月落ち 〜よん








――夢を見るとね、小さな小川のすぐ傍にいつも大きな楓の木が立っているの。
 母の声だった。
 さやさやとそよぐ風音と乾いた風景が明確に浮かび上がってきた。
――もうお爺さんの木よね。 樹皮なんかかさかさだったから。それなのにとても優雅に枝葉が風にそよぐのよ。その辺り一面は揚柳の木だけで、 その度に真っ白な新雪のような 柳絮が絶え間なく舞うでしょう。あんなにも儚げで、風に攫われるものだから、行く先なんか分からずに、 それでもこんなやせ細った大地に落ちて、転がって、また舞って、何度でも曠野を踏みしめるの。
 それを楓の木はじっと見守ってる。
 目の前が真っ白になる度に思い出すのよ。
 この土地はそうやって何度でも蘇るって。
 どれほど冬が凍てついても、秋には高粱が収穫できるわ。
 どれほど過酷でも人は生きてゆける。
 それをこの曠野は知っているの。
 目を凝らして耳をすませば、大地の息吹が聞こえてくるでしょう。
 なにかに行き詰まったら、その息吹が聞こえるまでただ眺めていなさい。
 それだけでもなにかが変わるかもしれない。
 そうして私は生き永らえてきたのよ、楓。



 母が思い描いていたという韃靼の風景の一部を、同じように夢見るようになったのは、繰り返し聞かされていた 寝物語を母が語れなくなってからだったと思う。病床についてから、握ると痛いほどの骨の感触を感じるほどに やせ細っても、母は祖国に還りたいとは言わなかった。
 続いているから。
 蘇るから。
 まだ夢で見られるから、と。
 父は優しかったけれど忙しい人で滅多と会えない。父が間に合わないままに母が逝ったとき、総てが注ぎ込まれた ように明確なイメージが彼の脳裏に浮かび上がった。
 それ以降何度かあの夢を見る。懐かしい母の声も蘇る胸の締め付けられるような夢だ。
 それも久し振りだったんだと涙が零れて、流川は目覚めた。
 母の少し掠れた声も、首を傾げて立つ後姿も、そして幼かった自分の背を宥めるように拍子つけて撫でる手も、 ここに来てから余りにも目まぐるしくて、夢を見るゆとりすらなかったから。
 いつまでも手放したくなくて、もう一度目を閉じようとして彼は、己の身に起こった事実に気づいて 飛び起きた。
「つっう!」
 ぼんやりとした視界が滲み、そこが自分たちの隠れ家の自分に宛がわれた牀の上だと知り、流川は痛む腕に そっと手を這わせた。
 どれくらい人事不肖に陥っていたのか。それでなくても普段から寝起きは悪い。悪いを通り越して凶悪 とさえ称されている彼だが、疼きの残る腕が寝ボケを一掃させた。
 そう。自分はあの男に腕を撃ちぬかれたのだと。
 ニヤケ面まで鮮明に蘇る。
 底の知れぬ深みを持った男たちだと思った。自分の命を狙いに来た抗日分子に暗殺のなんたるかを解いた 関東軍の中佐も、そしてその上司を害する流川の右腕だけを速射した男も。
 子供の細腕など捻るのは容易いとばかりの余裕を見せつけられ、彼の矜持は脆くも砕かれた。
 計画性がないとの酷評だったが、そんなもの、あれやこれやと画策したところで、出たとこ勝負の現場至上主義 が流川の信条だ。改めるべき点は改善する。それ以外はついてなかっただけだろ、と彼は牀から起き上がった。
 やはり少し眩暈がする。それは多分異常に覚えた空腹感のせいだ。痛みは日にち薬として何れ癒えてゆく。もう、動ける。 とにかくメシと向った扉が先に開かれた。
「目が醒めたか」
「ウス」
 湯の入った椀を乗せた盆を手にして姿を現したのは赤木だった。差し出されたそれを流川は大切なものの ように両手で掴み、ゆっくりと口にする。暫くなにも口にしていなかった消化器官にただの湯は寒露のように しみわたり、漸く人心地つけた。
 謹厳実直にして愚直なまでに面倒見のいい男に、彼は椀から口を離さないで視線を上げた。
 満州馬賊に憧れてやまないこの先輩は、任侠の徒を地でゆく男気に溢れている。 言葉の端はしに奪われた祖国とその奪還にかける熱い思いを散りばめ、その風貌からも大攬把 (ターランパ)(頭目)と近隣の子供からも 畏れられ同時に慕われていた。
 初めてこの集落で赤木たちに出会い、厄介になりますと頭を下げてから一年になる。もともと人見知りの激しい性分から、 いつまでたっても懇意も気安さも仲間意識も生まれてこない流川だったが、そんな彼に対しても赤木は他のメンバー たちと分け隔てなかった。
 特に際立って手を差し伸べるような押し付けがましさは見せないが、流川が気にも留めない仲間内の通達を キチンと正面から説明をする。口を挟んだことのない会議のような場でも、流川に意見を求める。
 そこにいて当たり前と接してくれる。
 だから自然と彼だけにはいつものぞんざいさもナリを潜める流川だった。
 ちなみに、赤木に倣って三井は包頭(パオトウ) (遊撃隊長)の地位にいるらしい。そちらはあまり浸透していないようだ。 侮っている訳ではなく、近し過ぎて今更呼べるかよ、と口を尖らせたのはひとつ年上の宮城だ。 なんとなく分かると流川も思った記憶がある。呼ぶ分には格好がいいが、敵に斬り込む際の先陣を常に担わせるのは なんだか痛々しい。
 椀を放すと赤木は手際よく包帯を取り替えてくれた。化膿は治まっている。引き攣れた痛みが残っている だけだ。銃創は厄介だからなと赤木は安堵したように重い嘆息を吐いた。
「結構化膿しにくい体質なのかも知れないな。どうだ? まだ痛むか?」
「だいじょーぶみたいです。それよりハラ減った」
「相変わらずだな。彩子や晴子がつくってくれたメシがまだ残ってる筈だ。適当に見繕って食え。 ハラ減りすぎてるからって、無茶食いはするなよ。丸二日寝たきりだったんだ。胃が逆流する」
 彩子と晴子とは、この男所帯の窮状に見かねて、なにかと世話を焼いてくれる近くに住む少女たちだ。 離れて暮らしているが、晴子はあの赤木の実妹らしい。あまりにも似ていないので、いまでもだれもが 疑っている可憐な少女だった。
「二日も?」
「ああ。相当疲れが貯まっていたのだろう。その怪我で三井とやりあったそうじゃないか。 ヤツの暴言も心配の裏返しだ。それくらい分からない訳ではないだろう」
「オレの問題だから」
「見るからに痛そうなのに、素直に悲鳴を上げないのは勇敢でもなんでもない。見ているだけでおまえ以上の痛みを 感じるんだ。言ってること分かるか?」
「そんなことあり得ねー」
 ほんとに痛いのは本人だけだと褥の中で小さく握りこぶしをつくった。さすがに心配してくれと頼んでいないとまでは 言えない。
「ま、おまえならそう言うか」
 さして落胆した素振りも見せずに赤木は、二人しかいない部屋でだれに憚るつもりなのか声を落として続けた。
「それと、動けるようなら俺の家に行ってくれ。おまえに客が来てる」
「客?」
「花形だ」



「なんで?」
 束の間流川は赤木の放った言葉が理解できないでいる。漸く重い口をついて出た言葉は、どこか非難じみて いた。
「おまえを心配して寄こしたんだろうな。ここで他のヤツらと鉢合わせしたら不味いだろう。ウチで 待ってもらってる。ちなみにきのうも来た」
「だからなんで知ってるんすか」
「三井が知らせた」
「赤木さん!」
 クスリ貰いに行ってくれたと、続けられた言葉に流川は唖然となる。そうなると怪我したことも、計画に失敗した ことも筒抜けだということだ。あのひとに心配はかけたくなかったという思いは中空でバラバラになる。 けれど怪我した身体を厭って動いてくれた先輩にかける言葉はひとつしかなかった。
「スミマ、セン」
「いいから早く行け。ヤツも暇を持て余してる訳ではないだろう」
 コクンと頷くと流川は重い身体を引きずるようにアジトを出た。
 一大都市奉天と言っても目抜き通りをひとつ外れると、うらぶれた街並みが続く。崩れそうな家屋がいくつも ひしめき合い、絶望と苦痛とがない交ぜになったくすんだ空気で澱んでいる。堅固な城壁で囲われ、気概と 自由とをその中に取り込んだ牢獄のような城市。蠢いているのは赤木たちの闊達な気風だけなのではないか。
 牢獄と言えば彼が生まれた場所もそうだった。ただ食うに困らなかっただけの完全な獄舎。空は狭いが窒息しない だけの空気がここにはある。
 あの仲間たちが実際どのような抗日運動に手を染めて、どこへ向おうとしているのか流川には分からない。 いまでも興味もなかった。
 それでも居場所を与えられ、そこにいて当たり前と受け止められ、諍いながらも気遣われて溶け出したものが 確かにある。
 どこかで心を落としてしまった自分にもそれは感じられた。
 けれどもあそこから助け出してくれて、この場所を与えてくれたひとの、ただひとつの願いを叶えられなかったと、 流川は赤木の家の扉を開いた。
 予め言い聞かせたあったのか晴子の姿はなく、その薄暗い室内には彼がよく見知っている男が待っていた。
「少し、また痩せたように見受けられます」
 と、黒繻子の胡服に爪皮帽、丸い黒眼鏡をかけた男――花形は流川に席を譲るように立ち上がった。当の 流川は必要ないという意思表示に首を振っただけで、青白い表情のまま立ち尽くす。苦笑した花形は眼鏡を 外すと話のとっ掛かりを探すようにそれを手の中で弄んでいた。
「怪我をされたと聞いたが、もう加減は宜しいのか?」
「ウス」
「あの方も酷く心配しておいででした。無用心に放った言葉があなたを駆り立てて怪我を負わせてしまったと」
 流川は小さくかぶりを振った。
「ヘマをしたオレが悪い」
「一本気なあなたの性格を少し甘く見過ぎていました。まさか本当に牧を狙うとは。三井に詰られましたよ。 あなたを誑かしたのは我々だろうと。まあ、概ね外れちゃいませんが」
「オレがそーしたかったからしたまでだ」
「命の恩人、だからですか?」
「そー、あんたたちがオレをあそこから連れ出してくれなかったら、きっと窒息してた。だから」
 だから、なにかひとつでも借りを返さなきゃ、と続けられた言葉はあまりにも強かった。
 貸し借りを問う間柄ではないと考えているのは、自分たちだけなのかといつも思い知らされる。なんの見返りも 必要なく、ただ救い出したかっただけだと告げても、この少年にはいっかなつうじない。どこにも居場所がなく、 天上天下孤独の中で生きてきた少年は、ただ借りを返すためだけに命を賭けようとした。
 その方法でしか己の価値と存在を誇示出来なかったのだと花形は思う。
「お詫びの印しという訳でもないのですが、楓さんにお土産があります」
 そう言って花形が懐から取り出したのは、黒光りするまだ真新しいブローニング小型拳銃だった。ここの仲間たち が持っている銃はどれも使い古したものばかりで正直使い辛い。綺麗に手入れのされたそれに流川は言葉もなく手を 伸ばした。
 花形は掌に乗せたブローニングの銃把を流川に向けて差し出す。しかし容易に渡そうとはしなかった。
「誤解しないでください。これで再度牧の命を狙えと言っているのではありません」
 気位の高い彼の言葉が蘇った。
――憎い。牧が憎いと。
「けど――」
 可能な限り叶えたい、と告げると花形は、
「あれは、あの方個人の問題。それに楓さんを巻き込んだことを後悔しておいでなのです。恐らく、ご自分で 決着をつけられます。そのためにあなたにはこれを。護身用として、そしてあなたの信念に基づいたときのみに使われ ることを願って、この銃を差し向けられました」
 オレの信念、と流川は首を傾げる。そんなものどこにあるんだと逆に問い正したい気分だ。教えてくれ、なぜ オレはここにいるんだ。なぜ赤木たちのようにひとつの崇高な理念のために地道な努力を怠らない面々の中に 自分はいる。なぜ彼らを選んで放り込んだ。
 敵対してまで、なぜ。
 けれど花形はそのあやふやさを置き去りにするように、約束してくださいと言い残して帰って行った。



 平衡感覚がおかしくなるような傾いた集落。所々剥げ落ちている古い石畳の上に、浮浪児の集団が膝を 抱えて座り込んでいた。物乞いをすれば引ったくりもする。それが彼らの唯一の生活手段だったからだ。 花形の身なりを値踏みしているのが手に取るように分かる。辺り憚らない殺気で睥睨すると、この人数 では御せないと踏んだのか、浮浪児たちは大人しくまた視線を石畳に戻した。
 ああやって格好の得物が近づくのを、それこそ日が暮れるまで待っている。
 あれはほんの十年ほど前の自分たちの姿だ。親をなくした赤木と三井と三人でこの路地に蹲って生きてきた。 袂を別ったのは些細な偶然が重なり合った結果で、それでも根幹はこの集落に根を張ったままだ。
 信念、と先ほど流川に放った言葉が胸の中で反芻する。こんな時代、一体だれがそれに叶った生き方を 出来るというのか。恐らくその言葉を口にした本人が一番苦渋に満ちた顔をしている。
 路地を一気に抜け目抜き通りに出ると花形は、路肩に止めてある天蓋つきの馬車へ乗り込んだ。
「戻りました」
 そう声をかけると、窓枠に肘を突きながら悄然と車窓から見えるひとの流れを目で追っていた男が、そのまま 顔も向けずに尋ねてきた。
「楓には会えたのか」
「はい、比較的お元気そうでした」
「そうか」
「以前お会いしたときよりも、また少し痩せられたかと。栄養状態もあのとおりですし、ここは傷が 癒えるまでこちらに呼び寄せられては如何ですか」
「それは今更だ。オレの周りの方がもっときな臭い。あいつひとり匿えない訳じゃないけれど、赤木たちの 傍にいてもう一年。あいつだって自分とオレの立場の違いが分かっている筈だ。なにがあったってオレの ところには来ないよ」
「それでも別れ際には、オレは邪魔者なのかとで問いたげな顔をなさる。そしてもうひとつ。なぜあなたが直接 会いに来ないのかと」
「あいつは聡いからそんなこと聞いたりしない。言い訳ならいくつも用意できるけど、聞かれても答えられない ような質問はしないよ」
「あのときの判断は誤っておりましたか」
 花形が絞るような声を出すと、詰襟にベタ金三ツ星の肩章の満州国軍の制服に身を包んだ男が漸く振り返った。
「なにを言っている。おまえと赤木には感謝の言葉もない。正直八方塞がりだったし。楓にはこんな汚名は着せたく ないからな」
 と男は軍帽のツバの下、すらりと伸びた美しい柳眉を下げて笑った。
「そう。道を誤ったとしたら、たぶん、もっと前だ」
「藤真さま」
「そしてこれからも間違い続ける」
 諦観したように藤真は丹唇の端を少しだけ持ち上げて哂った。
 その妖艶な美貌に惹かれてもう何年。焦がれ続けた年数だと花形は頭を下げた。






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