月落ち
て
〜に
――殺してやる。
気位の高い男が絞り出すように発した言葉が蘇った。
――憎い。あの男が憎い。
夕陽が差し込む部屋の窓枠に手をかけ、自分に背を向けて絞り出た呪い。それを拾ってなんの感慨もなく続けた。
――そんなに憎いんなら殺してやる。
男は半身だけ振り返り、逆光の中で是とも非ともつかない顔をした。
――あんたはオレの願いをひとつだけ叶えてくれた。だから今度はオレの番だ。
――……。
――オレが殺してやるから。そんなに哀しい顔はするな。
そう言い切ると、男は秀麗な顔を歪ませて多分笑ったのだと思う。
その相手がいま自分の前にいる。
「おまえの武器はあれだけか?」
ダンスフロアのある一階から階を上がるとそれぞれ区切りされた個室が現れる。旅行者のための
ホテルとも、そして春をひさぐ女たちと、それを求める男たちのためだけに使用されるスペースであることも
だれもが知っていた。
階を上がりきり、最初の角を曲がったところで牧は、腰に回していた手を離し唐突に尋ねてきた。
「仙道に取られてしまった歩揺。俺を狙うにしてはいささか軽装過ぎやしないか?」
牧は支えていた腕を引くと、そのまま相手の腕を取り、正面から向き合う形を取らせた。恐らく利き手は右。
その手は封じてある。
「――」
腕を取られ、空いたもうひとつの手はその身体をなぞるように旗袍の上を何度も行き来する。そこに性的な
色合いは含まない。ほとんど身体検査の様相だ。
身体に密着した薄い旗袍一枚。携帯できる武器はなにもないと分かっていてるが、相手の肌の質を知っている牧の手は
次第に熱を帯び出した。
身じろいで、楓と名乗った芸妓は絞るような声を上げるしかない。
「なんの、ことだ」
「しらばっくれるな。こっちは暗殺に慣れているんだ。それこそ飽きる程にな。反逆者どもの匂いを嗅ぎ分ける
能力は、おまえたちが考えている以上に鍛えられていてな」
「離せ!」
「暗殺者としてはおまえは失格だな。目立ち過ぎる。おまえをこの任に就かせた者はだれだ? 計画性もなにも
ない。俺を殺したあと、おまえはどうやってここから逃げる。ふつうな、要人を暗殺しようと思ったら、まず
二、三箇所で暴動なんぞを起こして、軍や憲兵の注意を逸らして兵力を分断させなきゃならん。その隙に俺を
包囲し始末をつける。常套手段だがな、追っ手の数を減らすにはオーソドックスな方が効き目があるんだ。
なのにおまえは一人か? あたら若い命を無謀に散らすだけではないか。分かるか? おまえは捨石にされたんだぞ」
「訳わかんねぇ!」
「愚かな。最後まで芸妓だと言い張る気か? おまえの場合、芸は売っても――と誇るものはなにもないだろう。
さっきのショウも突っ立ってただけではないか。身を助けるには身体を売るしか手はあるまい。
さっさと口を割るか、それともこのまま慰み者になるか。俺はどちらでも構わんが」
「だれが慰み者になんかなるか! オレは――」
「男なんだろ。そんなものは一目見りゃあ分かる」
「じゃあ――」
「たまには変わった趣向も楽しみたいじゃないか」
ヘラリと口の端を上げた牧は廊下の壁に彼を押し付けると、つくられた胸の谷間に唐突に手を差し込んだ。
あまりの直裁さに怯んだ隙に空いた手でそのまま彼のうなじを固定し、覆いかぶさったあと、唇が
触れるより先に舌先で彼の唇をこじ開けた。
蹂躙から逃れようと肘から振り回すがそれも顔の位置で壁に貼り付けられ、膝を繰り出そうにも見ごろの細い旗袍が
邪魔をした。
ミシリと音を立てて密着した下半身。牧の男を感じ、踏みにじられた口腔の奥から吐き気がせり上がって来る。
ぬめりと蠢く牧の舌。噛み切ってやろうと自ら歯列を割るとあざ笑うかのようにそれは逃げてゆく。
牧の舌技に応えているかのような醜態を晒しただけだった。
彼は諦めたと見せかけるために一度全身の力を抜いた。その動きになにかに思い至って逡巡を見せた牧の隙を縫い、
ガツンと顔面に肘をヒットさせた。
「つっう!」
口を切ったのか端から細血が滴る。少し身体に隙間が生じ、続けて膝で急所を直撃しようと態勢を取るが、
それは予想していたらしく簡単に逃げられた。どうしても牧の余裕は奪えない。
「乱暴者だな、だが、跳ねっ返りを腕ずくでモノにするのが俺の好みでな」
「忘八兎子(くそったれ)!」
そのまま後ろに小さく飛ぶ。
間合いをつくった彼は高く結い上げられた頭頂部に空いた手をかけた。スルリと編み紐が解かれ、長かった黒いウィッグが
ばさりと音をたてて床に落ちる。編み紐に添うように仕込まれた鈍色の得物を手にすると、彼はそのまま
牧に踊りかかった。
「不要東洋鬼子!」
ガウンと轟然たる銃声が鳴った。
遅れて硝煙が立ち昇る。
牧に向けて振り上げた右腕から得物が落ちた。上腕を撃ち抜かれたのだと、それは焼け付く痛みよりも唯一の
武器を取り落としてしまったことで気がついた。
視線の先、薄闇の廊下に、その男はモーゼルミリタリーを構えたままで立っていた。
離れていても、先ほどの人を食った笑みは掻き消えているのだと知れるほど、冷淡な空気が辺りを包む。
小指の先ほどのピクリとした小さな動きでも見せれば、次は急所を撃ち抜いてくるだろうと、その纏った緊迫感が告げていた。
牧の懐刀、仙道彰陸軍少尉。射撃の腕は関東軍でも一、二を争うという。
無辜の民には至って温厚。狼藉と略取の限りを尽した関東軍にあって、特異な人物と称されていた。しかし、
刃向かう者には一片の憐憫もかけずに牙を向く。穏やかであるが故に放し飼いにされた豺狼なのだという。
その仙道がつくった信じられないような間が、余裕を持って二撃目はないと示唆している。
思い直せと言っているのか、逃げろと言っているのか、その距離同様彼には計り知れなかった。
確かに。
牧を抹殺出来たのなら捨石にでもなんでもなってやる。だがそれも叶わないのに、こんなところで犬死など
してたまるか、と彼は廊下に設えてあったテーブルの上の壷を、仙道がいる反対側の廊下のつき当たりに
切り開かれた窓に向って投げつけた。
――なめんなよ。
いまは反撃の糸口すら見つからないが、子供だと思って情けをかけたその甘さを、きっといつか後悔させてやる。
ガシャンと砕け散るガラスの破片と共に、なんの躊躇もなく、彼は背中を丸めて窓ガラスの向こうへと飛び
出した。
「――!」
竜巻が過ぎ去ったあとのように――彼が逃げた窓枠からはパラパラとガラスの欠片が零れ落ちているだけ
だった。
そのスピードに呆気に取られていた二人が我に返る。仙道は牧に駆け寄った。
「中佐、お怪我は?」
「大事ない。助かった。だが、どうも絶妙なタイミングだな。出歯亀していたのか、仙道?」
仙道はクスリと笑ったあと牧の顔を確かめてハンカチを差し出した。
「第一声がそれですか? もう少し楽しまれるまで待ちゃよかったのかな。けど、寝室の扉を蹴破るのは好きじゃ
ないんですよ、実は。タイミングも計りづらいし」
「何度もあったような言い方をするな」
「何度か、はね」
「っう。歯が折れたかな」
牧は仙道が差し出したハンカチを受け取って、悪いと詫びた後に口の中に充満していたものを吐き出した。
「お気の毒にと言いたいところですが自業自得。身から出た錆ですよ」
顰めっ面の上司に彼は微笑みかけた。
それにしても、と仙道は砕け散った窓枠に手をかけて下を見下ろした。
丁度、クラブのエントランスを覆う縞模様のテントが眼下に張り出している。
なるほど。ここから転げ落ちたとしても大した怪我はないようだ。彼は牧を始末するのなら、逃げ易いこの
場所をと想定していたのだろう。躊躇いがなかったのも頷けた。
「どちらにしても無謀なヤツだな。取り合えず、ここの支配人を締め上げましょうか?」
「放っておけ。時間の無駄だ。どうせ関東軍に寄生して生きているような店だ。抗日組織に手を貸して、反撃に
出るような気概も愚かさも持ち合わせていないさ。おおかた見目麗しいガキを見つけたもので、少し色気
を出してショウなどに出演させていたクチだろう」
「なるほど。では抗日地下組織への警戒を強めましょう。これっきりという訳にもいかなさそうだ」
「任せる」
「やけに淡白ですね。お命を狙われたにしては」
仙道は牧の諦観にも似た昏い闇を知っていた。常識人であるが故のジレンマを。
「今宵は月も滲んでなにもかもが隠滅だ。気に入った芸妓に寸前で逃げられた無様な男でいいんじゃないか」
「いつになく消極的なことを仰る」
「十八と言っていたな。実際はもっと若いだろう」
「そのような子供を暗殺者として差し向ける組織に、世の無常を感じましたか」
「そして呪われて当然のことをした己にも、な」
どうせ死ぬなら満州人の手にかかるのが本望だ、と言っていた牧の言葉が蘇る。仙道はひとつ溜息をつくと、
絨毯の上に落とされた鈍色の武器に目を留めた。
「針――か」
「これで経絡を一突きという算段だったんでしょうね。しなやかだが場所を選べば十分に殺傷能力がある」
中国四千年の殺人術は奥が深いと苦笑を漏らした牧は、ほんの刹那、視線を遠くに飛ばすような動きを
見せた。如何されました、と仙道が見咎めるが、彼は唐突に調子を変えて上背のある部下に哂いかけた。
「おまえ、手加減しただろう」
「えっ?」
「こんな距離で、おまえが敵の眉間を撃ち抜かなかったところなんか初めて見たからな」
中佐も、と仙道は反撃を忘れなかった。
「あれだけの接近戦で、相手の細首を捻じ切らなかったなんて不思議だな、と」
「女子供には紳士として接し続けたい」
「ただの面食いでしょうに」
「それだけじゃないぞ。自ら媚かざるが故に美し――だ。古の詩人たちの言い回しがしっくり当てはまる者が
他にも居るとはな。それもここに足を踏み入れるまでは思いもよらなかった境地だ。いやはや、
中国四千年は奥が深い」
「こんな状況でそれを口に出来る中佐も、同様に奥が深いですよ」
牧と仙道はどちらからともなく吹き出して、「仕方ないから飲みなおすか」と、そのまま階下へと降りて行った。
銃声が鳴り、そのあと『大東飯店』の二階の窓が壊され、さらにそこから飛び出した男が、一度張り出しテント
の上でバウンドしたあと、地面に叩きつけられた音を聞いて道ゆく者が一瞬足を止めた。
真夜中だろうが白昼だろうが、目の前でひとが倒れてゆくさまを見慣れて呑みこんでいるような街だ。
諍いなら必ず憲兵が飛び出してくる。好んで付き合いたい人種ではない。だれもが係わり合いになるのを畏れ、
一瞬止まった情景は先ほどとなにも変わりがないかのように動き出した。
その方が願ったりだ。
だれの助けもいらない。欲しいとも思わない。てめえで蒔いた種はてめえで刈り取る。いままでも、そして
これからもそうやって生きてゆくしかなかった。
彼は太ももに深く刺さったガラスの欠片だけを一気に引き抜き、足に絡まる旗袍の長い裾を膝辺りで
切った。それを止血布として、腕と太ももの傷を覆う。
多分この他にも落下したときに受けたガラスの破片が刺さったままだ。
全身が焼けるように熱い。どこが痛むのかさえも分からないけれど立ち止まって確かめる余裕はない。
彼は身を翻すように路地に逃げ込んだ。
幾筋かを曲がるとそこはもう表通りの喧騒から隔離されたような入り組みと静寂を見せる。
日本人相手の商売で成り立つ表通りとは違い、ひなびていながらも店屋が立ち並ぶ通りもあった。
こんな夜更け、人影はまばらだったが、それでも不穏な動きを見せる者に対し常人離れした嗅覚を見せ、
どこからともなく現れるのが憲兵隊だ。この姿を見咎められては言い訳も出来ない。
挙動不審でしょっ引かれでもしたら最期だ。身に覚えがなくても不審だと見極めたのなら適当に罪状を
でっち上げて躊躇なく銃を向ける鬼たちだ。
まだ捕まる訳にはいかない。
まだ約束を果たしていない。
まだ死ぬ訳にはいかなかった。
早くここから抜け出さなければと、壁を伝って先を急いでいた彼の目の前で唐突に呑み屋の扉が開いた。
真っ暗闇に少しだけ灯りが漏れる。のん気なもんだ。酔っ払いたちのご帰還なのだろう。視線を合わせない
ように下を向いた彼の腕を取る者があった。
「流川――おまえこんなとこでなにやってんだ」
continue
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