月落ち 〜なな








 ピシリと走った緊張。
 仙道の肩に半ば強引に顔を埋めさせられて状況の分かり辛い流川でさえも、乾いた空気を更に切り裂きそうなほどにふたり が発した無言の恫喝を肌で感じ取っていた。ヒュと鳴った仙道の呼気。一度呑み込んで整えた男は、チラリと見せた己の 牙を大したことでもないとばかりにユルユルと収めていった。それを分からない沢北でもない。
「いいね。自制心が効いてて。滅多に見せないおまえの本気。ちょっとでも引き出せて満足としとこうか」
「酔狂なひとだ」
「こっちが真剣になりかけてるのに、相手がスカしてたらつまんねえだろ」
「生憎、情報が足りないものでね」
「関東軍が誇る情報網を駆使して現状の把握に努めるんだな。憲兵隊なんてとこにいると色んな話が聞けるぜ。 どんな崇高な理念を掲げてても、人間動くときゃ、やっかみや嫉みや意地の張り合いだ。おまえや牧さんの頭では 考えられないような感情の坩堝ってヤツ。これが意外と侮れねえ」
「十二分に存じてます」
「どうだかな。歯牙ない飼い犬のフリを続けてると本来の皮膚感覚を失ってく。それこそもの凄い勢いでさ。 中佐が大事ならいい加減牙剥けよ。よっぽどおまえらしい」
「ご忠告親身に受け止めましょう。けれどなぜ我々に喚起を促される? 不意打ちを食らわせた方が効果あるでしょう」
「そうじゃないとつまんねえからに決まってるだろ」
 その調子でいつまでも中佐をお守りしているんだな、と言い捨てて泣く子も黙る憲兵隊は砂塵を巻いて唐突に 引き上げて行った。彼らが立ち去った後も暫く腕の中 に閉じ込めたままの少年の存在を忘れてしまったかのような仙道だった。



「捨て科白吐いて行きやがった」
 流川は暑苦しいとばかりに肘から身を捩って無言の拒否を示し、ああそうかと男は漸く状況を思い出したようだが、そこには 先ほどのヒンヤリとした刀身のような切っ先はもう見えなかった。けれど腕の拘束は解いたもののどういうつもりか、流川の背後の 壁に両手をついて彼をその中に閉じ込め、先ほどまでの諍いなどキレイさっぱり忘れ去ったような仙道がいた。
 流川は流川で憲兵隊の立ち去る音をどこまでも追っていた。ここでこの男を殴りつけて振り切るのは簡単だ。けれどいま少し ヤツらが完全に立ち去るまで時間を稼いだ方がいい。そんな本能と強かさに理由を見つけ、ただ目の前の男の真意は 興味ないとばかりに身を投げ出す。仙道は流川の頬に残る切り傷に親指を這わせ、それに覆いかぶさるかのような笑み で問うてきた。
「腕の傷はどうだ? 酷くならなかったかようだな」
「どってことねー」
「よかった。それだけが心配だったんだ。貫通するだろうとは思ってたけど、掠らせるだけでは済まなかったし、たぶん」
「あんた頭おかしーんじゃねーの?」
「ん?」
「オレは牧を狙ってた。あんたもアイツを殺して欲しかったのか?」
 仙道が微かに反応した。
「牧さんが死ねばその地位は俺のものって? んな簡単にはいかないのが軍組織ってやつで。けど、俺もってことは だれかに頼まれたのか? 牧さんを始末してくれって?」
 流川は自分の失言に舌打ちをする。そのさまを認めて仙道は可笑しそうに笑った。
「まあいい。で、暗殺未遂の次はなにをしたんだ? 憲兵に追いかけられたりして。広場の方が大騒ぎじゃないか。アレはおまえ の仕業か? どこか襲撃でもした? それともかっぱらい? ホント躾のなっていない子だな」
「あんたに答える義務はねー」
「命の恩人にそれはないだろう。けど、この間の旗袍もよかったけど胡服姿の方が可愛いな。年相応って感じで」
「うるせー、寝言は寝てから言え」
「相手の関心を引くためにはまず当たり障りのないところから褒めて攻めるんだ。落とすための常とう手段。それとも 同じ褥で寝言を聞いてくれるか?」
「バカくせー」
 もう大丈夫だろう。これ以上この男の酔狂に付き合っている謂れもないと、流川はひょいと屈んで背広を押し返し、 男の腕の輪をかいくぐった。辺りを伺って路地を抜けようと歩き出すが待てよと、男もついてくる。無視してズンズン進むと楓ちゃん、 ツレナイと情けない声で連呼し出した。鬱陶しいことこの上ないし表通りに出てしまえば人目につき過ぎる。
「楓〜。楓ちゃん。どこ住んでんの? 再会を祝って一緒にメシでも食わない。麺の美味しい店知ってんだ。 それとももっとコッテリした方がいいか? あ、少し陽が暮れるのを待ってクラブに連れてってやろう。『大東飯店』 じゃない店な。いくらなんでも拙いし、あそこは接待用だし。ちょっと格は落ちるんだけど、関東軍高級参謀 御用達の店だから旨いビールが呑めるぞ。呑める酒? もしかしてまだ呑めない? 聞いてる楓ちゃん? 楓ちゃんってば」
 なあ、なあ、と重ねられて、あー煩いとばかりに流川は律儀にも振り返った。本当に悪目立ちの過ぎる男だ。 これじゃあなんの為に憲兵隊から逃げ切ったのか分からない。
「捨てた。んな名前。楓、楓って気安く呼ぶな」
「えっ、じゃあいまはなんて名乗ってるんだ」
「流川」
 黙っていればいいものを思わず即答してしまい、流川は盛大に溜息を吐き出した。余りにも違いすぎる波長のせいで 上手くペースが掴めずに対処に困る。黙々と射撃の練習をするか眠っているかの辺り憚らない流川の無愛想さに慣れた 周囲のだれひとり、こうも馴れ馴れしく接するものはいなかったからだ。
「ふうん。捨てた名だから教えてくれたのか。その方がらしいって気もするかな。おいで流川。腹減ってるだろ?  まだ夕飯には早いからサンザシ飴でも買ってあげよう。饅頭の方がいいか?」
「ガキ扱いは止めろ」
「子供は子供らしくしなさい。大人の事情に顔を突っ込むもんじゃない」
「満州のことをてめーらの好き勝ってにするのはいーのか。それが大人の事情か」
「うん。それに関してはいろいろ言い分もあってさ。ムツカシイ話になるんだけど」
「単に答えられねーだけだろ」
「手厳しいな。また牧さんを狙うのか?」
「もーしねー」
 ふうんとなにかに感心したかのように仙道は流川の真横に並んだ。四辻に出るたび周到に辺りを伺う流川の少し 低い頭に腕を回し抱くように寄せ付ける。一応彼の用心深さに手を貸しているのだろうけれど、面白がっているよう にしか思えない。
「どうして? 失敗したからか?」
「チガウ。別にどっちでもよかったから」
「どっちでも? 牧さんが憎いんじゃなくて?」
「本気で憎いんなら今度はオレの意志で殺しにいく。けど、命張るほどの意味もねーし、取り戻したい祖国も分かんねー」
「結構淡白なことを言うな。ま、よかった。そうでなきゃ、おまえのこと何度でも止めなきゃならねーからな」
 流川は仙道の腕を再度振り切った。もうついてくんなと吐き捨てて、のん気なフリをした男を置き去りにしたが、 思い至って立ち止まる。確かめておきたかったからだ。
「あんとき、なんでオレを逃がした」
「あんとき? あぁ、廊下、暗かったからな」
「ウソつけ。ほとんど一直線だったじゃねえか。関東軍いちの射撃の名手だって話しはフカシか?」
「どうでもいいけど、おまえ、ほんとに口が悪いな。口を開けばお里が知れる。よくあんなクラブに 入り込めたもんだ」
「喋んなかったし」
「だろうな。ま、あのときのおまえに一目惚れしたからにしとこーかな。牧さんの腕に抱かれたおまえを見て 嫉妬に狂ってつい外しちまった」
「手ぇ、抜きやがって。ムカツク」
「手なんか抜いてねーよ。武器を持ってた指なんか吹っ飛ばしたら再生効かないだろ。おまえきれいな指してたし。 勿体ねーし。腕が一番狙い易かったんだけど、 振り上げてたからちょうど後ろはおまえの頭だ。貫通させてそっちに弾が流れない弾道を一瞬のうちに選んだんだ。 どこに手ぇ抜いてんだよ」
「結局自慢かよ」
 流川の憤りもこの男にはどれほども届いていないのだろう。クスクスと、とことん癪に障るヤロウだった。
「おまえと話すのなんだかむしょうに楽しい。また会いたいな。会えるかな」
「金輪際ねー」
「そう言うな。きっと会えるよ。俺が望んでんだから」
「望めば叶う。結構な人生送ってきたんだな」
「違うよ。いままでなにも望んでこなかったから、せめてそんなささやかな願いくらい叶えて欲しいじゃないか」
 ニッコリと微笑んだ中に自分と同じ土台のなさとそれを諦めた昏さを感じ取って流川は狼狽えた。なにに向って手を 伸ばせばいいのか分からず、この男も流離う指先の冷たさを知っている。だから必要以上に人懐っこい。
 大切なものはいつも手から零れてゆくと知っているからなにも欲しがらない少年と、落としてしまってもまた別の なにかを拾える自信があるこの男。
 自分にはない表現方法を持つ男に流川はしばし魅入られた。
 隙を与えたわけではない。けれど気づいたときにはまた間近まで接近を許し、一度瞬きしている間に唐突に――その唇 は降りてきた。
 ふんわりとした男の体臭が先にきて、掠めるように唇が軽く合わされ、来たときと同じようにそれは過ぎてゆく。 口付けられたのだと認識したときには、反撃を予想していた仙道はもう手の届かない位置まで下がっていた。
「て、めー!」
「おまえってほんと、ときたま襲って下さいって言わんばかりの無防備な顔をするよな。オレのなにに気を取られて たんだ? あまりに男っぷりに見とれた?」
 関東軍は変態の巣窟かとばかりに流川は自分の唇を袖でごしごし擦った。かえって刷り込むみたいになっちゃうよ、と 仙道はあまりの直裁さに涙目で揄ってくる。
「命を助けたんだからさ、こんなんじゃたんねー。次会うときのお楽しみってことで」
 次なんかねー、とクルリと背を向け肩越しに流川は吐き捨てた。
「あったとしたら、おめーらが高粱畑の肥やしになるときだ。覚悟しとけ!」
 ぷんすかいきり立ち去ってゆくその背を見送って仙道も、一体自分がなにをしたかったのか分からなかったりする。 男に興味はない。いくら夜陰の下で壮絶な美貌を誇ろうと日中に会えば正真正銘立派な少年だ。ほんの少し小奇麗で、 ほんの少しタイプなだけで。 ただ、そう、ただ印象づけておきたかった。自分の行動をそう理解し、だれにともなく仙道は呟いた。
「肥やしか。なんか、それいいな」



 そしてそのころ、自分たちの仲間がそんな騒動に巻き込まれたとは思いもよらない赤木たちは、奉天から少し南に位置する 遼河という街に到着していた。内海のように切り込まれた渤海により近く、馴染みのない磯の香りすら感じ取れる古い 城壁に囲まれた典型的な城市だった。
 赤木も三井も初めての土地で、右も左も分からないふたりを先導するように安西師父は先を進む。通行人や買い物客 がごった返す目抜きどおりを抜け裏道をゆくと、ご多分に漏れずどこの城市にもありがちな最下層の民が住む一角に 出る。その中でも一際規模だけは大きそうな宿に安西師父はふたりを誘った。
 入り口には見張り役の屈強な男が睨みを効かせているが、彼らは拱手して三人を認めた。どうやら師父は顔パスのようだ。
「ここが?」
「もう始まっているかも知れませんね」
 必要最小限の言葉だけで確認し合い三人は宿屋の最奥の部屋へと進んだ。そこでの入室も簡単に許可され、赤木と三井は 互いの顔を見合わせる。詳しいことはなにも知らされていない安西の出自と経歴。馬賊繋がりなのか抗日の顔なのか、 その穏やかな風貌からは考えられないくらいにこの場の雰囲気に馴染み、さらに押さえつけるような気迫すら具間見られた。
 この地における実情からも、そして近隣一帯を牛耳る馬賊の幹部会という性格上部外者への詮議は厳しいはずなのに。
 遼河が――満州国領であるということは日本の領地であることを意味する。
 一昨年、満州事変を起こして戦火を拡大した日本軍は、その混乱に乗じてその当時天津に幽閉されていた清朝最後 の皇帝溥儀を担ぎ出し、満州国なる傀儡政府を押し立てた。その最たる功績者が関東軍高級参謀だった板垣征四郎と 作戦主任参謀の牧紳一のふたり。以降満州の全権は牧に委ねられ、満人から発せられる怨恨と憤りの矛先をその双肩に担い、 全土に広がる抗日組織は関東軍の撤退と共に牧の排斥をスローガンに掲げてきた。
 そして数ある抗日グループの中でも一番組織力の弱い馬賊系幹部会。
 躊躇いがちに足を踏み入れた講堂のような室内には、無数の厳しい顔つきの男たちが集っていた。話し合いが緊迫 していることはその場の空気で読み取れたが、安西の姿を認めると、みな一様に膝を折り腰のところでつくった拳を もう一方の拳で包む馬賊式の挨拶で出迎えた。
「師父!」
「安西師父!」
「お久し振りです!」
 椅子を蹴って駆けつけようとする男たちをやんわりと片手で制し、私は傍観者ですからと、安西は中断を許さなかった。 そうは言っても一度鎮火された主義と主張のぶつかり合いはもとの沸点にまではなかなか戻らない。それでも一人の 大攬把 (ターランパ)が口火を切りそれに覆いかぶさる言葉が飛び、またそれへの反撃が返るころ、講堂は息苦しいほどの熱を 帯びだした。
「団を満州国に帰順させるとはどういうことだ。なにがあっても信義と誇りをかけて戦いぬくのではなかったのか」
「いまさら東洋鬼子に怖気づいたとでも言うのではないだろうな!」
「なぜだ! いまになって! 理由を言え!」
 壁に引っ付けられた椅子に座してその会議の様子を伺っている安西からはなんの説明も入らないが、どうやら長卓の 一番奥に位置する男が、抗日から手を引くような発言をしたらしい。それに対して顔を赤くして詰っている男が 三人。そのほかは諦観を決め込んでいるのか動きはなかった。
「損得から言っているのではない。ましてや怯懦に塗れたわけでも侠客の仁義を侵略者どもに売ったわけでもない。 私は馬賊という集団がどういう経緯で発足したのか、その根本に立ち戻れと言っている」
「根本だと! 我々は村の自警のために――」
「そうだ。それぞれが各村の安全のために匪賊や毛賊たち、無頼の徒から守るために結成された。そこにどんな思惑 が存在する? ただ身を守るため戦ってきた。だが相手が関東軍となると、思いもよらぬ国家間のイデオロギーに押し つぶされて、我々の義侠心などなんの役にも立たないではないか。立たないどころか邪魔にしかならん」
「他民族からの侵攻から身を守ることも自衛のひとつであろう」
「では聞くが、おまえの村に非戦闘員はどれくらいいる?」
「――」
「動けぬ老人や子供たちまでもかき集めて銃を持たせ、東洋鬼子の心臓はここだと教えるのか。死んでも銃をぶちかませと 鍛え上げられるのか。いつ果てるとも知れぬドロ沼のような殺し合いに駆り立てるのか」
「だからと言って帰順すれば村は安心だと本気で考えているわけでもあるまい。得られたとしてもほんの一時の安寧。 関東軍は未来永劫、村を餌食にしないと約してくれたのか! それを信じたのか! 貴様、馬賊として誇りは何処で捨てたのだ!」
 赤木も三井もその論争に身じろぎひとつ出来ないで聞き入っていた。横に視線を移すと安西師父は思惟の読み取れない 表情でその一部始終を観察している。あえて口は挟まないつもりらしいが、視線は移さずに二人の青年に問うてきた。
「どうです。なにか感じたことがあれば言ってみてください」
「感じた、こと?」
「そう。思ったままでいいですから」
 ふたりは暫く顔を見合わせ、ひとつ頷いた赤木が先に口を開いた。
「どちらの言い分も尤もだと」
「三井くんは?」
「虐げられることに慣れんのは厭です」
「そうですね。けれど長い戦いに彼らが疲れ果てているのも事実です。人々には希望がない。蒋介石は自分のことで 手一杯。頼みの張学良は関内へ逃げ出した。希望を失った彼らが満州という国ではなく各自の基盤だけでも 守り抜きたいと思うのは当然の帰結と言えるでしょう」
「しかし師父は抗日組織が諸手を上げて関東軍に白旗を振ればいいと思っておられない」
「そのとおりです」
 強い口調で安西は言い切った。
「しかし、惜しいかな。彼らを取りまとめる人物がいない」






continue