月落ち
て
〜いち
月が紅い。しかも朧に滲んでいる。
まるで闇に濡り、同化してしまいそうな程の覚束なさが五感にさんざめく。
車窓から横面を弄ってゆく風が、この時期にしてはやけに生ぬるく感じた。
1932年、春。奉天柳町。
二人の男が二十九年式フォードから降り立った。
言葉に出来ないような皮膚感覚が先立ち、先に車から降りた男は辺りを伺った。一歩踏み出すごとに己のたてる軍靴の音にも
気を張り詰め、だれかが燻らせた煙草の銘柄にまで
意識を集中させる。知らずストックホルスターのモーゼルミリタリー大型拳銃を取り出し、撃鉄に指をかけていた。
だが、辺りには女たちの嬌声と野犬の嘶きとが奇妙な調和を見せているだけだ。点在する色町の賑やかしい
淫靡な光。煙草に混じり、どこから紛れるのか微かに甘ったるい阿片の香り。野鶏(娼婦)が露骨に放つ秋波が
肌に絡まり胸糞悪くなる。
一般人の姿は既になく、真っ当な職についている現地の人間など皆無だった。
関東軍が作戦本部を置くこの城市は、日が落ちると様々な色彩に彩られた魔窟へと変貌する。ひとの中に存在する欲を呑みこんで
あられもない象を吐き出し、それをまた咀嚼して夜の奉天は放熱し続ける。
幇間も客引きもだれもかれもが、その熱に煽られた刺客に見えた。
「そんなに気を張り詰めるな。こちらが緊張する」
男が起こした撃鉄の音を聞きとがめたのか、後から降り立った軍人が顎を上げて揶揄ってきた。
現地篤志家の折角の接待だ。肩肘張らずにスマートに行こうではないかと、余裕の笑顔を見せる。
「おまえの軍人としての危機感と独特のカンを疑っている訳ではないがな」
「ナイトクラブへ道行に無粋な真似はするな、ですか?」
「そう。楽しむものも楽しめまい」
男はモーゼルを手にしたままニコリと破顔して見せた。たちまち子供っぽいとさえ称される
なんの衒いのない笑顔に惹きつけられる。意識している訳ではあるまいが、この笑顔は曲者だ。
女のみならず、軍のお偉い方もコロリと騙されてしまう。
しかしその一筋縄でいかない部分を買って、懐刀として寵愛しているもの事実だと、関東軍参謀、牧紳一中佐は、
男を顎でしゃくった。
「そんなムシも殺さぬ顔をしてあちこちの女を口説くものだから、いつまでたっても独り身なんだ。
奉天じゅうのクラブや娼館から苦情が出ぬうちに少しは慎め。おまえの醜聞を収束させるために俺がいるんじゃないんだぞ、
仙道」
仙道と呼ばれた男は頭をかきながら尚もくしゃりと笑顔を綻ばせた。
「酷いな。中佐のお手を煩わせたことなど一度でもありましたか?」
「そうだったな。そんなヘボは踏まないか、おまえなら」
「私としましては、その認識を改めて頂きたいのですが」
「上司である俺よりも、褥に引きずり込んだ女の数が多いとは何事か」
「見てきたようなことを仰いますね」
「俺が放った間諜の情報は信用に値する」
「関東軍参謀はいったいいつから出歯亀になったんですか。まったく」
そんなことに彼らの時間を割かないでやってくださいと、軽く礼を送ると、
「気が滅入る情報ばかり、聞きたくないからに決まっているだろう。俺の苦労を察しろ」
と、仙道を置いてゆく形で牧は歩調を上げた。敵わないな、と一度頭をかき、彼はその後を追った。
詰め将棋や碁を打つような感覚なのだろうかと、常々仙道は思っていた。
牧に出会い、初めて満州の茫漠とした曠野に足を踏み入れ、地平線を埋め尽くして風になびく高粱畑に目を
奪われ、己の矮小さを再認識させられたその刹那、ここからソビエトに繋がっているのだと、背後の牧
は呟いた。
前年九月。奉天北部の柳条湖において南満州鉄道の線路が爆破される。世にいう満州事変の勃発だった。
その当時の関東軍は一万。一方、対する中国軍は二十五万だとも四十万だったとも言われているが、その圧倒的不利な状況で、たった五カ月で
満州全土を掌握し、翌三月には『満州国』を建国するという手腕により、牧には「戦争の天才」という
名称がついて回ることになる。
日本にとってこの満州という広大で過酷な土地は、対ソ戦争に立ち向かうための前線基地として、必要
不可欠なのだと言う牧の声をどこか遠くで聞いていた。そのために起こり得る日本の孤立と国際連盟
脱退など危惧していないという持論にはついてゆけないと感じたが、切っ先の鋭いイデオロギーに抉られて、
その信念がどこへ行こうとしているのかを見極めたいとさえ思った。
それほど明確なビジョンを持った軍人に初めて出あったからかも知れない。
その牧に見出され、引き上げられ、懐刀と称された仙道は二十二才。士官学校を卒業し尉官を賜ったが、
その後の昇進はまだない。
薩長が幅を利かす陸軍にあって、会津出身の仙道はどれほど傑出していようが出る釘なのだそうだ。
同じ東北でも仙台藩出身の俺とは雲泥の差があると笑ったのは当の牧だった。
実際牧は三十を前にして佐官を賜り、満州の総てを委ねられ、そして前年の功績から大佐昇進の打診は受けている。
あの事変への功績を思えば、二階級特進の異例措置があってもよさそうなものだと言えば、「俺を殺すな」
と彼は笑った。
『五族協和』という理想への飽くなき追求。
用兵家としての類稀なる資質と推進力。
そしてひとの心を掴んで離さない懐の深さ。
盗めるものなら盗みたい。
だから仙道は腰ぎんちゃくなどと渾名されても常に彼の傍にいた。
考えることに飽いていたのかも知れない。だから少なくともこの上司の懐にいれば、軍閥同士の小競り合いに
巻き込まれなくて済むし、そんなものを粉砕する推進力が彼にはあった。仙道にとって打算がない訳でもない。
今夜も奉天の財閥の接待への同行兼護衛だ。その後には間違いなく敵娼の斡旋も待っている。
平穏とは言い難い夜の奉天でも、据え膳食うような腰抜けではない。明け方、牧が女の褥から這い出すまで、
扉一枚隔てた隣室で夜を明かす任務だってある。それを別段屈辱だとは思わない。華やかな場所と旨い酒が呑めるの
ならと、割り切って楽しもうとする柔軟さも持ち合わせていた。
「それよりも中佐。ご存知ですか? 今夜接待を受けている『大東飯店』のショウ。巷で評判の
美女が出演しているらしいです」
「ほお、女の動向となると、ショウガールの演目から艶福家のご令嬢のお相手に至るまで、仙道少尉に敵う者はいないな」
「茶化さないでください。なんでも『歌女紅牡丹』に主演した胡蝶に比肩するとかしないとか。鄙には稀な美人ってほんとに存在
するもんなんですね」
「おまえ、いつ上海であのトーキーを見てきたんだ?」
「そんな暇がどこにあるんですか。スチールの情報だけです」
「おまえのことだ。俺の目を掠めて奉天と上海の往復など容易いだろう」
「実際それくらいの激務はこなしてますね。中佐、ひと使い荒いから」
仙道が大仰に腰を屈めたとき、今夜のスポンサーが到着した。
流石に奉天いちの規模と高級さを誇るナイトクラブ『大東飯店』。一歩中に足を踏み入れた瞬間から世俗
を忘れさせる華やかな彩りに圧倒される。天井の高いホールには無数のテーブルと椅子が並び、賓客を持て
なすボックス席の周りにはふかふかの絨毯が敷かれていた。
一般客席の中央よりぐるりと半円形に形どられたダンスフロアには、既に着飾った紳士淑女たちが緩やかな
ステップで身体を寄せ合っている。
これがつい半年前まで戦禍に塗れていた城市の色町とはだれも想像がつかないだろう。関東軍の復興の賜物だと
言う者もいる。だが、上辺だけを装った色町を一歩外れると、畑を焼かれ、働き手を失った農民たちが塗炭の苦しみに
喘ぎ、子を殺し娘を売って生をつないでいる。
その現実に見て見ぬフリをしている関東軍の象徴がこのクラブなのだろう。
仙道はビールグラスを傾けて、一夜の狂乱に踊りふける人々を眺めていた。牧は隣に座した篤志家と密談中だ。
商売の目こぼしなのか、世情を論じているのかは興味はなかった。
ハルピンビールも相変わらず口に合わない。けれど日本が恋しい訳でもない。出自という枷が横行する
閉塞し切った国だ。空気が乾いているだけでもこの国の方が開放感を味わえる。
特別なにから解放されたがっているのかは自分でも分からないが、と仙道はグラスを傾けた。
急に場内の灯りが落ちた。進行役の司会の声も耳に入らなかったらしい。中央のステージにスポットライトが
集中し、バンドの奏でる音楽の曲調が変わった。
噂のプリマの登場だな、と牧から耳打ちされた。
真っ暗なホールの一点に集められたスポットライトの影から、旗袍のスリットから覗いた足先だけがお目見えした。
観客席からはほぅと感嘆の声が上がる。
ライトは腰のスリットから身体のラインをなぞるように上り、束の間全身を捉えたかと思うとまた暗闇を演出する。
次に柔らかなライトが照らされたときには、たくさんのコールドダンサーを従えた主役の登場だった。
ゆっくりと胸の前で組んでいた両手を広げたその動作だけで、束の間観客たちは拍手をするのも忘れて魅入られた。
射干玉の長い黒髪を頭部の高い位置で結い、一歩足を踏み出すだけでそれが揺らめく動きは淫靡さを誘う。
透けるような肌の白さはライトを浴びていることを差し引いても窺い知れた。切れ上がった意思の強そうな漆黒
の瞳は総てを容認しているようにも拒絶しているようにも見える。首筋から胸にかけてのラインがやや節ばっているものの、
四肢の先にまで神経を配った動きは、その見事なプロポーションを際限なく際立たせていた。
仕事の話しとなるとどんな美麗な芸妓が侍っていても見向きもしない牧が、思わず膝を乗り出している。
「ほう。これは、また――」
牧が上げた感嘆の声につられ、思わず吐き出した吐息で、仙道はいままで息を詰めていたのだと気づいた。
「噂以上ですな」
「美しいでしょう。ここに入ってまだ日は浅いのですが、支配人もぞっこんだったそうですよ。踊りも大して
上手い訳でもないんですが、あの存在感がね。他のダンサーのだれも真似が出来ない」
篤志家はそう説明した。
「閣下さえ宜しければ、今宵、と支配人も申しております。お話相手にどうです?」
そう持ちかけられて牧は隣の仙道に闊達に話を振ってきた。
「どうだ、仙道。参ったか。数よりも質で俺の勝ちだな。悔しければおまえもさっさと出世しろ。だがあの
芸妓はおまえにはやらん」
その子供っぽい言い草に仙道は苦笑するしかない。
「参りました。参りましたから、その伸びた鼻の下をなんとかなさってください。西施に擦り寄られた呉王夫差
でもあるまいし。関東軍の高級参謀らしく颯爽となさってもらわなければ困ります」
「何れ西施かカキツバタ。あるいはホウジか妲巳かと言ったところだな」
「どれも掛け値なしの傾国ですよ。身を滅ぼしたくなければ謹んでください」
「バカヤロ。これが平静でいられるか。あすの朝、首を洗って待っていろ。とくとくと今宵の首尾を聞かせて
やる」
「謹んで拝聴仕ります」
「少尉も遠慮なさらずに敵娼をお決め下さい。一夜限りの夢をご覧になるが宜しいでしょう」
重そうな腹を揺すって篤志家は勧めてきた。
「いや、私は――」
「これへのお気遣いは無用です。放っておいても女を寄せ付ける、歩く媚薬のような男ですからな」
「質より、量ですけどね」
「また、それも羨ましい話しですな」
篤志家がビールグラスを目の高さに掲げ、二人の関東軍将校に礼を送ったそのとき、辺りがざわめき出した。
チラチラと視線を送っていたが、あっという間にショウは終わっていたらしい。予めの取り決めが
あったのだろう。噂の美妓はステージからそのままこちらのボックス席に近づいてきた。
髪に刺した歩揺が一歩進むごとになにかを誘うかのように揺れる。しかし足の運びはプロのダンサーとは
思えないほどぎこちない。慣れていないからなのかと、仙道はその動きを目で追っていた。
改めて間近で見ると驚くほどに背が高い。スラリと伸びた四肢も女のものというよりも、少年に近い節の高さ
があった。
その芸妓は圧倒されている大人たちを尻目に、勧められてもいないのに、空いていた牧の隣のシートに当然の
ようにストンと腰掛けた。その放埓な仕草に二人の日本人は苦笑を漏らすが、躾がなっておりませんで、と篤志家が我がことのよう
に牧に謝りを入れた。
「いや、構わぬ。おまえ、名はなんという?」
「楓」
「楓? 日本人?」
仙道の問いかけにカエデと名乗った芸妓は小さく横を向いた。冗談じゃないといった意思の表れだ。支配者である
彼らに対して、僅かばかりの抵抗だったのだろう。
薄っすらと施されている化粧のせいで分からなかったが、その横顔からは年端のゆかない子供なのだと容易に知れた。
顎から胸元、そして背中の腰の辺りにまで入ったV字の切り込みから覗く玉肌には
まさにシミひとつなく、漆黒の闇を思わせる両の瞳がさらに肌の白さを引き立てている。
巧緻な職人の手によるつくり物のようだ。
しかし――。
仙道の中で警鐘が鳴る。
先ほど篤志家はこの芸妓がクラブに入って日が浅いと言っていた。牧の命を狙う抗日組織は、それこそ雨後の
筍のように根絶やされることはないのだ。
それが喩え女であろうが子供であろうが。
殺気は感じられない。装っているにしては上出来だ。意に添わぬ相手へのお役目だと諦観しているようにも
見える。
「閣下」
お気をつけ下さいと、暗に仄めかすが、綺麗なものに目がない牧のこと。ちゃっかり芸妓の横髪を掻き分けて
耳から顎の線を顕わにさせていた。
やると思った。
牧はこれを気に入った相手にしかしない。このラインを見極めない限り、相手の美貌を認めないというのが確か
持論だったか。
よくやるよ、と仙道は苦笑した。
地位もある。頭も切れる。そして男っぷりも申し分ない。仙道ばかり矢面に立たせているが、夜の奉天で十二分に
数をこなしているのは牧の方ではないかと常々思っている。
「年は幾つだ?」
「じゅう、はち」
「成る程、若い。肌が手に吸い付くようだ」
耳朶の辺りで流離っていた牧の手が芸妓の頬を捉える。その途端、ピキっと走った緊張にも似た殺気を仙道は
見逃さなかった。もう一度、牧の名を呼ぶが、彼は片手でそれを制した。確かに牧は隙を見せていない。
少し安堵すると、仙道は立ち上がり回り込んで芸妓の傍らに膝をついた。
「大変不躾ながら、閣下の思い人にどうやら私も懸想してしまったようです。私如きでは手も出せぬ高嶺の華。
今宵の思い出に、この見事な歩揺、頂くわけには参りませんか?」
答えが返るより先に仙道は芸妓の髪からそれを櫛ごと抜いた。無表情だったその瞳が僅かばかりに見開かれる。
仙道の瞳と芸妓のそれが絡み合うように拮抗した。抑えようとしても叶わない激情を身の内に飼っている。
やはり若いなと仙道は目をそばめた。
そして驚いた顔も美しいと花弁をあしらったそれに口付けを落とした。
芸妓が横目でそれを捉える。仙道はニッコリ笑って立ち上がった。
「気障な野郎だ」
牧は一笑し芸妓を促してその腰に手を回した。
芸妓の堅い身体に緊張が走り、それを認めた牧が底の知れない表情を見せる。仙道は離れてゆく二人の背をじっと
見つめていた。
continue
満州事変から日中戦争へと突入するその前夜。仇同士の関係が書きたかっただけなのに、ついつい自分の趣味
へと突っ走ってしまいました。(苦笑) 登場予定は湘北、海南大附属、陵南、翔陽のちょっとづつ。(エエ
とこどり) 牧さんにはモデルがいます。年齢以外経歴そのまんまという。 モロ影響を受けた小説→
樋口明雄氏の「狼叫」→満州馬賊になった気になります。もう、血沸き肉踊りますよ。
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