月落ち 〜さん








「流川――おまえこんなとこでなにやってんだ」



 少し小柄な男だった。勿論知らない顔でもない。
 知らないどころか拙いのに見つかったとばかりに流川と呼ばれた少年は、その手を振り払って反対側の壁に 逃げた。頼むからそれ以上声を出すなと願っていたのに、小柄な男の後ろからもう一人の知り合いが酒場から 顔を出した。
「んなとこで立ち止んなよ、宮城。邪魔だろうが」
「三井サン。こいつ、流川」
「あ?」
 と、宮城の背中から顔を出し顎の傷に手を当てた男――三井は思い切り目を眇める。流川の様子を上から眺め、 けっと吐き捨てた。
「また揉め事か。にしても女装して喧嘩する趣味がおまえにあるとはな」
「成り行きだ」
「聞いたか、宮城。成り行きだとよ。おまえさ、どんな事情があったか知らねーけど、男娼にだけはなるなよな。 ハマって抜け出さなくなるヤツ続出だぜ」
「なってねー。それにあんたらには関係ねーだろ」
「関係なくはねー。おまえが大人しくしてねーとオレらに迷惑がかかんだ。それくらい分かってんだろうが」
「だったら話かけんな。つるんでると思われんのが厭なら係わらなきゃいー」
 身体を斜めに傾いだまま歩き出した流川の腕を三井が掴んだ。射抜かれた方の腕だ。流石に激痛から膝が 崩れた。
「だれに撃たれたんだ」
「ちょっと、三井サン」
「言えよ。なにしてたんだ! どこ行ってたんだ!」
 流川はキリと音を立てるほどに唇を引き絞ってなにも答えない。元来が無口な性質だが、こんなになってまで 頑なに状況を説明しようとしない男に三井の苛立ちは一層拍車がかかる。
「赤木になんて言い訳するつもりだ。オレたちはともかく、あいつだけはおめーのことを心底心配してんだぞ!  なにも言わずにいなくなるから、あいつ、ひとりで探し回ってやがった。 それすら無視して関係ねーって言うのか!」
「三井サン。拙いすよ。取り合えず殴ってでも連れて帰らなきゃ。んなとこ、警らの憲兵に見つかりでもしたら、 また難癖つけられる」
 三井は青白く生気を失ったような流川を睨みつけながら腕の傷を確かめた。幸い銃弾は貫通しているようだ。 帰って弾を抉り出さなくて済む。こんな、なにを考えているのか分からないヤロウでも、同じ家で寝食を 共にする仲間だ。焼いた刃で傷口から銃弾を取り出すのは勘弁して欲しかった。
 三井はもう一度流川の腕を掴んでいる手に力を入れ、うぁ、と悲鳴を飲み込んだ少年の蒼白に凍った顔に 睨みを入れた。
「痛いか。生きてりゃ痛てーんだ。んないつ死んでもいーみてーなツラさらして、ひとりでいきがってんじゃ ねーよ。ガキが!」
「うるせー!」
 三井に殴りかかろうとした流川の足元が痛みからかブレた。手を振り上げてガラ空きになったボディに 三井は容赦なく拳をめり込ませていた。ぐふっと泡を吹いて流川の上体が仰け反る。 手荒いけれどその身体を受け止めたのも三井だった。
「ったく。んな状態になっても喧嘩売ってくるなんざ、正気の沙汰じゃねーぞ」
「なんだかんだと言いながらも、三井さん、面倒見がいいから」
「やかましい。成り行きだ」
 三井は声を潜めて辺りに視線を巡らせた。遠くで野犬の嘶きが聞こえるだけで、あとは落莫とした風が 通り過ぎる至って静かな夜だった。
「なにしたか知らねーけど、とことん自分を傷つけなきゃ気が済まねーらしいな」
「オレが先導する。三井さん、流川を抱えて走れるんすか?」
「んな縦に長いだけのガキひとり、どってことねーよ」
 オッケ、と宮城は腰を落として走り出した。それに三井もつき従った。



「ミッチー!」
 慣れ親しんだ色町を抜け、さらに迷路のように入り組んだ集落をひとつふたつ抜けると、街並みや様相がさらに一変する。 風に煽られた空桶が転がり、残飯を求めた野犬がそれすら見つからずに草木を食む風景。
 この辺りの路地はさらに複雑さを増し、流石の関東軍も捨て置くしかないと言われた貧民窟だった。
 そこに湘北と呼ばれるひとつの集落がある。
 中国全土に広がる抗日地下組織のひとつと言えば聞こえはいいが、この地で生まれ育って、親を亡くした 浮浪児たちがそのまま少し年齢を重ねて寝食を共にし、更に年少者たちの面倒を見ている。ただの餓鬼大将たちの 集団の域を抜けていなかった。
 闇をぬうように辺りを伺い怪我人を抱えてアジトに帰還すると、夜も更けたというのに他のメンバーたち は休みもせずに顔を揃えていた。
 その面子の前で、三井は力を失って気絶している男を荷袋を下ろすかのようにドサリと放り投げた。
 一同に緊張が走る。
「どこで見つけた?」
「死んでんのか、ルカワ?」
 彼らを取りまとめている巨漢ともうひとり、赤毛の男が進み出て同時に言葉を発した。三井と宮城はゆっく りと頭を振る。
「言っとくけどな、オレがやったんじゃねーぞ。呑み屋の帰りにんな状態のコイツとばったり鉢合わせだ。なのに係 わんなとかごちゃごちゃうるせーから、頭にきてハラに一発ブチ込んだだけだ」
「その他の傷は?」
「ま、一応三井さんじゃねー。会ったときからんな重傷だった」
「よくやったぞ、ミッチー。瀕死だろうがなんだろうが、ルカワ相手に遠慮はいらねー。なんでその場所にオレも呼ばねーんだ。 ちっ、息の根を止めてやったのに」
 もう一発くらいいいだろーと、怪我人目掛けて足蹴を出そうとした赤毛の男に巨漢が鋭く制した。
「止めろ、桜木」
 巨漢の男――赤木は投げ出された流川をアンペラ敷きのオンドルの上に横たえた。一瞥しただけで相当 なダメージを受けていることは伺える。一番厄介なのは腕の銃創だ。熱が出て膿んできた場合、 体力如何では最悪切断しか手はなくなる。
 赤木は巨体を折り曲げて絞るような声を出した。
「どうしてこんなことになったんだ」
「さーな。気づいたら聞いてみればいい。尤もコイツが口を割るかどうかは知らんぞ。ったく強情な ヤロウだ。オレたちには関係ねーの一点張りだった」
 赤木、と眼鏡の男が前に出た。その厳つい肩に手をかけ、未確認なんだけどと語りだした。
「オレの聞いた話によると、今夜柳町のクラブでなにか揉め事があったようだぞ。関東軍の将校の 命が狙われたとか。いないとか」
「あり得ねーよ、木暮。んな大層なことになってんなら、軍や憲兵隊が威信をかけて動くだろう。総動員させて 刺客を追い掛け回すんじゃねーか。街はいつもより静かだったぞ」
「うん。そうなんだけど、そのクラブ――『大東飯店』で銃声が鳴ったのは事実らしい。二階の窓ガラスを割って 男が飛び出して来たのを見ていたヤツもいる」
 木暮の話にそこにいる者たちは、横たわった流川に視線を落とした。銃創。体中に認められる切り傷。 そして肩先と腕に刺さったままのガラス破片。
 眉を顰めたまま赤木は、細身の流川の身体を覆っている旗袍を切り裂き、ガラス破片を取り除いていった。 昏倒している身体が痛みから少し跳ねる。血が噴き出るほどではなかったが、かなりの数で傷ついている。 赤木は木暮の名を呼んだ。
「白酒と阿片を用意してくれ」
「分かった」
 木暮が取って返すまでに血糊を拭いてやろうと、濡れた手ぬぐいをこめかみに当てると、流川はガタガタと 震えだした。
「破傷風を起こしかけているな」
「コイツ。だからこんなナリしてたのか。ひとりで? 女装してクラブに侵入? 関東軍の将校? ハッ。英雄気 取りかよ」
「死ぬつもりだったんすかね」
「じゃねーの。よくて相撃ち。下手すりゃ一撃も与えられねーで蜂の巣だ。けど、逃げ出したってことはしく じったのか。ダセー」
 辛らつな三井の言葉に桜木は地面を蹴った。
「バカじゃねーのかコイツ! ルカワの分際で出来もしねえこと突っ走って! 調子乗ってんじゃねえ!  カッコつけんのもいい加減にしろ!」
 その思いは皆の気持を代弁していた。



 木暮は白酒と阿片を吸引する煙槍の他にヨモギ茶を入れた椀を持って戻ってきた。アルコール度の高い 酒で化膿を抑え、襲い来る激痛は少量の阿片で痛みを和らげるしかない。アスピリンなどどこにもない。 あとは体力を信じての自然治癒しか方法はなかった。
 赤木は流川の上体を支えて起こすと引き絞られた唇に椀を当てる。少し湿らせただけで、相当喉の 渇きを覚えていたのか、気を失いながらも自ら少し口を開きそれを欲して喉が上下した。
 なにもかも放り投げたようなこんな男にも、死にたくないという渇望は底辺で湧き上がっているようだ。 治療を続ける赤木の背もそれを横目で捉えるメンバーたちにも、どこか安堵した空気が流れていた。
「大それた計画練りやがって。んなもんは、この天才に任せればよかったんだ。ルカワのヤツめ。こんくらいの怪我で 寝込むくれーに貧弱なんじゃねーか。根性も技量も体力もない癖に英雄気取りなんか百年早い。 オレさまに頭下げやがれってんだ」
 ふだんから流川と犬猿の仲の桜木はまだ言い足りないらしく、人目がなければ本当に怪我人の頭くらい 蹴飛ばしそうな勢いだった。
「おめーが変わりにしたってか? 女装だぜ? 女装。わりぃけど、だれもおまえのんな格好見たくないし、 騙されないって」
「そーっすね。喩え騙せたとしても、こんなヤツを女だと信じるような間抜けヤロウに祖国を蹂躙されたなんて、 考えただけで虚しくなる」
「む。リョーちん。何気に失礼なこと、言ってないか?」
「どーしてこれが何気なんだ。思い切り直球で抉ってんの、分かんねぇのか、この鈍感ヤロウ!」
「鈍感ってなんだ、鈍感って!」
「この状況見て、てめーの憤慨だけを叩きつけるヤロウのことを世間では鈍感っていうんだよ!」
「本当のことを言ったまでじゃねーか!」
 喧しい、静かにしろ! と予定どおり赤木の雷が落ちた。悪ガキ二人はそんな怒号など毛ほども 感じ入っていない。なにやらまだ言い争っていた。
 三井は小さく嘆息をつくと、こちらに背を向けて阿片の用意をしている赤木の隣に並び、肩に手を置き声 を低めた。
「ちょっと、出かけて来るわ」
「あ? どこへ行こうと言うのだ。こんな夜中に」
「もうじき夜も明ける。麗しの満州国軍第二方面司令官サマんとこ。司令部は奉天城の近くだったな、確か?」
「なんだと?」
「あそこなら鎮痛解熱のクスリ、売るほどあるだろう。それに確かめたいこともあるし」
 赤木は露骨に顔をしかめ、三井の次の言葉を待った。
「ああ。確信がある訳じゃないけどよ。ちょっと気になったことがあって」
「なんだ?」
「うん。なんつーか、売られた喧嘩にはきっちり借りを貸せすようなヤロウだけどよ、『大東飯店』みてーな 格式の高い店に女装までして潜入して、『東洋鬼子』を始末する計画を練るってガラじゃねーよーな 気がしてよ。。あのモノグサな流川がだぜ。信じられるか」
「確かにそうだが」
「アイツ、オレたちと行動を共にしてるけど、別に『東洋鬼子(トンヤンクイズ)』にそこまでの恨みを持ってる訳じゃねーだろ。 てめーが生きてく分もどうでもいいような男がよ、ただの死に場所を見つけようとしたとも思えねーし。 ヤツら絡みじゃねーかな」
「おまえがそこまで言うのなら許可しよう。だが気をつけろ。相手は同じ満州人の皮をかぶった関東軍の狗だ」
「分かってる。ついでにだれとも馴れ合わねーよーな野犬の面倒を押し付けられてんだ。迷惑料でもせしめて やるか。ああ。おまえこそ、阿片の量に気を配れよ。コイツ、身体に合わねえんだろ」
「承知した」
 宮城と桜木の罵りあいを尻目に、三井は少し振り返って病床の流川を見た。荒い息と高い熱が、 形となってはっきりと分かる。それでも野犬は身体を丸めて己の身を守っている。彼はキリっと顔を上げてその場を 後にした。



 翌朝、奉天ヤマトホテルのラウンジのソファに深く沈みながら、報告書に目を通す仙道の姿があった。
 ここは関東軍の満蒙対策の作戦本部として使われているためあちこちに軍人の姿が目立つ。
 そんななか仙道は、コーヒーを片手に長い指を使って器用に紙の束をめくっていた。
 その報告書がもたらした情報が芳しいのかそうでないのか、区別のつきにくい表情でそれをテーブルに 放る。牧が後ろを通りかかったのは呑み終えたカップをソーサーに戻したときだった。
「よう。朝早くから勤務意欲満々だな」
「おはようございます。昨晩はぐっすりお休みになられましたか?」
「分かっていて聞くな。あんな上物を目の前で逃したんだ。滾ってどうしようもなかったぞ」
「それはお気の毒に。仕方ないですからご贔屓の敵娼のところへシケ込まれるのを許可しましょう」
「朝っぱらからンな話を振るな。思い出しちまう」
「ご執心な相手が違うでしょうに」
「なにか言ったか?」
「ひとり言です」
 牧は仙道の後ろから正面に回りこみ、テーブルの上に放られた報告書を手にした。チラリとそれに目をとおし、 大仰に顎を上げると椅子の背に手をかけたままでニヤリと笑みを零した。
「仕事熱心なこった。いつから仙道少尉は憲兵隊の動向にまで目を配るようになったんだ? しかも、昨日の 逮捕者のリストとは笑わせる。ヤツらもよく承諾したもんだ」
「中佐のご高名を使わせて頂きました。さすが関東軍の異端児。越権以外のなにものでもないのに、 訝し気でも早々に提出してくれましたよ」
「やってくれるぜ。なんだそれは。珍しくご執心か? まさか自責の念に苛まれた訳でもあるまい」
「自己満足です。子供相手に引き金を引くのは憚られた。けれど――」
「憲兵隊の手に委ねるのはもっと厭だったんだろ?」
「ああそうか。ヤツらの手にかかってしまうんだったら、あのときひと思いに殺しておいた方がどれほど ラクだったかっていう話になりますね」
「なんだ、えらく歯切れが悪いな。自分の取った行動が分かってなかったのか? 素人殺しが素人に囚われてどうす るんだ」
「生憎、俺を縛るものなんかなにもないですよ」
「そうだったな。で、その報告書の中に、腕に銃弾を受けた十五、六の見目麗しいガキは含まれていたのか」
「いえ。逃げ切ったか、逮捕以前にその場で射殺されたか、行方は杳として知れずってとこです」
「それは重畳」
 一体なにに対して喜んでいるのか分からないような科白を吐いて牧は、仙道の肩をポンとひとつ叩くと立ち去った。その 背を見送って仙道も立ち上がった。
 きょうも気ぜわしい責務が待っている。






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