月落ち
て
〜ご
手渡されたブローニングを腰のストックホルスターに収めてアジトに帰り着いて扉を開けると、やけに肉つきの
よい背中が流川の行く手を阻むように立っていた。おや、とその人物が振り返る。たったいま私も着いたところ
なんですよ、破顔してみせたのは、メンバーたちが師父と敬っている初老の男だった。
「お久し振りですね」
と、客人――安西は鼻の頭にちょこんと眼鏡を乗せた福々しい顔で一同を見渡し、少し聞き取り難い声で笑った。
「皆さん元気そうでなによりです。こうして揃って出迎えてくれることがなによりも持て成しだと理解して
おいて下さい」
安西師父が開口一番口にする常とう文句だが、穏やかな春の日差しに包まれた心地にさせる口調で語られる
と、そこに集う者たちの背筋がいつも伸びた。
ん、と安西は入り口近くで上腕を押さえたまま立ち尽くしている流川の青白い顔を見咎めた。服から隠せない
場所から無数に覗く切り傷からも一目瞭然だった。
「どうしました、流川くん。喧嘩でもしたんですか?」
「そんなんじゃねーです」
「私が来るとき、君や桜木くんはいつも怪我をしているような気がします。元気そうだからいいものの、自分の身体は
厭わなければなりませんよ。夢を叶えられるのも命があってこそ。あなた方ひとりひとりの願いは生きて達成しなければ」
「はい」
――願いは生きて達成しなければ。
総てを見透かされたような気がして流川は悄然と俯いた。己の渇望とその命。ではどちらを優先させればいいのか
と問う前に、それはまったくの借り物だったと気づいて頭を振った。自分の身から湧き出た願いであるならば、
頭で考えるよりも先に身体が動く。そのような問いは口に上らないのかもしれない。
射撃の腕はだれにも引けは取らない。体術や棒術にしても、体格差のある赤木たちと互角に渡り合える自信はあった。
けれど己にあるのはそのテクニックだけ。どこでだれのためにいつ使えばいいのか分からないから、動きを予想されて
呆気なく後ろを取られてしまう。だから藤真にも見捨てられたんだろうと顔を上げると、眼鏡の奥からふんわりと笑う
安西の顔とぶつかった。
週に一度くらいの割合で、気が向いたときに手土産なんかを持参してブラリと湘北に姿を現すよう
になった安西に関して、本当のところ自分たちはなにも知らされていない。以前、ちょっとした事件に
巻き込まれた三井を助けてくれたひとらしい。
その程度だ。
いつの頃からか、頻繁に顔を出すようになりお説教っぽくない高説を穏やかに語り帰ってゆくが、師父が
どこに住んでいてなにが目的でここに来るのかよく分からなかった。けれど安西が訪れると必ずといって
いいほど赤木たちが神妙になる。そして抗日の熱で滾った瞳が穏やかになった。
「すげえいいひとだとは思うよ。けどそれっていいことなん?」
そう言ったのはたしか宮城だ。赤木たち年長者たちとは違った思いが彼らにはあった。
「いまは無理をしちゃいかん。君たちの祖国を思う気持は私には痛いほどよく分かる。けれど時流の波が
まだそれを許してはくれないんですよ。準備が整っていないというか。だからいま少し我慢してください」
「ですが師父。一昨年の事変以来、吉林、チチハルが陥落して、関外(長城線以北)で日本の領土となってないのは、
熱河省だけになっちまったんですよ。オレたちが踏みとどまらないことには――」
国中が日章旗と五色の満州国旗で埋まっちまうと三井は掠れ声を出した。
「踏みとどまるとは一体なにをするつもりですか? 具体的な策はありますか?」
「それは……」
「実はきょう、赤木くんと三井くんにちょっと遠出しようと誘いに来たんですよ」
安西は萎れた三井にニコリと微笑みかけた。一体どこへ、と赤木が重ねた。
「遼河で抗日馬賊の幹部会議があります。満州国領で日本軍の詮議の目が厳しいのに、かなり骨のある方々だとは
思いますが、いま現在の組織化されていない彼らの実情を知っておくのもいいかと」
「問題があるのですか?」
「山積です。どうでしょう? 無理にとは申しませんが」
赤木と三井は顔を見合わせた。安西の意図が掴めなかったからだ。抗日馬賊の集会に顔を出して当たりをつけて
おけと煽っているようにも、山積と称した現実を見極めろと諭しているようにも見える。
そう。見極めなのだと赤木は理解した。安西は諦めて祖国を蹂躙されるのを指を咥えて見ていろと言っているの
ではない。
なにが出来るのか。なにをしてはいけないのか。だれを頼みにすればいいのか。どう渡り合えばいいのか、
その目で見極めろと。
ずずっと湯をすすった安西は椀を彩子に返して一息つけましたと笑った。そして、
「君たちはこの湘北での大攬把(頭目)と包頭(遊撃隊長)ですからね。指針を探しましょう」
と告げられた言葉にふたりは弾かれたように快諾した。では早速と腰を上げた安西にふたりは
取る物も取り合えず付き従うことになる。残してゆくのがこの問題児軍団だというのが当面の頭痛の種だ。
赤木は宮城の名を呼んだあと、
「いや、やはり彩子だ!」
一度宮城の肩に置いた手を離して彩子を身近にまで呼び寄せた。
「なんですか?」
「宮城だけでは心許ない。おまえに頼む。オレたちが戻るまでこの鉄砲玉連中の首根っこを抑えておいてくれ」
「え、あたしが?」
「ひでーな、ダンナ。オレに頼むんが筋ってもんでしょ」
「おめーじゃ、桜木の特攻と流川の無謀に引きずられんのがオチだってことだ。ま、しっかりやれ」
二、三日で戻るから頼んだぞと、くどいほど念を押して、三人は出かけて行った。
――やっぱ気まずい。
宮城はひたすら頭をかいていた。常駐している仲間で残されたのは宮城と流川とあの桜木の三人。あと、
なにか揉め事があると集まってくるメンバーが数人いるが、彼らの姿はまだ見えない。
――けれど。
気まずくも安穏とした沈黙がアジトに落ちていたのは、ほんの僅かな間だけだったと後から気づくことになる。
宮城は無口な流川と顔をつき合わせてなにを語ればいいか落ち着かない。こんなときにあのお祭り男がいればとも思うが、いたら
いたで、また恒例の盛大な諍いが始まるから、桜木の不在は精神衛生上僥倖だったろう。
元はと言えば桜木が密かに思いを寄せていた赤木の妹晴子が、流川に一目惚れしたことに端を発している。無愛想な
上にひとの情理や好意など解そうともしない男に、自分の思い人が熱い視線を寄せていてはむかっ腹も立つだろう。
桜木の気持も分かる。けれどそれに関してなにひとつ、心を動かされるものがないのなら、流川にしても八つ当たりも
いいところだ。
結局、どっちもどっちというのが大勢だった。
することがないとすぐに眠り出す男を自分の房へ帰るように促し、いまは憧れの彩子と二人っきりで、
これからデートにでも誘おうかと、少しおどおどしていた宮城の背後でバーンと扉が乱暴に開かれた。
「よう。どこ行ってたんだ、花道。さっきまで安西師父がお見えだったんだぜ。んで、赤木のダンナと三井さんを――」
続けかけて宮城は言葉を失った。息せき切った桜木が激しく肩を上下させ、そのまま立ち尽くしている。
いつも騒動の大元のような男だが、能天気を絵に描いたような表情が引きつり、なにか切羽詰った状況を指し
示していた。
「桜木花道?」
「どーしたんだ?」
「リョーちん! アヤコさん!」
「なに?」
「どうしよう! リョーちん! オレ! オレ!」
「だからなんだ? 落ち着いて喋れ」
「洋平たちが! 洋平たちが! 憲兵隊に捕まった!」
桜木の幼馴染たち――通称桜木軍団が街じゅうを引き回されたあと、広場で公開処刑されるのだと言う。
「そんな!」
あまりの大声に半分寝こけていた流川も目が醒めたようだ。彩子は声を失ったまま立ち尽くし、桜木は床を踏み抜き
そうな勢いで狭い室内をうろつき出した。一度視線を天井に合わせ、考えも纏まらないまま宮城は流川を顎でしゃ
くった。
「行こう! 流川、取り合えずおまえも来い!」
「リョーちん! こんなヤツの手助けなんかいらねーぞ」
「だれも行くなんて言ってねー」
「バカ。手数は多いほどいいんだ。アヤちゃん。木暮さんやヤスたちにも応援頼みに行ってくれる? 集合先は
広場だ」
青ざめた表情のままひとつ頷くと彩子は部屋を飛び出して行った。その背を見送って桜木はまだごねている。
「こんな怪我人、いてもしょうがねー。メガネくんたちが来てくれるんならそれでいいじゃねーか。手数は足りてる
だろうが。オレたちだけでなんとかなるって!」
大手を振ってジタバタと足を踏み鳴らしている桜木を制し、宮城はそっぽを向いている流川の前に立つ。病み上がり
なのは百も承知だ。
「銃は使えるな。利き腕を怪我したんだ。腕は上がるのか」
「いちおう」
「身体がつれぇんなら無理にとは言わねー。けど仲間のダチが危ねえ目に合ってるんだ。花道が助けてくれって頭
下げなきゃ厭だっつうようなケツの穴の小せえこと言わねーよな」
「だれがんなヤツに頭下げるか! りょーちん! よせ! もういいって!」
「流川。オレたちの中ではおまえの射撃の腕が一番だ」
「なに言ってんだ、リョーちん! オレだろ、オレ! 一番はオレだ! オレさまが天才だ!」
「黙ってろ、花道! おまえの状態はよくわかってる。自身がないんならはっきりそう言え。駆けつけたところでアイツ
らを救えるかどうか分かんないし、来ないからって別におまえを詰ったりしねー」
諦観を隠そうともしない宮城の口調に、口を押さえられフガフガ言っていた桜木も一瞬にして黙りこくった。
「助けられねーと思ってんなら行っても意味ない」
「それでも目の前で溺れてる人間見つけたら、手ぇ差し伸べたいと思うだろ」
「泳げねーから助けねー。けど――」
と、言葉を詰まらせて流川は腰のブローニングに手を伸ばした。
信念なんてどこにもない。ただ、ここで暮らせと言われ仲間だと紹介されただけの間柄。惰性で付き従い
ささやかな抗日運動に手を貸してきたが、ここが祖国という意識も蹂躙されて悔しいとも、そして取り戻したいと
思ったこともなかった。
彼の中の小さな世界は母が亡くなったときに閉じてしまっている。あえて呼ぶなら母が臥していたあの場所が唯一
の故郷なのかもしれない。
それも失われて久しい。
ここは自分の居場所ではない。だからと言って何処にも行くアテはない。
ふいに脳裏で年ふりた揚柳から吹雪のように舞い踊る柳絮のビジョンが弾けた。
母が手を伸ばしたその場所に還りたいと思っているのだろうか。あそこがオレの居場所なんだろうか。
「けど――いまは、」
そう。けどいまは。
走れるし、撃てると呟いた流川の言葉を拾った瞬間に宮城は部屋を飛び出していた。
三人は入り組んだ路地を飛ぶように進む。アジトを飛び出したもののどうやって憲兵隊に捕まった桜木
の幼馴染たちを救えばいいのか分からない。
「捕まったって、一体水戸たちはなにをやったんだ?」
「横切っただけなんだ。小さな女の子が憲兵隊の前を。なのにあの東洋鬼子ども、薄ら哂いを浮かべながら、
撃鉄を起こしやがった。日ごろの鬱憤もあったし、洋平が石を投げつけて、その隙に子供を助けようと
したんだけど――」
取り囲んだ敵の数の方が多かった。それでも子供だけでも助けようと桜木に託し活路を開き、その囮に
なったようなものだと吐き捨てた。
「相手がわりい。計画性がねー。逃げ道確保してからコトを起こしやがれ」
どこかでだれかに言われた科白をそのまま自分の言葉のように投げつけると、赤い髪の男は歯をむき出しにして
食らいついてきた。同じように野犬と称されていてもこちらは仲間意識がすこぶる強い。
「ズタボロんなって戻ってきたてめーにだけは言われたくねー! エラソウに説教垂れんな!」
「オレは捕まってねー」
「ミッチーやリョーちんに助けられなきゃ、どーなってたか分かんねーだろうが!」
「チガウ。逆に襲われたみてーなもんだ」
「聞いたか、リョーちん! だからあんとき息の根を止めときゃよかったんだ!」
「うるせー! 走りながらくっ喋んな! 舌噛むぞ!」
あー、なんでダンナや三井さんが留守のときにこんな面倒が舞い込むんだと、宮城は頭をかきむしった。己の不運を
嘆きながらも、けれどこうなってしまえば後は神のみぞ知るだ。ウダウダと悩んでいる暇も口喧嘩に興じている余裕も
ない。ときは一刻を争う。
器用にも足蹴を出し合いながら駆けているふたりと、雪崩れ込むように広場に到着した宮城は思わずその場に凍りついた。
手枷足枷をかけられた水戸たち四人が、そのままの状態で町中を引きずりまわされた挙句ここに引きずり出された
のだろう。見るも無残な姿で足元も覚束ない彼らを、憲兵たちは広場の中央にまで追い立てた。
辺りを取り囲み固唾を
呑んで見守っている群衆は、単なる見物人でもなければ非情な行いに憂いている訳でもない。ましてやその行いに抗議
するために集まってきたのでもなかった。
こういった広場では関東軍に占領される以前から、匪賊や体制に対する反乱分子たちの公開処刑がよく行われた。
水戸たちの背後からご大層な青竜刀を携えた大男が現る。憲兵隊は自分たちの手を汚さずに、大陸に古来より伝わる方法
で彼らの処刑を行う腹積もりらしい。
斬首の役目を担っている役人は、その技術を師から受け継ぎ、まるで瓜でも真っ二つにするかのような青竜刀さばきを
見せる。そして崩れ落ちたその身体から迸った血潮を人々は不老長寿の妙薬としてあり難がり、手にすくい、饅頭に塗っ
てでも食する。
徹底的な自己主義と不死への憧憬が強く根付いている民族性。
これはひとが見せる飽くなき欲求のための饗宴なのだ。
「ちくしょう!」
吐き捨てた桜木の憤りが合図だったかのように流川は周囲を見渡し、広場を見下ろす位置にある露天の二階に目を
つけた。なにも言わずにその方向へ走り出した彼の意図を察し、宮城は桜木の腕を掴む。
円形の広場をはさんだ真正面には木暮や安田、潮崎、角田の姿もあった。対してこの饗宴に愉悦の笑みを漏らして
見守る憲兵が十人。満州人の首切り役人が一人。さらに騒ぎを起こせば増援部隊が駆けつけてくるのは目に
見えている。対するこちらは七人。先制で流川が何人仕留めるかにかかっていた。
流川が露天の二階にたどり着いた。彼が起こした撃鉄の音さえも聞こえそうなほど五感が研ぎ澄まされる。宮城は
片手を小さく上げて流川の動きを制したあと、真正面に位置する木暮に顎で流川の位置を指し示した。それを確かめて
木暮が頷く。宮城は彼の隣で戦慄いている桜木の腕を掴んだ。
「てめぇのダチだ。オレたちが援護するから、混乱してる隙に水戸たちの縄を切れ。分かったな。ヤツらだけを見て
走れ。とにかく縄を切ってやれ」
「分かった」
宮城は肩の位置まで上げた右手の人差し指を小さくクイと折り曲げた。それ合図に立て続けに三発、広場に銃声が
響き渡った。
continue
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