲兵隊の追跡をかわして湘北にたどり着いた流川は、室内に僅かにこもった血臭と無言
ながらも穏やかに細められた視線とに出迎えられた。宮城は頭を怪我をしたのか晴子に当て布をしてもらっていた。
しかめ面のまま片手を上げるが椅子に腰掛けているところから大した被害ではなさそうだ。
「お疲れ、流川。よくやってくれた」
「ウス」
「無事でよかったよ。これで全員の無事が確認できた。ほんとよくやってくれた。話を聞いたときはどうなるかと
思ったけど」
そう安堵した木暮の怪我はかすり傷だけのようだった。
「お帰り。流川」
隣の房から彩子が顔を覗かせ手招きをした。おなかが空いてるだろうと、彼女は食事の支度をして待っていてくれた
ようだった。呼ばれて素直に従い、仲間たちの食堂になっている奥の房との出入り口まで彼は進んだ。
「リョータたちから聞いたわ。エラかったよ、あんた」
「別に――」
「別にたいしたことじゃねーって? けど、自分のためじゃないことに自分から動いたじゃない。銃の手入れも怠らないし、
訓練だってだれに言われなくてもかかさなかったあんたの腕が、役に立ったってことよ。ちょっとは嬉しそうな
顔なさい」
「オレじゃなくてもあんくらい出来る」
「そうでもないわよ。リョータが褒めてた。特に一撃目。役人の手だけを狙ったんでしょ。青竜刀が綺麗に弧を描いて
舞ったんだって。スゴイなって。必要以上に相手を傷つけなかったんだから。赤木先輩も喜ぶわよ。あんたのこと
ほんとに気にしてたもの」
その言葉を聞いて流川は、己の右腕の、未だに疼きの残る傷跡を確かめるように空いた手でなぞった。あの男に
触発されたわけでも倣ったわけでもないが、図らずとも同じような方法を取ったと知って背に厭な汗が流れる。
桜木の友人たちの安否を気遣うよりもさらに、役人に情けをかけたつもりは一切なかったからだ。
やるかやられるかの乱世のような時代に生を受け、銃弾の嵐をかいくぐってきた半生だ。それがこの先ウソのような平穏が
待っていると信じるほど世ずれしていないし楽観的でもない。気遣いや配慮や情けは、己の危機感さえも曇らせる。
麻痺させる。
鈍らせる。
それは即命に関わる。
おまえもそうだ。
そう口にしかけて流川はハッと我に返った。敵に温情を見せた男との馴れ合いにあれほど居心地悪いと感じたわけは、
自分が人馴れしていないせいではない。それは張り巡らせなくてはいけない肌感覚を削ぎ落とし、敵に対する切っ先が
丸みを帯び、銃を構えたときの標準がブレてしまう危惧を感じさせるからだ。
流川は折角塞がった腕の傷を開いてしまいたい衝動に駆られた。
事実はたったひとつ。
相手は関東軍の将校。
この傷は敵に射られたその証拠。
それをけして忘れてはいけない。
忘れてはいけない、相手の存在も。
彩子は、怖いほどに顔を蒼白にさせた流川の左手を右腕から外した。
異様に力の込められた指先の下、この少年がなにを思っているのか分からないが、それを口にして吐き出さない分、
考えを身のうちに溜め込む性質であることは短い付き合いながら知っていた。直情径行の少年にとって、
それがよい方向へ導く限りでないことも。
「そんな怖い顔してないで何か食べてらっしゃい。おなかの空いてるときの考え事は禁物よ、流川。あんたのない
頭で考えられることって知れてるんだから、止めときなさい」
思い切り失礼に斬り捨てられて、ホレホレと追い立てられ、ついでに軽くウインクされて放り込まれた室内には、
救出された仲間たちと楽しそうに歓談している桜木がいた。流川の入室で笑い声がピタリと止む。
別にそれを気にする彼でもなかったが、彩子のウインクのわけはそういうことだったようだ。
長卓の端に置いてある大き目の鍋から羹をよそい、彼らから離れてそのまま腰掛け椀に口をつけた流川の目の前に、
臓物の煮込みが盛られた大皿が差し出された。桜木軍団のひとりだ。太った男。名前は知らなかったが、流川が
視線を上げた先、箸と取り皿が突き出される。髭の男だった。
ども、と口先だけの礼を言って、受け取ると今度はなにやらドカドカと景気のいい物音が近づき、大皿の饅頭が
目の前で湯気を立てていた。
厭でも目に映る真っ赤な髪。一番先に感じたのはその皿がなぜ震えているのだろうだった。そんなに重いなら
卓の上に置けばいいのにと思っていると、ふん、とそれがさらに突きつけられた。ほとんど流川の目を突き刺さんばかりの
勢いだ。咄嗟に身を起こし、自然顔も顎も上がった流川の前に、印象的な色よりも一層赤く彩った桜木の顔があった。
なに顔色変えてやがんだと思った目の端が動いて、ゆったりとこちらに近づいてくる水戸の姿が映った。軍団の中でも
首魁格だから彼の名は知っている。
ちなみに第一印象は、意識が分散気味の桜木よりも喧嘩が強そうだと値踏みしたっけ。幸か不幸か未だにお手合わせ
をしたことはないが。
その軍団に取り囲まれ、ほとんど生意気なヤロウだ、面貸せの様相に流川は視線を絞って睨めつけたが、水戸に
肩を押さえられ無言のままだった桜木が、流川の直視に耐えかねたようにそっぽを向き、皿を卓の上に叩きつけて一気に
吐き捨てた。
「洋平がどーしてもてめーに礼が言いたいっつうからよ! オレは必要ねーつったんだけどよ!」
その衝撃で饅頭が宙で踊ったのを流川は不思議そうに見つめていた。
水戸は背の高い桜木の肩に腕をかけるようにして前のめりになる。表情は穏やかでも彼が取ると必要以上に
相手に対して凄んでいるようにも挑発しているようにも見えるのは、喧嘩師みたいな性質上、この際仕方がないのだろう。
「悪かったな。怪我してんのに一緒に来てくれたんだって」
「別に、暇だったから」
「そっか。じゃ、暇でいてくれてありがと。助かった」
礼を言っとくのが筋ってもんだからと、少しやつれた顔で微笑まれると、どこか染み入るものがないでもないが、
流川の脳裏には広場での惨劇と銃の衝撃が残ったままだ。だから口調が辛らつさを帯びた。
「いー気なもんだ」
「なんだと!」
それに素早く反応したのは桜木。他の仲間も流川の声の質に腰を上げたが、水戸の腕は彼が動くのを制しているかに見える。
「ひとが折角神妙に礼言ってんのに、どういう意味だ、てめーは!」
「昼間の騒ぎ。おめーら四人を助けるために一体何人の犠牲者が出た?」
「あ――」
「ガキ助けたとか言ってたな。んな情けかけて次はおめーらが捕まって、そん次は無数の怪我人や死人がでた。
いちを助けて百を殺したんだ。おめーらのやったことはそういうことだ」
「じゃあ、てめーは目の前で子供が殺されんのを黙って見過ごすのか! そうした方がよかったって言うのか!」
「その場で助けられんならそーする。出来ないならやらない。だれの手も借りねー。他人を巻き込んで助かって
笑ってられるヤツのことをノー天気っていうんじゃねーの」
「なんでてめーは言わねーでも分かることを!」
「よせ、花道。流川の言うとおりだ。広場にあのとき助けた女の子の身内がいなかったとも限らねーしな。
結局自己満足だ。けどよ、戦うって
そういうことなんだ。祖国を奪われて国家は国土と人民を身売りしやがった。頼みの軍隊は内部分裂と権力争いに呆けて
アテに出来ねー。オレたちがオレたちの身を守ろうと思えば、だれかを犠牲にしてでもほんの僅かなひとしか守れ
ないのかもな。結局てめーの身の回りだけが可愛いんだ。だからよ、逆に花道が同じ目に合ったとしてもオレはおめー
たちが取ってくれた方法しか思いつかないと思う」
「洋平――」
「それでもおまえはオレたちの命の恩人なんだ、流川。自分の取った行動を卑下する必要なんかねーよ」
「ちが――」
「違わねー。だからオレたちはおめーに何度も礼を言う」
もう一度ありがとうと言葉がかかって、軍団は背中を見せて元の場所へ戻っていった。最後まで背中越しに
睨みつけていたのは桜木だったが、シンと沈黙が落ちていたのは
ほんの僅かな間。流川の戸惑いを置き去りにして軍団の食事はかしましい。
それはオレんだ、そっちを寄こせと、幼児レベルの食い意地の汚さを展開している様子を、長い卓の端っこでその
声を聞きながら、煩いと小さくごちて食事の手を再開させた。
――何度も礼を言う。
暇だったからだと言ったはずだ。宮城に頼まれたからでもなんでもなく、自分の射撃の腕を試してもいいかなと
いう認識ぐらいで。だからそんな言葉は余計なんだと言ったのになぜつうじない。
ましてや自分の行動を卑下したのではなく、純粋に喜び合っている軍団にただイラついた。
――また会いたいな。
瞬時に浮かんだ違う男の科白に流川はかぶりを振った。
なぜこんなときに思い出したのか自分でも分からないが、敵に二度も助けられた気持などなににも囚われないアイツ
には理解出来ないだろう。
つくってくれた彩子には悪いが、なにを食べているのかはっきりしない中、それでもだれかに
ありがとうと言われたことや、また会いたいと願われたことが、物心ついてからこっち、なかったんだと、その思いを
羹と一緒に飲み込んだ流川だった。
continue
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