天才――天災は忘れた頃にやって来る。
 昔のひとはうまく言ったもんだと、元日早々から思い知らされるとは思いもよらない仙道だった。
 あり難くもめでたい初日の出を拝まずに寝くたれていた陵南高校男バス主将を叩き起こしたのは、挨拶もなにもかも すっ飛ばした神奈川ナンバーワンルーキーからの電話だった。いるんなら来い。マンツーしよーぜの声で年明けを迎えら れるとは、喜ばしくもあり、有無を言わせない強い口調に難儀でもあり。
 それはさすがの湘北も陵南も正月休みに入った三十日から連日のお誘いで、不精が服着てバスケしている ――縦のものも横にしない、落としたものも気づかない、愛車を車にぶつけても平気でこぎ続けられる スーパールーキーも、ひとり練はもの足りないらしい。
 彼にとって年末年始はなんの障害でもない。翌日の予定なんか約束しない素っ気いきのうの帰り際だったし、きょうくらいは 家族との団欒やお出かけを優先させられるだろうと思っていたから、嬉しいやら慌しいやら。
 電話をかけた状態で流川はすでに準備万端、臨戦態勢のはずだ。場所は恐らくいつもの陵南エリアのストバスコートなんだろう。 肝心なことはなにも語らないで――時間とか場所とか――それでも周囲が気を回して手回しをして、いままで平穏に ことなきを得たと見る。その周囲の苦労人のひとりにすっかり組み込まれてしまった自分を呪いながら、仙道は通話を切った。
 流川は間違いなく三十分以内にやって来る。十分で朝飯食って、十分で身支度して、五分でかけつけて。
 今年もアイツに振り回される一年が始まります、と仙道は近所の神社に向けて柏手を打った。



 連絡を受けてから二十八分。最短記録を更新したつもりでも、流川は「遅せぇ」とひとことにべもない。ちったぁ、 進歩のあとを汲み取ってくれよと言うついでに、「おめでとう」とかければ、少し間を空けて「――とう」と小さな はにかんだような声が返った。
 おや、と多少は訝しんだものの、あとはもうコートに入れば条件反射で、得物を前にした猛獣か毛糸を取り返そうと じゃれ合う猫のように、空腹を感じるまで駆け回る。
 左右に小さくフェイクを入れて仙道のディフェンスをかいくぐった流川のジャンプショット。また腹筋が強くなり やがったのかと思えるほどその滞空時間が伸びている。以前ならひょいと手を伸ばせばタッチ出来たタイミングが、 まだ流川の手の中にある。なにが悔しいと言って、後から跳んで先に落下するこのスレ違いざまほどムカツクことはない。 落ちる仙道の身体をあざ笑うかのように、空中でもう一度流川の背がしなった。
 背後でシュっとリングをくぐる音。
――こればっかりは最初から敵わなかったな。
 仙道はテンテンと転がるボールを手の中に収めて腰を落とした。
 一度跳んで頂点を迎えても、なお上体を引き上げられる強靭な腹筋と背筋。それを成功させてなにほどのことかと ディフェンスに戻れる切り替えの早さ。勝手に身体が反応しただけで、流川にとって大した労力を費やしてはいないのだ。
 去年もそして今年もなにも変わらない日常のヒトコマ。流川と対峙して勝って負けてせめぎ合って、なにかの 鬱憤を晴らしてゆく。たぶんテクニックを上げようとか試合に生かそうとか、そんな高尚なものは互いの中には 存在しないのではないだろうか。
 来年のことは分からない。ここでボールの取り合いっ子に興じていられるのどうかも。 進学問題はいずれ圧し掛かってくるけれど、いまはこの目の前の敵を蹴散らしてやりたい。それが至福に思えるほどの 日常だった。
 ボールデットになったタイミングで、「ハラ減って死にそー」と訴えると、流川は彼にしては珍しく、モゾと 小さく動いて言い出しにくそうに呟いた。
「昼飯あるからウチに来いって、お袋が」
「元日からお伺いしていいのかよ」
「いいんだと。連れて来なけりゃ、二度と出かけさせねーとかウェア洗濯しねーとかバッシュ捨ててやるとか脅し やがった、あんにゃろ」
「それはそれは」
 一、二度出会っただけの流川の母の印象は、こんな大きな息子がいるとは感じさせないたおやかな美人だったが、 さすがに年季が入っている。無愛想な息子に対抗して余りある攻撃的なひとでもあったのだ。
「おまえさえよければお言葉に甘えちゃおうかな」
 と、向った先、仙道を出迎えたのは玄関前に鎮座まします立派な松の飾りと、目の保養になるような流川母の着物 姿と、テーブルに並べられた豪勢なおせち料理。そしてその横に違和感を持って存在する「かえでちゃんお誕生日 おめでとう」の誕生日ケーキだった。
 仙道はたっぷり一分は固まった。
 丸いホールのケーキの上にはきっちり十六本のお約束のようなロウソク。チョコ書きされた文字に頬が緩みかける と後ろから壮絶な殺気が浴びせられた。「だからヤだったんだ」とかえでちゃん。仙道は親子のせめぎ合いに まぁまぁと宥めるしかない。



「流川って元日が誕生日だったんだ」
「大晦日よりはマシかもしれないけど、微妙にひと騒がせでしょ。元日生まれ。お誕生日のケーキをそろえるだけで大変」
 頂きますと三人で手を合わせ、仙道だけが流川母の相手をしながら二の重とお雑煮を平らげた。そのあとほとんど 間を置かずに切り分けられたケーキを前に、それでも流川母は嬉しそうだ。
 食いたいなんかひとことも言ってねーとソファから声がかかった。あんたが自分のことをキチンと出来るような 大人になるまでは、お誕生日のケーキをそろえるのが親の努めよと、いちの反論に五は返る。大仰に溜息をつき、 腹が満たされた美貌の息子は既にお昼寝体勢に 入りつつあった。ちょっと待てよと言いたい。おまえが寝ちまったら、お母さんの相手はオレがするのかと、 揺り起こすことも出来ない。
「そりゃめでたいって言うか、なにもかも一緒くたって言うか」
「もう、ね。元日に出産なんて超過料金もいいとこだし、病院じゃお雑煮もおせちにもありつけないしね。侘しい 元日だったわ」
「はぁ」
 それはご愁傷さまと言うしかない。
 あれ、でも、と仙道は思い至った。さっき公園で出会いがしら告げた、「おめでとう」は「誕生日おめでとう」に 繋がったのかなと。流川が言った「――とう」は「おめでとう」ではなくて「ありがとう」だったのかも しれない。だからあんな恥かしそうな顔をしてたんだ、珍しく。
 そう思ってソファを振り返ると目があった男の表情には「あんだよ!」と書いてある。十六歳になったばかりなんだ と知覚した少年が妙に子供っぽかった。
「ごめんね。こんな日にまでバカ息子の相手させちゃって。仙道くんは実家には帰らなくていいの?」
「実家? ええ帰りますよ。けど三が日はお客が多いから避けた方がいいかなって思って、いつも外してるんですよ」
「親としてはそんな気遣いして欲しくないけどね。けど、急がないならきょうは泊まってらっしゃいよ。いつも 楓がお世話かけてるし、晩ご飯食べに呼んでって言ってもまったく聞いちゃいないし。日頃のお返しってほどでも ないんだけどね。折角おせちつくったって楓はこれでしょ。出張気味の主人も帰って来たと思ったらどこかへ出掛け ちゃったし。味気ない顔して箸だけ動かす石像みたいな息子とじゃ、 張り合いがなくって。あんまり喜ばれないから、これでも段々と品数減らしていってるんだけどね」
「ああ、でもオレ、こういう季節感あふれるもの大好き派ですよ。なくして欲しくないな。豆まきとかも、 ひとり暮らしでもやっちゃうんですよ」
「ゆず湯とかも?」
「買いましたよ。気持いいし。さすがにつくらないけど、カボチャとかタコとかイワシとか、煮たの、買ってきますね」
 きゃ〜嬉しいわと年甲斐もなく奇声を発した母に一瞥をくれてやっても、敵はさらに顎を上げやたらとエラソウだ。 いくら女性にしては上背のある母でも、190近い長身の息子を見下ろすことは出来ない。だから行儀悪くソファに寝転 んでいるいましかチャンスはないといった感じだった。
「おばさんがつくったげる。冬至はもう終わっちゃったけど、煮物をタッパに詰めて楓に持たせるわ。食べてみて。 おせちもよかったら持って帰ってくれない」
「いいんですか?」
「ううん。残り物を押し付けるようで悪いんだけど、仙道くんが実家に帰るまでに食べられるだけでいいから」
 押し付けがましいことすんなと、寝ぼけながらも流川は突っ込みを忘れない。あんたがつくったわけでも、あんた が貰うわけでもないでしょ、と母の返しも尤もだった。
「あれだからね。ほんとにバスケバカだわ、愛想なしだわ、可愛げなしのおまけに我侭ときてるでしょ。バレンタインの チョコの数を見ればモテてるんだなってわかるけど、言い寄られる数と同じ数だけフラれるタイプよね、きっと」
「そうでもないんじゃないかな〜」
「男はマメで優しくてなんぼよ。その点仙道くんは親御さんにしてみれば心配になるくらいの天性のフェミニスト だものね」
「流川も十分モテてますよ。心配になるくらい」
「あら、いま付き合ってる子、いるの? この子」
「いねーよ」
 ソファからの尖がった声は、母親と同時に仙道にも向けられていた。けれどこの会話、なんか楽しいかもしれないと、 手探りの展開に目を細めた仙道を止めることはだれにも出来ない。
「いるんでしょ、ちょっと紹介しなさいよ」
「るせーな。いねーっつったらいねー」
「だれ? 湘北の子? 同い年? 年上?」
「いっこ、上、ですよ」
「仙道!」
「へー、そんな無愛想吊り下げといて、結構やるじゃない。年上の方がいいかもね。あんたの相手しよーと思ったら 相当大人じゃないと無理だわよ」
「オレもそう思います」
「いー加減にしろ!」
「あんたって相手のどんなとこを好きになるの? 顔? 気立て? 頭がいいとかあり得ないわね」
「仙道、泊まんなら、もう一回マンツー出来る。公園行くぞ」
「言いなさいよ。減るもんじゃなし」
「いや〜、お母さん。実は、相手、オレなんです」
 瞬間、リビングの中が水を打ったように静まり返った。三人の視線が歪な三角形を描いてどこに接点を見出そうかと 流離っている。その、いまにも噴火の兆しを見せるマグマを含んだ地表のような、言いようのない沈黙を破ったのは テーブルをバンバン叩きだした流川母の大爆笑の声だった。
「やだ〜仙道くんたら! あたし一瞬、楓が仙道くんを襲ってるところ想像しちゃった!」
 ものスゴイ爆弾発言である。だが、瞬時に息子が組み敷かれている可能性を打破した業は、さずが母性と言えるだろう。 無意識の防御だ。そうなんです。流川に無理やり押し倒されちゃって、と続けた仙道の後頭部にガコンと空になった お重がヒットした。



「いててて。タンコブ出来てるよ。おまえお重の角っこ狙って投げただろう」
 あのあと腹筋だけで飛び起きた流川に腕を引っ張られ連れ出された藤沢新町近くの公園で、上半身のストレッチ をしながら仙道がぼやけば、流川は地面を蹴り上げて砂を撒き散らし無言の答えを返した。それを避けながら仙道の 笑みも深まる。
「けど、すっかりお母さん公認の仲だよ、オレたち。こりゃ、同居話も持っていき易いかな。傷もんにされちゃい ましたから、楓くんに責任を取ってもらいますって」
「つまんねーこと言ってんじゃねー」
 つまんなくねーよ、とコート脇のベンチに上体を屈め、脱いだウォームアップジャージをその背もたれに かけたとき、「流川じゃねーか」と背後から軽快な声がかかった。流川が視線を絞って声の主を見定める。仙道は殊更 ゆっくりと上体を起こした。
「おまえ、元日早々からこんなとこで練習してんのかよ。聞きしに勝る練習の鬼だな」
 モコモコのダウンジャケットにニットのキャップといった出で立ちの男は、スタスタとコートを横切って近づいて くる。仙道は流川に視線を移すが、だれだこいつ、とその横顔は語っていた。
「久し振りだな。夏以来か。湘北はウインター杯は予選敗退だって? ウチはオレがいなくてもきっちり出場してかっちり 優勝させてもらったぜ。夏にあんな活躍して冬は予選どまりたー、情けねー。ウチに勝ったのはマグレだって 証明したようなもんだな」
 あ、とふたり同時に気がついた。コイツ、
「山王の――」
 沢北栄治。インハイ二回戦負けとはいえ、高校生トッププレイヤーであることに間違いのない男。こいつと流川との 対決は、本人からではなく陵南の情報網経由で聞いていた。
「ああ。っていま気づいたのかよ?」
「ユニフォームじゃないから」
 バッシュ履いてあんな格好してコートにいないと見分けがつかねーのか、とニットの帽子を脱ぎ捨てた男の頭は、 夏の丸刈りから少し伸びた中途半端な長さの髪がツンツンと天を突いていた。
「帽子取ったら、よけーに分かんね」
 流川はまったく容赦がないけれど冷静に根本問題に立ち戻っていた。
「あんた、なんでこんなとこにいんだ」
「お袋の実家がこっちなんだ。つまりじーちゃんとこ。せっかく日本に帰って来たから年玉貰いに来たってわけ」
「ふうん」
「あんときさ、おまえもアメリカっつったじゃん。だから親切に向こうの内情とかエアメールしてやったのに、 全然返事寄こさねーしよ。オレ、いまオークヒル・アカデミーつうプレップスクール に通いながらNCAA(全米大学体育協会)加盟大学目指してんだ。第一志望は志も高くACC(Atlantic Coast Conference)のデューク大かな。ま、 バスケだけじゃなくてSAT(大学進学適性試験)のスコアに四苦八苦してんだけどよ。あ〜、NCAAぶっ飛ばして NBAにアーリーエントリーされてー」
「手紙?」
 NCAAに所属しながら大学卒業を待たずに、また、いきなり高校生がNBAドラフトに名乗りを上げることをアーリー エントリーと呼ぶが、沢北の自慢なのか現状報告なのかの説明になんの反応も返さなかった男はなぜかその部分に 拘ったようだ。
「そ。気になるだろ」
「どこに?」
「住所なんか分かんなかったから、『神奈川県立湘北高校バスケ部流川楓さま』で」
「あ、じゃ部室のロッカーん中だ」
「ロッカーだぁ!」
「学校当てに来んのは、みんなあん中突っ込んであるから」
 てめー、オレの好意をと噴火の兆しを見せた男に仙道はたまらず苦笑した。沢北は、ほんとうにいま気づいたと いったわざとらしさで、斜めを向いていた男の表情を捉えてニヤと笑った。



「仙道、だよな? 東京のK中の」
「ああ。沢北じゃなくって北沢じゃなくって、沢北だっけ。三年ぶりくらいか」
「てめー相変わらずいい根性してんな。おまえこそなんでこんなとこにいんだよ」
「オレは高校、鎌倉だから」
 ヒタヒタとなにかが押し迫ってくる予感を肌で感じ、仙道の受け答えは普段から考えられないくらいに素っ気ない。 沢北の方が再会を心底楽しんでいるようでもあった。
「オレたち中三の全中で対戦したんだ」
 それは流川に向けての説明。それはもう話してあるんだよ、と口をつきそうになった。
 流川はちゃんと知っている。半年も前に。沢北に会う前に。オレが教えた。
「あんときは圧倒的にオレの勝ちだったな。おまえのテクニックには瞠目もんだったけどよ」
「うんうん。確かに負けた」
「……すげぇむかつく言い方」
「総合的には劣ってたな」
「個人レベルでもチーム力も、だ!」
「コイツ、そんとき本気だしたのか?」
「えっ?」
 それまであまり関心もなさそうに佇んでいた流川が突然口を挟んだ。愛用のリュックからボールを取り出しながら、 それでも見据える視線には好戦的な色がある。
「オレはまだコイツの本気が分かんねー。ドライブの早さはオレの方が上だ。けど、勝ったって思ったことは 一回もない。あんたはオレと同じようにガンガン切り込んでくタイプだろ。オレが勝ってねーもんがあんたに 勝てるわけがねー」
「ちょっと待て、流川。そりゃ、おまえとオレが同格でその上に仙道がいるって言いたいのか」
「タイプの話してるだけだ」
 暇なら付き合え、と流川は手にしていたボールを沢北へ放り投げた。ただくっ喋るつもりなら、さっさと帰れとも。
 それを受けてたたない男でもない。
「いいぜ。文字どおりのアメリカ仕込みだ。たった三カ月だけどよ。その差を思い知れ」
 流川は背を向ける。そのあとをジャケットを脱ぎ捨てドリブルしながらの沢北が従った。仙道はそのままサイドライン 際のベンチに腰掛けた。



 夏のインハイ終了後、アメリカでの新学期が始まる前に渡米するつもりだった流川が未だに日本でプレイしている。
 そこに安西先生のひとことがあったとか、それが仙道に起因するだとかは、彼の言葉の端々から感じ取っていた。 説得されたからではなく、彼自身が納得したうえでの残留だ。自分で選び取った行動を後悔するような男ではない。 本気で湘北の日本一を手土産に羽ばたくつもりでいたのだろう。
 けれど、流川が課したものをすっぱりと斬り捨てて自らの野望を成し遂げようとしている男が目の前にいる。 その差を知らしめようとドリブルを繰り返す。流川を抜く。ただのハンドリングにもキレを見せる。焚きつけて 覆いかぶされ、沢北の熱と冷静さを知り、ここが地元の公園だということを忘れ去ったかのような流川がいた。
 夏のインハイ本選の前、陵南エリアにまで足を運んできた流川に、ゲーム全般をとおしての配分を覚えろと 諭すつもりで、このままの一本調子では負ける気がしないと言ったのは仙道自身だ。そのとき、まさか沢北と当たるとは 考えもしなかったが、その当時、場面場面での勝ち負けに拘る流川のバスケは御し易かったのだ。
 仲間を信じろとか、パス回しを覚えろとか、そんなことが言いたかったわけではない。相手を翻弄できるくらいの 狡猾さを備えれば自分の幅も広がる。ゴールしか見えない視野をほんの少し広げるだけで、流川はとんでもなくバケる に違いないと。それがいい具合に機能しての山王戦の勝利だったのだろう。
 けれど個性とは不思議なもので、未だに流川は1ON1のガチンコ勝負が大好きだ。正直仙道はそれほど好んでもいない。 五人揃えて練習試合をするならいざ知らず、パスする相手のいないテクニック勝負を――その相手が流川なものだから、 面白いと思う瞬間は確かにあるけれど、勝ったの負けたのと拘る稚さは自分にはない。
 だが、沢北は違う。
 本気でこの勝負を楽しんでいる。それを流川も分かっている。
 これは絶対嫉妬じゃない。ただの憤りだ。流川の興味が仙道を目の前にして沢北へ移ってしまったことへの。 あの男と共にあるということは、これから何度も経験しなければならない痛みだ。自分が世界一にでもならない限り、 流川と同じようなタイプにならない限り、彼の前にバスケの上手い選手を吊り下げておけば、そこに仙道は存在しなく なる。ほんの少し分かるようになった嬉々とした顔でどこまでも走り続ける。それはきっとこの先何度でもある。
 だからお母さんと、仙道は流川家の方向に定めて、面差しのよく似た着物美人に呟いた。
 モノグサだろうが不精だろうが無愛想だろうが、十六歳になったばかりの彼が発する熱に臆することなく吸い寄せ られる人間はほんとに要注意なんです。
 流川自身、見てくれとテクニックだけに群がるファンたちには目もくれない。 いくら黄色い声を張り上げて声援を送ろうが、ボールを持たない者には敵意もなければ興味もない。 だからこそ、彼が少しでも意識を傾ける相手とは、大部分をバスケに明け渡している残り少ない空き場所に潜り込める 相手とは、全身全霊をかけた恋とほとんど同義語なんだと、痛みを伴って分かるようになってきた。
 仙道でなくても、ソノ気がない者でもそれだけは分かってしまう。
 先を走っている沢北だから、喰らいついてくる流川自体に高揚感すら感じたのだろう。
 だからわざわざやって来た。少ない正月休みに代えても。
 流川の夢を体現している男。特大のバースデイケーキを手にしての帰国だ。
 流川が一番喜ぶプレゼント。
 仙道は知らず瞑目していた。



 コート上では流川のポンプフェイクを高い位置で弾いた沢北のボールが仙道の近くまで転がってきた。 重い頭をひとつ振って立ち上がり、 ボールを掴むとアイコンタクトする間も与えず高い軌道でそれを放る。流川は位置を確認しただけでセンターサークル 辺りから一気にペイントまで駆け上がった。遅れた沢北もその意図を察して戻るが、ディフェンスに入る隙もブロックに 跳ぶ暇もなく流川は空をかいていた。
 彼の周りには重力は存在しない――と称された男の面目躍如だ。
 ガゴンと激しい音を立てたアリウープ。リングを掴んだ指がフワリと離れ、風を受けた流川の体がゆっくりと地に 降り立った。
 沢北は高い口笛を吹いたあと、ふたりがかりとは卑怯だぞ、と憤る。その弁は至極尤もだが、午前と午後のダブル ヘッダーをこなした流川には、これ以上はもういいだろうという意味を込めてのパスだ。ラストを綺麗に決めて 満足だろうと。
「流川、もう上がれ。膝にガタが来てる」
「なに言ってんだ。まだ走れる」
「いいから上がれ! 顔を洗って来い!」
 キツめに言い捨ててタオルを投げつけると、流川は上気した顔に尖らせた唇を乗せ不服そうなものの、いつになく不機嫌な 仙道の様子に受け取ったタオルを首にかけ踵を返した。おまえは流川の保護者かよ、とその背を見送った沢北が 頭の後ろで指を組んで嘲るような声をかける。その軽快さを押しやるかのように仙道の声は低かった。
「沢北」
「なんだ?」
「おまえ、ほんとうに爺さん家がこっちにあるのかよ」
「なんでオレがそんなウソつく必要があるんだ?」
「なんとなく、な」
「警戒されてんな。なんでだよ、仙道」
「さあ」
 沢北は、オレにはタオル貸してくれないのかと言ったあと、唐突に口の端を上げた。不機嫌なのはおまえだけじゃないと 言わんばかりだった。
「手紙出したっつのはウソ。そんなもんアイツが読むわけないだろうし、ホントは住所も知ってんだ。バスケ専門誌 の関係者から聞いた。爺さんちも東京だ。先に湘北へ行って、んでこの辺りだよなってブラリとやって来たってわけ。 出会えたのは偶然だぜ。それで納得したか?」
「ご執心なことで」
「たりめーだろうが。いつまでも日本でプレイさせとくには勿体ない。オレたちに与えられてる時間なんか僅かなんだ。 行く気があるんならさっさと来いって思わないか」
――思う。
「とてつもなく思うよ」
「早く来いって言いたかったんだ。一刻だって無駄にすんな。早く来い。オレと一緒に来いって。それだけのもんを アイツは持ってるだろ。こんな狭い日本で勝ったの負けたのに収まるタマでもない。アメリカへ行きたいは 夢だけんじゃないんだろ」
「多分」
 ふと気づいて沢北が視線を移す。この寒いのに頭から水をかぶった流川がブルブルと雫を振り払いながら戻ってきた ところだった。仙道の表情に気づいたのか、首にかけたタオルでお座なりに髪の毛を水分をふき取る流川を見て、 沢北はヘラリと笑った。
「オレ、まだこっちにいてられる。あした、時間があるならマンツーしようぜ」
 流川の表情があるかなしかの変化を見せた。
 ああ、ともう一度仙道は目を伏せる。
「うん。あしただな。朝からだぞ」
「望むところだ」
 日が傾き三人三様の影が伸びる。どこへ向うのか分からない影が長く尾を引いていた。
 あの夏の日。
 黄金に弾ける夕闇の公園の情景をいつまで留めていられるのかと願っていた。
 確かなふたりの分岐点。
 流川を変えたもの。仙道を変えたもの。
 いつまでもと。
 しかしそれはときと共に象を変え色あせてしまうのだと、気づく仙道だった。






end






110,000hitを踏んでいただいたポコモヨさまへ捧げます。
お題は沢北に狙われる流川。(へへ)仙道と 沢北の対決というオイシイ設定をいただきました。色っぽい話を書くぞと意気込んだんですが、 なにやら不穏な空気が充満で、思わせぶりなお話になってしまいました♪
なかなか沢北まで話が進まなかったのは、あたしが流川母萌えしちゃったせい。(あはは)このお話、少し 続けたいなと思えるくらい、沢北絡みが楽しかったです。
ポコモヨさま、今回はご申告ありがとうございました。これからもどうぞ見守ってやってください♪