気づいたときはまだ浴室の中だった。先ほどとは打って変わって優しく感じるシャワーの下、仙道に後ろ抱きにかかえられる
状態で、気を飛ばしていたのは、時間にすればほんの一瞬のことだったのだろう。
汗と湯気とが躰にまとわりつき、指一本動かすことすらままならない。乱れに乱れた呼吸も戻らない。なのに背後から、
唇の端に羽根が触れるようなキスを繰り返す男の指はとどまることなく、また、流川の躰に熱を灯してゆく。
「つっ……」
「流川、流川」
「やめっ――」
「この、体力ナシ」
「うっせーっ」
「真夏の体育館でフルに走り回ることに比べりゃ、こんなもんヘでもねーだろ? いつもの根性、見せてみろ」
なんでもかんでもバスケになぞらえて、未だに流川の中から去ろうとしない男がシレっと言う。睨みつけたら軋む肉襞を
押し広げて、仙道のソレが主張し出した。
「てめーっ」
「おまえに睨まれてだけで勃っちまうなんて、どーなってんだろうね、オレ」
ほれほれ、もっと睨んでみ、と口の端を上げた男が覗き込んでくる。その反対側に首をそらし、厭ったその仕草は
続きを強請っているようにしか見えなかった。
インターハイ本選に出発するまでの、恐らくこれが最後の逢瀬。仙道の執拗さには限度がなかった。そのまま浴室で二度。
ハラ減ったの訴えも無情にも却下され、つくりかけの夕食も放ったらかしで、タイムアウトも取らせてもらえない。
這う這うの体で部屋へ引き上げた流川は、なにはともあれ、まず、冷蔵庫に頭を突っ込んだ。
買い置きの二リットルサプリを交互にラッパ飲みし、とりあえず給水ポイントだけは無事に通過したといった感じ。
火照った躰に冷えたペットボトルは抱き心地もよく、冷蔵庫前の床に座り込んでうつらうつらしかけたら、すぐさま取り
上げられてしまった。毒づく暇もなくベットに追いやられ、なおも圧し掛かかる男の性急な劣情が流川を惑乱させる。
仙道のベットの上でしどけない格好を晒すのは、けして、誘っているからではない。
動けないなんて弱み、見せられるわけもなく、なのに、いままで抱けなかった分とこれから抱けない分。仙道はそう
笑って流川の熱情を引きずり出してゆく。ヤり溜めなんてただの詭弁だ。己の体力と精力をこれみよがしにひけらかして、
完全に高みで面白がっている。けれど、こんな勝負、絶対的に不利なのだ。
簡単にそう認めるなんてシャクでしかないけれど、同等の快楽を覚えたとしても、受けるダメージなんか仙道にはない。
そう詰ると、
「そんなん、次の日の話だろ」
いまはイーブンなはずだと仙道は瞼に唇を押しつけた。
「分かってんなら、どきやがれっ!」
「そうは言ってもさぁ、流川」
ゾクリと肌が粟立つ仙道の声。懇願よりも強制に似て、なおも続けられる途切れがちな色が、流川の拒絶を簡単に
封じ込めてしまうのだ。
「躰がつれーのは、ほんと、ゴメン。けど、あした、一日、我慢してくれ。我慢しよう。も、一回しよう。今度はちゃんと
着けるから」
「たりめーだ、んの、どあほうっ」
なにがそこまで仙道を駆り立てるのか。こんな大事な時期に、あすは休みじゃないのに、無理を承知で幾度も躰を繋げ
なければ収まらない男の身勝手さと、挑まれて引き下がれない己の頑迷さと。呪いの言葉を吐き出した流川は彼の頭を
かき抱き、噛みつく勢いで口付けた。
「る、か――」
同じダメージを喰らうなら、無理強いよりも横一線。動かない躰を奮い立たせ一歩踏み出してこそ、基礎体力が
上がると身に馴染んで知っている体育会系思考の持ち主である。バスケ以外の勝負ごとなんかに優劣をつける趣味も
気概もなかったし、やたらと嬉しそうな仙道の顔が気に障るやら、その余裕を奪いたいやら。
ディフェンスからオフェンスに切り替える際の瞬発力だけは仙道に劣っていない。根性論ならもっと上をいく。けれど
哀しいかな、まだ及ばないスキルの差とペース配分の読み違えで、仕掛けたつもりがひっくり返され、浴室での回数と
同じ数だけ、先に欲望を引きずり出されたのは流川の方だった。
結局いつもどおり、相手が音を上げるのを待つ形の、限りなく負けに近い引き分けで、浴びせる罵声は掠れて迫力も
なにもあったもんじゃない。殴りかかる気力は、とうの昔にエネルギー切れだ。
仙道のベットの定位置でこれ以上ひっつく必要もないのに、手足を絡めあい互いの体臭に包まれたいまは、いったい
何時だったろう。
ほとんど気絶の様相の流川の耳に、仙道の携帯のメール着信音が届いたのはほどなくのことだった。
「お、彦一からだ」
あしたの練習休みかな〜、だったらいいな、なんて、総体を控えたチームの主将にあるまじき発言。まだ余力があるのか、
軽快な調子で上体を起こし片手でそれを繰る仙道に、背を向けて流川は丸くなった。
「なんだ、違うのか。だったらあしたでもよかったのに。彦一も相当気合が入ってるな」
鼻歌混じりの仙道の声がやけに耳障りに感じる。
「おい、流川。起きてんだろ。インハイのドローが発表されたみたいだ。ウチと湘北はブロック違いだってさ。ウチには
山王と愛知勢が入ってる。厳しいな。おまえんとこの強豪は博多と京都だって。オレたち、決勝でしか当たんねーみたい
だ。すげぇ運命だな。愛のグランドファイナルステージってヤツ」
耳を覆いたくなるほどの陽気さで、流川のむき出しの肩に左手を添えながら、男は
ポチポチと返信メールを刻んでゆく。その途中で他のだれからかメール受信。終わる気配はない。これだからツレの多い
ヤツは困る。
安眠出来ないじゃないかとばかりに肘で押して自分だけのスペースを確保した。そうはさせまいとなおも仙道は携帯
片手に擦り寄る。
はっきり言って迷惑だ。
抽選結果の報告を受けて、他のメンバーが一斉に仙道にメールし出したんだろう。恐らく、最後の夏だ、頑張ろうとか、
力を出し切ろうとか、悔いのないようにとか。そんな、わざわざ口にするほどのこともない、当たり前の事実を必死に
なって確認しあう仲間が彼にはいる。
流川の頭の上で文章をチェックした仙道の顔が綻んだのが分かった。メールしながらニヤけんな、気色わりぃー。
けれど、そこには紛れもなく、陵南高校男子バスケットボール部主将の仙道彰がいた。自チームを愛する、試合会場で
会うような仙道だ。
送信と受信がひっきりなしに続く中、先ほどの狂騒は跡形もなく霧散してしまったと感じる。そんな温度差。そして相手は
いくつもの顔を持つ男。至極真っ当な高校生。当たり前のことなんだけど、それって、なんだか、ずるい、と流川は意識
を閉じた。
そして。
某県某市で開催された高校総体。流川二度目の夏。開会式で試合会場で、湘北と陵南は何度かすれ違った。互いの宿舎
が市の両端と離れていたせいもあって、ただのニアミスも挨拶程度とエールの交換だけで終わらなかったりする。両校主将の
宮城と仙道が、本当に仲がよかったからだ。
ポジションは違っても同じ学年で互いに主将という立場が気安くさせているようだ。
何度も練習試合でしのぎを削り、何度も県予選で死闘を演じ、その力量を認め合っているライバル同士。他県強豪の
マークすべき相手や弱点、そして自チームの仕上がり具合。オフェンスパターンの齟齬など。そして話は飛んで、特待推薦
枠を持つ大学がどの選手に目をつけているかとか、はたまた、宿舎の晩飯のメニューまで、話が尽きることはないらしい。
この日も、同じ試合会場で互いに二勝目を上げて意気揚々と引き上げる通路で、きっちり一団となって、なのになぜか
一番後ろを歩く仙道が、こちらに向って歩いてくる宮城に手を上げた。
「よう。お疲れさん。いい試合だったみてーだな。残念ながら見れなかったけど」
「おまえんとこもな。余裕の百点ゲームだったらしいじゃねーか」
「対戦相手には悪いけど、神奈川の敵じゃなかったよ」
湘北が当たったとしても同じような結果だったと暗に仄めかして、仙道は視線を絞った。湘北のメンバーは先頭の
宮城とマネージャーの彩子と三年生。我ここにありの存在感を示す桜木はいないし、衝動的に探した流川の長身は、
その遥か後方、どうやら新一年生軍団に周りを取り囲まれていた。
「相変わらず、バラバラだね、湘北さんは」
試合会場で現地集合、現地解散か、とからかえば、宮城は思い切り肩をすくめた。
「花道のバカがどっか、飛び出してったから二年に探しに行かせてんだ。てめーはいいよな。試合中だけキャプテンして
りゃいいんだからよ」
「確かに。引率なんか、オレの仕事じゃない」
「オラぁ、将来、保父さんにだけは絶対になんねー」
「んな、目つきの悪い保父さんがいたら、子どもが怖がってどうしようもねーだろ」
「いまどきのガキが、んなくれーでビビるかよ」
「違いない。ま、あしたもがんばれよ」
「おー。決勝で会おうぜ」
そう言って宮城は立ち去ってゆく。オレたちも早く引き上げようと促す越野の声を遮って、仙道はノタノタと遅れている
一団がとおり過ぎるのを待った。その中心、当の流川はと言えば、もうすでに寝ぼけ眼の半眼で、ドラムバックすら後輩が
預かり、「コッチです、流川センパイ」「ここ、段差がありますから気をつけてください」、なんて、下にも置かない
お大尽待遇だ。
尤もこの無頓着男が、そんなセンパイ風を吹かせたがるはずもないから、試合が終わってしまえば即、ロッカールームで
寝こけてしまいそうなエースに、気をもんだ彼らが自発的に敷いた流川包囲網なのだろう。
宮城リョータはそこまで流川に甘くない。
「なんだ、新しい親衛隊の結成か?」
真横を過ぎる際に流川を取り囲む一年生の頭越しにからかうと、オレが頼んだわけじゃねー、と彼らの健気な善意を
木っ端微塵に粉砕するさまには、我が身を照らし合わせても、お涙ものの仙道である。なんにせよ、老若男女年上年下に
関わらず、その余りの生活能力の低さと注意力の散漫さに、庇護欲をかきたてる無自覚さが、いつだって心配の種なのだが、
そんなこと本人はお構いなしだ。
「調子はどうだ?」
「ふつう」
「練習並みってことか? おまえがそう言い切るんなら、相当ノってんだな」
「ノってるなんてもんじゃないっすっ! きょうも流川センパイはサイコーした!」
欲しい会話のキャッチボールは本人からではなく、頬を紅潮させた一年生からあがった。天才の名を轟かせる陵南の仙道
を前にしているからなのか、尊敬する先輩の活躍を語るためなのか、辺りを憚らない迫力と真摯さには脱帽ものだ。
これじゃ、流川だけに向けての言葉ひとつ、かけられない。
「もの凄かったんすよ、マークがっ」
「なのに、全然ペースを乱されることなんかなかったよな!」
「スリーの確率が特にすごくて!」
「角度のない位置からもノーミスだったぞ!」
エースなんだからマークがきつくて当然だし、角度による得意不得意なんかほとんどないのはいまに始まったことじゃ
ない。流川を知る、一度でも対峙したことのあるものに対して、改めて力説するほどのことでもなかった、けれど本人
が、決めて当然、至って悠然と構えているものだから、その周りにいる信奉者たちのテンションは上がる一方なんだ、きっと。
陵南流でいえば、大量の彦一が自分の周りを固める想像に、ちょっと喉を鳴らした仙道だった。
「つまんねーこと、ごちゃごちゃ、言ってんじゃねー」
「けど、センパイ!」
これは機嫌の悪いときの流川だ。表情筋がピクリとも動かなければ、声の低さは地の底を這っている。
ま、この怒りは額面どおりに受け取るべきなのだろう。後輩が邪魔でふたりきりになれないから機嫌が悪いなんて
そんな深読み、こいつには通用しない。
邪魔だ、どけろ、とばかりに後輩を押しのけて立ち去る流川の背に、仙道はいわずもがなのひと言をかけた。
「あしたもがんばれよ」
「あんたも」
流川が振り返る。
前しか見ていなかった男が、仙道を振り返った。
この試合が終わったらと明言したのは自分の方なのに、融点の低い炎を立ち昇らせて流川が言う。
――あんたも。
象になりつつある未来に馳せて、世にも珍しい流川楓の激励に、仙道は改めて身を引き締めた。
秋田県代表山王工業。幾人もの名選手を輩出し、高校バスケ界三タイトルを何度も総ナメにしたインターハイの常連校。
沢北レベルの突出した能力がなくても、
バスケを知り尽くした男、堂本の圧倒的な指導力に惹かれて全国から優秀な選手が集まってくる。その積み重ねが伝統で
あり強豪と畏れられる所以だ。仙道率いる陵南は、その強豪とセミファイナルで対戦した。
大会前の下馬評では今年の山王は小粒だと、ささやかれていたらしい。それでもウインターカップではきっちり優勝
しているのに、嘗ての、敵を圧倒し呑み込んでしまう試合巧者ぶりはナリをひそめ、危なっかしい勝利だったとの
もっぱらの風評。
これはもちろん相田彦一情報で、けれど小粒だなんてだれが言ったんだと仙道は叫びだしたくなった。めちゃく
ちゃ、スタメンのレベルが均一してるってことじゃないかと、対戦してみて冷や汗が伝う。
崩せる穴がない。
「仙道に回せ!」
コートの隅から隅まで見渡せ、敵味方構わず睥睨できるポジションにいて、身を持ってそう感じた。ヒタヒタと押し寄せて
くる圧力の強さが、その種類が違う。勝って当然のプレッシャーの中で、彼らは常に戦っている。その自信が陵南ケイ
ジャーの足を止めてしまうのだ。
「仙道に回せ!」
そのボールが回らない。幾つものスティールの手をかいくぐり、死守したボールをなんとか逆サイドの福田に渡す。
だが、そこからが発展しない。流れがつかめない。福田は後退して遠い位置からのスリーポイント。当然精度は落ちる。
入ったとしてもただのラッキーだ。山王は苦し紛れのそんな一発を畏れてはいなかった。
陵南の攻撃のパターンを封じ込め、逆に自身はきっちりセットオフェンスでリズムをつかむ。
これが全国区の底力。これが陵南の限界か。チームメイトの歯噛みが耳元で聞こえた。「落ち着け」と何度言ったか
知れない。「もう一度、立て直そう」「走りっ子ならオレたちだって負けてない」とも。なのに総てが空回りして、
時間だけが無情に過ぎてゆく。開いた点差は埋まらない。
最後のインターハイで、陵南らしさを見せ付けることなく、こんなところで終わっていいのか。
――あんたも。
アイツに約束した。自分自身に課した。夢を叶えるための通過点。結果を添えてアイツの前に立つ男になる。そんな
想いで仙道はコートを蹴った。チームを機能させる。この大事な局面でその力が自分にはない。なぜなんだろう。なにが
足りなかったんだろう。こいつらのなにを引き出せなかったんだろう。
敵を引き寄せて強引にゴール下に切り込んだ。ほとんど真後ろの越野からパスがとおる。一度フェイクを入れてゴールに
背を向ける。このまま飛ぶのか。だれかを生かすのか。点取り屋の虫を抑えてパス回しに徹してこそのオレなのか。
ポイントガードの面白さを覚えて、ここ一年くらいはチームの司令塔に徹してきたのだけれど、このポイントが勝敗を決めるという
場面、また、膿んだ展開を打破しなければならない局面、ボールはどうしてもかつてマシンガンスコアラーだった
男に集中する。当然、仙道は外さない。だからなお集まる。そうなるといったいだれが大局を見据えることができるのか。
点数は十点差。
答えが出ないまま仙道は目の端に映った福田の足元にボールを叩きつけた。
「いけぇ!」
受けて福田が跳ぶ。山王も簡単にフリーにはさせてくれない。ブロックの手をくぐっての渾身のダンク。たわんだリング
を惜しむように福田がコートに降り立った。
「ナイスだ、福田っ!」
「福さん、サイコーやっ! 仙道さん、もっとサイコーやっ」
越野が植草が福田の頭を乱暴に小突く。仙道はハイタッチで迎えた。仙道福田ラインが陵南の得点源だと知っている
相手に、ことごとくそのコースが潰され、ひと桁どまりの得点しか稼げなかった男が目に見えて興奮している。
福田はだれかがノせてやらなければ本領を発揮しないタイプだ。
潰されても潰されてもそのラインに固執すべきだったのか。いまの陵南における仙道のスタンスは、自分から点を取り
に行くことではなく、福田の解放だったんじゃないのか。昨年のインハイ予選。そして年末のウインターカップ予選。
海南大附属に湘北に敗退してしまったわけ。
なまじ、自分に得点力があるばかりに。
総てを背負い込み総てを任せられる結果となった。
エースはオレだ。自負はある。けれどそれでは勝てなかったじゃないか。
「福田。最後までおまえでいくから、とにかく振り切れ」
「任せろ」
「越野。植草。まだ走れるな」
「当然だっ」
「オレたちは陵南だ。山王になにひとつ劣っちゃいない」
「おおっ!」
勝ちたい、勝ちたい、ただ勝ちたい。まだ走れる。まだ跳べる。ディフェンスを振り切れ。コースを遮ろ。ボールに
喰らいつけ。エンドラインを割るまで、このボールは生きている。ゲームも生きている。
得点差は八点。
けれど、陵南の反撃はそこまでだった。
はるか、どこか次元の違う場所で鳴り響いた試合終了のホイッスル。
手の中のボールをパスする間もなく。
まだ答えの出ないまま仙道の夏は終わった。
continue
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