月落ち 〜ろく








 一発目。露天の二階の張り出し窓から流川が放った銃弾は、首切り役人の右手を弾き、青竜刀を躍らせた。二発目、 三発目は固まっていた憲兵たちの集団に撃ち込まれ、怪我の癒えない身体とは思えないほどの正確さで実害を与えた ようだ。悲鳴と罵声が飛び交う中、流川の逃走を助けるために宮城や木暮たちが 地上から援護する。四方からの波状攻撃にさしもの憲兵隊も防戦一方だった。
 実際なんの打ち合わせもしていないのに、ウチの連中の肝は据わりきっている、と目を細めながらも宮城は援護に 意識を集中させた。
「襲撃だ! 狙撃手はどこだ! 探せ!」
「あそこだ! あの二階から撃ってきている!」
「二階からだけじゃない! 応戦しろ!」
「至急、増援を呼べ!」
 饗宴に酔いしれかけていた広場は一転して修羅場と化した。今度は自分たちの身が危ういと蜂の巣を突いた様相の群衆 にも銃弾の嵐は容赦なかった。
 逃げ惑う人々を押しのけ、頭上を飛び交う銃弾を避け、宮城に言われたとおり、一直線に桜木は幼馴染たちのもとへ たどり着いた。 それを見て取ったタイミングを失わずに安田が煙幕代りの爆竹を数箇所で盛大に鳴らす。
 モウモウと白煙が煙る中、手を射られて蹲っていた役人が近づいた桜木に気づき、逆手一本で青竜刀を大上段に振り かぶったが、その動作の途中でピタリと動きを止めて顎をしゃくる。逃げろと目だけで語っているのだと知って、 桜木は小さく頷くと腰に吊るしてあった小刀で水戸たちを縛していた縄を切った。
「すまない、花道」
「謝んのはこっちの方だ。遅くなった。わりい、酷でえ役目押し付けて」
「なに。来てくれると思ってたぜ」
「あの女の子は?」
「大丈夫だ。家まで送っていった」
「そっか。痛い目にあった甲斐があったってなもんだ」
「花道ぃ」
「おらぁ、ハラ減ったぜ」
 幼馴染たちは余裕のある笑顔で出迎えてくれたが再会を喜び合ってもいられない。
「走れるか?」
「おう。足が千切れても逃げ切ってやる」
 水戸たちが自由になったのを見計らったように役人は、振りかぶった青竜刀で空を斬りわざと地面にめり込ませた。すまない、と 桜木が小さく謝ると役人は緩慢な動作でもう一度それを振り上げる。よかったなと呟かれて目の奥が熟れたように熱く なった。
 満州人が同じ満州人に対して罪科を問い、その結果青竜刀を振り下ろすのなら、なんの躊躇いも一切の憐憫もない。その ために継承してきた技巧だ。侵略民族のそれも憲兵如きに顎で使われる所以はないが、その反骨心も叶わなくなった因果 をこの役人は哀しんでいた。
 桜木はもう一度すまないと呟いた。
 罪人たちが逃げるぞ――と憲兵たちが銃で応戦しながら桜木たちに近づいてくる。宮城はチラと露天の二階を伺った。 流川の姿はない。先に逃走したかと思っていたら、いつの間にか近くまで降りてきて同じように桜木の援護に回っている。 乗りかかった船なのかただ気が向いたのか、意外と律儀な行動に宮城はしきりに目を瞬いた。
 桜木たちの逃走経路を確保するためにこちらに招き、先に逃げるように促す。宮城たちの横をすり抜ける際に 桜木はチラリと流川を伺ったようだが、それに答えるようなヤツでもなかった。
「早く行け!」
「すまねーりょーちん! てめーらこそドジんなよ!」
「赤頭の方が目立つ」
「るせぇ!」
 追って来る憲兵たちと銃撃戦を繰り広げながら宮城たちもジリジリと後退し出した。木暮たちの姿は白煙と砂埃と人波に 塗れてもう見えない。見境のない応戦に広場の四方を形成する建物の土塀は銃弾の嵐で崩れているものもあり、露天は 材木の残骸と化していた。
 憲兵隊の人的損害は図りようがなかったが、この混乱に別働隊が投入されるのは時間の問題。 頃合だと宮城は流川の肩を叩いて退却の合図を出した。



 各人バラバラの方向に走り去り、ひとつの集団に身を潜ませて逃走するつもりの流川だったが、押し合い揉まれて 腕や肩がぶつかり、傷を庇って取り合えず、道路を一本裏に入った路地へと逃げ込んだ。じっとりと汗ばんだ指に 絡み付いているブローニングを外し、ストックホルスターに収めた頃になって腕が疼き出した。
「くそ!」
 冷や汗なんかにかまっている余裕はない。面が割れているとは思えないが、年恰好から彼らへの包囲網は敷かれている はずだ。周囲を伺って反対側の道路に出ても、憲兵隊の立てる軍靴の音が間近まで迫っている。
「止まれ! 止まらんと撃つぞ!」
 背後からの罵声は、もうだれに向ってかけられた言葉なのかも確認のしようがなかった。振り返るわけにはいかない。 大通りに出てまた一本路地に入る。軍靴が土を蹴る独特の音が耳から離れない。ヤツらを振り切ってはいないようだった。
 汗が目に入って少し染みる。それを袖口で拭い、狭い路地を抜けた四辻から急に姿を現した男と接触して 流川は舌打をする。それは染みた目に気を取られていたせいで、口内でくぐもるような謝罪を入れて立ち去ろうとした が、流川の後ろ手をその男は掴んで離さなかった。
 なにしやがんだ、としっかりと掴まれた右手首からその指を辿り、視線を上げて流川は唖然と切れ長の瞳をむいた。
 そこにはあの男が立っていた。
「あっ」
「よお」
 なにが楽しいのか、以前に一度だけ出会ったことのあるその男は、ニヤケ面をもう二割ほど増してさらにヤニ下がった 表情を貼り付けている。そこだけやけに現実離れした空間で、プレスの利いたカッターシャツに背広を指に引っ掛けて 背中に送った出で立ちの男は、脱ぎ去った軍服同様覇気も鋭気もクローゼットに置き去りにしてきたのだろう。 さながら、休日を楽しむ銀行家のような長閑さを纏っていた。
 久し振りと旧知のような声をひとつかけてその男――仙道はバタバタと土を蹴って近づく軍靴の音に流川が見せた異常 な反応を感じ取り、肩に背負っていた背広の外すと頭から流川に被せ、そのまま土塀へと押し付け抱きしめた。
 素早い動きに身動きひとつ出来なかった。逃げることも押し返すことも、そして拒絶の言葉すら。
 鼓動が重なって耳の奥でドクンと血が跳ね、嫌悪混じりのその感覚がどこからやってきてどこへ流れてゆくのかも 分からず、それでも近づく気配と口早にまくし立てる日本語の強さに遮られた流川は、そのままの状態で銃をつきつけた 憲兵たちに取り囲まれた。
 この男が介すると自分の反応が後手後手に回る。『大東飯店』での牧襲撃の折り、第一の武器だった歩揺を奪われた ばかりに編み紐に仕込んだ第二の武器でもたついた。そして挙句の果てに利き腕をキレイに射抜かれ、 逃走するしかなかったと思い出すだけで、腕の傷がまた痛む。こんな惚けた男の一体何処に後れを取らなければなら ない。
 そしていまは身動きできずに手の内で匿われ。
 舌打すら呑み込んで流川は唇を噛んだ。



「おい! こちらに浮浪児が逃げてこなかったか!」
 きつい詮議の声を聞いた仙道は流川の顔を自分の肩に片手で押しつけて隠し、スッと面を上げた。
「いんや、気づかなかったが。なにヤッたんだ?」
「広場での騒ぎを知らないのか!」
「生憎、いま手が離せなくて」
「貴様! 白昼堂々とこんなところでなにをしている!」
「見て分かるだろう。久し振りの公休なんだ。どこでなにをしようが憲兵隊如きに説明する謂れはない」
「なんだと!」
 憲兵たちの気色ばんだ口調に宙を浮いていた流川の腕がどこに着地すべきか彷徨っている。相手の殺気だった様相に 細身の身体を抱きしめる仙道の腕に力がこもり、さらに強まった温もりにざわつきが大きくなった。戸惑った指先は 肩辺りを躊躇ったあと拳の象をつくるしかなく、さらりとした仙道のシャツの背中に盛大に皺を刻む。
 ムカツクことに仙道が微笑んだのが分かった。
「おい。こいつ。牧中佐のところの――」
「なるほど、どこかで見た顔だと思った」
「関東軍にそのひとありと称された異端児の飼い犬か。こんな往来で抱き合うなど軍人にあるまじき行為!  それでも日本男児か! 腑抜けた格好を晒しおって! ええい! 離れろ! 見苦しい!」
「日本人だろうが軍人だろうが、ひとを好きになるのになんの気兼ねがいるんだ? 折角可愛い姑娘が俺の手の中に 落ちてきてくれたんだ。無粋な言いがかりは止めてくれ。漸く口説き落として、これからだってのに。これだから 憲兵は無粋だって言われるんだ」
 と、本人たちを前にして仙道は頬を摺り寄せてくる。調子にのんな。だれが姑娘だと、叫び出したかったが 辛うじて堪え、その代わりに仙道の背中でつくった皺の文様をより一層大きくした。それすらこの男は楽しいらしい。 クスクスと忍び笑いが耳朶に落ちた。
「なにが可笑しい! 上司も上司なら部下も部下だ!」
「熱河攻略に辛酸を舐めているという非常事態になにが公休だ!」
「少しは真面目に事態を憂いたらどうだ!」
「我々の足を引っ張るつもりじゃないだろうな!」
「それとも物見遊山のお遊び気分か! 夜の奉天で遊び呆けるためだけに駐留されていてはこっちが迷惑だ!」
「モテナイからってヤツ当たりは止めてもらいてーな」
「貴様! 我等を侮辱する気か!」
「だってそうだろう。善良な一般市民にあらぬ嫌疑をかけてゴリ押しだけで治安を維持出来るわけがない。 あんたらのお役目は裏道で色恋を語る恋人たちの邪魔をすることじゃないはずだけど」
「言わせておけば!」
「もういいじゃねえか」



 いまにも殴りかかりそうなくらいにいきり立った憲兵たちを、やんわりと制するように彼らの背後から落ち着いた 声がかかった。
「それくらいにしとけ。コイツの言うことも一理ある。俺たちの相手はコイツじゃない」
 いかなる場合でも人間興奮状態に陥ると判断力を摩滅させる。恐らくこの腕の中の少年を探しているであろう軍犬たち を敢えて刺激し、からかって煙に巻いて頭に血を昇らせれば仙道の勝ち。一、二発の拳は覚悟の上だったし、それを口実 に憲兵隊に貸しをつくれたのなら勿怪の幸いだ。あとあとなにかとやり易くなる。けれども、その算段に一言の 冷水を浴びせかけ鎮火した男を仙道は斜めから捉えた。
「こんなお調子者にかまけている場合じゃないだろう。こいつの常とう手段にキレイに引っかかってんじゃねえよ」
 まったくどいつもこいつもと肩を竦め、軍服軍帽にコートを羽織った男を仙道は知っていた。
 人非人と大和民族選民主義との端境の朧な悪名高き奉天憲兵隊を、この若さで纏め上げている男。襟章は大尉の印。 仙道よりもひとつふたつ年嵩なだけだ。名をたしか北沢と言ったか。
「こんなところでお会いするなんて。お久し振りです、北、沢、大尉?」
「沢北だ。それもおまえの手か? 俺はひとに名を覚えてもらえないくらいで冷静さを失うような訓練は受けてない つもりだ。そんなチンケな手は他所で使え」
「それは失礼しました」
「ひとを探している。何れも二十歳前の匪賊、あるいは抗日分子だ。おまえの腕の中にいる男。それはおまえのイロか?」
「そう。少なくとも俺はそう思っています。この子からはいい返事を貰ってないもので、俺の独りよがりかも しれませんが」
「満人相手に気障なフェミニスト野郎だ。女には不自由してねーくせに男に走るたぁ酔狂つうより悪食だな。 同族ながらおまえの憲兵嫌いは既に有名でさ。ただ我々に突っかかりたいがためにその男を庇ってるって可能性の 方が大きくてな。年恰好は一致している。満人にそれと相当する男がなん人いようが、ひとりひとり確かめることが 俺たちの仕事だ。嫌疑を晴らしたけりゃ、ここで証拠を見せてみろ」
「大尉。あなたは私を過大評価し過ぎですよ」
「評価なんかじゃない。牧中佐同様、十二分に憲兵隊に目をつけられてるって話だ」
「またはっきりと。それで証拠ってなんです? あなた方の前で口付けでもすれば納得して貰える?」
「そうだな」
「イヤですよ」
「なに?」
 束の間の逡巡も見せずに言い切った仙道に、流川の方が面食らった。つい背に回る手に力が入り、重ねられた鼓動の 音よりも、己のたてるそれがやたらと耳につき、緊張しているのだと知った。 バクバクと脈打つ血流の音。さらに助長されて仙道の背に回された手は縋るような形を取る。こんなにも他人の接近を許し、 こんなにも早鐘のように脈打つ音を聞いたのは、本当に久し振りだったから。
 節操ないと流川は己を罵った。抱き返してくれる腕であれば誰でもいいのか。手を下そうとした男の部下。身体の あちこちで啼いている隙間風を塞いでくれる相手なら誰にでもほだされるのか。オレはそんなに弱いのか。
 けれどもそれ以上に分からないのはこの男の行動だ。
 こいつバカなんじゃねーのとの言葉が口先でくぐもった。
 自分を助けるために憲兵に睨まれたというより、憲兵に絡みたいがために自分に構ってきたと穿った 隊長の言い分はあながち外れていないように思う。ただ、言いなりに なりたくないのは、ヤツらに見せる矜持なのかもしれないが、そんなものひとつで逃げ切れるなら易いものじゃない かというのは流川の言い分だ。
 口付けでもなんでも勝手にすりゃいい――と、顔を上げかけた流川の頬を宥めるような仙道の手がかかった。 敢えて顔を晒す必要はないと言っているようでもある。
「簡単にそうだなと仰いますが、口付けひとつでも私にとって結構厳粛なもので、場所柄と雰囲気に拘る方なんですよ。 喩え嫌疑を晴らすためとはいえ、人前に晒したくはない。そんなこの子を見せたくない」
「貴様! 立場を分かってるのか!」
「まあまあ、いいじゃないか」
 前に出掛けた憲兵を沢北はまた止めた。本気でここで白黒つけさせようとはしていない。仙道が庇った男が自分たちの 探している抗日分子であるとかはどちらでもいいと、その冷ややかな瞳が語っていた。
 現状に飽いた冷静な目を持つ男。
 妄信的な国粋主義者よりも一層危険な香りと、軍隊内の規律と秩序を守るという憲兵隊が持つ本来の主任務の矛先 を突きつけられているような気がする。現にその男は、部下たちの背中をパンパンと押し出しながら、 呪いのような言葉を付け加えることを忘れなかった。
「折角の公休邪魔して悪かったな。精々愛とやらを育むがいい」
「お言葉に甘えまして」
「そうそう。奉天憲兵隊からひとつご忠告を申しあげよう」
「なんでしょう」
「おまえんとこのボス。身辺に気をつけてやんな」
 仙道はスッと眉根を寄せた。あるかなしかのその動きを一番近くで見ていたのは流川だった。
「おまえ共々、天真爛漫に振舞っていられるのもいまのうちだ」
「仰っている意味がよく分かりませんが?」
「頭の巡りが悪いフリをするんじゃねえよ。なにも敵は抗日組織だけじゃないって話」
 真意の掴めない笑顔で沢北はへらりと笑った。
 確信めいた予言なのかただの嫌味なのか。ただ、この男の持つ深みが脅しだけでは済まないような予兆を告げている。 鋭い切り口を見せるこの男の業物の長さは一体どれほどなのか。それを見誤るわけにはいかない。
 珍しく、本当に珍しく仙道はその男を睨みつけていた。






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