「え?」
ポツリと告げられた男の言葉を拾い、はじめ、聞き間違いだと思った流川は緩慢な動作で振り返った。
この夏のインターハイ。初出場の陵南高校は惜しくもセミファイナルで破れ去ったものの、地道な練習に裏づけされた
粘り強さで、見るものの記憶に残る戦い方をした。
その熱戦から一週間経過した、世間ではお盆休みも終盤のある日。陵南高校近くに位置する仙道のマンション。一際暑い夏の
夕暮れどき。盛大に開け放たれた
窓の外には日差し避けの大木が枝を連ね、だがそこに集うセミの鳴き声が最期の足掻きとばかりにかまびすしい。
寒色の遮光カーテンを揺らす、少しも涼しくならない湿った風が、わずかばかりに室内の空気をかき回しているだけ
の暑苦しい中、流川はただページをめくっていただけのバスケット雑誌をパタンと閉じて、背後の男を睨めつけた。
だがそんな剣呑さを当てられても、当の仙道はゆったりと胡坐をかいたまま、のんびりと頭の後ろで指を組んで、
もう一度、残る、と重ねる。流川の唇は象を紡げない。なんの作為もないシンプルな言葉ひとつ、瞬時に反論できなかった
からだ。
「残る?」
「ああ」
仙道はふっくらと笑って端的に告げた。
遠征後の部活は調整程度の軽いものだった。それに加えてすぐにお盆休みに入り、そんな気遣いを四日間も頂戴しても、
バスケバカは当然のように初日から暇を持て余した。仙道の家に押しかけ
ようにもヤツは里帰り中で、その雑用もひと息ついたから遊びに来いよと、誘われたのがきょうだ。
付き合いだした最初のころこそ、たまにはお外でデートしたいと熱心にかき口説いていた男も近頃は諦めたもので、
会ってすることと言えば、食う寝るバスケしかない。いつものように陵南エリアの
ストバスコートで軽くマッチアップして、日暮よりも先にハラの虫が騒ぎ出し、ふたりは仙道のマンションに戻ってきた。
順番にシャワーを浴び、ちょっと早いけど晩飯にと出された仙道お得意の炒飯は、干しアワビの入った豪華版だ。
聞きもしないのに、実家に帰った際にお持帰りしたんだと説明してくれた。
「炒飯、大好物じゃん。おまえが喜ぶと思ってさ。根こそぎ、かっさらってきた」
干しエビもあるぞ。いい出汁出るからな。次はソレで焼きソバでもつくるか、と、こちらがたじろぐほどに丸く笑む男。
余りにもストレート過ぎて、ただ、「ウマい」と小さく返すしかない。そのあとひと息ついて、当たり障りない
コンディションを確かめあって。会話が途切れたその瞬間、セミの鳴き声に紛れた長閑さを、切り裂くように
告げられた信じられないような言葉。
前後の脈絡もなければ、主語も目的語も取っ払ったもの言いに、いつだって根気よく腰をすえてじゃないと会話が成り
立たない流川が、「どこに?」と的外れな問いを返さなかったのは奇跡に近い。ただ肌で感じる不自然な間と、
あまりにも泰然とし過ぎた仙道との落差に、「先に行く」と言っていた言葉とが直結したのだ。
この先の進路について仙道が明言したのは春先のことだった。
あれから、何度も何度も確かめるような真似はしなかったけれど、この男が流川の目を見て確約して、それが最上だと、
決定なんだと信じた。それになぞるわけじゃないけれど、流川の夢も同じ方向を差していたから、なによりも同志のような
感覚でいままで戦ってきたのに。
そのタイミングはこの夏の高校総体で掲げた目標じゃない。優勝したらじゃない。たったひとつを指し示す時期
だったはずだ。
「引退しねーことにしたんだ。冬まで残るから、オレ」
胸のつかえが取れたように、仙道は涼しい顔で流川を見返す。彼は視線を逸らしたりはしなかった。気まずいとも、
気後れとも、まして怯む色もない。そんな恬淡としたさまに、
「てめーっ」
流川の怒りは簡単に沸点を見た。弾かれたように挑みかかり、仙道の襟首を捻り上げる。怒気をあらわにしても、
返す仙道の瞳は静かなものだった。
「てめーが行くっつったんじゃねーかっ」
「言ったな」
「あれはウソか!」
「ウソなんかついてないさ。もう少し陵南の仙道でいようと思っただけだ」
「んなもんに、なんの意味があるんだっ」
「あるよ。オレが心残りだからさ」
「ウソつけ!」
「ウソじゃねー。秋には国体がある。冬にはウインターカップだろ。オレはまだ日本一になってないんだ」
どこかで聞いたような科白だ。この男が湘北の安西の元へ相談に行って、その結論に達したのだとしたら、相当笑える。
「あんた、んなもんに拘ってなかった」
「なかったかな。けど、高校で全国に行ったのって、オレ、初めてだったから」
「欲が出たとでも言いてーのか」
「そう、かも? 優勝は逃したけど、陵南はもっといいチームになる」
オレたちが築き上げていいチームに押し上げたんだ。もっと。もっと。まだ機会がある、と仙道は流川のその手を遮ろう
ともしなかった。
セミの鳴き声が、束の間、早鐘のように打つ鼓動にかき消された。
あの日。
陵南と山王の戦いを流川は最初から最後まで観戦した。第一試合で福岡代表とあたって、先に決勝に駒を進めたのは
湘北だったから、あすの対戦相手の偵察になるんだろうけど、流川的にはちょっと違う。どちらが決勝に上がってくるか
は分からないし、相手が違えばその戦い方も変わるのだから、こと細かに分析しても、たぶん仕方がない。
だからもっと、ゲーム全体をただ見つめていたい。あの男の日本での最後の試合だから、席を立つわけには
いかなかった。
流川はそれを静観しなければならないし、仙道は飛躍する姿を見せ付けなければならない。コイツに勝てなくて、最後
まで勝てなくて。それでもつかない勝負の行方はまだ続いている。
会ったこともないバスケの神さまよりも、対戦したこともないビックネームよりも。
「あんたに、」
観客席で前のめりになって、つい、言葉がまろび出た。
会えてよかったと続けるつもりだったのか、オレは変わったと言いたかったのか。自分でも分からない。ただ幸いなことに
それは吐息にも似て、歓声と熱気が支配する体育館では、隣に座る宮城の耳にまで届かなかっただろう。
流川の目の前で仙道の躰がしなやかに動いてコートを駆け回る。マッチアップするわけでもなく、上からの観戦だとよく見える
ものがある。突っ込んでゆくと見せかけて、ブロックに跳んだディフェンダーの手の隙間から、ひょいと、まるでひとを
小バカにしたようなシュートが決まった。読めない仙道のフェイクと、歪とも取れるモーションはだれにも止められない。
あ、来るなと思えたのは、この位置にいるからだ。
スコアは目に入らなくても、陵南の分が悪いのは分かる。あしたの対戦相手は山王になるだろう。試合の終盤になって
仙道が意識的に福田を使い出したのは分かったけれど、流れを変えるまでにはいかない。いまの陵南にもうひとり、例えば
傑出したセンターがいれば、少しは仙道もラクだったろうに。
けれどそれも、もう終わる。
流川は、仙道だけを目で追って、彼の目線から動きを追って、まるで総てを刻み込むかのように見つめ続けた。
だから気づかなかった。
そんな戦い方の中で仙道の意識が変わっていったことを。
そして。
翌日の決勝で湘北は陵南を倒した山王と対戦することになるのだが、前日の快勝で山王への評価と期待は一変した。
伊達に三冠制覇を何度も成し遂げた強豪ではなかった。初出場の湘北に敗退した昨年の雪辱を、そしてその一敗を
背負ってそれを財産として、高校総体ファイナルのコート上にいる。
司令塔宮城の動きを徹底的に封じ込め、それによって生じる流川の単発は捨て去った感があった。最も恐れなければ
ならないのは、常軌を逸した高さと運動量を誇るセンターの桜木。それでもリバウンドからの縦パスをとおさなければ
攻撃には繋がらない。それを山王はひとつひとつ実戦して見せた。
「焦る必要はない。桜木くんはよくやっているよ。君たちは君たちのバスケをしなさい。取って走って入れる。その
スピードは山王には負けていないのだから」
きょう何度目か、リバウンドを奪い取った桜木からのパスがスティールされ、それがラインを割った機会にタイムアウト
と取った安西の言葉に、流川は湘北の限界をみた。高校バスケも複雑なコンビネーションを敷くようになっている。今年
の山王は特にそれが顕著だ。バスケを始めて丸一年。呆れるほどの速さで成長を遂げた桜木の、野生のカンで動く男に
とって、オフェンスとディフェンスのパターン化はもっとも苦手とする分野だった。
「ちくしょっ!」
リバウンドを取ってからの空気が唸るような剛速球。あんなものをパスとして取れるのは流川くらいのものだ。それが
成功して湘北は自らの流れをつかむ。それがきょうは決まらない。届かない。流川の足が遅いわけじゃない。山王の
戻りが早かっただけだ。だから桜木も流川に八つ当たりせず、差し出されたタオルをベンチに叩きつけたのだ。
それだけでも、ものスゴイ成長なのだけれど。
「さぁ、気分を変えてもうひと走りをしましょう。まさか去年勝ったからって、今年は負けてやるつもりはないですよね?」
「たりめーだっ、オヤジ! ルカワっ! 涼しい顔してんじゃねーぞっ。気合入れまくりで走れっ! いーな!」
「てめーに言われる筋合いはねー。てめーのはリアクションが大きすぎんだよ。もっとコンパクトに投げろ。したら、
もっと早く投げれる」
「るせーわい! 取れねーって、泣き言、言うんじゃねーぞ!」
負けたくない。勝ちたい。日本一になりたい。そんな思いの深さを探ったところでこの場にいるケイジャーたちは
みんな持っている。負けたくない。けれどどうやって。手探りのまま走り続け、それでも湘北は山王には及ばなかった。
残り一分を切って四点差のままブザーの音を聞き、フロアにへたり込みそうになる虚脱感と、欲しくもなかった準優勝の
三文字を流川は受け取った。
ぱさりと音がして気がつけば、仙道の長い両腕が流川の躰を真横から抱きしめていた。胡坐をかいた状態で、引くとも
なし抵抗するともなし。気が萎えて流川は動けない。仙道はそんな彼の肩口に向って語りかけた。
「おまえ、忘れてるだろうけど、オレは陵南の主将だよ。このチームでとことんまで行きたいって願っても可笑しくない」
「その主将が、年度途中で留学するってほざいたのはどこのどいつだ」
「オレも忘れてたんだ」
「主将ってことをか?」
「いんや。どうやったらこのメンバーで勝てるか、考える努力をさ」
吐息を耳元で聞いてその唇が甘く耳たぶを食む。流川は思わず息を詰めた。こんな状況で情欲を灯そうとする男の心情が
理解できない。ペロリと舌が伸びて耳朶の裏側をくすぐる。流川のポイントのひとつだけれど、冷めてしまった躰では
なにも反応しないのは当然だ。
「留学が逃げだなんて気持は毛頭なかったよ。オレにはその資格があるとも思ってた。けど、まだなにかが足りないなんて、
考えもつかなかったんだよな」
「離せよ」
「ま、そう言いなさんな」
「やんねーぞ」
「一カ月もシてねーんだぞ。我慢できるか」
「んな気になるわけねーだろっが」
「まだ足りないんだ、流川」
「なに言って――」
「だから、もう少し一緒にいられる」
先ほどよりもいっそう熱い吐息が内耳を襲い、突き放そうとする動きを逆手に取られて押し倒された。まさぐる手は
性急にTシャツの裾からはい上がり、流川の拒絶を先に叩いておこうという算段が見て取れた。コケにすんのもいい加減
にしやがれ。叫んだ罵声はむしゃぶりついてきた仙道の舌に絡め取られ、むせて象にならない。
のしかかられた躰の重みは男の意思の強さ。どれほどの拒絶も受け付けない我執が流川には許せなかった。なし崩し
はコイツのもっとも得意とするところで、そんなものがいまの状況では一方通行だと、聡い男なら分かってるだろうに。
胸の飾りを探られて、カチリと起爆のスイッチが入る。剥ぎ取ろうとするTシャツで躰が浮く隙を縫って、流川は男の
鳩尾に膝頭を食い込ませた。
「ってぇえっ」
「止めろっつってんだろうがっ」
なおも仙道の肩に蹴りを入れて流川は腹筋だけで起き上がった。
「あんた、まさかこんなもんのために、残るって考えたんじゃねーだろなっ」
「こんなもん?」
肩と腹を押さえて仙道の怒りが返る。流川の憤りはその上をいった。
「だってそーだろうが、この色ボケっ。いちど決めたもんを簡単に撤回すんな!」
「留学の話とコレとどういう関係があるんだ。それともなにか? おまえを残して心配で淋しくって、ひとりでなんか
行けないよ、って言って欲しかったわけ?」
「んな気色のわりぃことだれが聞くかっ。じゃ、なんだよ。情にほだされたんか。居心地が良すぎたんかっ」
「流川っ」
「てめーのワンマンチームで、てめーがいなきゃなにもできねー連中に囲まれて、仙道、仙道ってチヤホヤされて、
てめーになんのメリットがあるんだ。てめーも分かってたんだろっ。だから夏が終わったら留学するって決めたんだろう
が。違うのかっ!」
「陵南はオレがいなきゃ、なにもできないチームじゃない。言っていいことと悪いことがあるぞ」
「事実だっ」
「殴られてーのか、おまえ。それになにも行かねーとは言ってない。ひとの話をちゃんと聞けっ。卒業までいるって
言っただけだ。おまえだってまだ日本じゃないかっ」
「時間の無駄だって言ってんだっ、冬までの三カ月、もったいねーだろっ」
ここまで激情するとは思わなかった。仙道の将来だ。彼がどう変えようと流川に詰る権利はない。それに、そうじゃない。
そうじゃなくって、と、流川の中で警鐘が鳴る。これはだれだ。だれかに同じようなことを
言われて反論したあれはいつだったか。そう、あのとき沢北に「本気で行く気があるのか」と詰られて、それでもマンツー
勝負に拘って動けなかった原因がなんだったのか、自分はもう気づいている。
だったら、彼だけを責める自分はいったいなにに怒ってる。
仙道は。陵南の仙道は。
「無駄じゃねーよ。もったいなくもない。陵南を強くできないオレが、アメリカへ行ったってなにも変わんねーって気づいたんだ」
「自惚れんなっ」
「そういう問題じゃないっ」
「自惚れじゃねーなら、怖気づいたんだろっ」
「流川っ――」
「違うのかっ!」
仙道の顔がこれ以上ないというくらいに歪んだ。この男と知り合って、いくつもの季節を一緒に過ごして喧嘩もたくさん
して、それでも一度だってこんな引くに引けない状態に追い込んだことはない。色を失くした仙道が開き直ることも、
余裕を取り戻す間も与えず、ただ罵って。
自分がここまで傷つけて、その自覚があるだけに、流川は背を向け仙道の部屋を飛び出した。
お盆明けの夏休みなんか数えるほどしか残っていない。その上、連日不快指数は90を切ったことがないのに、お空はどんよりと
感じるのだからとことん滅入る。精神的なダメージを喰らってまだ立ち直れない自分の気のせいかと思えば、
「蒸し暑いだけだな、今年の夏は。カラっと晴れろよ、カラっと。鬱陶しいっ」、と越野が愚痴るくらいだから、
本当に曇天続きのようだ。
なんだかお天道さまにまで見放されている。
などといつまでも腐っているわけにはいかない。こんなときでも。だからこそ、か。なにがあろうと最後の冬に標準を
合わせた陵南ケイジャーは熱く激しくコートを駆け回り、仙道はその先頭を走らなければならない。なにがあっても。
そう約束したのだから。
それでも練習中はまだよかった。ただ部活後のお誘いに気軽に乗る気がしないのだから、顔にもプレイにも出ないけれど、
言葉にできないものを抱えているのも事実だ。夏休みの部活、午後五時終了。何度も吐いてぶっ倒れるまで絞られても、
減るもんは減る。それでも、「なんか食ってかないか?」と、かかるだれかの声に、片手を上げただけでやり過ごした
仙道だった。
けれど帰る足は自宅マンションではなく駅に向いた。ひと恋しいくせにチームメイトたちに囲まれるのは億劫だと、
これはもうワガママ以外のなにものでもない。ま、きょう、一日くらいヤサグレてても罰は当たんないだろう。藤沢まで
出て、CDと文庫本でも物色して、家に帰ってメシ食って。また、あした体育館で走り回る。
そうやって消え薄れてゆくものがある。いまのアイツになにを言っても無駄だから、ほとぼりを冷ますしかない。
ぼんやりと江ノ電に揺られて、のんびりとターミナルを歩いていると、仙道にとっては馴染みのある顔ぶれが、
やけに仲よく連れ立って歩いてくるのが見えた。
だれかを連想するから、いまはお目にかかりたくないふたりだけど、正面から向かって歩いてくる友人――宮城に背を
向けるわけにはいかない。
「よお、仙道じゃねーか」
先に声をかけたのは、宮城の方。隣にいる、ナイスバディの憧れの君と一緒なのを、どうやら見せびらかせたい魂胆
がアリアリの笑顔だった。まったくもって微笑ましいことだ。
「こりゃまたおそろいで。デート?」
「そう見える?」
見える、見えると肩をすくめて、はしゃぐ宮城から真横に並ぶ彩子に視線を移した。確かに、ほんとにイイ女。けれど
友人の恋人にコナをかける趣味は昔っからなかったし、仙道的に彼女は、あのクソ生意気な男を可愛がってくれている
先輩だ。そんな微妙な色を読み取ったのか、彩子は少し首を傾げた。
「インハイではお疲れさま。今年はお互いにいい夏だったわね」
「そう、だな。湘北も惜しかった」
「ええ」
仙道、と彩子の唇がなにか別のものを紡ぎ出そうとしたとき、「おまえ、国体とかはどーすんだ?」と、瞬時に遮った宮城は、
さすがに神奈川の誇るポイントガード。絶妙のスティールだ。これ以上彩子の視線を仙道に当てておきたくなかったの
だろう。
分かり易いヤツだ。
「残る、つもりだけど?」
「ウチも三年は全員残るぜ。けど――」
「けど?」
「ちょっと、リョータ」
彩子がたしなめて宮城が肩をすくめる。ターミナル通路を塞ぐように佇む三人は通行の邪魔でしかなかった。
脇に避けて、仙道は言い募る。
「けど、ってどういうことだ?」
「あ、あぁ」
「湘北のお家事情でしょ。仙道には関係ないじゃない」
「関係なくねーよ。あれだけライバル視してりゃ」
「リョータっ」
「流川がどうかしたのか?」
「まぁ、な」
やっぱり。
通路の両脇に立ち並ぶ店舗からの冷気で、そして、大切ななにかを取りこぼしていた自分に、身が震えた。
関係なくはない。ないものか。確信めいた予想で胸が疼きそうになった。その先の言葉を引き取ったのは彩子だ。
「秋から留学するって言い出して。安西先生が仰るには、去年もそんな話が出たんだって。でもそのときは、ただ強く
なりたいからアメリカへって調子だったのが、ちゃんと下調べしてきたらしいの。あの不精もんがよ。信じられる?
流川は本気なんだなって、ちょっと諦めたの」
「決定なのか?」
「モチロン安西先生は止めてらっしゃるわ。まだ部内では公表してないんだけど、去年は日本いちへの拘りをくすぐって
考えを変えた部分が、今年はあまり効果がないって。どうしましょうかって相談されたんだけど」
その言葉を最後まで聞いていなかった。「わりぃ。ちょっと、用事思い出した」、なんて言い訳を口にしたのは
条件反射のようなものだ。重いドラムバックをもろともせずに駆け出した仙道の背中に、唖然としたふたりの視線が
張りついたけれど、そんなものは気にならなかった。
流川は行こうとしていた。なにも言わなかったけれど、ちゃんと準備を進めていた。彼の性格からすると当たり前
の行動を、ただ、相談されなかった事実からふつうに高校バスケを真っ当するのだと決めていた。一年のときに渡米を
諦めた理由は、まだ仙道に劣っているから。日本いちになっていないから。あの律儀ものなら、掲げられた目標を
簡単には手放しはしないだろうと。
それも仙道が日本にいて対戦できてクリアできる目標だ。
それなのに。
流川は振り切ってもいいと思っていた。あのほとんど恋慕う後輩たちすら。毎日を戦ってきたチームメイトすら。
それなのに、オレは。
藤沢本町に着いて時間を確かめた。六時少し前。まだ日没までには時間がある。宮城たちが引けていても、アイツなら
居残り練習をしている可能性は高い。もしくは駅近くのリングのある公園か。違ったとしても流川の家はどちらからも
近い。こんなときばかりは流川の行動範囲の狭さに感謝したい気分だった。
そしてさらに手がかからないことに、湘北高校の体育館からリズムのいいバウンド音が鳴り響き、仙道はさらにご近所
の氏神さまに向けて手を合わせた。聞こえてくるのは迷いのないドリブルだ。ここでもどこでも流川には一切の逡巡がない。
コイツのどこに惚れたって、そんな一直線な部分だったんだと、仙道は少し開いている体育館の扉に手をかけた。
扉から真正面に位置するリングに正対している流川は仙道の出現に気がつかない。それでもいい。しばらく見届けたい
くらいのキレイな背中と放られる軌道に目を細めた。そんな空気の流れを察したわけでもないだろうに、流川が振り返る。
振り返って、少し困惑気味に漆黒の瞳が揺れ、仙道は一歩踏み出した。
「よう」
「……なに、しに――」
「おめーに会いに来たに決まってんじゃん」
手の中にあるボールを投げろという仕草をすると、流川は意地になるみたいにそれを両腕で胸の辺りに取り込んだ。
渡すもんかと言っている。それはこの少年の矜持であり自尊心であり誇りでもある。そんなものを踏みにじるつもりは
毛頭なかったのだけれど。
「おまえ、オレと一緒に、夏が終わったら、行こうってしてたんだってな」
なんで知ってると目が語る。威嚇状態に入る。「宮城に聞いたんだ、さっき」と柔らかく返すと流川の躰から強張り
が消えた。さらに間合いを詰めて、後退る躊躇いを許さないで、仙道は流川の躰を抱き込んだ。汗の匂いが立ち昇り、
それでもベタつく躰がこれほど愛しい存在ない。
「離せよ」
「離さねー」
流川の肩に頬を添える。神聖なるコートでこんな真似、心底厭っていると知っていても、この想いを現す方法を
仙道は他に知らなかった。
「てめーは卑怯だ」
「卑怯呼ばわりは酷いな。遅らせたことは認めるけど」
「オレ、ひとりで行く。てめーはいつまでも日本でちんたらやってろ」
「おまえがいないと国体予選もなにもかも、陵南の楽勝だ」
「よかったじゃねーか」
「よくねーよ」
それはほんとうによくない事態なのだ。そんなの全然意味がない。そう言うと腕の拘束から逃れようと流川がもがいた。
もがくくらいの拒否なら許すわけにはいかない。自然と腕に力が入る。
「てめー、勝手すぎんぞっ」
「勝手だよ。迷惑かけた。けど、もうちょっと、ここで、陵南と湘北で、オレとおまえでやり合わないか?」
これは最上級の口説き文句だと流川は気づいているだろうか。
「てめー、ひとんこと、散々……」
振り回しやがって、と小さな罵りが返る。それを唇ですくって、呑み込んで、ことさら、情欲の火を灯さないように、
「ごめん」と目線を合わせる。そこに拗ねたような色を読み取って、仙道はニッコリと笑った。
end
16万ヒットニアキリで、もう、ムリヤリYさまにリクを強要してしまいましたv
なにか叫んでくださいねってお願いしたら「男前の流川にバサバサ斬られて、セツナくなる仙ちゃん。でも斬りの向こうの
流川の本気を思い知る」って、スゴイ、こりゃ、もう、仙流の本質そのもののでしょ、な素敵なリクを頂戴しました。
張り切って書いたんですけど、いや、仰ることは尤もです。なんか微妙にチガウ。チガウんです。え〜ん(泣き)ああ、無情。
Yさま。せっかく素敵なリク頂いたのに、うまく消化できずにごめんなさい。けど、この精神はずっと持ち続けて
いきますんで、いつか、お、って言っていただけるように、精進します。
たくさん語っていただいて、ほんとうにありがとうございましたv また語ってくださいねv
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